門田隆将氏インタビュー(2017年10月)

そこが聞きたい!インタビュー

埋れた「毅然と生きた日本人」を世に出すことで

「これが本当の日本人だ」という姿を今に伝える

 

ノンフィクション作家 門田隆将氏

 

 

スポーツ、社会、歴史などジャンルを問わない門田氏のノンフィクション群は、その徹底した取材手法で克明に事実を伝え、数多くの感動を呼ぶ。ノンフィクションジャンルに懸ける思いと、テーマの「毅然と生きた日本人」発掘の舞台裏を聞く。

平成27年10月30日に福岡市で開かれた講演会(創の会=代表世話人堀内恭彦弁護士 主催)で来福時にインタビュー

 

 

 

 

日本人の本義

 

 

―今月に新刊「日本、遥かなり」を上梓されますね。

門田 この本のサブタイトルに、「エルトゥールルの“奇跡”と邦人救出の“迷走”」とあるように、1890年のトルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件から95年後の1985年、イラン・イラク戦争時にトルコ政府によるイランからの邦人救出、また湾岸戦争の「人間の盾」、イエメン内戦、カダフィ政権崩壊によるリビア動乱など、邦人の命が見捨てられるという事実を書いています。今回の安保法制の自衛隊法改正で在外邦人救出に必要な武器使用が認められて、これまで正当防衛など「自己保存型」の武器使用から、武装集団を武器で排除する「任務遂行型」を認められたわけですが、紛争地域はダメ、相手国の同意が必要など、様々な条件を付けられました。これは、結局「できない」ことと同義で、安保法制では邦人は救出できないんですね。海外の邦人を助けられない国は、依然として日本だけという情けない状態なのです。窮地に陥った当事者をかなり取材しましたが、涙を流す人、憤激する人と様々でした。中には「日本人に生まれてよかったのだろうか」と思った人もいたくらいでした。安全の保証がなかったから救出に行ったトルコと、安全の保証がなかったから行かなかった日本。鳥の羽根より軽い邦人の命というのが実態で、それを知ってもらい、現行法で、果たして日本国民の生命財産を守ることができるという夢想からいち早く解き放たれて、わが国の安全保障について考えてもらいたいですね。

―現在進めているのは、九州ゆかりのノンフィクションだそうですね。

門田 「汝、ふたつの故国に殉ず」というテーマで取材を進めています。明治八年に熊本県宇土市、旧宇土町で生まれた坂井徳蔵という人が台湾に渡って警察官になります。当時、日本人は台湾人と結婚できませんでしたが、結婚できるようになったのは大正に入ってからです。徳蔵は台湾人の女性との間に二人子供(姉と妹)をもうけますが、二人とも奥さんの方の姓である「湯(とう)」を名乗ります。しかし、徳蔵は大正4年に起きた「西来庵(せいらいあん)事件」で斃れてしまいます。この事件は、本島人による最後の抗日武装蜂起とも言えるものです。

遺された子どもの一人に坂井徳章、台湾名で湯徳章という人物がいます。彼も父親と同じく悲劇の人生を歩みます。1947年に国民党が台湾人を弾圧、虐殺した2・28事件が起きます。徳章という人物は物凄く優秀な男で、日本の司法試験と今の国家公務員上級試験にあたる高等文官試験行政科の両方に合格しました。台南市で弁護士をやっていた徳章は人望があったために、暴動を扇動したという疑いで国民党に逮捕されます。国民党の蒋介石の狙いは日本統治時代の知識階層を一掃することでした。徳章は、ものすごい拷問を受けて、肩やあばらの骨が折れたそうです。それにもかかわらず、徳章は一言も自白しませんでした。拷問された翌日にトラックに載せられて、市中を引き回されるのですが、平然としているのです。台南市の現在の「湯徳章紀念公園(旧・大正公園)」で公開処刑されるのですが、その時に跪かされそうになります。彼は柔道の高段者で一喝して跳ね除け、日本語で「台湾人、万歳!」と叫び、銃殺されます。なぜ、日本語で叫んだのかーというのがテーマです。彼が今、台南の英雄になっているのは、彼が命を懸けて沈黙を守ったために台南での処刑者が他の地域に比べて極端に少なく済んだからなのです。昨年、台南市は徳章の命日である3月13日を「正義と勇気の日」に制定しました。

