門田隆将氏インタビュー(2017年10月)

そこが聞きたい!インタビュー

埋れた「毅然と生きた日本人」を世に出すことで

「これが本当の日本人だ」という姿を今に伝える

 

ノンフィクション作家 門田隆将氏

 

 

スポーツ、社会、歴史などジャンルを問わない門田氏のノンフィクション群は、その徹底した取材手法で克明に事実を伝え、数多くの感動を呼ぶ。ノンフィクションジャンルに懸ける思いと、テーマの「毅然と生きた日本人」発掘の舞台裏を聞く。

平成27年10月30日に福岡市で開かれた講演会(創の会=代表世話人堀内恭彦弁護士 主催)で来福時にインタビュー

 

 

 

 

日本人の本義

 

 

―今月に新刊「日本、遥かなり」を上梓されますね。

門田 この本のサブタイトルに、「エルトゥールルの“奇跡”と邦人救出の“迷走”」とあるように、1890年のトルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件から95年後の1985年、イラン・イラク戦争時にトルコ政府によるイランからの邦人救出、また湾岸戦争の「人間の盾」、イエメン内戦、カダフィ政権崩壊によるリビア動乱など、邦人の命が見捨てられるという事実を書いています。今回の安保法制の自衛隊法改正で在外邦人救出に必要な武器使用が認められて、これまで正当防衛など「自己保存型」の武器使用から、武装集団を武器で排除する「任務遂行型」を認められたわけですが、紛争地域はダメ、相手国の同意が必要など、様々な条件を付けられました。これは、結局「できない」ことと同義で、安保法制では邦人は救出できないんですね。海外の邦人を助けられない国は、依然として日本だけという情けない状態なのです。窮地に陥った当事者をかなり取材しましたが、涙を流す人、憤激する人と様々でした。中には「日本人に生まれてよかったのだろうか」と思った人もいたくらいでした。安全の保証がなかったから救出に行ったトルコと、安全の保証がなかったから行かなかった日本。鳥の羽根より軽い邦人の命というのが実態で、それを知ってもらい、現行法で、果たして日本国民の生命財産を守ることができるという夢想からいち早く解き放たれて、わが国の安全保障について考えてもらいたいですね。

―現在進めているのは、九州ゆかりのノンフィクションだそうですね。

門田 「汝、ふたつの故国に殉ず」というテーマで取材を進めています。明治八年に熊本県宇土市、旧宇土町で生まれた坂井徳蔵という人が台湾に渡って警察官になります。当時、日本人は台湾人と結婚できませんでしたが、結婚できるようになったのは大正に入ってからです。徳蔵は台湾人の女性との間に二人子供(姉と妹)をもうけますが、二人とも奥さんの方の姓である「湯(とう)」を名乗ります。しかし、徳蔵は大正4年に起きた「西来庵(せいらいあん)事件」で斃れてしまいます。この事件は、本島人による最後の抗日武装蜂起とも言えるものです。

遺された子どもの一人に坂井徳章、台湾名で湯徳章という人物がいます。彼も父親と同じく悲劇の人生を歩みます。1947年に国民党が台湾人を弾圧、虐殺した2・28事件が起きます。徳章という人物は物凄く優秀な男で、日本の司法試験と今の国家公務員上級試験にあたる高等文官試験行政科の両方に合格しました。台南市で弁護士をやっていた徳章は人望があったために、暴動を扇動したという疑いで国民党に逮捕されます。国民党の蒋介石の狙いは日本統治時代の知識階層を一掃することでした。徳章は、ものすごい拷問を受けて、肩やあばらの骨が折れたそうです。それにもかかわらず、徳章は一言も自白しませんでした。拷問された翌日にトラックに載せられて、市中を引き回されるのですが、平然としているのです。台南市の現在の「湯徳章紀念公園(旧・大正公園)」で公開処刑されるのですが、その時に跪かされそうになります。彼は柔道の高段者で一喝して跳ね除け、日本語で「台湾人、万歳!」と叫び、銃殺されます。なぜ、日本語で叫んだのかーというのがテーマです。彼が今、台南の英雄になっているのは、彼が命を懸けて沈黙を守ったために台南での処刑者が他の地域に比べて極端に少なく済んだからなのです。昨年、台南市は徳章の命日である3月13日を「正義と勇気の日」に制定しました。

―息子に熊本の気風である「肥後モッコス」の血が脈々と流れていたのでしょうね。

門田 神風連の変、台湾の「六氏先生」(日本統治時代台湾に設立された小学校、芝山巌学堂で抗日事件により殺害された日本人教師6人のこと。この中で17歳の最年少が熊本出身の平井数馬)など熊本の血が濃い親子で、父子とも40歳で亡くなっています。

―著書に貫かれているテーマは、「日本人の本義」に尽きますね。

門田 毅然と生きた日本人像を描くのが、私のテーマです。そうした人たちじゃないと書きませんから(笑)。

―その人物は皆、それまで埋れていて一般に知られていない日本人たちですね。例えば、「この命、義に捧ぐ」の根本博元陸軍中将が台湾・金門島で国民党軍と戦い台湾を救ったことは、全く知られていませんでした。根本中将のことを知るきっかけは?

門田 根本中将の台湾密航に尽力した明石元長氏(第7代台湾総督明石元二郎の長男)の息子、元紹(もとつぐ)さんからある時、「門田さんは台湾に詳しいから、根本さんが台湾で何をやったか調べてもらいたい」と相談されました。「父が中将を台湾に送り出したということは分かっているんだが、中将が向こうで何をやったのか、台湾に行って調べたけれども一切分からない」ということでした。私は、親しくさせてもらっている元紹さんからの話だったので、すぐに分かるだろうと引き受けました。しかし、いざ台湾の人脈を使って調べてみるけれども、全く出てこない。これは本腰を入れて調べる必要があるということとで、私自身が台湾に渡って国防部に直に問い合わせると、「そんな人物はいない」と素っ気無い答が返ってきて、それで私の闘争心に火が点きましたね(笑)。

 そこで、新聞に協力してもらおうと私が取材に応じて、記事で「根本中将と一緒に戦った人を探している」と呼びかけると、沢山の反応がありました。それから取材が進み始めました。根本中将のことを抹消した背景には、他国の軍人の手を借りたという屈辱的な事実を隠そうという意図があったようですが、日本人としては何とかして、国防部に真実を認めさせたいわけです。そこで一計を案じて、金門島戦勝60周年記念式典に、私、明石さん、そして根本中将の通訳だった吉村是二氏の子・勝行氏らが出席の許可を求めました。その一行に私は出版社の編集者、テレビクルーまで連れて行こうと取材許可を求めたんです。そして、ぎりぎりで下りました。私自身が式典の出席者に証言を求めるビラ配りまでしました。これは、一種の揺さ振り作戦でした。証言者もたくさん出てきて、その上日本のキー局まで取材にやってきて、このまま存在を否定し続けることができるかと。ようやく、認められました。文献にも残りました。国防部の最高幹部がわざわざ私たちに対して、「わが国には“雪中に炭を送る”という言葉があります。根本先生はそれを私たちにしてくれました」と、報道陣を前にして正式に表明する場面もあり、明石さんたちは大変感激していました。

 

 

 

書くきっかけ

 

 

―太平洋戦争中、米国生まれの二世ながら日本海パイロットとして神風特攻に散った松藤大治(おおじ)少尉を描いた「蒼海に消ゆ」は、舞台が地元の糸島です。しかし、この人こそ全く無名の人物ですね。

門田 松藤少尉と大学が同じで基地も同じだった戦友から、「門田さんに是非書いてもらいたい男がいる」と話してもらったのがきっかけでした。その方は、わざわざ90年代にロサンジェルスに松藤さんのお母さんに会いにいっているのです。その時に「どうして貴方は生き残ったのか」と言われると覚悟していたそうですが、自分の息子の特攻での死のありさまを聞いて、「男というものはそういうものです」と言われたそうです。

―しかし、何も資料が無かったんでしょう?

門田 全くありませんでしたね。突破口になったのは、松藤さんが所属していた一橋大学剣道部という組織が70年の「時」を超えることができたからなんです。と言うのは、部のホームページのメールアドレスに問い合わせすると、すぐに「少しお時間ください」という返事がきました。その後、60歳代のOBの方から連絡があり、「松藤さんと剣道のライバルだった人がまだご健在なので事務所にお連れします」という連絡をいただきました。すごい組織ですよ。

―先ほどの坂井徳蔵さんゆかりの墓も地元の人が探してくれたそうですね。埋れていた自分に近い人物の名誉を掘り起こしてくれるという期待感も大きいですね。

門田 私の仕事は、埋れてしまっている史実を探し出すことに対する「協力」を惜しまない人たちのお蔭で成り立っています。そうした取材に応じてもらった人々に対して、責任がありますから、「作品が出来ませんでした」とは口が裂けても言えません。どんなにきつくてもやり遂げなければならない責任があります。

―我々読者にとっては、戦後70年で日本人が置き忘れたものを再認識することになります。

門田 よく、なぜそんな埋れた日本人ばかりを書くんですかと訊かれますが、それはそんな日本人が今、少なくなってしまったからだと答えています。そんな日本人ばかりだったら書く必要はありません。現代日本で、「これが本当の日本人だ」という姿を書き残していくことが必要だと思っています。

―テレビドラマで高視聴率をたたき出した「フルスイング」の原作「甲子園への遺言」では、現代人の義を取り上げていますね。

門田 プロ野球の7球団で伝説的な打撃コーチで全国に教え子がいる高畠導宏さんが、50代で一念発起して通信教育で教員免許を取って社会科教諭として福岡の筑紫台高校の野球部監督になろうとしました。中央大学の先輩で元々お付き合いさせていただいていた高さんにその理由を尋ねると、「もちろん目標は全国制覇だよ」と真面目な顔で答えましたね。

―書くきっかけは。

門田 会社(新潮社)を辞めるきっかけになった本で、高さんが60歳で亡くなった後に取材を始めました。実は、高さんが亡くなる時に私にとって痛恨事が起きます。ガンに犯された高さんは「余命6ヵ月」と宣告を受けて、見舞いに行こうと思いながら、全国から教え子たちがひっきりなしに来ていて、それが落ち着くまで遠慮していたんです。ところが7週間で容態が急変して、私が見舞おうとしていた前日に危篤状態になってしまいました。私が「高さん、高さん」と声を掛けても意識不明でした。その翌日に息を引き取るのですが、私は呆然としてしまいました。高さんに最後の本を託されていた私は、高さんが胸に秘めていた思いをもう聞くことができない。ノンフィクションを書くのに、本人の話が聞けないのは致命的です。

 そんな時に妻から「お父さん、変わったね」と言われました。当時私は編集部でデスクだけではなく副部長として、ナンバー2になっていました。妻は「昔のお父さんだったら、見舞いを遠慮せずに何をおいてでも、病院に駆けつけて“高さん、俺があんたの思いを本にするから、安心して”とまずは話を聞いていたはず」と厳しい指摘を受けてしまいました。

―テレビでは高校野球の部分だけをドラマ化しましたが、原作では高畠さんの打撃コーチとしての天才ぶりも描いていますね。

門田 当時は諜報野球全盛時代で敵ベンチに盗聴器を仕掛けたという噂がありました。そこで、南海の監督だった人物にそのことを問い質すと、「それは話せない。高の名誉が…」と言うから、「冗談じゃないですよ。真実を隠してどうするんですか?高さんたちがそこまで野球をやり抜いたことですよ。高さんの評価のマイナスには絶対なりません。だからどこに隠したか教えてください」と(笑)。電球のソケットに盗聴器を隠したことを話してくれました。「人を教えるのではなく、育てた男」。南海の藤原、ロッテの落合、最近ではイチロー、小久保や田口、福浦といった名選手を育てた天才コーチでしたね。また、この本でそれまで黒子役だったプロ野球コーチに、初めてスポットを当てることができたと思っています。会社に勤務しながら休みを利用して取材して執筆してようやく出来上がりましたが、会社で揉めましたね。

その当時、私は光市母子殺害事件をずっと追っていて、被害者家族の本村洋さんの私に真実を書いて欲しいという思いを感じていました。2008年1月19日に上京してきた本村さんを自宅に招いて食事をしました。その日は、フルスイングの1回目の放送日で、彼と一緒に観ていて、「本村さん、独立することにしたよ。ついては独立後の第一作目は光市でいくよ」と。それで辞めて独立しました。それから、彼が私の取材を受けてくれるように関係先に全部連絡してくれました。

 

 

取材は魂と魂のぶつかり合い

 

 

 

―インタビューしている時、気をつけていることは?

