オッサン3人組の「奥穂高岳山行記」

1日目(松本市前泊) 南シナ海で台風が発生して山の天気予報「てんくら」を出発前まで頻繁にチェックしていた。コロコロ変わるので判断しにくい。ところが、前日、条件が良くなってきた。それでも本番の頂上アタックの日はまだよくない。 11時の便で小牧空港へ。ここからは68歳の先輩と落ち合うことになっている。先輩は3日前から車で福岡を出立して、キャンプしながら小牧にやってくる。1時前に無事合流して、一路松本市へ。愛知県から岐阜市に入って長野県に入ると、眼前に2000から3000メートル級の峰々が…九州にはない光景に息を飲んだ。「あれが北岳甲斐駒ケ岳?」などとはしゃぐオッサン3人組。童心に戻っている。  松本市を訪れるのは、生まれて初めてのオッサン。苗字と同じ名の松本市は以前から興味があったが、縁がなかった、かろうじて学生時代のクラスメイトに松本深志高校出身者がいたくらいか。時間があったら松本城を見学したかったが、市内に着いたのが3時半。お城を一目でも見ようと城を目指した。お城が近くで望める道に路上駐車してお城を仰いだ。小ぶりだが、木造の立派なお城だ。  先輩は別の宿を予約していたので、お店で合流することにして、投宿して荷物をほどいて一息。ネット探した蕎麦屋に入った。やはり、松本に来たからには、信州そばと地酒は味わいたい。蜂の子の甘露煮など地元ならではのあてで地酒を楽しんで、〆に出て来たざるそばを手繰ると、うまい!やはり本場のそばは違うなあ。翌朝は3時起床なので早く寝ないといけないが、先輩と別れて街を徘徊して二軒目を探索。蕎麦屋はもちろんだが、焼き鳥屋も多いようだ。その中で気になって暖簾をくぐったのが、「鳥心」。路地奥なので一見客は見付けづらいだろう。入ると、コの字型のカウンターはほぼ客で埋まっていたが、幸い奥に2席空いていたので、腰を下ろした。  もうかなり飲んでいるが、酒吞みのオッサンは口開けの生ビール、相棒は地酒1合(オッサンもその後地酒を1杯)。頼んだ焼き鳥は1人4,5本だったが、おいしかった。どうも老舗の焼鳥屋のようで、焼鳥屋が多い福岡でも味は上位に入るのではないだろうか。接客もいい。 2日目(上高地バスセンター~涸沢小屋) 翌朝は4時にホテルを出立するので、3時に起床。ザックはパッキング終えている。これから3日間は風呂に入れないので朝風呂入ってすっきりして身支度。ザックは空港で預ける時に測ると、8キロ。8キロとばかり思い込んでいたトレーニングの時よりかなり軽く感じたので、トレーニングは実際は10キロだったかもしれない。その勘違いが後に役に立った。 コンビニで朝食と昼食を買って、一路「さわんどバスターミナル」を目指す。天気は良さそうだ。今日は気持ちよく涸沢まで行けるだろう。しかし、翌日の天気はまだ分からない。最悪の場合は頂上を断念しないといけないかもしれないが、今日は今日で楽しもう。 五時半ごろに「第3駐車場」に到着する。車はかなり停まっていたが、まだ余裕はありそうだ。最盛期にはこの駐車場は早朝から満杯になって、ターミナルから遠い駐車場に停めることもあるという情報もあったのだが、幸先いい。この幸先良さの恩恵を最後まで享けることをこの時期は知る由もなかった。  始発から2本目のバスに乗ることができた。ここでちょっとしたトラブル。自動発券機の隣で一所懸命説明している女性がいた。オッサンの番になった。別に緊張していたわけではないが、画面に出てきたピンクのゾーンをタッチ…あっ!「小人」のところをタッチしてしまった。後ろにはすでに待っている人が…女性が窓口で現金を払い戻してくれる。「今度やったら叩きますよ(苦笑)」嗚呼、情けなや。  7時くらいにいよいよ上高地バスセンターに到着。さて、準備。その前に売店寄ってビールを探す。コンビニで買いそびれた。ロング缶が400円。下界より少し高いが、それでも山小屋では1000円するので、買わない手はない。1本、買ってザックに詰める。う~ん、もう1本買っておこうか。変なところで節約精神を発露させてもう1本買った。 7時半ごろに出発。本格的な登りが始まる横尾まで平坦な道が延々と続く。初めての地なので、爽快で少々高揚感を湛ながら気持ちよく歩き始めた。観光客でごった返す「河童橋」。芥川龍之介の「河童」に出てくるという有名なスポットだ。中学か高校時代に読んだことはあると思うが、内容は全く覚えていない。帰ってから再読してみよう。  河童橋の次のスポットは「明神池」。「穂高奥宮」参拝と明神池見物。ご祭神は「穂高見命(ほたかみにみこと)」で、北アルプスの総鎮守、海陸交通の守り神、結びの神として鎮座しているそうだ。この付近は、古くから「神合地」「神垣地」「神河内」などと呼ばれていて、安曇族の神が穂高岳に降臨したという伝えが残っている。海人(あま)族の始祖である安曇族の発祥地は福岡・志賀島。その志賀島を何らかの原因で追われて、日本各地に住み着く。長野県の安曇野はその名残。福岡と穂高は安曇族が縁を取り持っているんだなと実感する。  本殿を参拝するが、小銭が30円しかない…「すみません」と頭を下げながら二礼二拍手一礼。社務所を覗くと明神池拝観料500円とあった。池を見てみたいし、奥宮も拝みたい。賽銭変わりに拝観料を払った。綺麗な湖面に出た艀の先に質素な奥宮があり、その先に明神岳(2931)の威容がどーんと聳え立つ。その景色は圧巻だ。水もきれいで、イワナの稚魚が泳いでいるのが見えた。  さて、本道に戻って再びひたすら歩く。次第に汗ばんできた。それにしても植生や鳥のさえずりが九州とは違う。明神から30分ほどして徳沢園に着いた。ここは井上靖の「氷壁」の舞台になった徳沢小屋が前身だそうで、オッサンも数年前に読んだが、全く記憶していない。また、再読する本が増えた。  しばらく休憩して再び歩き出す。まだ平坦な道が延々続く。すると梓川沿いに出た。眼前に高い峰が現れる。前穂高岳(3090)だ。計画では余裕があれば奥尾穂高から「吊り尾根」を辿って登ることになっている。かなり厳しいだろうが…それにしても、これまでネットなどで何度も見ていた北アルプスの風景が現実に目の前に現れるのには、感動する。  しばらくしていよいよ登り口の始点である「横尾」に着いた。出発から2時間少々。ここは槍ヶ岳奥穂高岳の分岐点で、登山者の最後の休息地。少し休んで、さてこれからが本番だ。ここから標高差約700メートル上の今日の宿泊地である涸沢小屋を目指す。橋を渡ってしばらく川沿いを歩いて樹林帯に入った。段々斜度が出て来た。日差しも強くなって暑い。この先の「本谷(ほんたに)橋」で昼食を摂る。梓川に流れ込む支流には冷たく清冽な水が流れている。コンビニで買ったのり弁をつまみにビール。天気はいいし、雪解け水は冷たくて気持ちいい。ここが登山者の絶好の休憩場所になっているのも頷ける。 休憩終わって、再び登る。暑い。石段状になった登りは、地元の宝満山の石段を思い出させる。落石注意のトラバースは、上を見ると石がびっしり詰まっていて、地震や大雨が降ったら落ちてくるのではないか。恐る恐るかつ急いで渡った。  再び急登。先輩の調子は問題なさそうだ。かなりトレーニングして備えていて、本番できっちり登れている。すごい68歳だ、と思っていたら、それよりもかなり年かさの老夫婦に追いついた。77歳と75歳。すごい人はまだ上にいる。涸沢までだそうだが、あそこまで登れるのはすごいなあ。  途中で水が流れているところで小休止して、小屋まであと2合というところか。樹林帯がなくなったので、日差しがもろに当たってますます暑くなってきた。途中でザイテンクラート、雪渓、稜線の片隅に二泊目の穂高岳山荘が見えた。「明日はあそこに行くんだなあ」と疲れているが、「早くおいで」と言われているようで元気をもらう。しかし、明日登れても明後日崩れれば、急な下りの岩場は危険だろう。明日の朝判断するしかない。 ヒュッテと小屋の分岐に到着して小休憩。もうすぐかと思ったら、また登り。ようやく小屋が見えてきた。すでにテントがかなり設営されている。3時過ぎにようやく小屋に到着した。出発して8時間弱。第一関門を突破できた。  5時の夕食まで時間があったので、テラスでビールを呷った。うまいなあ!いつもビールの一口はうまいと思うが、このシチュエーションでのビールは最高だ。気が付けばそのまま宴会に突入していた。持って行ったアイリッシュウィスキー「ブッシュミルズ」を雪解け水で割ると、これもうまい。気が付けば全部飲み干していた。 そして夕食。こんな山でこれだけの料理が出てくるとは、驚いた。下界で滅多にやらないご飯のお代わりもやってしまった。そして、7時ごろに就寝。 3日目(涸沢小屋~奥穂高岳) 朝4時前に目が覚めた。まだ、誰も起きていないので、外に出て一服しながら人が起き出すのを待った。 ようやく、人が起き出したので、オッサンもサブザックに荷物を詰め始めた。無料の貸し出しもあったが、今使っている古いザックがへたってきたので普段使いに用意した。使わない時はコンパクトにまとまりながら、軽量でチェストベルトも付いていて、18リットルとそこそこ入る。入れたのは雨具、行動食、着替え少々と水。水は上にもあるので山荘までの分だから1リットルもあれば足りるだろう。  朝食は早出なので弁当にしてもらい、穂高岳山荘で食べることにしている。外で待っているとメンバー二人が出てきて、ショッキングなことを言われた。 「いびき」だ。実はオッサンのいびきは前科を持っている。ずいぶん前に高校の同期生たちと山のバンガローでバーベキュ―やって泊まった時にオッサンのいびきに堪らず逃げ出した同期生がかなりいた。また、今年祖母に相棒で九合目小屋に泊まった時も翌朝相棒からかなり苦情を言われた。今回はかなり多くの人が泊っているので、事前に色々と対策を講じた。 口にテープを貼って、喉を滑らかにするスプレーを買って、酒を飲んだ時に試してみた。ICレコーダーで自分のいびきの状態を収録し、翌日聴いてみると…ひどい…これではダメなのか。何とかしないと、と思っているうちに本番を迎えてしまった。 相棒に訊くと、ずっとかき放しで、何度も体を揺すってくれたらしい。仕舞には大きなおならもしたらしく、全く面目ない。皆さん、ごめんなさい。 少し落ち込んだが、5時半前にとにかく出発。出発前に「モルゲンロート」を撮影する。赤ではなかったが、きれいだ。小屋脇の登山口から出発。登りながら、「俺は山小屋に泊まるのは無理なのかなあ。テント泊に切り替えないといけないのかあ」などと考えながら登る。すると、ふと花の香りが。斜面に咲いている花の香なのか。気持ちがすっきりしてきた。 相棒の「酒の量を減らせば」というアドバイスを守ることにして登りに気持ちを集中させる。難所のザイテンクラートの取り付きに着いた。ここは滑落事故が多く、今年も一人亡くなっているので、少々緊張する。小屋で借りたヘルメットを被っているので落石には効果的だろうが、滑落したら意味がない。 すると、先輩のペースががくんと落ちてきた。先頭の相棒はかなり先を登っている。オッサン3人組の編成は、トップが相棒で先輩を挟んでオッサンが殿(しんがり)の縦列。オッサンが先輩から参加を頼まれたので、後ろを守るのは責務だが、先輩のペースががくんと落ちると相棒からかなり離されてしまう。道迷いする道ではないでの、相棒に付き合ってもらう必要はないの。オッサンはその遅いペースに体力は消耗しないが、精神的にはちとつらい。ぐっと足を挙げてそのままという時に何度も止まってしまうので、どうも具合が悪い。事前に何度か登ってそのペースは分かっているはずなのだが、夢にまで見た穂高で気が逸っているのだろう。まだ、人間が出来ていないなあ。 後ろから追いついて来た人たちをやり過ごすが、難所中の難所にさしかかったので、それも出来ない。急かすわけにもいかず、後ろを気にしながら先輩には集中してもらう。すると、下山者に譲るかどうか止まっていたら、避けて通ろうとした下山者が滑った!下は崖。危ういところだった。気が付けば後ろに若い女性たちが3人。「先に行っていいよ」と言うが、「後ろから付いていかせてください」という。う~ん、そう言うけれど、かなり遅いよと内心思いながら、引率状態になっていつの間にか先頭の先輩が校長先生、オッサンが教頭先生みたいな立場になってしまった。 難所をクリアしてしばらくして先輩がついに立ち止まった。少しスペースが出来たので、彼女たちに先を行くように促すと、まだいいですと言うので、「いや、時間かかるから先に行った方がいい」と促した。 先輩に体調を訊くと、どうも薄い空気の影響が出始めているようだ。それまでは九重の連山の1800メートル弱しか経験がないオッサンも出かける前には初めての高度なので順応できるか少し心配だったが、全く問題ない。息が上がって、頭が少し痛いという。それでも根性で一歩一歩登っていく先輩の涙ぐましい努力に敬意を払いながら後ろについていく。 ようやく山荘が見えた。しかし、やはりペースは上がらない。ゆっくり登って2時間半弱で到着。彼女たちがいたので声をかけた。すると、何と九州から来ているという医大生だった。一人が長野出身なので来られたという。普段は九重に登っているそうなので、いつか会えるかもしれない。これから山頂にアタックすると言うので「気を付けて」と声をかけた。 さて、お待ちかねの朝食。いつも6時半に食べているので、すでに空腹だった。弁当は酢のきいたお稲荷と煮物。酢が元気を取り戻してくれる。