―息子に熊本の気風である「肥後モッコス」の血が脈々と流れていたのでしょうね。

門田 神風連の変、台湾の「六氏先生」(日本統治時代台湾に設立された小学校、芝山巌学堂で抗日事件により殺害された日本人教師6人のこと。この中で17歳の最年少が熊本出身の平井数馬)など熊本の血が濃い親子で、父子とも40歳で亡くなっています。

―著書に貫かれているテーマは、「日本人の本義」に尽きますね。

門田 毅然と生きた日本人像を描くのが、私のテーマです。そうした人たちじゃないと書きませんから(笑)。

―その人物は皆、それまで埋れていて一般に知られていない日本人たちですね。例えば、「この命、義に捧ぐ」の根本博元陸軍中将が台湾・金門島で国民党軍と戦い台湾を救ったことは、全く知られていませんでした。根本中将のことを知るきっかけは?

門田 根本中将の台湾密航に尽力した明石元長氏(第7代台湾総督明石元二郎の長男)の息子、元紹(もとつぐ)さんからある時、「門田さんは台湾に詳しいから、根本さんが台湾で何をやったか調べてもらいたい」と相談されました。「父が中将を台湾に送り出したということは分かっているんだが、中将が向こうで何をやったのか、台湾に行って調べたけれども一切分からない」ということでした。私は、親しくさせてもらっている元紹さんからの話だったので、すぐに分かるだろうと引き受けました。しかし、いざ台湾の人脈を使って調べてみるけれども、全く出てこない。これは本腰を入れて調べる必要があるということとで、私自身が台湾に渡って国防部に直に問い合わせると、「そんな人物はいない」と素っ気無い答が返ってきて、それで私の闘争心に火が点きましたね(笑)。

 そこで、新聞に協力してもらおうと私が取材に応じて、記事で「根本中将と一緒に戦った人を探している」と呼びかけると、沢山の反応がありました。それから取材が進み始めました。根本中将のことを抹消した背景には、他国の軍人の手を借りたという屈辱的な事実を隠そうという意図があったようですが、日本人としては何とかして、国防部に真実を認めさせたいわけです。そこで一計を案じて、金門島戦勝60周年記念式典に、私、明石さん、そして根本中将の通訳だった吉村是二氏の子・勝行氏らが出席の許可を求めました。その一行に私は出版社の編集者、テレビクルーまで連れて行こうと取材許可を求めたんです。そして、ぎりぎりで下りました。私自身が式典の出席者に証言を求めるビラ配りまでしました。これは、一種の揺さ振り作戦でした。証言者もたくさん出てきて、その上日本のキー局まで取材にやってきて、このまま存在を否定し続けることができるかと。ようやく、認められました。文献にも残りました。国防部の最高幹部がわざわざ私たちに対して、「わが国には“雪中に炭を送る”という言葉があります。根本先生はそれを私たちにしてくれました」と、報道陣を前にして正式に表明する場面もあり、明石さんたちは大変感激していました。

 

 

 

書くきっかけ

 

 

―太平洋戦争中、米国生まれの二世ながら日本海パイロットとして神風特攻に散った松藤大治(おおじ)少尉を描いた「蒼海に消ゆ」は、舞台が地元の糸島です。しかし、この人こそ全く無名の人物ですね。

門田 松藤少尉と大学が同じで基地も同じだった戦友から、「門田さんに是非書いてもらいたい男がいる」と話してもらったのがきっかけでした。その方は、わざわざ90年代にロサンジェルスに松藤さんのお母さんに会いにいっているのです。その時に「どうして貴方は生き残ったのか」と言われると覚悟していたそうですが、自分の息子の特攻での死のありさまを聞いて、「男というものはそういうものです」と言われたそうです。

―しかし、何も資料が無かったんでしょう?