門田 基本的には、取材は魂と魂の揺さぶり合いです。言葉と言葉のやり取りではありませんから、その場でお互いの魂が共鳴するのか、反発し合うのか、色んな局面がありますが、いずれにしても「この人には聞いてもらいたい」と思ってもらわないといい取材にはなりません。新聞記者のように要件事実、つまり5W1Hだけを聞いて字数が限られている記事を書くわけではありませんから、うわべだけの話を聞いても本にはなりません。私の作品が分厚くなって読む人の心を捉えるのは、魂が発する言葉を受け取っているからなのでしょうね。色んな角度から色んな聞き方をしながら、徐々に核心に入っていって今まで話したことがないような話が出てきた時には涙がポロポロ出てきます。福島第一原発の現場にいた人たちの話を聞いていて、核心に触れた時に彼らは絶句して、そして涙が自然と出てきました。そうした魂の揺さぶり合いがないと、毅然と生きた日本人は描けないのではないでしょうか。

―そうした人は自分のことは必要以上にしゃべりませんよね。そこは…

門田 技術的なものはないでしょうね。相手の琴線に触れ始めると、次第に寡黙になっていきます。90歳の人に戦争を語ってもらっている時に、涙で言葉にならないこともありました。

―ジャーナリストは客観的に冷静に話を聞くべきだという考えもありますが。

門田 取材は熱く聞きますが、執筆の時に熱くなっていたら、読者はしらけます。だから、突き放して書くんですが、それがかえって読者にはその熱さが伝わると思うんですよ。週刊誌のデスク時代に部下に「取材の時に熱くなるのはいい。しかし、書くときは距離を置いて淡々と書くから余計感動が増すんだ」といつも言っていました。

ノンフィクションは事実の羅列ですから、裏が取れていないことは一切書いてはいけません。そうでないと、小説になってしまいます。想像で書けませんから、書ける範囲がかなり狭い。だから、推測を事実としては一切書けません。「に違いない」という表現しかできないのです。「死の淵を見た男」で吉田昌郎所長に色んな裏を取ったんですが、当時の菅直人首相が東電本店に乗込んできてテレビ会議で演説を始めた時のことです。現場では命を懸けている男たちはものすごくしらけるわけです。その時、吉田さんはばっと立ち上がって、テレビカメラにお尻を向けてズボンを下ろしてシャツを入れ直すんです。周囲に「所長が怒っている」ことを見せたのです。つまり、皆の気持ちを“代弁”してみせたわけです。そこで、本人にその動作のことを「吉田さん、あの時はかなり怒っていたんですね」と聞くと、「えっ?怒ってはいたけど、俺、そんなことやったの」と覚えていないんですよ。本人に記憶がないわけですから、そのシーンの感情については、「だったに違いない」としか書けないわけです。松藤少尉が基地を飛び立って、敵機動部隊に突入するまでの事実の記録も一切ありません。小説だったらそのシーンが一番のクライマックスですよね。ノンフィクションは、「松藤大治はあの蒼い海の上をどんな思いで飛んだかは、何も記録が無い」とたった一行で書くしかありません。

小説というのは作家が頭の中で創作していくものです。ノンフィクションというのは全く逆で、言ってみれば、つるはしで地中に向かって掘っていき、その結果、鉱脈に行き当たるかどうかというものです。そして、取材し尽くして、なんとか真実にたどり着こうとする。それがノンフィクションの苦しいところであり、いいところでもあります。ノンフィクションは、いうまでもなく当事者を説得し、取材に応じてもらわなければなりません。そうした埋れている毅然として生きた日本人を発掘する時間も、生存者が高齢化して亡くなっていきますから、もう残り少なくなってきました。時間との闘いでもありますね。

  

 

門田氏プロフィール

 

1958年高知県安芸市生まれ。中央大学法学部卒業後、新潮社に入社。週刊新潮編集部でデスク、次長、副部長を経て2008年に独立。

 

デスク時代から「門田隆将」のペンネームで『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)、『甲子園への遺言—伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(講談社)などを出版した。『甲子園への遺言』は、NHK土曜ドラマ「フルスイング」(主演・高橋克実)としてドラマ化(http://www.nhk.or.jp/dodra/fullswing/index.html)され、ベストセラーとなった。

2008年、独立に伴い、ペンネームを解消し、本名での執筆に切り替えようとするが、出版社側がこぞって「門田隆将」での執筆継続を要請したため、そのまま「門田」での執筆をつづけている。

 

その後、光市母子殺害事件の9年間を描いた『なぜ君は絶望と闘えたのか—本村洋の3300日』(新潮社)や歴史ノンフィクション『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)を相次いで発表し、いずれもベストセラーとなった。『この命、義に捧ぐ』は2010年9月、第19回「山本七平賞」を受賞。同月、『なぜ君は絶望と闘えたのか』を原作として、WOWOWが主演・江口洋介、監督・石橋冠で特別ドラマを制作し、前・後編で放映した(http://www.wowow.co.jp/dramaw/nazekimi/)。同作品は、2010年度の文化庁「芸術祭」ドラマ部門大賞を受賞した。

 

2011年、「大正100年」と「太平洋戦争開戦70周年」を記念して『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ(第一部~第三部)の刊行を開始し、これに並行して戦争ノンフィクションを相次いで発表した。

 

2012年には、吉田昌郎福島第一原発所長の単独インタビューと、多くの原発所員や当時の菅直人首相、班目春樹・原子力安全委員会委員長など、当事者たちへの直接取材をもとに、『死の淵を見た男―吉田昌郎福島第一原発の五〇〇日』(PHP)を刊行した。初めて福島第一原発事故の内実が明らかになった同書はベストセラーとなり、海外でも翻訳され、世界的にも注目を集めている。その後も、『記者たちは海に向かった―津波放射能福島民友新聞』(角川書店・2014年)や『吉田昌郎と福島フィフティ』(PHP・2015年)など、東日本大震災関連のノンフィクションを刊行している。

 

2014年5月、朝日新聞が、吉田昌郎福島第一原発所長が政府事故調の聴取に応じた「吉田調書(聴取結果書)」を独占入手したとして「所員の9割が吉田所長の命令に違反して撤退した」と報道したことに対して、「これは誤報である」と指摘し、さまざまな媒体で論陣を張った。朝日新聞は門田に対して「訂正謝罪」の要求と「法的措置を検討する」との抗議書を複数回送付したが、逆に9月11日、木村伊量社長が記者会見を開いて、当該の「吉田調書」記事を全面撤回し、謝罪した。門田は2014年11月に『「吉田調書」を読み解く 朝日誤報事件と現場の真実』(PHP)を出版し、その経緯を綴った。

 

 

 

インタビュー 東福岡高校 「二%」―男子校の本懐とは 男女別学の意義と教育効果

そこが聞きたい!インタビュー

 

「二%」―男子校の本懐とは

男女別学の意義と教育効果

 

松原功氏 東福岡高校 校長

 

「二%台」。この数字は全国の高等学校に占める男子校の割合だ。少子化時代に突入し、男子校・女子校の共学化が進んだ結果、男子校は希少な存在になってしまった。そんな中で男子校の旗を降ろさない同校の姿から見える、男子校の本懐とは―

 

 

 

絶滅危惧種

 

 

―男子校は年々減少していて、現在は全国の高校に占める男子校の割合はたった二・二%だそうですね。

松原 全国には約五千校の高校がありますが、そのうち男子校は百数校と言われていますから、約二%です。これからは、男子校が共学校になっても、共学校が男子校になることはないでしょうから、男子校はさらに減っていくかもしれません。女子校は男子校に比べて多いですが、それでも割合としては二桁には届いていません。

―福岡県内でも男子校、女子校が共学化に踏み切った高校がありますね。それでも、女子校はまだ残っていますが、男子校は貴校を含め二校になってしまいました。

松原 そうですね、冗談交じりに学校の説明会で「わが校は、絶滅危惧種レッドリストに載っています」とよく言うくらいです。しかしそうだからこそ、生徒には、貴重な教育環境で青春の時間を過ごしているんだよ、と訴えます。

―その中で、男子校にこだわる理由は?

松原 男子校が、共学校や女子校より優位だとかいう比較の問題ではありません。男子校には、特有の教育環境がもたらす教育効果があると思います。これを、我々教職員、生徒、その保護者さらには同窓生が実感しています。ですから、男子校の旗を簡単に降ろすことはありません。また、現実問題として、経営の問題があります。在籍生徒数が減ってきたので、共学化して数的確保を意図する経営判断を否定するつもりはありませんが、幸いなことに、本校は現在五十九クラス、約二千四百名の生徒を預かっています。仮に共学校になれば、校名は変わらなくとも、違う「東福岡高校」になってしまいます。そうならないためにも、「男子校・東福岡」の魅力を発信し続けなければなりません。

―健闘していると言っていいのでしょうね。

松原 子ども達は、中学校までほとんど共学で過ごしていますから、やはり中学生が持つ「楽しくない」とか「暑苦しい」「恐い」などといった男子校へのイメージがあると思います。最初から男子校を選択して入学した生徒はそんなに多くはないでしょう。しかし、いざ入ってみると生徒の評価がガラリと変わりますね。

学校は教育サービスでもありますから、顧客は生徒とその保護者になります。その顧客満足度を的確に把握して、それを教育・指導に生かす努力は欠かせません。その一助として各種アンケートを取っています。その一つとして新入生に対して、入学して約二ヵ月後にアンケートを実施します。テーマは、なぜ東福岡を選んだのか、です。すると、毎年九〇%以上の新入生が「入学してよかった」と答えます。ちなみに今年の新入生は九四%が「よかった」と回答しています。この結果は、日常の生徒指導に役立てると共に、募集広報面での資料にもなります。

 二つ目は、生徒による授業評価です。夏と冬に同じクラスの生徒による教科担当の授業を評価するアンケートを実施します。正直、先生にもやりやすいクラスとそうではないクラスがあると思いますが、あえて無作為にクラスを選んで、生徒には無記名で十項目について評価し点数化しています。これは人事考課には使いません。主旨は、あくまでもそれぞれの先生の授業改善に生かしてもらうことです。肝心なのは、夏に指摘された点が冬にどれだけ改善できているかですね。昨年度の二回目は、平均点が百点満点で九十点に迫る高得点でした。教師陣の優秀性は、最もアピールしなければならない点だと思います。教師は「(分かりやすい・力がつく・より良い)授業をしてナンボ」ですから。毎回、生徒からの評価は高いですね。