よく考えられた山の元気食だ。あっという間に平らげて、さていいよいよ目的の奥穂高岳に挑戦する。あいにくガスが出ているが、風があるので吹き飛ばされた合間に絶景を見られるかもしれない。そう期待しながら最初の急な登りに取り付いた。先輩は梯子を二つ難なくクリア。先輩が「これは怖いなあ」と言いながら格闘したのが鎖はあるが岩をぐるりとトラバースする所だ。心配したがここもクリア、オッサンも後に続くが、そこまで怖くない。人にもよるのだろう。 その後も立ち止まっては登るペースの後について、徐々に高度を増す。小屋からは200くらい高度だから、普段登っている斜度。しかし、確かに下を見るとなかなかの高度感だ。オッサンはこういうのは嫌いではない。 小学生くらいの親子連れとすれ違う。すごいなあ。こんなところまで連れて来られるなんて。そう言えば、今朝も涸沢小屋で親子連れに会った。小さい頃から山に連れて行くのはいいが、その反動で山が嫌いになって成長してついてこなくなる恐れもある。実際、オッサンの息子は高校2年の終わりに無理やり熊本県球磨郡の「白髪岳」に引っ張り出して以来、誘うが毎回断られ、今年ようやく宝満に付き合わせたが、もう誘っても登らないだろう。お父さんとこの子たちがいつまでも一緒に登れればいいなあと思った次第。   ようやく頂上が見えてきた。相棒はすでに到着しているようだ。オッサンのミッションの一つである先輩を奥穂高の頂に立たせるまであと一息。もう危ないところはなさそうだ。きつそうな先輩に断りを入れて、残りわずかな距離だが独りで歩きたかった。すぐに到着。頂上から下りて来た彼女たちがガスが晴れてジャンダルムも見えたと喜んでいたが、その通り、ガスが時折晴れてジャンダルムがくっきりと見えた。  ジャンダルム (Gendarme) は、奥穂高岳の西南西にあるドーム型の岩稜。 標高は3,163 m。 名称はスイス・アルプス山脈のアイガーにある垂直の絶壁(高さ約200 m)の通称に由来するが、本来はフランス語で国家憲兵のことだそうだ。この頂に登る強者は絶えないが、今日のこのガスの中ではと思って目を凝らすと、頂上に人がいた。大したものだ。  頂上にある穂高神社の「嶺宮」に賽銭を入れて無事の登頂の感謝と下山の無事を祈る。ようやくここにたどり着けた。ありがたいことだ。頂上に立ったオッサンを相棒に撮ってもらった。普段は自分の写真は撮らないが、今回は特別だ。 下りて到着した先輩と記念撮影。先輩も感無量の面持ちだ。相棒はしきりに感嘆の声をあげている。   頂上真下の広いスペースで休憩。ガスで槍ヶ岳などの景色は望めないが、それでも過ごしやすい。しばらく、感慨にふけった。オプションの前穂高行きはこの感動で消し飛んで、下りることになった。  下山は、先輩も足取りはしっかりしていて、難なく小屋まで下りた。怖さの度合いは、宮崎の大崩(おおくえ)山の坊主尾根下りの方が怖いかもしれない。  小屋のテラスでビールと担々麺。うまいなあ~。食べ終わって、夕食までまだかなり時間があるので二人は早速昼寝。オッサンはもったいないので、小屋の世棚にある山岳漫画「岳」を借りて読むことにした。この漫画に出てくる山荘の小屋番のモデルで遭難者の救助活動に携わった宮田八郎さん(享年52)は、3年前にシーカヤックで遭難死した。彼が撮り貯めた穂高の映像と宮田さん自身の特集番組を観て感動し、一度は来てみたいと思っていたのが、当初は涸沢をベースキャンプにして奥穂高に登る予定だったが、後から書くが偶然の巡りあわせで泊まることになった。  実名ではないが、宮田さんと分かる人物の章を見付けた。かなり魅力的な人のようで、ユーモラスに描かれていた。会えていたらなあと栓無き事を。  時折一服しに外に出るが正面はガスで景色は見えない。試しに裏側に回ると、ガスは無く絶景が広がっていた。ジャンダルムもはっきり望める。目を転じるとなかなかの山容。何という山だろうと思っていると、笠ヶ岳だと教えてもらった。  ここで一服していると男性二人組がやってきた。さっきオッサンの寝床の向かい側の人たちではないか…恐る恐る「あの~私、イビキをかいて迷惑かけるかも」と声をかけると、大阪弁で自分もかくので早いもん勝ちですとカラカラと笑われた。大阪人は逞しい。しばらく、山の話で盛り上がった。あ~俺一人じゃなかったんだと妙に安心して気持ちが少しだけ軽くなった。  夕食前に二人が起きて来たので、食事前にビールであらためて乾杯。相棒の監視下、薄い水割りをちびちびやる。何とか飯の時間までもてせた。飯を食えば酒はそんなに入らない。すると、ものすごい雨が降り出した。予報では雨はやみそうだが下りが心配だ。とにかく飯だ。今夜もおいしくてお代わりしたのは言うまでもない。  食後。談話室で話しているとテレビが点いた。オリンピックのレスリングの敗者復活戦。ああ、そうだった。下界ではオリンピックもそろそろ終わりだなあと思っていたら、寝て元気を取り戻した先輩が「野球はどうなった?」と言うのでネットで確認すると七時からテレビ中継。フロントにチャンネル変えられるか訊くと、原則は天気予報の番組に限るとのことでしばらくしてスイッチが切られた。 何もすることがないので、また談笑して残りのウィスキーを三人で飲む。オッサンは、ここは我慢と薄めの水割り一杯で何とかしのいだ。いよいよ寝ようということで8時に寝床に入ると、ものすごいいびき。向かいの彼のいびきだ。ああ、俺もあれくらいの大イビキをかいているんだろうなと気を引き締めて、テープを二枚貼った。ほとんど酔っていないので、寝つきが悪い。すると30分くらいしてぴたりといびきが止まった…被害に遭った相棒に言わせると、オッサンのはほぼ一晩中だったようだから、ホントに迷惑かけたんだなと再認識させられた。 4日目(穂高岳山荘~上高地バスターミナル) うつらうつらしながらトイレで目が覚めると3時半。4時起床5時出発なので二度寝は止めようと、床を這い出してトイレを済ませて、外に出た。空を見上げると満天の星。晴れている。今日の下山も好天に恵まれそうだ。 4時。二人が起きてきたので準備。オッサンのいびきは大丈夫だったようでホッとする。やはり、酒の飲み過ぎが原因のようだ。今後の小屋泊まりは節酒だな。すると、先輩がフロントに何か言っている。名札を付けていたのに靴が無いという。ずぼらして付けていなかったオッサンも相棒の靴はあるのに…間違った人は気づかなかったんだろうか?不思議だ。とにかく同じメーカー同じサイズの靴をレンタルしてもらい、いよいよ下山開始。少し肌寒いが風もなく、今日もいいコンディションだ。あっという間の3日間だった。ほんのりとした名残惜しさを噛み締めながら下る。 しばらくすると陸続とした登山者と出合う。若い人が多い。今日は、山の日か。部活か何かなんだろう。「おはよう。気を付けて」と声をかけながら下った。 涸沢小屋に到着して、借りたヘルメットを返して預けたザックを受け取り、朝食。穂高岳山荘名物の朴葉(ほうば)ずしに鮎の甘露煮、ささみの天ぷらと豪勢だ。昨日の涸沢小屋の稲荷と同じ酢飯なので朝から元気が出る。量も多い。大食漢のオッサンでもフゥーと言うくらい。二人は残したがオッサンは何とか完食。鮎の甘露煮もうまかった。 サブザックの荷物をメーンのザックに詰め替えて再び下山開始。難所のザイテンクラートを下ったので、後は何とか無事にいけるだろう。昨日、昼食休憩して本谷橋たもとで中休憩して、横尾までの最後の下りを下りた。 横尾から平坦な道を上高地まで戻る。徳沢で昼食休憩して明神をスルーして一気にバスターミナルまで歩くことにした。次第に下る団体さんが多くなった。相棒がスピードを上げる。先輩とオッサンもスピードを上げて団体さんを追い抜くが、登山者に加えて観光客もかなり歩いてきているので、神経使いながら黙々と歩く。 相棒とバスなど帰路の打ち合わせをしたいので、先輩を置いてぐんとスピードを上げて追いつく。夜8時の飛行機は今のところ台風の影響で「調査中」になっている。今夜、九州に台風が上陸するからだ。できるだけ早く空港について状況を確認したい。そのままバスターミナルまで一気に歩いた。1時半前に到着してダイヤを見ると、1時45分の便があったので、そのまま乗り込み、さわんどバスターミナルに到着。 滅多にみやげを買わないオッサンだが、今回だけは協力してくれた妻に何か買おうと売店に入った。そばが好きなので信州そばを買う。駐車場で3日間着放しのシャツとズボンを着替えて、一路小牧空港を目指した。約250キロ。前半は相棒が運転し、途中のPAからオッサンが空港まで運転、6時くらいに到着した。 この後、名古屋、奈良と転戦して福岡に帰る先輩と別れ、カウンターへ。まだ、調査中だそうで、福岡空港に着陸できなかったら小牧から公共交通機関で二時間近く離れている中部国際空港に引き戻すという。翌日の便には乗れるが、できれば今日中に戻りたい。まあ、自然相手なのでなるしかないか。 空港の食事処でプチ宴会。福岡は酒類提供禁止になったが愛知は時間制限だけで飲めるのはラッキー。鶏のから揚げ、枝豆をあての生ビール、地酒、ハイボールを飲んで、〆に味噌カツ定食を平らげて、ちょうどいい時間になった。予定通り出発するようだ。後は福岡空港の状況次第。 少し酔っていたので機中ではほとんど寝ていた。気が付けば着陸態勢に入っている。風でかなり揺れたが無事に着陸、一安心。相棒と地下鉄で自宅がある大濠公園駅で降りた。外は暴風だろうから、ここで初めての出番となったザックカバーをかけて、最後の登り(笑)の地下鉄の階段を登って外に出た。むんとする。ああ、九州に帰って来たなと実感する。相棒と別れて自宅にたどり着いたのは10時過ぎ。妻は起きて待っていた。ネットで飛行機の軌道を見ていたようで、着陸した時に「無事に帰ってよかったね」というメッセージが届いていた。 あっという間の奥穂高岳挑戦。終わってみれば、いろんな偶然がオッサンたちを奥穂高岳に運んでくれた。もちろん色々反省点もある。  (感謝すべき事など)  まずは、前泊も含めて4日間、奇跡的に天候がよかったことが挙げられる。南シナ海と太平洋で台風が発生して、どちらかの台風が少しでも進路を変えたり、速度を上げていたら、途中で断念する可能性は十分にあった。天に感謝すると共に、山の神様にも深く感謝したい。  もう一つは、日程の妙だ。実は、当初は1日遅れの6日から松本市に入って山に登る予定だった。ところが、一カ月前の予約開始日の朝8時からにオッサンが涸沢小屋に電話すると、なかなか繋がらない。何度かけてもかからず、繋がったのは1時間少し経ってからだった。すでに満室。慌ててヒュッテに電話しても満室…困った。ネットで見ると、穂高岳山荘はネットで予約することになっていることに気づいて、空き室状況を確認すると、空いていたので取り急ぎ予約した。  他の二人に相談する。上高地から重たいザックを背負って一気に穂高岳山荘まで登るのは無理だということになって、日程を前倒しして、翌朝、前日の反省を生かして、小屋とヒュッテに繰り返し電話した。百回はかけたのではないだろうか。そして30分ほど経って小屋に繋がった。「空いてますか?」と少々緊張しながら尋ねると,OK。ようやく宿を確保できた。松本行のパックの変更で6000円ほど追加料金を払わなければならないが、それは仕方がない。  この「一日の差」がオッサンたちを無事に登らせることになった。最終日になるはずだった9日は天気が悪かったのだ。濡れた岩場を下りるのは神経使うし、レインウェア着て歩くと疲労が増す。天の配剤、災い転じてとはこのことを言うのだろうか。 (反省すべき事など) オッサンの最大の反省点は、やはりイビキだろう。ただし、二日目に酒を抑えたらかかなかったので、今後山小屋に泊まる時は飲み過ぎないようにしよう。 もう一点は、気疲れ。68歳の先輩から参加を希望されて、相棒に快諾してもらった。その後、先輩と3月に初めての山行に選んだのは、約15キロのロングコース、九重連山長者原大船山だった。すでにヤマップに書いたが、先輩が途中で膝痛を起こし危うく遭難しそうになった。その後、トレーニングに励んですっかり登れるようになった先輩の努力には敬意を表したい。ただ、やはりペースは私の約8割程度なので、ここでも書いたように最後はストレスが少し溜まり、何となくギクシャクした感じになったこともある。 人が2人集まれば社会になるといわれる。相棒とは一緒に何度も山に登っていて、互いにその気質は分かっているが、そこに先輩が入ると微妙な空気が生まれる。山の中で3日間も過ごせば、互いに何か違和感だったりストレスを感じるのは当然だと思う。どちらかが我慢するといずれはそのストレスが表出するのも仕方がない。なので、教訓として、3人ではなく4人でパーティを組むべきだと思った。そうすれば、万事丸く収まるのではないか。これは実感だ。 今回の山行は、いろんなことを教えてもらった。奥穂高岳山頂から見えた光景はもちろん一生の宝物になった。 最後に、ずぼらなオッサンを補って余りある計画を作成してくれた相棒、68歳でしっかりと体を作ってもらい、また、年下の生意気なオッサンに付き合ってもらった先輩。そして、オッサンの挑戦にエールをいただいた方々に感謝したい。おっと、忘れていけないのは、いつも迷惑かけているにもかかわらず気持ちよく送り出してくれた妻に感謝したい。 令和3年の山行はこれで26回目。ピーク数は44(重複なし) さあて、次はどの山を目指そうか…  