門田 全くありませんでしたね。突破口になったのは、松藤さんが所属していた一橋大学剣道部という組織が70年の「時」を超えることができたからなんです。と言うのは、部のホームページのメールアドレスに問い合わせすると、すぐに「少しお時間ください」という返事がきました。その後、60歳代のOBの方から連絡があり、「松藤さんと剣道のライバルだった人がまだご健在なので事務所にお連れします」という連絡をいただきました。すごい組織ですよ。

―先ほどの坂井徳蔵さんゆかりの墓も地元の人が探してくれたそうですね。埋れていた自分に近い人物の名誉を掘り起こしてくれるという期待感も大きいですね。

門田 私の仕事は、埋れてしまっている史実を探し出すことに対する「協力」を惜しまない人たちのお蔭で成り立っています。そうした取材に応じてもらった人々に対して、責任がありますから、「作品が出来ませんでした」とは口が裂けても言えません。どんなにきつくてもやり遂げなければならない責任があります。

―我々読者にとっては、戦後70年で日本人が置き忘れたものを再認識することになります。

門田 よく、なぜそんな埋れた日本人ばかりを書くんですかと訊かれますが、それはそんな日本人が今、少なくなってしまったからだと答えています。そんな日本人ばかりだったら書く必要はありません。現代日本で、「これが本当の日本人だ」という姿を書き残していくことが必要だと思っています。

―テレビドラマで高視聴率をたたき出した「フルスイング」の原作「甲子園への遺言」では、現代人の義を取り上げていますね。

門田 プロ野球の7球団で伝説的な打撃コーチで全国に教え子がいる高畠導宏さんが、50代で一念発起して通信教育で教員免許を取って社会科教諭として福岡の筑紫台高校の野球部監督になろうとしました。中央大学の先輩で元々お付き合いさせていただいていた高さんにその理由を尋ねると、「もちろん目標は全国制覇だよ」と真面目な顔で答えましたね。

―書くきっかけは。

門田 会社(新潮社)を辞めるきっかけになった本で、高さんが60歳で亡くなった後に取材を始めました。実は、高さんが亡くなる時に私にとって痛恨事が起きます。ガンに犯された高さんは「余命6ヵ月」と宣告を受けて、見舞いに行こうと思いながら、全国から教え子たちがひっきりなしに来ていて、それが落ち着くまで遠慮していたんです。ところが7週間で容態が急変して、私が見舞おうとしていた前日に危篤状態になってしまいました。私が「高さん、高さん」と声を掛けても意識不明でした。その翌日に息を引き取るのですが、私は呆然としてしまいました。高さんに最後の本を託されていた私は、高さんが胸に秘めていた思いをもう聞くことができない。ノンフィクションを書くのに、本人の話が聞けないのは致命的です。

 そんな時に妻から「お父さん、変わったね」と言われました。当時私は編集部でデスクだけではなく副部長として、ナンバー2になっていました。妻は「昔のお父さんだったら、見舞いを遠慮せずに何をおいてでも、病院に駆けつけて“高さん、俺があんたの思いを本にするから、安心して”とまずは話を聞いていたはず」と厳しい指摘を受けてしまいました。

―テレビでは高校野球の部分だけをドラマ化しましたが、原作では高畠さんの打撃コーチとしての天才ぶりも描いていますね。

門田 当時は諜報野球全盛時代で敵ベンチに盗聴器を仕掛けたという噂がありました。そこで、南海の監督だった人物にそのことを問い質すと、「それは話せない。高の名誉が…」と言うから、「冗談じゃないですよ。真実を隠してどうするんですか?高さんたちがそこまで野球をやり抜いたことですよ。高さんの評価のマイナスには絶対なりません。だからどこに隠したか教えてください」と(笑)。電球のソケットに盗聴器を隠したことを話してくれました。「人を教えるのではなく、育てた男」。南海の藤原、ロッテの落合、最近ではイチロー、小久保や田口、福浦といった名選手を育てた天才コーチでしたね。また、この本でそれまで黒子役だったプロ野球コーチに、初めてスポットを当てることができたと思っています。会社に勤務しながら休みを利用して取材して執筆してようやく出来上がりましたが、会社で揉めましたね。