 三つ目のアンケートは、保護者に対してのものです。毎年卒業を控えた時期に実施しています。これも無記名でお願いしていますが、主題は「三年間本校に息子さんを預けていかがでしたか」というものです。卒業間近ですから、保護者の方も気兼ねすることなく、まさに率直な意見をいただくことが出来ると考えます。つまり、保護者の本音を聞くことで改善に生かせるのです。今年三月のアンケートでは、八一%の保護者から「満足している」との回答を得ました。有難い結果ですが、一方で満足していない一九%に注目すべきなのです。進路保証が本校の大きな教育目標のひとつですから、この数値をしっかりと認識・分析して今後に資していかなければ、アンケート実施の意味がありません。ここはあくまでも百%を目指すべきなのです。

 

 

男子校の教育効果とは

 

 

―男子校の教育効果についてですが、ある調査では男子校で学ぶ男子生徒の方が共学校で学ぶ生徒より成績がいいという結果が出ています。

松原 「男子校という個性」というタイトルで講演させていただいた機会がありましたので、その際に調べてみました。確かに、別学の男子が共学の男子より成績がいいという結果が出ています。例えば、ニュージーランドのオタゴ大学の研究所が、OECD経済協力開発機構)が行う「PISA」(学習到達度調査)の結果、合計点の平均で女子の方が三十点高かったために、詳しく調べたそうです。男子校と女子校、男女共学の学校に通う生徒や学生九百人を対象に成績の比較調査を実施したところ、男女別学で中等教育を受けている生徒では、男子生徒の成績が女子生徒を上回り、共学校では女子のほうが男子よりも良い成績を収める傾向が顕著で、この傾向が二十五歳くらいまで続いたといいます。

また、「オーストラリア教育研究審議会」が六年間にわたり、計二十七万人の生徒に行った調査では、男女別学で学んだ生徒のほうが一五~二二%も成績が優れ、生活態度も良く、学習を楽しいと感じたり、学校のカリキュラムを価値あるものと認識する割合が高いと報告されています。審議会では「十二歳から十六歳の年齢帯においては、認知的、社会的、発達的な成長度合いの男女差が大きく、共学の学習環境には限界がある」と結論づけていますね。                                 ―別学の教育効果でしょうか。                                 松原 男性の性的な成熟は女性に比べて約二年遅れている、脳の厚さは女性が十一歳で最大になるのに比べ、男性は十八ヵ月遅れる、五歳から十八歳の男女に情報処理能力のテストをすると、幼稚園では男女の差はないのに、思春期には女性のほうが「速くて正確」という差が生じ、十八歳には再び男女の差がなくなるなど、男女の発達上の違いが科学的に指摘されています。男子と女子の発達のスピードが違うのに、同じ内容を同時に教えるには無理があります。発達のスピードに応じるためには、男女別学という形態もあっていいと思います。

―一般に「女子の方が成績がいい」と言われていますが、これはある意味、性差であると。

松原 思春期においては肉体的にも精神的にも一~二年成熟が早い女子に囲まれて、一部の男子が萎縮してしまうこともあるでしょう。そのような「圧力」から逃れるため、男子があえて性差を意識しなくてすむ環境を選ぶ選択肢はもっとあっていいのではないでしょうか。

―それと、異性の目を気にせず、男同士の連帯感も生まれやすいですね。

松原 高校の三年間は人生の中で一番濃密な時間が流れる三年間だと思っています。大事な時間をいかに意義深いものにするかも大切なことで、うちの生徒たちは卒業後もずっと交流が盛んですね。そこも男子校の良さではないでしょうか。

―共学が悪いということではなく、それぞれ子どもの性格や適性を考慮すると、男子校、女子校という選択肢を増やすことも必要ですね。

松原 男子校という選択肢を広げるには、中学生、保護者が持っている、男子校のマイナスイメージを払拭することが必要ですが、容易ではありません。そうした中でも、オープンスクール、体験入学、説明会などで、見て聞いて空気を感じてもらうと認識を新たにしてもらえますね。しかし、来校してくれる中学生、保護者も数に限りがあります。男子校は面白いよ、楽しい、友達ができるよということも大事なことですが、やはり別学教育のメリットの根拠を分かりやすく発信することも含めて、男子校の特性・男子校の良さそして男子校の個性をどう広報していくかが課題です。

 

 

文武両道

 

 

―こちらは「文武両道」を標榜していて、ラグビー、サッカーなど全国レベルの運動部を擁していますね。

松原 部活動はあくまでも教育の一環としての放課後における活動です。そもそも部活動に特化したクラスを作っていません。もちろん、運動特待生はいますが、学校生活上は何らの違いはありません。「本校には、部活に特化した所謂アスリートクラス、体育クラスはないんですよ」と説明すると、意外に思われます。学校はホームルームが基本単位ですから、そこには色んな個性を持った生徒がいて、互いに刺激し合って成長していくべきだと思います。

部活動をやっている生徒はきついですよ。運動特待生の中には「こんなに勉強させられるとは思っていなかった」とぼやく生徒もいます。いくら技量が高くても、彼らの中で将来、プロになるのはごく僅かでしょう。また、セカンドキャリアもあります。ですから、生きていくための学習を修める必要があります。それとクラスで色んな生徒と過ごすことで人間性を高めてもらいたいのです。彼らには「クラスメイトから心から応援してもらえるような選手になりなさい」と言っています。クラスで過ごす時間が圧倒的に長いのですから、いくら部活で活躍しても授業姿勢や生活態度がいい加減だったら、クラスメイトから応援は受けられません。本校の教育理念である「努力に勝る天才なし」の実践を求めています。

―授業もテストも同じように受けるんですね。

松原 特別扱いはしていません。試験前になると、各部の顧問先生は、部員を集めて勉強会をやるなど大変です。成績不振者は、追試に向けての指導期間を設けていてそれが最優先ですから、その間は試合があっても出られません。だから、彼らと顧問先生は必死になるんです。これまで多くの部活動生を見てきましたが、授業などの学校生活での姿勢とそれぞれの競技の技量は正比例すると断言できます。姿勢がよくないと、ある程度まで行けてもそこから抜け切れません。中には中学時代はほとんど練習しなかった生徒が、当校に入って文武両道を追求し一流の選手に育った例を何人も見ています。バレーボール部は伝統として学校の周囲のゴミ拾いをやっています。それも周囲に何も言っていませんから、私は校門指導していて初めて知りました。陸上四百メートルハードルの世界チャンピオンになった生徒も、日頃から学校生活に真摯に取り組んでいますよ。何事も、最終的には「人間性」ですね。その点は、部活動を通しても涵養していきたいと思います。部活動を通じて経験できること、部活動を経験したから獲得できた力、今の時代だからこそ、そういうものがあるのだと信じています。これからも、学校挙げて、生徒を応援していきます。

 

 

松原校長プロフィール

昭和31年(1956)、北九州市出身。小倉高校、早稲田大学教育学部卒業。 昭和54年(1979)国語教師として奉職。学年部長を経て、平成14年(2002)に二代目校長に就任し現在に至る。

 

東福岡高校

全日制普通科東福岡自彊館中学校を併設する。本年度の在籍生徒数は、

高校2363名、中学276名。ほとんどの生徒が大学に進学する。またスポーツ名門校であり部活動が盛んである。サッカー部・ラグビー部・バレーボール部などの活躍が有名。

昭和20年(1945)福岡米語義塾創立

昭和30年(1955)東福岡高等学校を福岡市箱崎に開校

昭和39年(1964)現在地の福岡市東比恵に移転

平成11年(1999)東福岡自彊館中学校開校

平成18年(2006)特進コース設置  特進英数コース・進学コース・自彊館コース(中高一貫)とあわせ4コース体制

平成22年(2010)校舎全面建て替え

平成31年(2019)第62期生卒業  卒業生数、約44500名

 

令和 2年(2020)学園創立75周年、高校創立65周年を迎える

(フォーNET 2019年11月号)

糸島が生んだ「反骨のコーチ」岡部平太  日本近代スポーツの礎を築いた伝説の男を発掘する

そこが聞きたい!インタビュー

糸島が生んだ「反骨のコーチ」岡部平太

 日本近代スポーツの礎を築いた伝説の男を発掘する

 

『Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語』著者 橘京平氏

 

 

 

日本初のコーチ、日本に初めてアメフトを紹介、百年前にスポーツに科学的トレーニングを取り入れる、柔道をはじめ野球、テニスなど何でもこなすスポーツ万能の持ち主、そして平和台(福岡市)を築いた男・岡部平太の存在は一般にはこれまで全く知られていなかった。その伝説の男の人生を発掘する意義とは―

 

 

「Peace-Hill」に込められた想い

 

 

―現在、陸上競技場や平安時代の外国からの使節を接待していた鴻臚館(こうろかん)跡やかつて球場があった「平和台」を作った岡部平太の存在は、地元福岡でさえほとんど知られていませんね。

橘 戦時中にこの地には歩兵第二十四連隊の本営が置かれていましたが、終戦GHQに接収されて将校宿舎が建設される予定でした。昭和二十三年(一九四八)の福岡国体当時、国体事務局長だった平太が、何度もGHQと直談判してついに福岡市が取得します。平和台の命名は、「兵(つわもの)どもの夢の跡を平和の台(うてな)にする」として、英語で「Peace-Hill」(平和の丘)を意味する「平和台」と名付けたのです。当時のGHQは日本の支配者的立場ですから、そのGHQから奪還したのですから驚きです。命名のもう一つの理由は、平太の長男、平一が昭和二十年(一九四五)四月十二日に特攻隊として鹿児島県の鹿屋基地を立って、沖縄で散華したこともあります。平一への鎮魂と平和なくしてスポーツもないという思いが込められています。戦後初めて日章旗が掲揚されたのは、平太が取り戻した平和台で開催された福岡国体の開会式でした。当時はまだ許されていなかったにもかかわらずです。正式にマッカーサーが許可したのは、その一年後の昭和二十四年(一九四九)元旦からですからね。

―平和台がなければ今の福岡のスポーツの隆盛もなかったでしょうね。

橘 もしこれが実現していなかったら、福岡ひいては日本のスポーツは相当遅れていたかもしれません。実際、その後福岡では地方都市では珍しい大相撲の九州場所開催、プロ野球球団、プロサッカーチームが誕生しています。

―岡部平太を取り上げる目的は?