現代人の「脳疲労」が万病の元― 生活習慣病、認知症、がんも不治の病ではない(後編)

 

 

藤野武彦氏 医学博士(九州大学名誉教授)

  

 前編では生活習慣病認知症、がんなど万病の元が「脳疲労」にあることを解説、その治療・予防法である「BOOCS」法を説明してもらった。後編では、その「脳疲労」がプラズマローゲンという体内物質の減少であることやプラズマローゲンを使った治療の実績などを挙げ、現代の医療体制に光をもたらす。

 

 

 

 

プラズマローゲンとは

 

 

―BOOCS法に加えて、「脳疲労」の治療・予防に顕著な効果がある物質「プラズマローゲン」を抽出することに成功されたそうですね。

藤野 私が主宰しているレオロジー機能食品研究所(馬渡志郎所長)が様々な生物からプラズマローゲンを抽出する方法を発見し、現在はホタテ貝から抽出するプラズマローゲンが一番有効であることが分かっています。二〇〇七年には同研究所でプラズマローゲンの血中濃度の測定方法も開発し、「脳疲労」の人はプラズマローゲンが減少していることが分かってきました。

―そもそもプラズマローゲンとは?

藤野 哺乳類をはじめ動物の体内に含まれるリン脂質の一種で、人体のリン脂質の約一八%を占めています。とくに脳神経細胞、心筋、骨格筋、白血球、精子などに多く含まれます。

―このプラズマローゲンは人体でどのような機能を持っているのですか?

藤野 プラズマローゲンの機能の中で一番有名なのが抗酸化機能で、細胞が酸化ストレスを受けたときに最大の防衛機能を発揮します。市販されている抗酸化サプリは脳にはほとんど届きませんが、プラズマローゲンは元々脳で作られているものですから、口から摂取しても血液・脳関門を通過して脳に入る事ができます。その結果、強い抗酸化作用を発揮して、ストレスから脳神経細胞を守ります。その他にもプラズマローゲンは、神経炎症の火消役、神経細胞の新生、アミロイドβタンパク(認知症の原因物質の一つ)の抑制、コレステロール低下など生命の根源に役立つ働きを数多く担っています。

―なぜプラズマローゲンが不足すると病気にかかるのですか?

藤野 プラズマローゲンが減少すると、脳にある何百億という神経細胞で神経炎症(火事のような状態)が発生するという事が、最近の我々の研究で分かってきました。正常な状態では、神経細胞から樹状突起や軸索が伸び出してネットワークを形成しています。神経炎症が起こると、この神経ネットワークが切れてしまう事は容易に想像されます。その結果、脳が働かなくなるのです。前号で述べましたように「脳疲労」とは、大脳の知的中枢である「新皮質」と本能と情動の中枢である「旧皮質(辺縁系)」の二つの司令塔の関係が破綻した状態ですが、同時に自律神経中枢との関係も異常になっています。そして「脳疲労」からメタボリック症候群、うつ病認知症などの多くの病気が起こるのですが、実はプラズマローゲンが減少すると「脳疲労」になる事が明らかになってきました。つまり、プラズマローゲン不足は万病の元と言っても過言ではありません。

―プラズマローゲンが不足する原因は?

藤野 我々の細胞は活動する(言い換えれば酸素を使う)とすぐ酸化されるのですが、そのままだと活動によって生じた活性酸素によって細胞が障害されてしまいます。この酸化を防ぎ、身をもって細胞を守るのがプラズマローゲンと考えてよいでしょう。従って、脳が活動すればする程、プラズマローゲンが消費される事になりますが、種々の過剰なストレスを受けている現代人はプラズマローゲンの生産が消費に追いつかなくなって、不足状態(脳疲労)になるのです。

 

 

アルツハイマー病が改善

 

 

 

―ところで、アルツハイマー病などの認知症の介護問題は深刻です。

藤野 アルツハイマー病は全世界で五千万人、二〇三〇年には八千二百万人に増えると予測されています。日本のアルツハイマー病は五百万人いると言われていますが、二〇二五年には七百万人に増えると推定されています。この他にも物忘れをするなどの軽度認知障害の人が現在、五百万人います。深刻なのは、若い人にもそうした障害を持つ人がいることです。「脳疲労」を起こすと、何らかの認知障害が起きます。「脳疲労」による認知異常が会社の中でも蔓延していると考えるべきで、それが固定してきたのが若年性アルツハイマー病で、急増しています。

 アルツハイマー病はアミロイドβタンパクの沈着によって発病すると言われていましたが、今世界の最先端では、アルツハイマー病は神経炎症から起こるという考えにシフトしています。実際に私たちの動物実験で、プラズマローゲンが神経炎症を防ぎ、その結果として、アミロイドβタンパクの沈着を防ぐことが明らかになりました。これは、プラズマローゲンがアルツハイマー病予防に有効であることの証左です。

―治療でも実績をあげられていますね。

藤野 無作為化比較対照二重盲試験を行って、プラズマローゲンのアルツハイマー病に対する有効性を確認しました。これは、一方はプラズマローゲンを含んだ食品を、もう一方はプラズマローゲンを含んでいない食品(プラセボ)を飲んでもらう方法です。どちらを飲んだかは本人も医師も分かりません。その結果、軽症のアルツハイマー病では、女性はプラセボに比べてプラズマローゲンを飲んだ方が明らかに改善しました。同様に、七十七歳以下の男女の試験でもプラズマローゲンを飲んだ方が、記憶の改善が見られました。プラセボを飲んだ人はプラズマローゲンの血中濃度が下がり、プラズマローゲンを飲んだ人はプラズマローゲンの血中濃度が上がりました。

 また、軽度認知障害を対象に試験したところ、ここはどこかという「場所の見当識」の改善が見られました。今日は何日、何曜かという「時間の見当識」も、プラセボを飲んだ人はどんどん悪化していきましたが、プラズマローゲンを飲んでいる人は維持する事ができました。

―中等度、重度のアルツハイマー病はどうですか?

藤野 中等度以上の患者さんでは思い込み効果であるプラセボ効果は元々ない事が分かっていましたから、オープン試験法(実薬のみを投与)を採用しました。中等度の患者さんには、時間や場所が分からない、言葉を失った人もたくさんいますが、プラズマローゲン内服三ヵ月後に、認知機能の改善五二%、不変約四〇%、悪化約十%でした。重度の患者さんも二五%が改善しました。

 記憶を改善するだけでなく、周辺症状にも効果が見られ、介護者の方に非常に喜ばれました。例えば、「病室に虫がいる」、「子供が来ている」などの幻覚を見る認知症の患者さんは多く、こうした幻覚などの症状には著明な効果があることが分かりました。また、抑うつ状態の三分の二が改善し、睡眠も良くなりました。現在、若いうつ病の人にも使っていますが、著しい改善例が見られます。認知症に有効な薬が全くない現状では、プラズマローゲンが一筋の光となるかもしれません。

認知症を介護する家族も大変のようです。

藤野 プラズマローゲンを投与すると、中等度・重度の患者さんの九〇%以上に笑いが出てきました。中には人を笑わせるまでに回復する人もいました。さらに「迷惑かけるね」「ありがとう」と周りの方や家族へ気遣いの言葉をかけられるようになり、それを見た家族が涙を流される場面もよく見られました。

 この事は高次脳機能が著明に改善する事を示すもので、プラズマローゲンは認知症に役立つというだけではなく、現代人が抱える脳疲労の予防、改善に役立つと言えるでしょう。これらの研究結果は、国際学術誌の出版社『SPRINGER NATURE』発行のeBOOKに採択され、間もなく全世界に公開される事になりました。また、この論文では、これまでのアメリカ発アルツハイマー病発症仮説では認知症の予防と治療は困難である事を明らかにすると共に、それに代わる新たな認知症発症仮説も提唱しています。

―それから日本人の食生活にも問題はないのでしょうか?

藤野 基本的にアメリカ的食生活の見直しが必要です。中でも食物に入っている農薬が危険因子になっていると思います。今後、農薬が脳に与える影響を早急に検討される必要があります。

 

 

 

現代医学の落とし穴

 

 

―現在の認知症の治療は、投薬によるものが多いようですね。

藤野 多くの人に認知症の薬がたくさん使われています。これらは症状を改善するための薬ではなく悪化を少し遅らせるためのものです。現在使われている認知症の薬は四種類ありますが、最近、フランス政府がまったく効かないどころか害があるとして保険適用を打ち切りました。現在、これらの薬を主に使っているのは日本とアメリカで、日本では年間に数千億円が使われており、無効な薬が医療費を圧迫しています。

―BOOCS法はこれまでの医学の常識を覆すことになります。

藤野 今の医学は、内科、外科、精神科、心療内科など専門・細分化されています。それぞれの専門分野は門戸が狭く、治療の範囲も狭い。一人ひとり異なる患者さんに合わせたオーダーメイドの医療が求められる現代において、部分だけを診ていては本当の医療は提供できません。より大局的視点を持った医療を目指すべきなのです。

―対症療法と根本治療を同時にできる医療が求められますね。

藤野 医学という学問と医療というサービスの関係はバラバラの状態で、患者本位になっていません。木を見て森を見ていない今の医療では限界があり、医学と医療に統合性が求められているのです。

―現代の医療体制は、対症療法に偏っていて根本治療になっていないと感じています。

藤野 医療が今のままだと、そうならざるを得ないでしょうね。より包括的、全体的な医療が求められます。

―プラズマローゲンはまだ保険適用されていませんね。

藤野 今まで保険適用に向けて努力してきましたが、まだ実現できていません。プラズマローゲンが脳の中にある自然の物質なので、物質特許は取得できず、製法特許しか取れないのがその大きな理由です。

日本では薬が保険適用になるまでには、開発から十年、二百億円もかかります。世界の大手製薬会社二社に提案して興味を持ってもらったのですが、製法特許ではやはりリスクが高いということで見合わされました。しかし最近、体内でプラズマローゲンと同じ働きをするプラズマローゲン誘導体を発見し、現在、物質特許を申請していますので、医薬品として認可される可能性はあります。それでもアメリカで五年、日本では十年かかります。そこで早く皆様のお役に立てるよう、プラズマローゲンのサプリメントの開発に至りました。

―BOOCS法が一般に普及すれば、これまでの医療の常識が大きく変わりますね。

藤野 随分変わるでしょうね。BOOCS法を行えば、生活習慣病、がん、認知症などの国民病が予防できるので医療費が大きく抑制されます。治療も対症療法、原因療法の両方できますから、さらに医療費は抑えられますし、国民の健康も大きく増進します。

―なぜ、普及しづらいのでしょうか?

