書評 『海軍主計大尉 小泉信吉』

『海軍主計大尉 小泉信吉』(小泉信三著 文春文庫 1975年)未推敲

 

 

著者の小泉信吉氏(一八八八~一九六六)は、大正、昭和時代の経済学者,教育者。英、独、仏に留学,帰国して母校慶応義塾大の教授になり、昭和八年塾長。イギリス古典派経済学研究とマルクス主義批判で知られ,戦後は皇太子明仁今上天皇)の教育と皇室の近代化につくした。本書は著者の長男で海軍中尉(戦死した後大尉に進級)の信吉の艦上や基地からの書簡を中心に家族とのやり取り、父の息子を見つめる目を綴っている。

元々三百部限定の「私家版」として綴られた。愛惜の思いで著者が綴ったのは「彼れの生前、私はろくに親らしいことがしてやれなかった。この一篇の文が、彼れに対する私の小さな贈り物である」(259頁)。息子を持つ父である評者が、若し息子のことを書けと言われても書く自信はない。あまりにも辛い作業だと容易に想像出来るからだ。しかし、著者は息子を亡くしてすぐに筆を取っている。記憶が薄れないうちに書き留めておこうという切なる思いが伝わってくるようだ。

とは言え、内容は悲惨さを全く感じさせない。海軍好きで笑い上戸の息子を温かい眼差しで見守っている姿が微笑ましい。淡々とした筆致の中で、あるいは客観的な描写の中で、幼い頃から海軍好きで笑い上戸の息子の人物像を描きながら、哀悼、鎮魂を込めている。子を見ること親にしかず。息子の性格、能力を誰よりも知っている父ならではの、息子の人物像が生き生きと綴られている。それがかえって、読む者の静かな動と深い余韻が残る。海軍に配属された息子が家族宛てに書いた何通もの手紙。そこでは軍隊生活の辛さには一切触れず、毎日がいかに充実しているか、家族を安心させる内容が綴られている。妹たちをからかったり、戦友との交流のエピソードを交えた冗談を綴っていて、息子の人間性が窺い知れる。この後戦死する運命が待っているとは一切思わせないのが、かえって悲しみを深くするのだが…

初版は一九六六年。世に出て五十年以上経つが未だに売れていて百万部を超えるロングセラーになっている。著者が高名な学者ということもあるだろうが、今でも売れている最大の理由は、信三と信吉という父子の間に流れる深い情愛と、息子の父に対する孝行、父の息子対する慈愛「父子の親」が全編に迸っていて、それに感動を覚えるからではないだろうか。

 

その父子の関係を象徴する一文を最後に紹介する。

 

君の出征に臨んで言って置く。

吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。僕は若し生れ替って妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽したいと思っているかもしれないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は既に享けた。オヤに対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。今日特にこのことを君に言って置く。(67頁)