橘 会社(西日本新聞メディアラボ)の方針である地域貢献があります。また、新しいデジタルコンテンツを作る際にその題材を埋れた人物にスポットを当てようということになりました。あることをきっかけに平太のことを知ったのですが、私自身それまで全く知りませんでしたから、新鮮でした。こうした人物を世に出すべきだと。新聞にも連載していますが、ほとんど知られていない人物です。

―その平太ですが、上巻(下巻は今夏に発行予定)を読むと、快男児という表現がぴったりの人物ですね。

橘 糸島郡芥屋村(現在の糸島市)に生まれた平太は、小さい頃は悪僧(わるそう)坊主で、運動神経抜群で悪さをよくやっていました。「天狗の平太」と近所では有名だったそうです。福岡師範学校に進んだ平太はその運動神経を存分に発揮して、柔道、相撲、野球、テニス、ボート競技などで活躍します。特に柔道では、当時の国内最大の大会「京都武徳会」で準優勝します。また、 福岡市の柔道場双水執流(そうすいしつりゅう)隻流館でも腕を磨き、自由に技を掛け合う乱取りの「千本取り」を千本続けて行う修行で、通常八時間はかかるのに平太は五時間で成し遂げます。

 

 

強烈な反骨精神の持ち主

 

 

―平太は反骨精神が旺盛だったようですね。

橘 反骨精神の塊のような人物でした。これは生涯通じての平太の生き方です。福岡師範では教師の偽善的な教育に反発してわざと生っているキンカンをなぎ倒して退学処分になりかかります。平太の人生を辿っていくと、それがよく分かります。

―嘉納に誘われて東京高等師範に進みましたよね?

橘 平太の類希な才能を見出したのは嘉納です。実際に学生では只1人の講道館四段を授与され、その後、平太は嘉納について各地を回って模範実技を披露します。その後、結婚した平太は嘉納らの援助で二十六歳で単身、アメリカに渡ります。これが嘉納との対立の原因になりました。

アメリカでは最初にシカゴ大学に留学します。この時に運命的な出会いがありました。その人物、スタッグ教授は米大学スポーツ指導の先駆者でアメリカンフットボールの父と言われた人でした。平太の渡米の当初の目的は柔道の紹介と普及だったのですが、スタッグ教授との出会いでスポーツ探究にのめり込んでいきます。平太は生涯コーチで生きていくことをスタッグ教授との出会いで決めたのです。スタッグ教授は九十六歳まで現役のコーチとして活躍します。平太にとっては人生で最も強い影響を受けた師匠でしょうね。アメフトをはじめ、ボクシング、レスリング、スキージャンプ、バスケット、野球、ボート、水泳、陸上などありとあらゆるスポーツに挑戦し活躍します。ちなみに日本で初めてアメフトを日本に紹介したのは、平太です。

―スタッグ教授という人物は?

橘 スコットランド系の移民で貧しいピューリタンの家で育ちました。プロ野球に最高年俸で誘われますが断って、アメリカで初めて体育で大学教授になり、アマチュアスポーツのコーチとして生涯を貫いた人物です。九十六歳まで六十八年間もコーチ人生を歩みました。

―そのスタッグ教授の薫陶を受けて、日本で初めてコーチという役割を導入したのも平太だそうですね。

橘 今の日本のアマチュアスポーツでもコーチという役割が確立されていません。学校の運動部では専門的なコーチの技術を持っていない教師がやっていますからね。だからどうしても精神主義的な指導になってしまい科学的なコーチ法は無視されがちです。平太はスタッグ教授の指導の下、体育理論とコーチ理論を実地で学びます。それを百年以上前の日本に持って来ようとしたのですから、平太の反骨精神は並々ならぬものがあります。例えばインターバル走など今では常識になっている科学的トレーニング法を日本で最初に取り入れました。この他、採血してトレーニングの結果を検証するという方法も取り入れました。それでも当時の日本で専門のコーチ業という職は認められずに

 

恩師と決別、新天地で大暴れ

 

 

 

平太の身分はあくまでも教員でした。そこにも平太の葛藤はあったでしょうね。

―そして、ついに嘉納の元を離れますね。

橘 アメリカのプロレスラー、サンテルが講道堂に挑戦を申し込み、嘉納はそれを受けようとしますが、平太は猛然と反対します。アメリカでプロレスを実際にやったので、プロレスと対戦すると、そもそもルールが全く違うし、興行師の言いなりになって、柔道からアマチュア精神が失われると思ったからでした。二人は徹夜で議論しますが、柔道の普及を目指す嘉納は平太の説得に首を縦に振りません。ついに決別して嘉納の元を去ってしまいます。

 その後、平太は旧制水戸高校の体育講師になります。そこでは日本初の四百メートルトラックを造ったり、学生にあらゆるスポーツを教えました。しかし、校長の教育方針と対立しわずか半年で辞め、次に向ったのが満州でした。

満州ではスポーツだけではなくいろんな活動をしているようですね。

橘 水戸高を辞めた平太は大正十年(一九二一)、満州に渡り、南満州鉄道株式会社(満鉄)に体育主任として入社します。その後、満州体育協会を創設、理事長に就任。以後11年間在職することになり、平太はこの新しい国で自分の理想のスポーツを追求しようとしたのだと思います。実際、平太は満州で精力的に活動しました。大正十四年(一九二五)にマニラで行われた第七回極東選手権大会の陸上チーム総監督、昭和三年(一九二八)には、大連運動場で日本初の国際スポーツ大会である日本とフランスの国際対抗陸上競技会を提案し成功させました。

また、翌年には張作霖の長男で当時満州東北大学学長だった張学良と協力して日独支対抗陸上競技会を実現させます。また、コーチとしては陸上の岡崎勝男三段跳びの金メダリスト、南部忠平らを育てました。この他、昭和六年(一九三一)の第一回スピードスケート選手権でも監督を務めました。平太はマルチな才能の持ち主でスケールが大きいので、一面ではなかなか捉えられないですね。

―その後、平太はスポーツ界から追放されますね。

橘 昭和六年(一九三一)に満州事変が勃発し、親交あった張学良の義兄弟である馮庸(ひょうよう)という人物が亡命するというのでそれを援けました。しかし、馮庸はそれを裏切って国民党に合流します。それがスパイ疑惑関東軍に逮捕され、処刑されそうになります。それを助けたのが、石原莞爾だとされています。平太と石原の関係はよく調べないと分かりませんが、親しかったのは事実のようで恐らく二人の考え方が似ていたからかもしれません。

 

「スポーツは勝たなければならない」の真意とは

 

 

 

―張学良の父を謀殺した石原と親交があったというのも平太のスケールの大きさをうかがわせます。

橘 スポーツ界を追放された後は北京にも行っていますが、その頃の行動はまだ分かっていません。ただ、昭和二十年(一九四五)、時の総理大臣の小磯国昭に戦争終結を直言しています。平太は、終戦間近の昭和二十年(一九四五)六月に帰国して故郷に戻ります。戦後、再び平太が表舞台に出たのが、当時の福岡市長の要請による国体の誘致活動でした。それを機に平太は日本のスポーツ界に復帰することになります。

―「いだてん」金栗四三と親交が深かったようですね。

橘 同じ年で学校も東京師範学校で同じですから、かなり親しくしていたようです。平太は長年国際スポーツに触れてきて、金栗に当時の日本人が世界の陸上で勝負できるのはマラソンしかないと直言していました。そこで昭和二十五年(一九五〇)に金栗たちと福岡に「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成し、寄附金を集めて九州各地で合宿し、疲労回復などの科学的な分析を実施しました。これが今の日本のマラソン界の源流になっています。その最初の大会が昭和二十六年(一九五一)のボストンマラソンで、田中茂樹が日本人として初めて優勝を果しました。

―平太の人生を辿ってみて、彼が日本のスポーツ界に与えた影響はどう見ますか?

橘 彼がいなかったら日本のスポーツ界は相当遅れていたでしょうね。今起きているパワハラなどのスポーツ界の不祥事は、彼が生きていれば起きていなかったかもしれません。平太はスポーツ界の精神論一辺倒では駄目だと百年前から唱えて実践してきた人物ですから、いわゆるしごき、体罰などを一切認めていなかったでしょう。いわゆる根性論では強くなれない、科学的な理論を実践しないと勝てないというのが平太の信念でした。また、平太は、「スポーツは勝たなければならない。根性だけでは勝てない」ということを盛んに言っていました。

―それは勝利至上主義という意味ですか?アマチュアスポーツには過激に聞こえますが。

橘 平太の真意は、「勝つためにあらゆる努力をすべき」という意味だと思います。人事を尽して天命を待つ。つまり、科学的な練習を尽すことが人事で、その結果は問わないということではないでしょうか。それから、スポーツは平和でなければできない、だから平和が大切だというのも平太の信念でした。

 

岡部平太

明治24年(1891)~昭和41年(1966) 糸島郡芥屋村(現在の糸島市)生まれ。東京高師の柔道選手として活躍。渡米し,シカゴ大で体育理論をまなぶ。東京高師講師などをへて満州体育協会理事長。昭和26年ボストンマラソンの監督として田中茂樹を優勝にみちびいた。福岡市の平和台競技場の名付け親

 

橘京平プロフィール

知られざる偉人を発掘し、世に出すために西本新聞メディアラボ(福岡市)が立ち上げたプロジェクト名。

(株式会社西日本新聞メディアラボ)

西日本新聞社が100%出資するデジタル事業会社。1993年設立。WEB・映像コンテンツ制作、デジタルメディア運営、クラウドソーシング、デジタルマーケティング、イベントプロモーション、広告代理業など多彩な事業を展開している。

(フォーNET 2019年6月号)

 

 

 

 

中村哲氏と「山田堰」(福岡県朝倉市) 追悼に代えて

ペシャワール会中村哲さんが凶弾に斃れた。ついぞご本人に取材する事はなかったが、間接的に記事を書いたことがある。哀悼の意を込めて、掲載する(長文なので時間がある時読んでください。未推敲)

 日本人の自己犠牲精神

二百年以上の時空を超えてアフガンの人々を救った山田堰(朝倉市

語り手 水土里ネット山田堰(朝倉郡山田堰土地改良区) 事務局長 徳永哲也さん

 

寛政二年(一七九〇)に度重なる旱魃に苦しみ、飢餓を克服するために朝倉の人々の勇気と苦闘によって築造された「山田堰」が、時空を超えてアフガニスタンの人々を救いました。

 

 

「傾斜堰床式石張堰」

 「現代の山田堰」を再現したのは、アフガニスタンパキスタンで活動している福岡市の非政府組織ペシャワール会の代表である中村哲医師でした。ペシャワール会は昭和五十九年(一九八四)から主にアフガニスタンで貧民層の診療に携わってきました。平成十二年(二〇〇〇)以降は清潔な水と食べ物を求めて井戸掘りに奔走し六年間で千六百ヵ所の水源を得ました。平成十五年(二〇〇三)からは食料生産の用水を得るために全長二十五・五キロのマルワリード用水路建設に着手しますが、取水技術の壁に突き当たり、アフガニスタンのどこでも誰でも多少の資金と工夫でできるものを探していました。
 解決の糸口は意外なところにありました。近世・中世日本の古い水利施設で当然全て自然の素材を使い、手作りで作られたものでした。それが山田堰だったのです。筑後川もクナール川も規模こそ違え、急流河川、水位差の極端な暴れ川という点で似ていました。山田堰の中核の技術である「傾斜堰床式石張堰」を調べれば調べるほど他にないと確信したそうです。中村代表は山田堰をモデルに二〇〇三年三月~二〇一〇年二月までの七年間を費やし、マルワリード用水路全長二十五・五キロが開通、広大な荒れ野三千haが農地となり、農民十五万人が生活するまでに復興、新開地の砂漠で田植えができるまでになったそうです。
 自給自足の農業国・アフガニスタンの水欠乏と貧困は、近年の地球温暖化による取水困難が深く関係しています。現在、「山田堰方式」を隣接地域に拡大し、荒れた村が次々と回復し、六十万人の農民、一万四千haの農地が恩恵を受けているそうです。