藤野 日本の医学が「パックス・アメリカーナ」の下にいる限りは、難しいと思います。つまり、アメリカがイエスと言わなければ、日本では認められないのが現実です。

大学在任中の私の専門は心臓病なのですが、世界で初めてある心臓病の超音波診断法を発見し、アメリカの心臓病のトップジャーナルに論文を送りましたが、いろいろな口実を付けてその論文を全部拒否されました。ただ幸い恩師の計らいで、『日本学士院紀要』(英文誌)に投稿し採択されました。ところがその直後、私の論文の内容を三つに分けた論文三編が、私の論文を拒否したトップジャーナルに掲載されました。これは巧妙な剽窃です。中立であるはずのサイエンスも権威と権力に左右されているのが現実です。

―そういう意味では、日本の医療体制を変えるには、まず先にアメリカに認めさせるしかないのですね。

藤野 そうです。だから、アメリカを中心とする海外で論文を発表し続けているのです。先ほど言いました『SPRINGER NATURE』eBOOKで認められ採択されたことは、大きな一歩になると思います。

(フォーNET 2021年1月号)

 

 

 

 

藤野氏プロフィール

1938年福岡県生まれ。九州大学名誉教授、医学博士、内科医・循環器専門医、医療法人社団ブックス理事長、レオロジー機能食品研究所代表取締役、一般社団法人プラズマローゲン研究会臨床研究部代表、一般社団法人BOOCSサイエンス代表理事九州大学医学部卒業後、同大第一内科講師、同大健康科学センター教授を経て現職。29年前に「脳疲労」概念とその具体的治療法であるBOOCS理論を提唱。肥満や糖尿病などの生活習慣病うつ状態に対する医学的有用性を実証してきた。また近年、「脳疲労」と脳内プラズマローゲンとの関係に着目し、重症「脳疲労」と考えられる認知症に対する有用性を実証しつつある。著書は『認知症はもう不治の病ではない』(ブックマン社)、『BOOCSダイエット』(朝日文庫)、『脳の疲れをとれば、病気は治る!“脳疲労時代”の健康革命』(PHP文庫)など多数。

 

 

参考資料:『認知症はもう不治の病ではない』(ブックマン社)、『認知症も、がんも、「不治の病」ではない!最新医学でここまでわかった!』(ブックマン社)、BOOCS公式サイトなど。

 

 

インタビュー 現代人の「脳疲労」が万病の元─ 生活習慣病、認知症、がんも不治の病ではない(前編)

現代人の「脳疲労」が万病の元─

生活習慣病認知症、がんも不治の病ではない(前編)

 

藤野武彦氏 医学博士(九州大学名誉教授)

 

メタボリック症候群―内臓脂肪型の肥満に加えて、高血圧、高脂血症、糖尿病の三つのうち二つの危険因子を持っている生活習慣病のことで、予備軍も入れると約二千万人いるといわれている。この原因は食事や運動不足、ストレス、喫煙や過度の飲酒だと言われてきたが、実は脳の疲労、「脳疲労」にあることを藤野教授は長期にわたる研究で実証してきた。

 

 

 

ジャパン・パラドックス

 

―早速、「脳疲労」自己診断をチェックしてみました。十一の項目のうち、一つを除いて「4(まったくない)」だったのですが、チェックシート1の「夜中に目が覚めたり、用もないのに朝早く目が覚めることがありますか?」という項目が「1(ほぼ毎日)」でした。私の場合、夜中にトイレにどうしても起きるのですが…

藤野 年齢(六十歳)によるものでしょうね。前立腺肥大による「中途覚醒」ではないでしょうか。これが若い人だと問題ですが…目が覚めてトイレを済ませたらすぐ眠れますか?

―はい。

藤野 それだったら大丈夫です。「脳疲労」の人は、トイレに行った後に眠れません。

生活習慣病、がん、うつ病認知症などの多くの病気が「脳疲労」から起こることを究明されましたね。

藤野 「脳疲労」は一九九一年に私が提唱した新しい病気の理論ですが、少しその背景をお話しします。

 ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、世界の一流医学誌に掲載された「フィンランドパラドックス」と呼ばれる有名な研究結果があります。これは、三十年ほど前にフィンランドで実施された大規模な長期間の疫学調査で、驚くべき結果が出ました。調査対象者は、今で言うメタボリック症候群で、糖尿病、肥満、高コレステロール高血糖、高血圧の五項目の心臓の動脈硬化を起こす危険因子を同じ条件で持つ四十歳から五十五歳の男性千二百人を、アメリカ方式の食事制限と運動療法で治療した群と、何もせず放置した群の二つに分けて十年間観察しました。

 結果は予想に反して、心臓血管死数は治療群の方が放置群の二・四倍に増えました。他の原因も含めた総死亡数でも介入した群が放置した群の一・七倍に増えました。予想と真逆の結果、つまりパラドックスになったのです。このパラドックスフィンランドだけではなく、現在の日本でも起きています。

―盛んにメタボをなくそうと頑張っている人たちが多いですよね。

藤野 厚生労働省厚労省)は、二十一世紀に入って「健康日本21」を掲げて、国民に対してカロリー制限と運動を促してきました。肥満は、メタボリック症候群の中で一番多く、がんも含めた病気による死亡の発端になります。ところが、年代別に肥満の割合を比較すると、リタイア後の六十代以降の年代の体重は漸減傾向ですが、二十代では昭和六十年は一五%以下だったものが平成二十七年には二五%超、働く世代の四十代は昭和六十年は二一%だったものが平成二十七年には三五%超と増えています。しかも年代が増すほど体重も増えています。糖尿病も同様に毎年増えています。つまり、厚労省が努力すればするほど働く世代の肥満が増えているというパラドックスに陥っています。

―ジャパン・パラドックスとも言うべきでしょうか…頑張ってダイエットしている人にとってショックですね。

藤野 メタボリック症候群治療の先端を走っているアメリカとしては認めたくない事実でしたが、死亡数まで証拠を突きつけられたら仕方なかったのでしょう。アメリカの一流医学雑誌にフィンランドの三つの論文が掲載されました。英国の雑誌にも掲載されました。しかし、厚労省は気付いていないのか、あるいはフィンランドでの特殊なケースだろうと問題視しなかったのか、アメリカの手法を全国に広めて先ほどの結果になったわけです。逆に厚労省は結果がうまくいっていないので「もっと厳しくやらなければならない」と言っている始末です。このままではますます酷くなる一方です。

 

「脳内ファミリー」の不和

 

―メタボリック症候群をはじめ様々な病気に「脳疲労」が深く関係しているということをずっと提唱されていますね。

藤野 脳には大脳の知的中枢である「新皮質」と本能と情動の中枢である「旧皮質(辺縁系)」の二つの司令塔があります。仮に大脳新皮質を父親、辺縁系を母親、そして「間脳」と呼ばれる首から下の様々な臓器を調整する自律神経中枢を子供だと仮定します。ちなみに、私はこの関係を脳内ファミリーと呼んでいます。夫婦のような大脳新皮質大脳辺縁系が仲良く働いている時は、子供である間脳は正常ですが、夫婦関係が悪くなると、子供は困ってしまいます。実際の人間社会でも、両親の仲が悪いと、子供はいじめっ子になったり、いじめられっ子になったりします。

 例えば、父親である大脳新皮質が「多少熱があっても学校に行かせなさい」と、母親である大脳辺縁系に一方的に伝えると、「休ませたい」と本能的に思っている母親は黙り込んでしまいます。つまり、夫婦間の双方向の関係が一方的な関係になってギクシャクして子供である自律神経中枢に深刻な影響を及ぼします。子供である自立神経中枢が異常になって初めて病気として現れてきます。つまり、脳内ファミリーの不和が「脳疲労」なのです。

 情報化社会の現代では、脳の中でも圧倒的に大脳新皮質が優位で、大脳辺縁系に対して一方的関係になっている人が非常に多くなっています。そうなると、自律神経中枢が異常になってしまって、「多く食べる」「運動をしない」「野菜が嫌い」などの首から下の異常行動が起こります。

―「脳疲労」を引き起こす原因は、情報過多、つまりストレスでしょうか?

藤野 人間関係のストレスや精神的ストレスなどストレスを悪いものと思われていますが、実はとてもよいことでもストレスになります。つまり、ストレスの量が問題なのです。例えば、ゴルフで最後のパッティングでホールにボールが入った瞬間、心筋梗塞で亡くなる人がいます。勝ちという本当は本人にとっていい情報なのに亡くなってしまう。逆に負けた人は平気です。これは大量の情報(ストレス)が急速に脳に流れ込んだ結果です。つまり、情報過多が「脳疲労」に繋がるのです。

―ストレスというとすべて悪いというイメージです。

藤野 ストレスという言葉はカナダの生理学者が唱えたのですが、現在は「胃が痛い」ことをストレスと言うなど誤用されています。ストレスというのは、「加わる力」のことです。現象はストレスではなく、それによって変化する「結果」ではありません。「脳疲労」の原因のストレスというのは量の問題なのです。いい情報でも過多であれば悪い結果、「脳疲労」になります。

―偏食、過食、運動嫌いが病気の原因ではないのですね。

藤野 行動異常は結果として起こっているのであって、決して原因ではありません。大脳新皮質大脳辺縁系の双方向性が崩れた状態である「脳疲労」に原因があるのです。「脳疲労」によって大脳辺縁系が機能不全になると、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五覚のほとんどがおかしくなる「五感異常」が起きます。具体的な症状は、感覚が鈍麻したり逆に過敏になります。

 例えば、味覚が鈍麻すると過食になってしまいます。過敏は「どうでもいいことがある時突然マイナスになる」ことです。例えば、温感、暑さ寒さです。ちょっと暑いだけで猛烈に暑さを感じるようになります。ちょっと寒いだけなのに縮こまって血圧が急上昇してしまいます。他にアレルギーなどがあります。花粉症は今では国民病になっていますが、花粉は昔から飛んでいたはずです。「脳疲労」によって免疫が過敏になりアレルギーになる典型的な例です。

―五感の異常が身体的行動異常につながると。

藤野 喫煙・飲酒、過食・偏食(異食)、運動嫌いなど行動に異常が見られるようになります。本来、運動すると気持ちがよくなるものですが、その中枢神経が機能せずに、運動すると気持ちが悪くなります。味覚が異常になると、タバコを好んだり、酒を飲み過ぎたり、ジャンクフードを異常に食べるようになります。こうした行動異常が続くと、過食と運動不足によってエネルギーが溜り、肥満、糖尿病、高脂血症、高血圧、がんにもつながることが私たちの三十年間のデータで分かってきました。つまり、身体的な病気のほとんどは「脳疲労」から起こるのです。

―一方の大脳新皮質が疲れるとどうなるのですか?

