書評『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三著、講談社文庫、1997年)

たまの息抜き。書評(未推敲)

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三著、講談社文庫、1997年)

 

 

 

45年という節目

 

 

今年5月15日、沖縄が本土に復帰して45年目という節目を迎えた。

しかし、依然として普天間飛行場辺野古移設を巡って政府と沖縄県の対立が続いている。なぜなのか。そうした素朴な疑問から取材を敢行し、昨年9月に「沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題」(春吉書房)を上梓した。取材前に読んだのが、この本だった。私にとって沖縄取材の原点と言ってもいい。

本書は、主人公の太田實海軍中将の戦記でもあり、家族の歴史を綴った優れたノンフィクションだ。沖縄方面根拠地隊司令だった大田中将が自決直前に認めた電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ…」。1945年6月6日、米軍の激しい攻撃にさらされ孤立した沖縄戦司令部から本土参謀本部へ発信。ひたすら沖縄県民の献身と健闘を称えている。この太田中将の最後のメッセージを日本国民、特に我々本土の人間は忘れてはならない。その想いを秘めて取材を進めたことを思い出す。

人間、武人、家庭人としての太田中将の魅力が余すところ無く書き綴られているが、最終章「太田中将の遺産」で本土の沖縄への「配慮」が取上げられている。

初代沖縄開発庁長官を務めた山中貞則氏(鹿児島県選出の衆議院議員、1921-2004)その人だ。沖縄の本土復帰直前に起きたニクソンショックは、円とドルの固定相場制が廃止され、変動相場制に移行した。当時一ドル=に急転換させたニクソンショック。それまでの1ドル=360円から当時の為替相場で1ドル=305円の交換レートに変わった。本土復帰までドルが正式通貨だった沖縄にとって、急激な円高ドル安になり、このままでは沖縄経済に甚大な損害を蒙ることになる。山中氏は、当時の大蔵省、アメリカの猛反対を承知の上で、差額の補填政策を命じ、沖縄の日本人が所有するドルに限って1ドル360円レートで交換させた。その結果、5億6200万ドルに達した。

山中がここまで沖縄のために汗を流した背景には、出身地の鹿児島がかつて琉球王朝に侵攻した負い目があったという。もう一つ、山中氏の背中を強力に押したのが、太田中将の打電だった。山中氏はこの打電を昭和31年に初めて目にしたという。大田中将の沖縄県民に馳せた思いを引き継ぐべきだという信念で山中は選挙区でもない沖縄のために683本もの特例法を通した。

 

 

意外な人物

 

 

もう一人、中将の遺志を継いで復帰に汗を流した人物がいた。驚いたと同時に、ある「悔悟」を覚えた。それは、20年以上前にある人物にインタビューした時に「聞くべき」ことを聞かなかった後悔と、情けなさだった。1992年夏。当時、前職の地方経済情報誌編集長時代に新木文雄福岡銀行会長(当時、故人)に、「九州国際空港構想」をテーマに話を聞く機会を得た。当時、荒木さんは福岡経済同友会代表幹事だった。原稿の修正が終って印刷に回したところで、新木さんの突然の訃報に接して、呆然となったことを思い出す。

それから20数年経って、この本を読んで愕然とした。本書の筆者も取材してわずか2ヵ月後に急逝されたことに驚いたことを書いている。

山中氏が沖縄のために敢行した通貨交換の当事者が初代日本銀行那覇支店長だった新木さんだったのだ。新木さんは、海軍少尉時代に鹿屋の司令部通信室で大田中将の電報を受信した体験を持っている。「沖縄の本土復帰一年前、那覇支店開設準備室長を命じられた時、今こそ沖縄県民のためにやって上げねばならん、それが大田司令官の御遺志に報いる道だ、と思いました」(539P)と筆者のインタビューに答えている。日本銀行出身の新木さんの履歴に「日本銀行那覇支店長」という1行があったことは知っていたが、当時30代そこそこで沖縄戦に関心を持っていなかった私は、20数年経った今、新木さんに聞くべきことを聞かなかったことに強い悔悟を覚えたのだ。

戦争経験世代は、それだけ沖縄に心を寄せていた。それは同胞としての連帯感、同胞に対する情け以外何物でもない。

翻って、現代に生きる日本人はどうだろうか。

沖縄の人が「屈辱の日」としている4月28日に「主権回復の日」として祝う日本政府の無神経さ、「(沖縄の基地問題は)お金さえやっておけばいい」と嘯く本土の日本人…同胞である沖縄の問題は、我々日本の問題であることを、自覚すべきではないだろうか。沖縄を理解するには、外せない本である。

 (2017年6月号)