「堀川の恩人」古賀百工

 二百二十年もの時空を超えて日本から遠く離れたアフガニスタンの人々を救った「山田堰」とは、一体どんな施設なのでしょうか。
 山田堰の起こりは、寛文三年(一六六三)に初めて設置された堰で、川を斜めに半分ほど締め切った突堤でした。同時に水を水田に送るために掘削された農業用水路が「堀川用水」です。当時の全長は約八キロでした。最初の堰の完成から六十年後の享保七年(一七二二)により多くの水を取水するために、恵蘇(えそ)山塊が筑後川に突き出した大きな岩盤を貫く大工事を敢行します。これが現在に受け継がれている「切貫(きりぬき)水門」です。水門の上に建つ水神社は、この工事の安全と水難退除のために建立されたものです。宝暦九年(一七五九)、切貫水門の幅は一・五メートルから三メートルに二倍に切り広げられ、堀川用水にはより多くの水が導き入れられるようになりました。
 それでも残る広大な原野を水田に変えるために立ち上がったのが、下大庭村の庄屋、古賀百工(ひゃっこう)でした。後に「堀川の恩人」といわれるようになる百工は、宝暦十年(一七六〇)から明和元年(一七六四)まで五年の歳月をかけて、堀川用水を拡幅・延長した後、山田堰の大改修という悲願を達成します。
 百工は、筑後川からより多くの水を取水するために川幅全体に石を敷き詰めた堰を設計し、自ら工事の指揮を執ります。寛政二年(一七九〇)に行われた大工事には、旱魃に苦しんできた多くの人々が豊かな実りを夢見て、水量が多く流れも速い九州一の大河での難工事に身を投じました。その数は延べ六十二~六十四万人に達するといわれています。こうして総面積二万五千三百七十㎡の広さを誇る、全国で唯一の「傾斜堰床式石張堰」が誕生し、水田面積は四百八十八haに拡大しました。
 筑後川の水圧と激流に耐える精巧かつ堅牢な構造を持つ山田堰には、南舟(みなみふな)通し、中舟(なかふな)通し、土砂吐きの三つの水路が設けられています。川が運んでくる土砂は、切貫水門に流れ込む前に土砂吐きから排出されます。当時盛んだった舟運を妨げずに鯉や鮎などの魚が容易に移動できるように生態系にも配慮されています。
 山田堰は度重なる洪水によって崩壊や流失の被害に遭いましたがその度に修復され、現在に引き継がれています。巨石を敷き詰めた石積みは永く自然石を巧みに積み上げた「空石(からいし)積み」でしたが、昭和五十五年(一九八〇)に起きた水害の修復工事によって、石と石との間をセメントで固定する「練石(ねりいし)積み」に変わりました。
 山田堰から取水した水を農地に送る重要な役割を果たしている堀川用水は、より多くの水を得てより多くの水田を開くため、山田堰の改修とともに新田開発が進み、両者を結ぶために拡幅され延長されてきました。開削から百年後には、堀川用水を延長する工事が行われました。この大工事によって約八・五キロの新しい水路が完成し、水田面積は三百七十haに拡大しました。
 永い歳月の間に幾多の洪水が堀川用水を決壊させ、あるいは土砂で埋没させました。しかし、朝倉の先人たちはその度に力を合わせて修復工事に当たり、堀川用水を守り続けてきました。
 堀川用水の総延長は、本線四・六キロ、幹線六・二キロ、支線七十七・三キロを合わせて八十八キロに達します。三百五十年前の十一倍に延び、大地に張り巡らされた水路は、六百五十二haの水田を今も潤しています。平成十八年(二〇〇六)、堀川用水は「疎水百選」に認定されました。
 堀川用水の下流には日本最多を誇る農業用揚水水車が今も現役で稼動しています。揚水水車は、川面より高所の耕地に送水する灌漑装置です。菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車の三群七基で構成される水車群。水車に関する最古の記録は、二連水車を三連に増設したという寛政元年(一七八九)の古文書にさかのぼり、同時期に二連水車も建造されたと推測されています。
 七基の水車が汲み揚げる水は、サイフォンの原理を利用して、農道の下に埋設された土管を通って吹き出し、三十五haの水田を潤しています。歴代の水車大工によって改良されてきたこの水車群は、勇壮な意匠と精緻な構造、揚水能力と灌漑面積のすべてにおいて日本の水車技術の到達点といわれています。福岡県を代表する観光資源として多くの人々を魅了している水車群は、平成二年(一九九〇)に国の史跡に指定されました。七基の水車による温室効果ガスの削減量は年間約五十トンと試算されています。

先人たちの知恵に感謝

 筑後川阿蘇山麓にある熊本県小国町を水源として熊本県大分県、福岡県、佐賀県の四県を流れて、有明海に注ぎます。その水は生活用水、農業用水、工業用水として、流域に生きる百万人以上の人口を支えています。筑後川中流域に開かれた筑後平野に位置する朝倉も、その恩恵を受けてきました
  私ども朝倉郡山田堰土地改良区では、将来にわたって地域農業を守り続ける為に、未来を生きる子供たちが、朝倉の農業を支える水源林と農業用水の関係を学ぶ体験学習を支援しています。これに応えて、朝倉地区の小学校では四年生の子供たちが総合学習の授業で一年をかけて朝倉の農業や水源林の役割などを体系的に学ぶカリキュラムを組みました。子供たちは筑後川の源流である熊本県小国町を訪れ、小国の人々が林業に励むことによって水源林を守り続けてきたことを学びます。そして、朝倉の人々はその水源林が育む農業用水を大切に使い続けてきたことを学びます。
 この学習の成果は「朝倉地域文化祭」で地域住民にも披露されます。地域の誇りを懸命に伝える子供たちの発表を見入る人の中には、郷土愛を再認識し感動の涙を流す人も少なくありません。こうして、地域が一体となって、水源林と農業用水を守ろうという意識が醸成されています。
 また、山田堰の技術的価値を国内外に伝えようと、「世界農業遺産」登録への活動を行っています。ペシャワール会アフガニスタンに築いた農業用水路の取水口のモデルになった山田堰は郷土の先人たちの知恵の結晶で、登録でその技術力と勇気を称えることと同時に、途上国へその技術を伝えたいと願っています。 
 時空を超えて現代に山田堰を再現したペシャワール会の中村医師は山田堰の歴史的意義をこう強調しています。
「山田堰が時代と場所を超え、多くの人々に恵みをもたらした不思議。朝倉の先人に、ただ感謝です。技術的に優れているだけでなく、輝くのは、自然と同居する知恵です。昔の日本人は自然を畏怖しても、制御して征服すべきものとは考えなかった。治水にしても“元来人間が立ち入れない天の聖域がある。触れたら罰が当たるけれど、触れないと生きられない”という危うい矛盾を意識し、祈りを込めて建設に臨んだと思われます。その謙虚さの余韻を、“治水”という言葉が含んでいるような気がします」
「寛政二年、測量技術も重機もない時代に造られた山田堰は、自然と共存する紛れもない日本が誇れる歴史的農業遺産です。この堰が時を超え、現代の私たちに語りかけるものは小さくありません。国内外に広く知られ、輝き続けて欲しいと心から願っています」。

参考資料 朝倉郡山田堰土地改良区刊 「地域を潤し350年 歴史的農業遺産を守る」
(フォーNET 2015年7月号)

政談談論「韓国への経済制裁よりも竹島に自衛隊を派遣せよ」(太田誠一 2019年8月号)

韓国への経済制裁よりも竹島自衛隊を派遣すべきです

自国の領海・領土を自国で守る覚悟を内外に示すことが、

日韓、日中問題を根本的に解決できる唯一無二の方法です

 

果たして「よく決断した」のか?

 

政府は、韓国への輸出管理の運用を見直し、テレビやスマートフォン有機ELディスプレー部分に使われるフッ化ポリイミドや、半導体の製造過程で不可欠なレジストとエッチングガス(高純度フッ化水素)の計三品目の輸出規制を強化しました。いわゆる徴用工訴訟をめぐり、韓国側が関係改善に向けた具体的な対応を示さないことへの事実上の対抗措置です。同時に、先端材料などの輸出について、輸出許可の申請が免除されている外為法の優遇制度「ホワイト国」から韓国を除外します。除外後は個別の出荷ごとに国の輸出許可の取得を義務づけます。ホワイト国は安全保障上日本が友好国と認める米国や英国など計二十七カ国あり、韓国は平成十六年に指定されていました。いわゆる徴用工訴訟に関する韓国最高裁判決をめぐり、日本側は日韓請求権協定に基づく仲裁委員会の設置を求めましたが、韓国は問題解決に向けた対応策を示さないため、日本政府が事実上の対抗措置に踏み切りました。

二〇一七年に文在寅ムン・ジェイン)政権が誕生すると、二〇一八年に入り慰安婦問題日韓合意が破棄されたり、徴用工訴訟問題や日本の自衛隊機に向けて射撃レーダーが照射される韓国海軍レーダー照射問題が発生するなど日韓関係の悪化が深刻なものとなっています。また、日韓両国間には、日本と韓国が互いに領有権を主張している竹島領土問題もあります。一九〇五年島根県への編入以降は日本が領有していましたが、第二次世界大戦終戦後の一九五二年、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領の海洋主権宣言の翌年一九五三年に韓国の武装市民が武力制圧し、一九五六年には韓国政府に引き渡しました。以後、韓国武装警察が駐留している。日本政府はこれを不法占拠として非難しています。日本政府は一九五四年国際司法裁判所に裁定を求めましたが韓国政府はこれに応じず、警備隊を常駐させたり、五百トン級船舶が利用できる接岸施設を作るなどしています。

こうした韓国の対日政策に憤懣を溜めていた多くの日本国民にとって、今回の日本政府の措置に「よく決断した」と評価する声も多いようで、私も一瞬は溜飲を下げる思いをしました。しかし、よく考えてみると、子どものような幼稚な反日感情で動くような韓国という国に対して目くじらを立ててまともに対応する必要があるのでしょうか。かつて「日本国」だった韓国のいわれなき怨恨に付き合う必要はないではありませんか。しかし、それでも確かに最近の文政権の動きには不穏なものはあります。北朝鮮へのすり寄りは下手をすれば朝鮮半島北朝鮮化、ひいては中国の半島への影響力を増大させて、その結果、日本の喉元につき刺さる朝鮮半島全体が、敵国になってしまうという危険性をはらんでいます。

 

 

大儀なき制裁

 

 

これまでの韓国の内政に対する国民の不満の捌け口のための「反日」であれば、まだ可愛いものですが、わが国の安全保障を脅かす情勢であるならば、今回のような経済制裁ではなく、実力行使で竹島海上自衛隊を向わせるくらいのことをやるべきではありませんか。竹島への韓国の振る舞いは、日本国にとって明らかな「領土侵犯」なのですから、自衛権が発動されるべきなのです。今改正が俎上に載っている憲法九条のもとで許容される自衛の措置としての武力の行使の三要件は、「一.わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。二・これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと。三・必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に当てはまります。

自国の領土・領海を守るのは、国として当然のことなのに、これまでまったくと言っていいほど実行していません。恐らく、韓国は「自衛隊は戦えない」と舐めているのではありませんか。それは、尖閣諸島付近の日本の領海を度々侵犯している中国も同様です。自衛隊は日本の領土・領海を守るためには最低限の武力を行使できることを実証してみせるべきではありませんか。日本がその覚悟を行動で示せば、それが抑止力になって従軍慰安婦、元徴用工問題など見えすいた「言いがかり」もなくなるのではないでしょうか。