藤野 まず、認知異常が起こります。認知異常とは、「促進不全」と「抑制不全」です。促進不全とは、ブレーキをかけっ放しの状態で行動がしにくくなります。抑制不全とは、その逆でアクセルの加減が分からなくなって踏みっぱなしになった状態です。正常であれば、アクセルとブレーキを適切に使い分けますが、それが壊れてしまうのです。

 認知異常が続くと、次第に精神的行動異常を起こします。そうなると、自分を責めて自尊感情が低くなって、非行に走ったり、いじめられる立場になりやすく、引きこもりになります。また、過激になって攻撃性が異常に強くなると他者を責めたりします。そしてこの精神的行動異常を放っておくと、うつ病神経症認知症などの精神異常を引き起こします。

 「脳疲労」が重くなると、うつ病が圧倒的に多くなります。情報過多により処理する量が多くなるので、脳が疲労し、エネルギーをどんどん消耗して、行動できなくなってうつ状態になります。まだエネルギーが残っていると、不安神経症などの異常にこだわる神経症を引き起こします。

認知症も「脳疲労」が原因なんですね。

藤野 そうなんです。「脳疲労」が起こると認知異常が生じ、それが長く続いている状態を認知症と診断されるのです。

 

二原理と三原則

 

―「脳疲労」をチェックする必要がありますね。

藤野 表1の十一項目の中で非常に重要なのは、最初の四つです。「夜中に目が覚める、用もないのに朝早く目が覚める」ですが、この症状は身体よりも脳をたくさん使う経営者などのリーダーには必ずこれが起こっています。さらに「寝付きが悪い」場合はそれが進んだ状態です。「食事がおいしいと思わない。(習慣で食べる、無理に食べる)」という人たちは、既に「脳疲労」を起こしています。お腹がすいたという感覚をなくした瞬間に脳が疲れています。食べ過ぎる人はお腹はすいていません。闇雲に食べているだけで、お腹がすかない、満腹なのに手が出る人が多いのです。

―四番目の「便秘する」は、脳とは関係ないように思うのですが。

藤野 便秘は腸の病気だと思われるでしょうが、脳の病気です。腸は脳に支配されています。もちろん腸がおかしくなったら、脳もおかしくなるという悪循環が起こるのですが、発端は「脳疲労」です。この四つの項目は、即刻何らかの形で対処すれば、「脳疲労」は進行しません。

―その解消法も提唱されていますね。

藤野 約三十年前に「脳疲労」を解消する方法としてBOOCS法(=Brain-Oriented Oneself-Care System=脳疲労自己解消法)を提唱し、肥満や糖尿病などの生活習慣病うつ状態に対する医学的有用性を実証してきました。BOOCS法はいたってシンプルです。「禁止・禁止の原理」と「快の原理」の二原理と、三つの原則しかありません。

 第一の原則は、「たとえ健康に良いことでも嫌いであれば決してしない」です。今までのダイエット法の多くは「カロリー制限法」のバリエーションでした。過食という行動異常が肥満につながるという点では、これらの方法は決して間違っていませんが、方法自体がストレスになる危険がとても高いのです。「食べてはいけない」という禁止は、人間として最大のストレスを受けます。すると「脳疲労」がいっそう重症化して、五感異常(味覚鈍麻)が進行し、ダイエット開始前より「食べたい」という欲求レベルが増加して、さらなるドカ食いや衝動食いの行動異常を引き起こし、リバウンドしてしまいます。

―ダイエットというと禁欲が第一条件ですから、驚きます。

藤野 イソップ童話の「北風と太陽」にたとえるなら、従来のダイエット法は「禁止」「強制」の北風型で、「禁止を禁止」「快の原理」のBOOCS法は太陽型といえるでしょうね。第二の原則は「たとえ健康に悪いことでも、好きでたまらないか止められないことは、とりあえずそのまま続ける」です。愛煙家やお酒好きな人に対して禁止するのではなく、とりあえず続けさせることが重要です。

―私はタバコも酒もやりますが(苦笑)、続けていいと言われたことは今までありません。

藤野 人間は脳と他の臓器・手足などが支えあって生きています。これに適度な力、つまり適正なストレスがあれば生命維持システムが働いて、活動的になります。ところが過剰なストレスが加わると支えられなくなって、外からの「支え」が必要になります。それが、人によってはお酒、タバコが「支え」になっています。これを「身体に悪いから」といってその習慣を禁止することはむしろ大変危険なことなんです。

 なぜなら、他の妥当な「支え」なしにタバコ、酒を取り上げると、タバコ、酒以上に強大な毒の作用を持つストレスが表面化して、もっと大きなマイナス効果が出ることが予想されます。つまり、タバコ、酒という中位の毒をもってストレスという大きな毒を制しているわけで、ある局面では、あたかも薬のような役割を果たしています。

―となると、タバコ、酒も適度であれば続けていいと…

藤野 良い支えを開始すれば、悪い支えが結果として抜け落ちて、禁止しないにもかかわらず、タバコ、酒を止めることができます。福岡県の地方公務員に三十年近くレクチャーしてきましたが、タバコを一日二箱吸っていた人がBOOCS法に取り組んだ結果、四カ月後には一日四、五本に減りました。良い支えとは、第三の原則「健康に良くて、しかも自分のとても好きなことを一つでもいいから始める」ことです。

 疲れた脳を癒すには、まず五感を通して脳にアプローチしますが、比較的誰もが取り入れやすいのが、味覚です。どんなに忙しくても食べることは毎日欠かさない習慣だからです。例えば、自分が好きな和食を腹一杯、吐くほど食べてください。最初に腹十二分に食べることが重要です。最初、「そんなに食べられない」と文句を言った患者さんは一カ月で体重が三キロ減りました。

 これまでBOOCS法をやった患者さんは、体重、中性脂肪、HDLコレステロール(善玉コレステロール)、最低・最高血圧の平均値のすべてが改善しています。また、二千七百九十五名の男性に先ほどのフィンランドパラドックスと同じ調査を十五年間やりました。その結果、BOOCS群と肥満対照群を比較すると、総死亡率は半分近く減りました。そのうち、全がん死は半分以下に減っています。つまり、がん予防にも効果があることが解りました。

 また、糖尿病患者の調査で、体脂肪率も糖尿病の重要な指数であるHbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)もBOOCS群の方が従来の糖尿病治療をやっている群よりはるかに改善しています。この場合の従来の糖尿病治療は食事制限療法ですが、この結果から言えば、食事制限療法では改善どころか悪化しているのです。食事制限や運動療法で上手く血糖値コントロールできないと薬に頼らざるを得なくなります。

―薬漬けですね。

藤野 他の疾患もそうですが薬漬けの治療になっている背景には、「パックス・アメリカーナ」があるのではないかと思います。今のメタボリック症候群の治療では患者はよくならない、むしろやらない方がいいというフィンランドパラドックスは、決して逆説ではなく正論であることが、私たちの調査で明らかになりました。これから多くの方々にこの情報を伝えていくことが私たちに与えられた使命であると思っています。

―BOOCS法に加えて、「脳疲労」の治療・予防に決定的な効果がある物質「プラズマローゲン」を抽出することに成功されたそうですね。(次号につづく)

 

 

 

 

藤野氏プロフィール

1938年福岡県生まれ。九州大学名誉教授、医学博士、内科医・循環器専門医、医療法人社団ブックス理事長、レオロジー機能食品研究所代表取締役、一般社団法人プラズマローゲン研究会臨床研究部代表、一般社団法人BOOCSサイエンス代表理事九州大学医学部卒業後、同大第一内科講師、同大健康科学センター教授を経て現職。29年前に「脳疲労」概念とその具体的治療法であるBOOCS理論を提唱。肥満や糖尿病などの生活習慣病うつ状態に対する医学的有用性を実証してきた。また近年、「脳疲労」と脳内プラズマローゲンとの関係に着目し、重症「脳疲労」と考えられる認知症に対する有用性を実証しつつある。著書は『認知症はもう不治の病ではない』(ブックマン社)、『BOOCSダイエット』(朝日文庫)、『脳の疲れをとれば、病気は治る!“脳疲労時代”の健康革命』(PHP文庫)など多数。

参考資料:『認知症はもう不治の病ではない』(ブックマン社)、『認知症も、がんも、「不治の病」ではない!最新医学でここまでわかった!』(ブックマン社)、BOOCS公式サイトなど。

(フォーNET2020年12月号)

政談談論 安倍政権の負の遺産を引き継ぐ菅内閣誕生は 「暗黒時代の始まり」になるかもしれません

菅政権誕生の舞台裏には、メディアの談合が先行し

勝ち馬乗り派閥連合が続きました。

安倍政権の負の遺産を引き継ぐ菅内閣誕生は

「暗黒時代の始まり」になるかもしれません

 

 

 

辞任前の決め打ち

 

 

 持病の「潰瘍性大腸炎」が悪化していることが分かったことなどから国政に支障が出る事態は避けたいとして、八月二十八日、総理大臣を辞任すると発表しました。第一次政権とあわせた通算の在任期間は去年十一月に憲政史上最長となっていて、二十四日には、連続の在任期間も二千七百九十九日となり、歴代最長となっていました。率直な感想から言えば、「持病を持っていたにもかかわらず、よくもったな」と思います。潰瘍性大腸炎は子供の頃からの持病だったと記憶しています。実際、彼が初当選して程なく本会議をかなり長い間休んでいました。それだけ大変な病気で、それが第一次安倍内閣の時に発症し、辞任してしまいました。

第二次安倍政権発足後、色々なことをうまく乗り切ってきました。いつ発症するか分からない状態で長期政権を続けられたことは、安倍氏個人にとっては満足できる政治家人生だったと思います。やるべきだった憲法改正への道筋をつけ切れない一方で、森友・加計学園、公文書、桜を見る会などのスキャンダルを強引に乗り越えたのは、今日の政治家を象徴するようです。

さて、新総裁・首相に菅義偉官房長官が就任しました。総裁選には石破茂氏、岸田文雄政調会長は早くから立候補していました。その後、菅氏が立候補を表明し、一気に派閥の支持を集めました。しかし、よく考えてみてください。それまで総裁選に立候補したこともなくその気配も微塵に見せていなかった菅氏があれよあれよと首相になったのは、なぜでしょうか?雪崩のように菅支持に回った各派閥ですが、これは政策とか政治力学などとは程遠い、単に勝ち馬に乗っただけなのです。実に情けないことではありませんか。国民の目の前で三派閥のリーダーが記者会見を開き、菅支持を訴えましたが、さもしい魂胆が見え見えで恥ずかしい限りです。その結果、その他の小派閥が「バスに乗り遅れるな」とばかりに雪崩をうった結果、俄に菅総裁・総理に決まっていったのです。

では、なぜ菅氏だったのか。この舞台裏を色々と報道する向きがありますが、バスを仕立て上げたのは、メディア以外何物でもありません。実際、私は辞任会見の一週間前、辞意を漏らす数日前の八月二十一日、メディアの政治部シニア達と懇談する機会を得ました。彼らは口々に「菅で決まっています」と驚くべきことを言います。なぜ、彼らはいち早く菅総理誕生を早打ちしたのでしょうか?それは、官房長官と政治部の関係にあります。つまり、ほとんどの非公式情報のネタ元が官房長官をはじめとする官邸で、政治部とりわけベテラン記者とある種の癒着関係があるのです。政権中枢部に深く食い込んでいるのです。官房長官や幹事長に影のように寄り添っているベテラン記者がいます。

そうした関係がある菅官房長官が総裁選に出馬し、支持を集めて総理になるというシナリオが、安倍氏が辞意を漏らす前に彼らの中で出来上がっていたのです。辞任表明直後の次期総裁候補では、各紙とも三候補の一番上に出馬声明もしていない菅氏を持ってきたのは、そうした背景があったからです。メディアの談合です。そのメディアの談合に慌てた各派閥が勝ち馬に乗ろうと押っ取り刀で菅支持に回ったという構図が今回の総裁選の実相です。何の信念もないメディア辞令に従順に従った政治の姿は本当に情け無いものがあります。

党員投票をいろんな理由をつけて省き、党員票に固い基盤を持つ石破氏にかなり不利になりました。元々党内では石破氏総裁を望まない勢力が依然強いことと、二階俊博幹事長が菅総理誕生を見越して、総裁選をリードした結果です。

 

「闇の仕掛人」が表舞台に

 

 

菅氏はどの段階で総裁選に出る決断をしたのか。黒子役に徹していたのですから、最初からその意思を持っていたとは思えません。石破支持が広がらないことと、安倍氏の後継者と目されていた岸田氏の党内での総裁選支持に向けた活動が不足していることを見ていて、「自分が出ても勝てるかもしれない」という欲が出てきたのでしょう。また、そうした努力不足と頼りなさがある岸田氏にせっかく後継者として仄めかしていた安倍氏が不満を漏らしていたのを、側で聞いていた菅氏はチャンスだと思ってのではないでしょうか。

さて、菅義偉という政治家はどんな政治家でしょうか。常に目をぎらつかせ恵まれた同僚に対するジェラシーを感じさせる人物でした。一言で言えば、「闇の仕掛人」としては天才的な能力を持った政治家だと思います。水面下で思いもよらないところに貸しを作って巧みに人脈を持っている政治家です。第一次安倍内閣の時には早くも安倍氏の懐に入っていました。また、金については、官房長官時代に官房機密費の半分以上は使ったのではないかと言われています。機密費とは領収証が要らない性質の予算で国家機密に関る情報収集や工作に使うべきもので、政治工作の為に首相よりも遣っていたようです。

こうした裏で動く黒子役だった菅氏は、本来ならば表に出るべき政治家ではありません。ところが、黒子が表舞台に出て踊り始めたわけです。恐らく、これまで黒子役をやった政治家で表舞台に立った例はないと思います。総裁候補の思わぬすき間を縫って、躍り出てしまった恰好です。

それでは、首相としての資質はどうか。安倍路線の継承が規定路線ですから、大きなミスは犯さないでしょう。しかし、それまで総裁候補として名前が挙がったことがない菅氏の政治家としての信条がどこにあるのかは、全く分からないのが現実ではないでしょうか。そういう意味では一国を預かる首相としては、その実体が分からない、不気味な存在だと言えるでしょう。