その当時、私は光市母子殺害事件をずっと追っていて、被害者家族の本村洋さんの私に真実を書いて欲しいという思いを感じていました。2008年1月19日に上京してきた本村さんを自宅に招いて食事をしました。その日は、フルスイングの1回目の放送日で、彼と一緒に観ていて、「本村さん、独立することにしたよ。ついては独立後の第一作目は光市でいくよ」と。それで辞めて独立しました。それから、彼が私の取材を受けてくれるように関係先に全部連絡してくれました。

 

 

取材は魂と魂のぶつかり合い

 

 

 

―インタビューしている時、気をつけていることは?

門田 基本的には、取材は魂と魂の揺さぶり合いです。言葉と言葉のやり取りではありませんから、その場でお互いの魂が共鳴するのか、反発し合うのか、色んな局面がありますが、いずれにしても「この人には聞いてもらいたい」と思ってもらわないといい取材にはなりません。新聞記者のように要件事実、つまり5W1Hだけを聞いて字数が限られている記事を書くわけではありませんから、うわべだけの話を聞いても本にはなりません。私の作品が分厚くなって読む人の心を捉えるのは、魂が発する言葉を受け取っているからなのでしょうね。色んな角度から色んな聞き方をしながら、徐々に核心に入っていって今まで話したことがないような話が出てきた時には涙がポロポロ出てきます。福島第一原発の現場にいた人たちの話を聞いていて、核心に触れた時に彼らは絶句して、そして涙が自然と出てきました。そうした魂の揺さぶり合いがないと、毅然と生きた日本人は描けないのではないでしょうか。

―そうした人は自分のことは必要以上にしゃべりませんよね。そこは…

門田 技術的なものはないでしょうね。相手の琴線に触れ始めると、次第に寡黙になっていきます。90歳の人に戦争を語ってもらっている時に、涙で言葉にならないこともありました。

―ジャーナリストは客観的に冷静に話を聞くべきだという考えもありますが。

門田 取材は熱く聞きますが、執筆の時に熱くなっていたら、読者はしらけます。だから、突き放して書くんですが、それがかえって読者にはその熱さが伝わると思うんですよ。週刊誌のデスク時代に部下に「取材の時に熱くなるのはいい。しかし、書くときは距離を置いて淡々と書くから余計感動が増すんだ」といつも言っていました。

ノンフィクションは事実の羅列ですから、裏が取れていないことは一切書いてはいけません。そうでないと、小説になってしまいます。想像で書けませんから、書ける範囲がかなり狭い。だから、推測を事実としては一切書けません。「に違いない」という表現しかできないのです。「死の淵を見た男」で吉田昌郎所長に色んな裏を取ったんですが、当時の菅直人首相が東電本店に乗込んできてテレビ会議で演説を始めた時のことです。現場では命を懸けている男たちはものすごくしらけるわけです。その時、吉田さんはばっと立ち上がって、テレビカメラにお尻を向けてズボンを下ろしてシャツを入れ直すんです。周囲に「所長が怒っている」ことを見せたのです。つまり、皆の気持ちを“代弁”してみせたわけです。そこで、本人にその動作のことを「吉田さん、あの時はかなり怒っていたんですね」と聞くと、「えっ?怒ってはいたけど、俺、そんなことやったの」と覚えていないんですよ。本人に記憶がないわけですから、そのシーンの感情については、「だったに違いない」としか書けないわけです。松藤少尉が基地を飛び立って、敵機動部隊に突入するまでの事実の記録も一切ありません。小説だったらそのシーンが一番のクライマックスですよね。ノンフィクションは、「松藤大治はあの蒼い海の上をどんな思いで飛んだかは、何も記録が無い」とたった一行で書くしかありません。