竹島への自衛隊出動の目的は、もちろん韓国と戦うためではありません。確かに一触即発の事態を招くかもしれませんが、それを恐れていては、自国は守れません。自衛隊出動の目的は、竹島に駐屯している韓国武装警察の撤退です。その代わりに日本側も自衛隊を駐屯させず、一種の非武装地帯にするべきです。今回のような経済政策では根本的な解決は、望めません。今回の経済制裁は、トランプ大統領の対中経済制裁の物まねにしか過ぎず、大義はありません。

つまり、自国を守るという目的、大義がないのです。この経済制裁を具申したのは、間違いなく経済産業省です。この経産省は今や「安倍親衛隊」を以て自認している省なのです。安倍首相もそれが分かっているから、官邸で優遇しています。安倍政権の政策の背後には経産省が控えていて、それだけ官邸にこの省が蔓延っているのです。今回の措置は、選挙を前にした国民受けをする政策に過ぎず、経産省が安倍首相に阿って具申したものに過ぎません。世耕弘成経産大臣は、典型的な安倍首相の追従者ですから、何をか言わんや、です。恐らく、この後韓国と何らかの妥協点を見出して収束すると思いますが、韓国によるわが国への侵犯行為はこれで止むはずがありません。

ところで、G20大阪サミット後にトランプ大統領日米安全保障条約同盟について「不公平だ」と発言し、物議を醸しました。恐らく、「日本が攻撃された時、我々は日本を守るために戦わなければならないが、我々が攻撃された時に彼らは戦う必要はない」という、「素朴なアメリカ人」の真意をその代弁者であるトランプ大統領が発言しただけのことです。仮に日中戦争が起きた時に、安保条約に基づいて米軍は前線に出て、肝心の日本の自衛隊は後方支援に回ってしまうのでは、というアメリカの疑念が根底にあるのです。つまり、日本人が血を流さないのになぜ自国の兵隊を犠牲にしなくてはならないのか、という素朴な疑問があるのです。自国を守るために自衛隊が出動しない今の状態では、アメリカが安保条約は片務的で見直すべきだと思っているのも無理はありません。

こうした「弱腰」姿勢を続けていれば、いずれはアメリカ側から安保条約を破棄しようという動きが本格化するかもしれません。もし、安保が無くなれば、日本国民も「自国は自国で守る」ことを否が応でも考えることになるでしょう。自国を自国で守ろうとしない姿勢を続けていれば、いずれはアメリカに愛想を尽かされ、中韓からは舐められっ放しの状態が続くでしょう。

過激に受け止められるかもしれませんが、まずは韓国に不法に占拠されている竹島に一発のミサイルを撃ち込むべきです。それはあくまでも人のいない地帯に、です。そうすると、韓国は急いで戦闘態勢を整え、こちら側もそれに応じ、その結果、初めて交渉のテーブルに就けばいいのです。それくらいの覚悟を国内外に示す必要があります。

 

中国で移植を受ければ、無実の人々の命が消されるという事実 「中国の臓器狩り」唯一の証言者が語る

そこが聞きたい!インタビュー

 

中国で移植を受ければ、無実の人々の命が消されるという事実

「中国の臓器狩り」唯一の証言者が語る

 

 

元外科医 エンヴァー・トフティ・ブグダ(Dr.EnverTohtiBughda)氏

 

 

「私は殺人者」。そう懺悔しながら、中国の臓器狩りについて証言を続けるトフティ氏は、イギリスに亡命して中国共産党政権による洗脳の呪縛から解き放たれたという。以後、勇気をもって、過去の自分の罪を告白して世界を廻る、唯一の証言者だ。(二〇一九年四月六日に福岡市で開かれた同氏来日セミナー=主催 「中国における臓器移植を考える会」で来日した際にインタビューした)

 

 

ターゲットは、共産主義者以外の「国家の敵」

 

―今回の来日の目的は?

トフティ 強制臓器収奪という中国の闇を日本の人々に知ってもらうためです。何度か証言しているのですが、あまりにも闇が深いために信じたくても信じられない人が多いのです。臓器移植に関して中国が発表していることにあまりにも嘘が多すぎるために、真実がその嘘に埋れて人々から見えなくなってしまっています。嘘は小さければ見抜くことはできます。このままでは良心の囚人の犠牲は無くなりません。それを否定し続ける中国の大きな嘘を知ってもらうために来日しました。

中国の嘘を暴露する一番いい方法は、囮として移植手術の話を持ちかけることです。正式なルートで臓器を入手するのは、非常に難しいのです。数年前にアメリカのディック・チェイニー副大統領が肝臓移植を受けたのですが、彼は二年半待ちました。ところが、中国の病院のウエブサイトでは二週間でできると公言しています。緊急の場合は何とわずか四時間で臓器を用意できるというのです。なぜ、わずか二週間で臓器を用意できるのか。それは、臓器を取り出すことができる人間を常に確保しているからです。移植する臓器は肉のように冷蔵庫に入れて保存することができません。死んだ臓器ではなく機能しているものでなければならないからです。摘出して恐らく十時間くらいしかもたないでしょう。新鮮な臓器を確保するために、中国は罪のない多くの人々を捕えていつでも摘出できるようにしています。強制的に収監された人々は定期的に血液の検査を受けます。

―そうした臓器提供者、ドナーはどのような人々ですか?

トフティ 中国で臓器を摘出されている人々は正確に言えば、自分の意思で提供するドナーとは言えませんが、便宜上ドナーという言葉を使います。中国のほとんどのドナーは、中国共産党を信じていない人々です。共産主義はそれ以外の思想、哲学、宗教を認めません。共産主義以外は「国家の敵」と見做すのです。収監されていない人々も健康診断という名目で血液を検査されていますが、いつ収監されて臓器を摘出されるか分かりません。少数民族、地下教会信者、法輪功の学習者は共産党支配下にあって従っていますが、信仰は捨てられませんから、彼らは潜在的な国家の敵と見做されています。政府は、血液検査の結果をデータベース化して臓器確保に備えているのです。

 二〇一六年六月から新疆ウイグル地区の人々に対して血液検査など身体検査を始めました。感染病などの理由ではなく、何の理由もなく突然身体検査を受けさせられました。二〇一七年夏に政府はDNAの検査だと言いくるめましたが、DNA検査で血液を採取するのはありえません。ウイグルの人々を潜在的なドナーとして調査しているのです。

私はかつて中国で医療に従事していたので、中国の医師の考えが分かります。文化大革命も見てきました。人間の尊厳が破壊されてきたことを目の前で見てきました。そして、中国では人命が軽んじられてきたことも目の当たりにしました。

―検査を受けた人の中で実際に臓器を摘出されたケースは?

トフティ ある日、突然いなくなった人々はいます。新疆ウイグルでは一九九五年から二〇〇七年の間に、十万人もの人が行方不明になっています。しかし、臓器を摘出された人は死んでいるので、証言者がいません。これは分かっているだけの数字で、現在は全く分かっていません。現在、二百万人のウイグル人が収容所に入れられています。アメリカの調査では、八十万人から二百万人という数字があります。この人たちが潜在的ドナーです。いつ臓器を摘出、殺されても不思議ではありません。ウイグル人の他にもチベット人法輪功、地下教会の信者も臓器収奪の対象になっています。

共産主義を心の底から信じている中国人はあまりいません。ですから、今収奪されている人々がいなくなったら、ほとんどの中国人が潜在的ドナーになるでしょう。私は調査しているわけではないので、実際に中国でどれだけの非人道的な臓器移植が行われているのか、私は知りません。しかし、一人の人間が移植を受けるために、一人の人間の命が奪われる、一つの事例だけで十分です。

 

原爆症告発から亡命へ

 

―この活動に入るきっかけになったのは?

トフティ 私がイギリスに亡命しなければならなかったきっかけは、中国の核実験による原爆症の存在を調査し、それを告発したことでした。私は新疆ウイグルに生まれ、首都のウルムチ市の医科大学を卒業後、腫瘍外科医として鉄道中央病院に勤務しました。一九六四年から四十六回にわたるロプノル地域での核実験がありました。ロプノルとは新疆ウイグルの南東部、タクラマカン砂漠の北東部に位置しています。この核実験は半分が地下、半分が地上で行われました。

病院でガンの治療にあたっていたとき、ウイグル人患者の比率が高いことを不思議に思い、調査を始めました。およそ二千人のガン患者の調査の結果、ウイグル人のガンの発症率は国家平均と比べて三五%高く、ウイグルに長く居住している漢人の発症率も高いことが判明しました。白血病、肺ガン、リンパ腫、甲状腺ガンの患者が圧倒的で高い放射線によるものです。

地元では皆、核実験のことは知っていましたが、私の調査は中国によるロプノルでの核実験を証明することになりました。その後、語学留学先のトルコで、新疆ウイグルの核実験被害の実態をルポしたいという英国のジャーナリストと出逢い、その二日後に彼が現地に入ってドキュメンタリーを作りたいから協力してくれと要請されました。医者としての良心から被害状況を広く公開したいと願っていたので応じて、ウイグルに入り取材クルーのガイド役を務め、私自身も登場しました。これで故郷には戻れなくなり、仕事も家族も全て失うという大きな決断でした。このドキュメンタリーは『死のシルクロード』(Death on the Silk Road)として一九九八年にイギリスの「channel4」で放映され、これで私は中国政府から「お尋ね者」になりました。このドキュメントは後に世界八十三カ局で上映され、現在は「you tube」でも視聴できます。日本語字幕もついています。

 トルコではイスタンブール大学チャパ医学部の外科医として働いていましたが、一九九八年十二月、トルコの首相が中国との「犯罪人引き渡し条約」に合意署名したことをアンカラの台湾人レポーターが伝えてくれました。一九九九年一月二十三日に英国に行き、ヒスロー空港でドキュメンタリーを見せて難民申請しました。一九九九年四月に中国の高官がトルコを来訪しているので、その時まで国内にいたら中国に強制送還されていたでしょう。イギリスに渡って一年十一ヵ月後に難民として認められ、現在はイギリスの国籍を取得しています。

―この原爆症患者を救う活動を始めたのですか?

トフティ 積極的に種々の国際会議や公的な討論の場に参加して、ロプノルの核実験の事実を広め、実験の犠牲者のために闘いました。実験に関わった8023部隊の兵士は補償されましたが、被害で苦しむ村の人々は無視されています。 新疆の人々の九〇%は農民で年間の平均収入は当時5千元でした。当時、一回の化学療法に一万五千元かかったため、ほとんどの人はガンの宣告を受けると治療は受けずに家に戻りました。問題を認識し、被害を受けた家族を補償し、無料で医療手当を受けるよう政府に要求しました。汚染された土地で苦しむ農民への補償も求めています。

被害はウイグル人に止まりません。一九七〇年代以来、中国人が移民していますが、長く居住すればするほど発癌率が高いのです。中国政府はこのプロジェクトの存在を認めておらず、コミュニケーションもとっていません。英国のビジネスマンが話してくれたのですが、代表者として中国を訪問した際、中国政府の役人が「エンヴァーという男は嘘を言っている」と否定したそうです。

 

 

民衆法廷

 

―中国の臓器狩りの実態を証言しますね。これはどういうきっかけで?