任期途中の辞任から引き継いだ菅政権はそのつなぎ役でしかないという見方もありますが、私はうまくやればそのまま続投するのではないかと思います。一年後に予定されている総裁選もうやむやになる可能性があります。二階―菅ラインを強固にするためには何やかや理由をつけてやらないかもしれません。早期解散総選挙の可能性もあると思います。つまり、菅政権のボロが出ないうちに選挙に打って出て少しの負けで済めば、菅首相続投の党内世論を形成できます。

安倍政権の負の遺産に全て関与していた菅氏は、そのまま継承することになります。つまり、負の遺産をさらに膨らます、危険な政権、国民そっちのけの政権運用というのが、菅内閣の姿ではありませんか。官僚の人事権を握り霞ヶ関を震え上がらせ、メディアは平気で権力に尻尾を振る。党内派閥は勝ち馬に乗ろうと政権になびくことしかできず、党内民主主義も全く機能しなくなる。つまり、安倍政権を影で運営していた菅氏自身の内閣は、批判や抵抗勢力を巧妙に潰してより一層「一強」内閣になり、談合やり放題の政治になるかもしれません。誰も批判しない、できない「暗黒時代の始まり」になる危険性も孕んでいるのです。(フォーNET2020年10月号)

 

 

 

 

門田隆将氏インタビュー(2017年10月)

そこが聞きたい!インタビュー

埋れた「毅然と生きた日本人」を世に出すことで

「これが本当の日本人だ」という姿を今に伝える

 

ノンフィクション作家 門田隆将氏

 

 

スポーツ、社会、歴史などジャンルを問わない門田氏のノンフィクション群は、その徹底した取材手法で克明に事実を伝え、数多くの感動を呼ぶ。ノンフィクションジャンルに懸ける思いと、テーマの「毅然と生きた日本人」発掘の舞台裏を聞く。

平成27年10月30日に福岡市で開かれた講演会(創の会=代表世話人堀内恭彦弁護士 主催)で来福時にインタビュー

 

 

 

 

日本人の本義

 

 

―今月に新刊「日本、遥かなり」を上梓されますね。

門田 この本のサブタイトルに、「エルトゥールルの“奇跡”と邦人救出の“迷走”」とあるように、1890年のトルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件から95年後の1985年、イラン・イラク戦争時にトルコ政府によるイランからの邦人救出、また湾岸戦争の「人間の盾」、イエメン内戦、カダフィ政権崩壊によるリビア動乱など、邦人の命が見捨てられるという事実を書いています。今回の安保法制の自衛隊法改正で在外邦人救出に必要な武器使用が認められて、これまで正当防衛など「自己保存型」の武器使用から、武装集団を武器で排除する「任務遂行型」を認められたわけですが、紛争地域はダメ、相手国の同意が必要など、様々な条件を付けられました。これは、結局「できない」ことと同義で、安保法制では邦人は救出できないんですね。海外の邦人を助けられない国は、依然として日本だけという情けない状態なのです。窮地に陥った当事者をかなり取材しましたが、涙を流す人、憤激する人と様々でした。中には「日本人に生まれてよかったのだろうか」と思った人もいたくらいでした。安全の保証がなかったから救出に行ったトルコと、安全の保証がなかったから行かなかった日本。鳥の羽根より軽い邦人の命というのが実態で、それを知ってもらい、現行法で、果たして日本国民の生命財産を守ることができるという夢想からいち早く解き放たれて、わが国の安全保障について考えてもらいたいですね。

―現在進めているのは、九州ゆかりのノンフィクションだそうですね。

門田 「汝、ふたつの故国に殉ず」というテーマで取材を進めています。明治八年に熊本県宇土市、旧宇土町で生まれた坂井徳蔵という人が台湾に渡って警察官になります。当時、日本人は台湾人と結婚できませんでしたが、結婚できるようになったのは大正に入ってからです。徳蔵は台湾人の女性との間に二人子供(姉と妹)をもうけますが、二人とも奥さんの方の姓である「湯(とう)」を名乗ります。しかし、徳蔵は大正4年に起きた「西来庵(せいらいあん)事件」で斃れてしまいます。この事件は、本島人による最後の抗日武装蜂起とも言えるものです。

遺された子どもの一人に坂井徳章、台湾名で湯徳章という人物がいます。彼も父親と同じく悲劇の人生を歩みます。1947年に国民党が台湾人を弾圧、虐殺した2・28事件が起きます。徳章という人物は物凄く優秀な男で、日本の司法試験と今の国家公務員上級試験にあたる高等文官試験行政科の両方に合格しました。台南市で弁護士をやっていた徳章は人望があったために、暴動を扇動したという疑いで国民党に逮捕されます。国民党の蒋介石の狙いは日本統治時代の知識階層を一掃することでした。徳章は、ものすごい拷問を受けて、肩やあばらの骨が折れたそうです。それにもかかわらず、徳章は一言も自白しませんでした。拷問された翌日にトラックに載せられて、市中を引き回されるのですが、平然としているのです。台南市の現在の「湯徳章紀念公園(旧・大正公園)」で公開処刑されるのですが、その時に跪かされそうになります。彼は柔道の高段者で一喝して跳ね除け、日本語で「台湾人、万歳!」と叫び、銃殺されます。なぜ、日本語で叫んだのかーというのがテーマです。彼が今、台南の英雄になっているのは、彼が命を懸けて沈黙を守ったために台南での処刑者が他の地域に比べて極端に少なく済んだからなのです。昨年、台南市は徳章の命日である3月13日を「正義と勇気の日」に制定しました。

―息子に熊本の気風である「肥後モッコス」の血が脈々と流れていたのでしょうね。

門田 神風連の変、台湾の「六氏先生」(日本統治時代台湾に設立された小学校、芝山巌学堂で抗日事件により殺害された日本人教師6人のこと。この中で17歳の最年少が熊本出身の平井数馬)など熊本の血が濃い親子で、父子とも40歳で亡くなっています。

―著書に貫かれているテーマは、「日本人の本義」に尽きますね。

門田 毅然と生きた日本人像を描くのが、私のテーマです。そうした人たちじゃないと書きませんから(笑)。

―その人物は皆、それまで埋れていて一般に知られていない日本人たちですね。例えば、「この命、義に捧ぐ」の根本博元陸軍中将が台湾・金門島で国民党軍と戦い台湾を救ったことは、全く知られていませんでした。根本中将のことを知るきっかけは?

門田 根本中将の台湾密航に尽力した明石元長氏(第7代台湾総督明石元二郎の長男)の息子、元紹(もとつぐ)さんからある時、「門田さんは台湾に詳しいから、根本さんが台湾で何をやったか調べてもらいたい」と相談されました。「父が中将を台湾に送り出したということは分かっているんだが、中将が向こうで何をやったのか、台湾に行って調べたけれども一切分からない」ということでした。私は、親しくさせてもらっている元紹さんからの話だったので、すぐに分かるだろうと引き受けました。しかし、いざ台湾の人脈を使って調べてみるけれども、全く出てこない。これは本腰を入れて調べる必要があるということとで、私自身が台湾に渡って国防部に直に問い合わせると、「そんな人物はいない」と素っ気無い答が返ってきて、それで私の闘争心に火が点きましたね(笑)。

 そこで、新聞に協力してもらおうと私が取材に応じて、記事で「根本中将と一緒に戦った人を探している」と呼びかけると、沢山の反応がありました。それから取材が進み始めました。根本中将のことを抹消した背景には、他国の軍人の手を借りたという屈辱的な事実を隠そうという意図があったようですが、日本人としては何とかして、国防部に真実を認めさせたいわけです。そこで一計を案じて、金門島戦勝60周年記念式典に、私、明石さん、そして根本中将の通訳だった吉村是二氏の子・勝行氏らが出席の許可を求めました。その一行に私は出版社の編集者、テレビクルーまで連れて行こうと取材許可を求めたんです。そして、ぎりぎりで下りました。私自身が式典の出席者に証言を求めるビラ配りまでしました。これは、一種の揺さ振り作戦でした。証言者もたくさん出てきて、その上日本のキー局まで取材にやってきて、このまま存在を否定し続けることができるかと。ようやく、認められました。文献にも残りました。国防部の最高幹部がわざわざ私たちに対して、「わが国には“雪中に炭を送る”という言葉があります。根本先生はそれを私たちにしてくれました」と、報道陣を前にして正式に表明する場面もあり、明石さんたちは大変感激していました。

 

 

 

書くきっかけ

 

 

―太平洋戦争中、米国生まれの二世ながら日本海パイロットとして神風特攻に散った松藤大治(おおじ)少尉を描いた「蒼海に消ゆ」は、舞台が地元の糸島です。しかし、この人こそ全く無名の人物ですね。

門田 松藤少尉と大学が同じで基地も同じだった戦友から、「門田さんに是非書いてもらいたい男がいる」と話してもらったのがきっかけでした。その方は、わざわざ90年代にロサンジェルスに松藤さんのお母さんに会いにいっているのです。その時に「どうして貴方は生き残ったのか」と言われると覚悟していたそうですが、自分の息子の特攻での死のありさまを聞いて、「男というものはそういうものです」と言われたそうです。

―しかし、何も資料が無かったんでしょう?

門田 全くありませんでしたね。突破口になったのは、松藤さんが所属していた一橋大学剣道部という組織が70年の「時」を超えることができたからなんです。と言うのは、部のホームページのメールアドレスに問い合わせすると、すぐに「少しお時間ください」という返事がきました。その後、60歳代のOBの方から連絡があり、「松藤さんと剣道のライバルだった人がまだご健在なので事務所にお連れします」という連絡をいただきました。すごい組織ですよ。

―先ほどの坂井徳蔵さんゆかりの墓も地元の人が探してくれたそうですね。埋れていた自分に近い人物の名誉を掘り起こしてくれるという期待感も大きいですね。

門田 私の仕事は、埋れてしまっている史実を探し出すことに対する「協力」を惜しまない人たちのお蔭で成り立っています。そうした取材に応じてもらった人々に対して、責任がありますから、「作品が出来ませんでした」とは口が裂けても言えません。どんなにきつくてもやり遂げなければならない責任があります。

―我々読者にとっては、戦後70年で日本人が置き忘れたものを再認識することになります。

門田 よく、なぜそんな埋れた日本人ばかりを書くんですかと訊かれますが、それはそんな日本人が今、少なくなってしまったからだと答えています。そんな日本人ばかりだったら書く必要はありません。現代日本で、「これが本当の日本人だ」という姿を書き残していくことが必要だと思っています。

―テレビドラマで高視聴率をたたき出した「フルスイング」の原作「甲子園への遺言」では、現代人の義を取り上げていますね。

門田 プロ野球の7球団で伝説的な打撃コーチで全国に教え子がいる高畠導宏さんが、50代で一念発起して通信教育で教員免許を取って社会科教諭として福岡の筑紫台高校の野球部監督になろうとしました。中央大学の先輩で元々お付き合いさせていただいていた高さんにその理由を尋ねると、「もちろん目標は全国制覇だよ」と真面目な顔で答えましたね。

―書くきっかけは。

門田 会社(新潮社)を辞めるきっかけになった本で、高さんが60歳で亡くなった後に取材を始めました。実は、高さんが亡くなる時に私にとって痛恨事が起きます。ガンに犯された高さんは「余命6ヵ月」と宣告を受けて、見舞いに行こうと思いながら、全国から教え子たちがひっきりなしに来ていて、それが落ち着くまで遠慮していたんです。ところが7週間で容態が急変して、私が見舞おうとしていた前日に危篤状態になってしまいました。私が「高さん、高さん」と声を掛けても意識不明でした。その翌日に息を引き取るのですが、私は呆然としてしまいました。高さんに最後の本を託されていた私は、高さんが胸に秘めていた思いをもう聞くことができない。ノンフィクションを書くのに、本人の話が聞けないのは致命的です。

 そんな時に妻から「お父さん、変わったね」と言われました。当時私は編集部でデスクだけではなく副部長として、ナンバー2になっていました。妻は「昔のお父さんだったら、見舞いを遠慮せずに何をおいてでも、病院に駆けつけて“高さん、俺があんたの思いを本にするから、安心して”とまずは話を聞いていたはず」と厳しい指摘を受けてしまいました。

―テレビでは高校野球の部分だけをドラマ化しましたが、原作では高畠さんの打撃コーチとしての天才ぶりも描いていますね。

門田 当時は諜報野球全盛時代で敵ベンチに盗聴器を仕掛けたという噂がありました。そこで、南海の監督だった人物にそのことを問い質すと、「それは話せない。高の名誉が…」と言うから、「冗談じゃないですよ。真実を隠してどうするんですか?高さんたちがそこまで野球をやり抜いたことですよ。高さんの評価のマイナスには絶対なりません。だからどこに隠したか教えてください」と(笑)。電球のソケットに盗聴器を隠したことを話してくれました。「人を教えるのではなく、育てた男」。南海の藤原、ロッテの落合、最近ではイチロー、小久保や田口、福浦といった名選手を育てた天才コーチでしたね。また、この本でそれまで黒子役だったプロ野球コーチに、初めてスポットを当てることができたと思っています。会社に勤務しながら休みを利用して取材して執筆してようやく出来上がりましたが、会社で揉めましたね。

その当時、私は光市母子殺害事件をずっと追っていて、被害者家族の本村洋さんの私に真実を書いて欲しいという思いを感じていました。2008年1月19日に上京してきた本村さんを自宅に招いて食事をしました。その日は、フルスイングの1回目の放送日で、彼と一緒に観ていて、「本村さん、独立することにしたよ。ついては独立後の第一作目は光市でいくよ」と。それで辞めて独立しました。それから、彼が私の取材を受けてくれるように関係先に全部連絡してくれました。

 

 

取材は魂と魂のぶつかり合い

 

 

 

―インタビューしている時、気をつけていることは?