小説というのは作家が頭の中で創作していくものです。ノンフィクションというのは全く逆で、言ってみれば、つるはしで地中に向かって掘っていき、その結果、鉱脈に行き当たるかどうかというものです。そして、取材し尽くして、なんとか真実にたどり着こうとする。それがノンフィクションの苦しいところであり、いいところでもあります。ノンフィクションは、いうまでもなく当事者を説得し、取材に応じてもらわなければなりません。そうした埋れている毅然として生きた日本人を発掘する時間も、生存者が高齢化して亡くなっていきますから、もう残り少なくなってきました。時間との闘いでもありますね。

  

 

門田氏プロフィール

 

1958年高知県安芸市生まれ。中央大学法学部卒業後、新潮社に入社。週刊新潮編集部でデスク、次長、副部長を経て2008年に独立。

 

デスク時代から「門田隆将」のペンネームで『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)、『甲子園への遺言—伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(講談社)などを出版した。『甲子園への遺言』は、NHK土曜ドラマ「フルスイング」(主演・高橋克実)としてドラマ化(http://www.nhk.or.jp/dodra/fullswing/index.html)され、ベストセラーとなった。

2008年、独立に伴い、ペンネームを解消し、本名での執筆に切り替えようとするが、出版社側がこぞって「門田隆将」での執筆継続を要請したため、そのまま「門田」での執筆をつづけている。

 

その後、光市母子殺害事件の9年間を描いた『なぜ君は絶望と闘えたのか—本村洋の3300日』(新潮社)や歴史ノンフィクション『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)を相次いで発表し、いずれもベストセラーとなった。『この命、義に捧ぐ』は2010年9月、第19回「山本七平賞」を受賞。同月、『なぜ君は絶望と闘えたのか』を原作として、WOWOWが主演・江口洋介、監督・石橋冠で特別ドラマを制作し、前・後編で放映した(http://www.wowow.co.jp/dramaw/nazekimi/)。同作品は、2010年度の文化庁「芸術祭」ドラマ部門大賞を受賞した。

 

2011年、「大正100年」と「太平洋戦争開戦70周年」を記念して『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ(第一部~第三部)の刊行を開始し、これに並行して戦争ノンフィクションを相次いで発表した。

 

2012年には、吉田昌郎福島第一原発所長の単独インタビューと、多くの原発所員や当時の菅直人首相、班目春樹・原子力安全委員会委員長など、当事者たちへの直接取材をもとに、『死の淵を見た男―吉田昌郎福島第一原発の五〇〇日』(PHP)を刊行した。初めて福島第一原発事故の内実が明らかになった同書はベストセラーとなり、海外でも翻訳され、世界的にも注目を集めている。その後も、『記者たちは海に向かった―津波放射能福島民友新聞』(角川書店・2014年)や『吉田昌郎と福島フィフティ』(PHP・2015年)など、東日本大震災関連のノンフィクションを刊行している。

 

2014年5月、朝日新聞が、吉田昌郎福島第一原発所長が政府事故調の聴取に応じた「吉田調書(聴取結果書)」を独占入手したとして「所員の9割が吉田所長の命令に違反して撤退した」と報道したことに対して、「これは誤報である」と指摘し、さまざまな媒体で論陣を張った。朝日新聞は門田に対して「訂正謝罪」の要求と「法的措置を検討する」との抗議書を複数回送付したが、逆に9月11日、木村伊量社長が記者会見を開いて、当該の「吉田調書」記事を全面撤回し、謝罪した。門田は2014年11月に『「吉田調書」を読み解く 朝日誤報事件と現場の真実』(PHP)を出版し、その経緯を綴った。