トフティ これまで共産党政権下の教育を受けていましたが、西洋社会で目も心も開き、物を見る視点が完全に変わりました。そして自分の罪を認識し愕然としました。一九九五年夏に上司の命令で一度だけ、生きた処刑者から肝臓と腎臓を摘出させられました。処刑場で待機し、銃声が鳴ったら中に入れと言われました。摘出した人は囚人服ではなく私服で右胸を撃たれ、まだ生きていました。看護婦は逃げ出そうとし、私も手が震えました。でもその場では拒否する余地はありませんでした。言われた通りにする、そのような状況でした。当然、移植のためというのも分かっていません。

 当時、英語が分からない私が臓器狩りのことを知ったのは、ロンドンで香港、台湾で発行された中国語新聞で知りました。自分がやった摘出手術は臓器狩りだったと分かり、罪悪感が募りました。処刑者の名前も人種も宗教も分かりません。以来、モスク、寺院、教会などで機会があるごとに彼の冥福を祈っています。二〇一〇年、ずっとこの問題を追いかけていたジャーナリスト、イーサン・ガットマン氏の報告会がロンドンの国会議事堂内であり、その場で初めて自分は医療倫理に反する行為をしたと告白しました。一人で重苦しく抱えていたものをその時、初めて外に出すことができました。正直、最初に証言する時はかなりの勇気が要りました。「殺人者」である私を人々は受け入れてくれるのか、怖かったのです。

その後、欧州議会スコットランド議会など機会があるたびに証言者になっています。ガットマン氏は多くの迫害犠牲者から聞き込み調査し、実際に中国で起こっていることを『Slaughter(屠殺)』という著書にまとめ、二〇一四年に出版しました。臓器狩りを行った証言者として第一章に私の体験が紹介されています。二〇一五年十一月に米国でリリースされた『知られざる事実』(Hard to Believe)という映画でインタビューを受け、証言しています。これらの証言を通して、世界の人々の良心が目覚めることを願っています。初めての証言から十年経って、私を人々が受け入れてくれたと感じています。

―証言者はトフティさん一人ですか?

トフティ 以前はもう一人いたのですが、二〇〇一年に亡くなり、今は私だけが公に出て発表する証言者です。国のためにいいことをやっているという洗脳が解けた今、呼ばれれば積極的に証言したいと思います。私の叔父が検閲の仕事をやっていて自宅に検閲が通らなかった書物があって幼い頃から片っ端から読んでいたことも洗脳が解けた遠因かもしれません。また、ウイグルが政府に不当に差別されていたことに憤りを感じていましたから、元々反骨精神があったのかもしれませんね。また、証言することが懺悔になり、私が犯した罪が少しでも軽くなるかと。

アメリカでは議員に証言したそうですね。

トフティ 二〇一六年、臓器狩りのことを信じられない議員二十五人一人ひとりに面会して、証言しました。予定されていた公聴会がキャンセルされたので、それならばと渡米しました。彼らに情報としては耳に入っていましたが、完全に信じるまでにはなっていませんでしたが、実際に摘出した私の話を聞いて信じてくれたのでしょう。下院で中国の臓器狩りに対する懸念を表明した決議案が可決されました。

―昨年十二月にロンドンで開かれた、世界初の「中国での良心の囚人からの強制臓器収奪に関する民衆法廷」でも証言しましたね。

トフティ この民主法廷とは、国際法上問題がある行為が発生していると考えるNGOや市民等が、自主的に有識者を集めて構成する模擬法廷です。今回の法廷には三十人の専門家が証拠を提示するために出廷しました。私はその中で実際に臓器を摘出した元医師として参加しました。エリザベス女王から権威を授与された勅撰弁護士であるジェフリー卿が議長を務め、審理が進められています。法廷の中間報告で「本法廷は全員一致をもって、全く疑いの余地なく、中国でかなりの期間、極めて多くの犠牲者に関わり、強制臓器収奪が行われてきたことを確信する」と第一回の公聴会で発表した理由を、「今現在でも中国で犠牲になりつつある生命を一つでも救える可能性がないとは限らない」と述べています。

―こうした中国に対する国際的圧力は必要です。どうしたら止められるでしょうか?

トフティ 現実には移植するために中国に行く人は絶えないでしょう。お金があれば移植を受けたいというのが、人間です。政治を動かすには、世論しかありません。無実の人の命を奪ってまでも自分の命を永らえることがいかに残虐な行為なのかという世論を喚起するしかありません。あるいは、中国の現在の政権が瓦解するのを待つしかないかもしれません。

 

エンヴァー・トフティ・ブグダ (Dr. Enver Tohti Bughda)

 

アニワル・トフティとしても知られる。

 

1963年、東トルキスタン新疆ウイグル自治区)のハミ(クムル)市生まれ。ウイグル自治区の首都のウルムチ市で小学校、中学校の教育を受ける。シヘジ医科大学を卒業後、腫瘍外科医として鉄道中央病院で13年勤務。

1964年より46回にわたるロプノル地域の核実験を、不相応に高い悪性腫瘍の発生率から確認。ドキュメンタリー映画「Death on the Silk Road」(死のシルクロード)(1998年イギリスchannel 4)の制作協力により英国に政治亡命

積極的に種々の国際会議や公的な討論の場に参加して、ロプノル(Lopnor)の核実験の事実を広め、実験の犠牲者のために闘う。

英国では、世界ウイグル会議とは離れ、個別のウイグル擁護運動に取り組み続ける。シルクロード・ダイアローグというオンライン上のプラットホームを設定し、様々な利益集団が、礼儀あるやり方で意見交換や論争点の討議ができる場を提供している。

英国に在住することで、意識が変化し、1995年に上司の命令で一度だけ行った囚人からの臓器摘出に対する罪悪感に目覚める。以来、世界各地の公聴会や上映会に参加し、中国での臓器収奪の真実を訴える。

◯ アイルランドでの証言(2017年7月6日):http://bit.ly/2jKnsEI

「中国の元外科医、臓器狩りの証拠を提供―アイルランドの外務・通商・防衛共同委員会で 」(ビデオ付き。日本語字幕付き)(3分)

 

◯ 「中国での良心の囚人からの強制臓器収奪に関する民衆法廷

第一回公聴会の証言(2018年12月10日)

https://chinatribunal.com/the-hearings/

三日目の第一セッション 二人目の証言者(48:28より) (36分。英語のみ)

 

 

『奇跡の村』―その信仰の意義と歴史を語る 大刀洗町今地区に伝わる隠れキリシタン秘話

そこが聞きたい!インタビュー

 

『奇跡の村』―その信仰の意義と歴史を語る

大刀洗町今地区に伝わる隠れキリシタン秘話

 

今村信徒発見150周年記念誌『信仰の道程(みちのり)』

編集委員(海の星保育園 園長) 鳥羽清治氏

 

 

 

筑後平野の北部に位置する大刀洗町。緑豊かな田園が広がる中にひときわ目を引く建物がある。「今村カトリック教会」。赤煉瓦作りでヨーロッパ風の二つの塔を持つ、教会が秘めた隠れキリシタンの物語は、信仰の尊さを教えてくれる。

 

「奇跡の村」の所以

 

 

 

―百五十二年前の慶応三年(一八六七)、今村信徒が発見されますが、これはどういった経緯だったのでしょうか?

鳥羽 日本で初めてキリシタンを禁じたのは豊臣秀吉でしたが、その後の江戸幕府キリシタンを大追放しました。しかし、それでも秘密裏に布教活動は続いていました。ところが寛永十四年(一六三七)に起きた島原の乱に多くのキリシタンが加わったことから、キリシタンに対する弾圧がさらに厳しくなります。幕府は、踏み絵、五人組連座制度などでキリシタンを捜し出し、改宗させて、強制的に仏教徒として寺に登録させました。宣教師は、国外追放さもなくば殉教か転ぶ(キリスト教から仏教に改宗すること)かという厳しい選択を迫られ、キリシタンは徹底的に排除されました。

 そうした厳しい弾圧を逃れて、信仰を護り続けていたのが、隠れキリシタン潜伏キリシタンと呼ばれる信者たちです。彼らは長崎県西彼杵半島、平戸北部、五島列島生月島熊本県天草に約三万人が散在していたといわれています。このように隠れキリシタンのほとんどが僻地の山あいや小島、海岸に潜んでいたのです。

―ここ(今村)はそうした隠れキリシタンの里とは様相が全く違い、筑後平野の真ん中にありますね。よく隠れていたなと思います。

鳥羽 今村が「奇跡の村」と言われる所以です。幕府がキリシタン信徒を撲滅させる手段の一つに、寺請制度にして宗門人別帳を作らせて、キリシタンを必ずどこかの寺に属させてキリシタンでないことを証明させました。今村の信徒も表面上仏教に改宗しましたが、裏では密かにキリスト教の信仰を護り続けました。死者を葬る時には、いったん仏式で葬儀を行い、夜になってカトリックによる埋葬を行っていました。それまで大刀洗一帯に信徒がかなりいて、「邪宗門一件口書帳」に記されている大庄屋の申上覚えによると、八百六十八人の信徒のうち五百人が今村の信徒でした。つまり、ほとんど村全体がキリシタンでしたから、秘密を守ることができたのでしょう。

 もう一つ、今村で信仰が護り続けられたのは、大庄屋の存在です。右京、左京兄弟という熱心な信徒がいました。しかし、弟の左京は厳しい弾圧のために転んで、その代わりに大庄屋に取り立てられます。自分が魂を売って大庄屋になった左京は、建前では取締りながら、裏では大目に見てキリシタンを保護していたと伝わっています。また、村の殉教者といわれる「ジョアン又右衛門」の存在も大きいと思います。又右衛門は、島原の乱の落人など諸説ある人物ですが、熱心なキリシタンで村の人々の尊敬を集めていました。彼は強い信念で村人たちを教化指導していましたが、お上にそれが露見し、改宗を求められますが拒み続け、最後には磔刑に処されます。夜になって又右衛門の遺骸は村人たちに運ばれて埋葬されます。信徒は「ジョアン様のお墓」として、月命日にはお参りし祈りを捧げたと伝わっています。今村教会はそのお墓の上に建っています。

―平野の真ん中にあるという今村を取巻く環境では、下手をすると密告などで発覚する恐れがあったと思いますが、村人はどのようにして信仰を護り続けたのでしょうか?