門田 基本的には、取材は魂と魂の揺さぶり合いです。言葉と言葉のやり取りではありませんから、その場でお互いの魂が共鳴するのか、反発し合うのか、色んな局面がありますが、いずれにしても「この人には聞いてもらいたい」と思ってもらわないといい取材にはなりません。新聞記者のように要件事実、つまり5W1Hだけを聞いて字数が限られている記事を書くわけではありませんから、うわべだけの話を聞いても本にはなりません。私の作品が分厚くなって読む人の心を捉えるのは、魂が発する言葉を受け取っているからなのでしょうね。色んな角度から色んな聞き方をしながら、徐々に核心に入っていって今まで話したことがないような話が出てきた時には涙がポロポロ出てきます。福島第一原発の現場にいた人たちの話を聞いていて、核心に触れた時に彼らは絶句して、そして涙が自然と出てきました。そうした魂の揺さぶり合いがないと、毅然と生きた日本人は描けないのではないでしょうか。

―そうした人は自分のことは必要以上にしゃべりませんよね。そこは…

門田 技術的なものはないでしょうね。相手の琴線に触れ始めると、次第に寡黙になっていきます。90歳の人に戦争を語ってもらっている時に、涙で言葉にならないこともありました。

―ジャーナリストは客観的に冷静に話を聞くべきだという考えもありますが。

門田 取材は熱く聞きますが、執筆の時に熱くなっていたら、読者はしらけます。だから、突き放して書くんですが、それがかえって読者にはその熱さが伝わると思うんですよ。週刊誌のデスク時代に部下に「取材の時に熱くなるのはいい。しかし、書くときは距離を置いて淡々と書くから余計感動が増すんだ」といつも言っていました。

ノンフィクションは事実の羅列ですから、裏が取れていないことは一切書いてはいけません。そうでないと、小説になってしまいます。想像で書けませんから、書ける範囲がかなり狭い。だから、推測を事実としては一切書けません。「に違いない」という表現しかできないのです。「死の淵を見た男」で吉田昌郎所長に色んな裏を取ったんですが、当時の菅直人首相が東電本店に乗込んできてテレビ会議で演説を始めた時のことです。現場では命を懸けている男たちはものすごくしらけるわけです。その時、吉田さんはばっと立ち上がって、テレビカメラにお尻を向けてズボンを下ろしてシャツを入れ直すんです。周囲に「所長が怒っている」ことを見せたのです。つまり、皆の気持ちを“代弁”してみせたわけです。そこで、本人にその動作のことを「吉田さん、あの時はかなり怒っていたんですね」と聞くと、「えっ?怒ってはいたけど、俺、そんなことやったの」と覚えていないんですよ。本人に記憶がないわけですから、そのシーンの感情については、「だったに違いない」としか書けないわけです。松藤少尉が基地を飛び立って、敵機動部隊に突入するまでの事実の記録も一切ありません。小説だったらそのシーンが一番のクライマックスですよね。ノンフィクションは、「松藤大治はあの蒼い海の上をどんな思いで飛んだかは、何も記録が無い」とたった一行で書くしかありません。

小説というのは作家が頭の中で創作していくものです。ノンフィクションというのは全く逆で、言ってみれば、つるはしで地中に向かって掘っていき、その結果、鉱脈に行き当たるかどうかというものです。そして、取材し尽くして、なんとか真実にたどり着こうとする。それがノンフィクションの苦しいところであり、いいところでもあります。ノンフィクションは、いうまでもなく当事者を説得し、取材に応じてもらわなければなりません。そうした埋れている毅然として生きた日本人を発掘する時間も、生存者が高齢化して亡くなっていきますから、もう残り少なくなってきました。時間との闘いでもありますね。

  

 

門田氏プロフィール

 

1958年高知県安芸市生まれ。中央大学法学部卒業後、新潮社に入社。週刊新潮編集部でデスク、次長、副部長を経て2008年に独立。

 

デスク時代から「門田隆将」のペンネームで『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)、『甲子園への遺言—伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(講談社)などを出版した。『甲子園への遺言』は、NHK土曜ドラマ「フルスイング」(主演・高橋克実)としてドラマ化(http://www.nhk.or.jp/dodra/fullswing/index.html)され、ベストセラーとなった。

2008年、独立に伴い、ペンネームを解消し、本名での執筆に切り替えようとするが、出版社側がこぞって「門田隆将」での執筆継続を要請したため、そのまま「門田」での執筆をつづけている。

 

その後、光市母子殺害事件の9年間を描いた『なぜ君は絶望と闘えたのか—本村洋の3300日』(新潮社)や歴史ノンフィクション『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)を相次いで発表し、いずれもベストセラーとなった。『この命、義に捧ぐ』は2010年9月、第19回「山本七平賞」を受賞。同月、『なぜ君は絶望と闘えたのか』を原作として、WOWOWが主演・江口洋介、監督・石橋冠で特別ドラマを制作し、前・後編で放映した(http://www.wowow.co.jp/dramaw/nazekimi/)。同作品は、2010年度の文化庁「芸術祭」ドラマ部門大賞を受賞した。

 

2011年、「大正100年」と「太平洋戦争開戦70周年」を記念して『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ(第一部~第三部)の刊行を開始し、これに並行して戦争ノンフィクションを相次いで発表した。

 

2012年には、吉田昌郎福島第一原発所長の単独インタビューと、多くの原発所員や当時の菅直人首相、班目春樹・原子力安全委員会委員長など、当事者たちへの直接取材をもとに、『死の淵を見た男―吉田昌郎福島第一原発の五〇〇日』(PHP)を刊行した。初めて福島第一原発事故の内実が明らかになった同書はベストセラーとなり、海外でも翻訳され、世界的にも注目を集めている。その後も、『記者たちは海に向かった―津波放射能福島民友新聞』(角川書店・2014年)や『吉田昌郎と福島フィフティ』(PHP・2015年)など、東日本大震災関連のノンフィクションを刊行している。

 

2014年5月、朝日新聞が、吉田昌郎福島第一原発所長が政府事故調の聴取に応じた「吉田調書(聴取結果書)」を独占入手したとして「所員の9割が吉田所長の命令に違反して撤退した」と報道したことに対して、「これは誤報である」と指摘し、さまざまな媒体で論陣を張った。朝日新聞は門田に対して「訂正謝罪」の要求と「法的措置を検討する」との抗議書を複数回送付したが、逆に9月11日、木村伊量社長が記者会見を開いて、当該の「吉田調書」記事を全面撤回し、謝罪した。門田は2014年11月に『「吉田調書」を読み解く 朝日誤報事件と現場の真実』(PHP)を出版し、その経緯を綴った。

 

 

 

インタビュー 東福岡高校 「二%」―男子校の本懐とは 男女別学の意義と教育効果

そこが聞きたい!インタビュー

 

「二%」―男子校の本懐とは

男女別学の意義と教育効果

 

松原功氏 東福岡高校 校長

 

「二%台」。この数字は全国の高等学校に占める男子校の割合だ。少子化時代に突入し、男子校・女子校の共学化が進んだ結果、男子校は希少な存在になってしまった。そんな中で男子校の旗を降ろさない同校の姿から見える、男子校の本懐とは―

 

 

 

絶滅危惧種

 

 

―男子校は年々減少していて、現在は全国の高校に占める男子校の割合はたった二・二%だそうですね。

松原 全国には約五千校の高校がありますが、そのうち男子校は百数校と言われていますから、約二%です。これからは、男子校が共学校になっても、共学校が男子校になることはないでしょうから、男子校はさらに減っていくかもしれません。女子校は男子校に比べて多いですが、それでも割合としては二桁には届いていません。

―福岡県内でも男子校、女子校が共学化に踏み切った高校がありますね。それでも、女子校はまだ残っていますが、男子校は貴校を含め二校になってしまいました。

松原 そうですね、冗談交じりに学校の説明会で「わが校は、絶滅危惧種レッドリストに載っています」とよく言うくらいです。しかしそうだからこそ、生徒には、貴重な教育環境で青春の時間を過ごしているんだよ、と訴えます。

―その中で、男子校にこだわる理由は?

松原 男子校が、共学校や女子校より優位だとかいう比較の問題ではありません。男子校には、特有の教育環境がもたらす教育効果があると思います。これを、我々教職員、生徒、その保護者さらには同窓生が実感しています。ですから、男子校の旗を簡単に降ろすことはありません。また、現実問題として、経営の問題があります。在籍生徒数が減ってきたので、共学化して数的確保を意図する経営判断を否定するつもりはありませんが、幸いなことに、本校は現在五十九クラス、約二千四百名の生徒を預かっています。仮に共学校になれば、校名は変わらなくとも、違う「東福岡高校」になってしまいます。そうならないためにも、「男子校・東福岡」の魅力を発信し続けなければなりません。

―健闘していると言っていいのでしょうね。

松原 子ども達は、中学校までほとんど共学で過ごしていますから、やはり中学生が持つ「楽しくない」とか「暑苦しい」「恐い」などといった男子校へのイメージがあると思います。最初から男子校を選択して入学した生徒はそんなに多くはないでしょう。しかし、いざ入ってみると生徒の評価がガラリと変わりますね。

学校は教育サービスでもありますから、顧客は生徒とその保護者になります。その顧客満足度を的確に把握して、それを教育・指導に生かす努力は欠かせません。その一助として各種アンケートを取っています。その一つとして新入生に対して、入学して約二ヵ月後にアンケートを実施します。テーマは、なぜ東福岡を選んだのか、です。すると、毎年九〇%以上の新入生が「入学してよかった」と答えます。ちなみに今年の新入生は九四%が「よかった」と回答しています。この結果は、日常の生徒指導に役立てると共に、募集広報面での資料にもなります。

 二つ目は、生徒による授業評価です。夏と冬に同じクラスの生徒による教科担当の授業を評価するアンケートを実施します。正直、先生にもやりやすいクラスとそうではないクラスがあると思いますが、あえて無作為にクラスを選んで、生徒には無記名で十項目について評価し点数化しています。これは人事考課には使いません。主旨は、あくまでもそれぞれの先生の授業改善に生かしてもらうことです。肝心なのは、夏に指摘された点が冬にどれだけ改善できているかですね。昨年度の二回目は、平均点が百点満点で九十点に迫る高得点でした。教師陣の優秀性は、最もアピールしなければならない点だと思います。教師は「(分かりやすい・力がつく・より良い)授業をしてナンボ」ですから。毎回、生徒からの評価は高いですね。

 三つ目のアンケートは、保護者に対してのものです。毎年卒業を控えた時期に実施しています。これも無記名でお願いしていますが、主題は「三年間本校に息子さんを預けていかがでしたか」というものです。卒業間近ですから、保護者の方も気兼ねすることなく、まさに率直な意見をいただくことが出来ると考えます。つまり、保護者の本音を聞くことで改善に生かせるのです。今年三月のアンケートでは、八一%の保護者から「満足している」との回答を得ました。有難い結果ですが、一方で満足していない一九%に注目すべきなのです。進路保証が本校の大きな教育目標のひとつですから、この数値をしっかりと認識・分析して今後に資していかなければ、アンケート実施の意味がありません。ここはあくまでも百%を目指すべきなのです。

 

 

男子校の教育効果とは

 

 