鳥羽 発覚せずに信仰を続けるには、外部との接触を極力避けるしかありません。また、建前は仏教徒として普通に生活していかなければならない上に、教化してくれる神父がいない中では、どうしても形が変化してしまいます。その結果、宗教上の儀式や祈りの形は崩れてしまいます。そこには先祖代々の信仰、しきたりを守るという日本人特有の気質、生き方があったのではないかと思います。それが異教徒とも摩擦もなく、潜伏できた理由の一つではないでしょうか。慣れ親しんできた神仏や先祖を否定し、カトリックの教義や祈りを二百五十年以上にわたって秘密裡に、口伝のみで伝えることは非常に困難なことでした。「これはカトリックの信仰ではない」といわれるほど宗教上の祭儀や祈りの形は崩れてしまっていたのです。しかし、信徒が再び本当の教えに接した時に、長崎まで何度も足を運び、迷わず洗礼を受けたということはまさに奇跡であり、教えの核心は確実に代々伝わっていたのだと思います。

 

「今村信徒」発見秘話

 

―今村のキリシタンの種は大友宗麟時代の永禄四年(一五六四)に蒔かれたとされていますね。

鳥羽 熱心なキリシタン大名だった宗麟は、日本にキリスト教を始めて伝来したフランシスコ・ザビエルが宗麟の領地である豊後に到着すると、手厚く迎えてキリスト教に深い興味を覚え、領内での布教を保護します。勢力をつけた宗麟は北部九州まで版図を広げます。その頃、古くから大刀洗町の上高橋・下高橋地区を中心に高橋家という名家がありました。その高橋家の嗣子が絶える危機に直面したことを知った宗麟が、後継者に家臣の一万田右馬助(いちまんだ・うまのすけ)を推薦し大庄屋になります。右馬助の家中にはキリスト教の信者もいたことが類推され、この地区の庄屋、村人にキリスト教が布教されたと考えられます。修道士アルメイダも1564年、大友宗麟を表敬訪問した後平戸へ向かう途中、3年ぶりに立ち寄った土地があり、それがこの今村、上高橋地区ではないかといわれています。ちなみに今村は当初田中村と称していましたが、慶長六年(一六〇一)、田中吉政筑後国主になった時に、領主と同じ名称では恐れ多いと今村に改められます。吉政もキリスト教に理解があったため、信仰は保護されました。

隠れキリシタン潜伏キリシタンという言葉がありますが、この違いは?

鳥羽 隠れキリシタンとは禁教時代に隠れて信仰していた者を指します。そして禁教が解かれて発見された隠れキリシタンたちは、二つの道に分かれます。それまでに変形してしまった教義を改め、正しいカトリックを受け入れて正式な洗礼を受けて、憚ることなくカトリック教徒として生きる道を選んだ人々を、潜伏キリシタンと呼びます。今村は潜伏キリシタンになります。一方、潜伏していた時の教えをそのまま引き継ぎ護り続けた人々が、隠れキリシタンとして残っています。隠れキリシタンが残っているのは、長崎・生月島などです。

―さて、いよいよ今村の信徒が発見されるのですが、先に長崎・浦上で発見されますね。

鳥羽 安政元年(一八五四)に開国した日本にフランスの宣教師たちが入国しました。まず横浜に最初の天主堂を建設した後に、長崎に初めての宣教師が来ました。その大きな目的は、激しい弾圧によって潜伏しているキリシタンを捜し出すことでした。元治二年(一八六五)、浦上地区に潜んでいた信徒が名乗り出てきました。これが日本で初めての隠れキリシタン発見でした。しかし、まだ禁教令は続いているので、神父は注意深く、その秘密を守りながら行動します。信徒たちは、浦上の山間や、長崎港内の島々、五島諸島などで信徒の仲間を捜し出します。

 今村の信徒が発見されたのはその二年後ですが、それは偶然の出来事でした。浦上城の越の紺屋が久留米地方に藍を仕入れに行ったところ、今村にもキリシタンがいることを聞きます。紺屋は早速そのことを神父に伝え、四人の信徒を今村に派遣しました。

 四人が今村近くの茶店で休んでいる時のことです。今村への道を訊くと、西目の今村か北目の今村か問われます。とりあえず西目の今村への道を教えてもらう道すがら、偶然、地元の人が西目の今村にキリシタンがいると話しているのが耳に入ります。四人は早速村に入って昼飯を食べるために小さなお店に入り、一晩泊めてほしいと頼みますが、店の主人に頑なに断れました。すると、村の一銭床屋のおシマという女の家に泊めてもらうことになります。おシマもキリシタンですがそんなことはおくびにも出さずに、浦上から来た四人の正体を探ろうとします。互いに相手がキリシタンであるかどうかの会話が続きました。

 夕食の時におタキが、「おかずは鶏にしますか?」と訊くと、「鶏は嫌いではないが、今は食べる時ではない」と答えます。「卵は?」とさらに訊くと「卵も食べる時期ではない」と答え、おシマは四人がキリシタンであることを確信します。これは、当時「悲しみ節(せつ)」という復活祭前四十日間のことです。キリスト死去前の苦難を思い、断食、苦行、祈りによって罪を悔い改め、償いながら復活を待つ時期で、この時期は鳥獣の肉をはじめ卵も摂らないのがしきたりでした。ようやく今村の人々がキリシタンであることを認めました。その後、四人はローマから宣教師が派遣されて浦上の天主堂に入ったこと、浦上のキリシタンたちが名乗り出て熱心に教理を学んで秘蹟を受けていることを告げました。

―しかし、長い間迫害に苦しめられていた村人たちは、俄かに信じることができたのでしょうか。

鳥羽 確かにすぐには信じられなかったようです。その事実を確かめるために今村から三人の信徒が長崎に行き、教会を見学したり浦上のキリシタンたちが大勢集って教えを学んでいるところを目の当たりにして驚きます。派遣された一人は今に捕まると恐れおののいて今村に帰ってしまいますが、一人は残って教理を学び正しい洗礼を授かって村に帰りました。その後九人の村人を連れて長崎を訪れます。

 ところが帰ってくると捕えられ牢に繋がれてしまいました。まだ禁教が続いていて密告があったからです。庄屋と大庄屋が仲に入って、今後は決してキリシタンを信奉させないと保証し、入獄者たちも改宗すると誓ったので全員が釈放されます。

 

 

 

教会建設への道

 

 

―それでも村人たちは信仰を止めなかったのですね。明治十二年(一八七九)、ついに神父が今村に入りますね。

鳥羽 教会がないという不自由な環境の中でコール神父は、旧信者の発見と信仰的教育、集団洗礼へ導きました、村人たちは土蔵で次々に洗礼を受けていきます。初代のコール神父時代の一年間で七百人近くの村人が洗礼を受けました。その後も年々洗礼を受けた信徒数は増え続けていきます。増えると土蔵では手狭になって、ついに明治十四年(一八八一)に藁葺き木造の教会が建てられました。

―その後も信徒が増え続け、ついに現在の教会が建設されることになりますね。

鳥羽 初代から四代目の神父まで大変な苦労をして布教活動をされました。そうして今の教会建設を進めたのが、五代目の本田保神父でした。本田神父は三十二年間という長きにわたって在任し、半生を今村に捧げた人です。本田神父が着任した時には信徒数はすでに千七百人を数え、教会は満杯でした。それから十年も経つと新しい改宗者や、自然増加で増え続けて二千人という大所帯になりました。

 本田神父は、自分が在任中に真摯な今村カトリック教徒にふさわしい聖堂を建設する夢を持っていましたが、信徒の急増で建設せずにはいられない窮地に追い込まれます。しかし、貧しい村人からの献金ではとても費用を捻出することができません。そこで本田神父はドイツの布教雑誌の編集者である神父に教会建設のための資金援助の手紙を書きます。その内容が掲載され、ドイツの多くの信徒を感動させ、多額の献金が今村に贈られました。この資金を元に教会建設は具体的に進められます。設計は、日本人技師で礼拝堂教会建設の第一人者である鉄川与助に依頼しました。

 工事は大正元年(一九一二)に始まります。鉄川が連れてきた職人十数人と今村信徒の勤労奉仕団が加わり大勢で取り掛かります。ところが思い掛けない難事にぶつかります。今村の地盤が予想外の軟弱地盤で掘れば掘るほど大量の水が湧いて出て度々工事が中断し、予想外の莫大な費用がかかりました。費用も底を尽きます。本田神父は再びドイツの布教雑誌に手紙を書きます。そしてドイツ人のキリスト教徒はまた願いを聞き入れ、献金を贈ります。信仰の力には感動しますね。この献金と他の善意の資金で工事を再開することができ、大正二年(一九一三)十二月に完成しました。以後、水害や幾多の台風の被害を受けましたが、その都度修理され、平成十八年(二〇〇六)に福岡県有形文化財、平成二十七年(二〇一五)には国の重要文化財に指定されました。

―今村教会は築百年以上の建物とは思えない美しさです。

鳥羽 「より高くより美しく」という信徒たちの一途な思いが結晶されて建設されましたから、今でもその美しさは色あせないのでしょう。二つの塔を持つロマネスク様式赤煉瓦造りで国内に残るレンガ造りの教会として貴重なものです。また、ステンドグラスと十字架の道行(キリスト受難の十四枚の聖絵)はフランス製、柱は高良山の杉、レンガは特注品で歴史的価値のある建造物でもあります。ただ、老朽化は進んでいて、現在、耐震調査中ですが、やはり傷みが進んでいて補修が必要です。耐震補強・補修工事には五、六億円では到底足りないという説明を受けました。国の重要文化財には指定されましたが、国と県と町で総額の四分の三までは補助されますが、残りの四分の一は福岡教区で賄う必要があります。仮に総額八億円かかるとすれば、二億円を集めないといけないので、とても厳しいというのが現状です。補修のために町がクラウドファンディングを立ち上げて、ありがたいことに現在約百万円集っています。

―ところで取材前に周囲を車で走らせたのですが、この地区の静けさに不思議なものを感じたのですが。

鳥羽 (笑)どこにでもある田舎の雰囲気だと思います。しかし、確かに周囲の集落とは少し違った感じはあるかもしれませんね。周囲も何となく認めてきたという感じではないでしょうか。禁教時代には、お寺も神社も必要以上に関わらず見知らぬふりをしてきたのだと思います。外部から来られた方がそう感じられたのは、そのような歴史が背景にあるのかもしれません。

―現在も今村地区の信徒は多いのですか?

鳥羽 詳しくわかりませんが7割くらいでしょうか。この地区に嫁いで洗礼を受けていない人やアパートが建ってそこに越してきた人など徐々に増えてきています。やはり、高齢化が進み若い人は区外に出て行っていて、今後信徒はかなり減ると思います。

世界文化遺産潜伏キリシタン関連遺産が登録されましたが、今村は登録されませんでしたね。

鳥羽 一時は候補に挙がっていたようですが、絞り込まれる中で外れたということだと思います。現在、国の重要文化財に指定され、巡礼団や見学者はとても増えました。これまでの自分たちだけの教会、閉ざされた教会ではなく、もっと開かれた教会として多くの人に開放され、情報を発信し、福音宣教につながることを期待しています。そしてそのような活動が少しずつ実を結んでいるのも事実です。しかし、ややもすると、過去の遺産、先祖の残してくれたものだけに頼りすぎる説明、自慢話に陥る危険もあります。大切なのは、それを受け継いだ私たちがどのような希望を持って毎日を過ごし、その信仰の喜びをどれだけ伝えきれているかということです。信徒の数は減っても、信仰の灯は姿や形を変え、これからも消えることはないのだと思います。福音宣教とは、難しく教義を教えることでも祈りを教えることでもなく、生活の中で喜びのうちに素朴に信仰を生きること、そういう人がいる限り、今村の地は奇跡の村としてこれからも生き続けるのだと信じています。

 

鳥羽氏プロフィール 長崎県平戸市出身。昭和28年生まれ。関西外語大学中退。昭和五十一年に今村にあった老人ホームの生活相談員として就職。平成17年から現職。

 

参考文献:『隠れキリシタンの里・今村 奇跡の村』(佐藤早苗 河出書房 二〇〇二年)、『守教 上・下』(箒木蓬生 新潮社 二〇一七年)、今村信徒発見150周年記念誌『信仰の道程(みちのり)』