―男子校の教育効果についてですが、ある調査では男子校で学ぶ男子生徒の方が共学校で学ぶ生徒より成績がいいという結果が出ています。

松原 「男子校という個性」というタイトルで講演させていただいた機会がありましたので、その際に調べてみました。確かに、別学の男子が共学の男子より成績がいいという結果が出ています。例えば、ニュージーランドのオタゴ大学の研究所が、OECD経済協力開発機構)が行う「PISA」(学習到達度調査)の結果、合計点の平均で女子の方が三十点高かったために、詳しく調べたそうです。男子校と女子校、男女共学の学校に通う生徒や学生九百人を対象に成績の比較調査を実施したところ、男女別学で中等教育を受けている生徒では、男子生徒の成績が女子生徒を上回り、共学校では女子のほうが男子よりも良い成績を収める傾向が顕著で、この傾向が二十五歳くらいまで続いたといいます。

また、「オーストラリア教育研究審議会」が六年間にわたり、計二十七万人の生徒に行った調査では、男女別学で学んだ生徒のほうが一五~二二%も成績が優れ、生活態度も良く、学習を楽しいと感じたり、学校のカリキュラムを価値あるものと認識する割合が高いと報告されています。審議会では「十二歳から十六歳の年齢帯においては、認知的、社会的、発達的な成長度合いの男女差が大きく、共学の学習環境には限界がある」と結論づけていますね。                                 ―別学の教育効果でしょうか。                                 松原 男性の性的な成熟は女性に比べて約二年遅れている、脳の厚さは女性が十一歳で最大になるのに比べ、男性は十八ヵ月遅れる、五歳から十八歳の男女に情報処理能力のテストをすると、幼稚園では男女の差はないのに、思春期には女性のほうが「速くて正確」という差が生じ、十八歳には再び男女の差がなくなるなど、男女の発達上の違いが科学的に指摘されています。男子と女子の発達のスピードが違うのに、同じ内容を同時に教えるには無理があります。発達のスピードに応じるためには、男女別学という形態もあっていいと思います。

―一般に「女子の方が成績がいい」と言われていますが、これはある意味、性差であると。

松原 思春期においては肉体的にも精神的にも一~二年成熟が早い女子に囲まれて、一部の男子が萎縮してしまうこともあるでしょう。そのような「圧力」から逃れるため、男子があえて性差を意識しなくてすむ環境を選ぶ選択肢はもっとあっていいのではないでしょうか。

―それと、異性の目を気にせず、男同士の連帯感も生まれやすいですね。

松原 高校の三年間は人生の中で一番濃密な時間が流れる三年間だと思っています。大事な時間をいかに意義深いものにするかも大切なことで、うちの生徒たちは卒業後もずっと交流が盛んですね。そこも男子校の良さではないでしょうか。

―共学が悪いということではなく、それぞれ子どもの性格や適性を考慮すると、男子校、女子校という選択肢を増やすことも必要ですね。

松原 男子校という選択肢を広げるには、中学生、保護者が持っている、男子校のマイナスイメージを払拭することが必要ですが、容易ではありません。そうした中でも、オープンスクール、体験入学、説明会などで、見て聞いて空気を感じてもらうと認識を新たにしてもらえますね。しかし、来校してくれる中学生、保護者も数に限りがあります。男子校は面白いよ、楽しい、友達ができるよということも大事なことですが、やはり別学教育のメリットの根拠を分かりやすく発信することも含めて、男子校の特性・男子校の良さそして男子校の個性をどう広報していくかが課題です。

 

 

文武両道

 

 

―こちらは「文武両道」を標榜していて、ラグビー、サッカーなど全国レベルの運動部を擁していますね。

松原 部活動はあくまでも教育の一環としての放課後における活動です。そもそも部活動に特化したクラスを作っていません。もちろん、運動特待生はいますが、学校生活上は何らの違いはありません。「本校には、部活に特化した所謂アスリートクラス、体育クラスはないんですよ」と説明すると、意外に思われます。学校はホームルームが基本単位ですから、そこには色んな個性を持った生徒がいて、互いに刺激し合って成長していくべきだと思います。

部活動をやっている生徒はきついですよ。運動特待生の中には「こんなに勉強させられるとは思っていなかった」とぼやく生徒もいます。いくら技量が高くても、彼らの中で将来、プロになるのはごく僅かでしょう。また、セカンドキャリアもあります。ですから、生きていくための学習を修める必要があります。それとクラスで色んな生徒と過ごすことで人間性を高めてもらいたいのです。彼らには「クラスメイトから心から応援してもらえるような選手になりなさい」と言っています。クラスで過ごす時間が圧倒的に長いのですから、いくら部活で活躍しても授業姿勢や生活態度がいい加減だったら、クラスメイトから応援は受けられません。本校の教育理念である「努力に勝る天才なし」の実践を求めています。

―授業もテストも同じように受けるんですね。

松原 特別扱いはしていません。試験前になると、各部の顧問先生は、部員を集めて勉強会をやるなど大変です。成績不振者は、追試に向けての指導期間を設けていてそれが最優先ですから、その間は試合があっても出られません。だから、彼らと顧問先生は必死になるんです。これまで多くの部活動生を見てきましたが、授業などの学校生活での姿勢とそれぞれの競技の技量は正比例すると断言できます。姿勢がよくないと、ある程度まで行けてもそこから抜け切れません。中には中学時代はほとんど練習しなかった生徒が、当校に入って文武両道を追求し一流の選手に育った例を何人も見ています。バレーボール部は伝統として学校の周囲のゴミ拾いをやっています。それも周囲に何も言っていませんから、私は校門指導していて初めて知りました。陸上四百メートルハードルの世界チャンピオンになった生徒も、日頃から学校生活に真摯に取り組んでいますよ。何事も、最終的には「人間性」ですね。その点は、部活動を通しても涵養していきたいと思います。部活動を通じて経験できること、部活動を経験したから獲得できた力、今の時代だからこそ、そういうものがあるのだと信じています。これからも、学校挙げて、生徒を応援していきます。

 

 

松原校長プロフィール

昭和31年(1956)、北九州市出身。小倉高校、早稲田大学教育学部卒業。 昭和54年(1979)国語教師として奉職。学年部長を経て、平成14年(2002)に二代目校長に就任し現在に至る。

 

東福岡高校

全日制普通科東福岡自彊館中学校を併設する。本年度の在籍生徒数は、

高校2363名、中学276名。ほとんどの生徒が大学に進学する。またスポーツ名門校であり部活動が盛んである。サッカー部・ラグビー部・バレーボール部などの活躍が有名。

昭和20年(1945)福岡米語義塾創立

昭和30年(1955)東福岡高等学校を福岡市箱崎に開校

昭和39年(1964)現在地の福岡市東比恵に移転

平成11年(1999)東福岡自彊館中学校開校

平成18年(2006)特進コース設置  特進英数コース・進学コース・自彊館コース(中高一貫)とあわせ4コース体制

平成22年(2010)校舎全面建て替え

平成31年(2019)第62期生卒業  卒業生数、約44500名

 

令和 2年(2020)学園創立75周年、高校創立65周年を迎える

(フォーNET 2019年11月号)

糸島が生んだ「反骨のコーチ」岡部平太  日本近代スポーツの礎を築いた伝説の男を発掘する

そこが聞きたい!インタビュー

糸島が生んだ「反骨のコーチ」岡部平太

 日本近代スポーツの礎を築いた伝説の男を発掘する

 

『Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語』著者 橘京平氏

 

 

 

日本初のコーチ、日本に初めてアメフトを紹介、百年前にスポーツに科学的トレーニングを取り入れる、柔道をはじめ野球、テニスなど何でもこなすスポーツ万能の持ち主、そして平和台(福岡市)を築いた男・岡部平太の存在は一般にはこれまで全く知られていなかった。その伝説の男の人生を発掘する意義とは―

 

 

「Peace-Hill」に込められた想い

 

 

―現在、陸上競技場や平安時代の外国からの使節を接待していた鴻臚館(こうろかん)跡やかつて球場があった「平和台」を作った岡部平太の存在は、地元福岡でさえほとんど知られていませんね。

橘 戦時中にこの地には歩兵第二十四連隊の本営が置かれていましたが、終戦GHQに接収されて将校宿舎が建設される予定でした。昭和二十三年(一九四八)の福岡国体当時、国体事務局長だった平太が、何度もGHQと直談判してついに福岡市が取得します。平和台の命名は、「兵(つわもの)どもの夢の跡を平和の台(うてな)にする」として、英語で「Peace-Hill」(平和の丘)を意味する「平和台」と名付けたのです。当時のGHQは日本の支配者的立場ですから、そのGHQから奪還したのですから驚きです。命名のもう一つの理由は、平太の長男、平一が昭和二十年(一九四五)四月十二日に特攻隊として鹿児島県の鹿屋基地を立って、沖縄で散華したこともあります。平一への鎮魂と平和なくしてスポーツもないという思いが込められています。戦後初めて日章旗が掲揚されたのは、平太が取り戻した平和台で開催された福岡国体の開会式でした。当時はまだ許されていなかったにもかかわらずです。正式にマッカーサーが許可したのは、その一年後の昭和二十四年(一九四九)元旦からですからね。

―平和台がなければ今の福岡のスポーツの隆盛もなかったでしょうね。

橘 もしこれが実現していなかったら、福岡ひいては日本のスポーツは相当遅れていたかもしれません。実際、その後福岡では地方都市では珍しい大相撲の九州場所開催、プロ野球球団、プロサッカーチームが誕生しています。

―岡部平太を取り上げる目的は?

橘 会社(西日本新聞メディアラボ)の方針である地域貢献があります。また、新しいデジタルコンテンツを作る際にその題材を埋れた人物にスポットを当てようということになりました。あることをきっかけに平太のことを知ったのですが、私自身それまで全く知りませんでしたから、新鮮でした。こうした人物を世に出すべきだと。新聞にも連載していますが、ほとんど知られていない人物です。

―その平太ですが、上巻(下巻は今夏に発行予定)を読むと、快男児という表現がぴったりの人物ですね。

橘 糸島郡芥屋村(現在の糸島市)に生まれた平太は、小さい頃は悪僧(わるそう)坊主で、運動神経抜群で悪さをよくやっていました。「天狗の平太」と近所では有名だったそうです。福岡師範学校に進んだ平太はその運動神経を存分に発揮して、柔道、相撲、野球、テニス、ボート競技などで活躍します。特に柔道では、当時の国内最大の大会「京都武徳会」で準優勝します。また、 福岡市の柔道場双水執流(そうすいしつりゅう)隻流館でも腕を磨き、自由に技を掛け合う乱取りの「千本取り」を千本続けて行う修行で、通常八時間はかかるのに平太は五時間で成し遂げます。

 

 

強烈な反骨精神の持ち主

 

 

―平太は反骨精神が旺盛だったようですね。

橘 反骨精神の塊のような人物でした。これは生涯通じての平太の生き方です。福岡師範では教師の偽善的な教育に反発してわざと生っているキンカンをなぎ倒して退学処分になりかかります。平太の人生を辿っていくと、それがよく分かります。

―嘉納に誘われて東京高等師範に進みましたよね?

橘 平太の類希な才能を見出したのは嘉納です。実際に学生では只1人の講道館四段を授与され、その後、平太は嘉納について各地を回って模範実技を披露します。その後、結婚した平太は嘉納らの援助で二十六歳で単身、アメリカに渡ります。これが嘉納との対立の原因になりました。

アメリカでは最初にシカゴ大学に留学します。この時に運命的な出会いがありました。その人物、スタッグ教授は米大学スポーツ指導の先駆者でアメリカンフットボールの父と言われた人でした。平太の渡米の当初の目的は柔道の紹介と普及だったのですが、スタッグ教授との出会いでスポーツ探究にのめり込んでいきます。平太は生涯コーチで生きていくことをスタッグ教授との出会いで決めたのです。スタッグ教授は九十六歳まで現役のコーチとして活躍します。平太にとっては人生で最も強い影響を受けた師匠でしょうね。アメフトをはじめ、ボクシング、レスリング、スキージャンプ、バスケット、野球、ボート、水泳、陸上などありとあらゆるスポーツに挑戦し活躍します。ちなみに日本で初めてアメフトを日本に紹介したのは、平太です。

―スタッグ教授という人物は?

橘 スコットランド系の移民で貧しいピューリタンの家で育ちました。プロ野球に最高年俸で誘われますが断って、アメリカで初めて体育で大学教授になり、アマチュアスポーツのコーチとして生涯を貫いた人物です。九十六歳まで六十八年間もコーチ人生を歩みました。

―そのスタッグ教授の薫陶を受けて、日本で初めてコーチという役割を導入したのも平太だそうですね。

橘 今の日本のアマチュアスポーツでもコーチという役割が確立されていません。学校の運動部では専門的なコーチの技術を持っていない教師がやっていますからね。だからどうしても精神主義的な指導になってしまい科学的なコーチ法は無視されがちです。平太はスタッグ教授の指導の下、体育理論とコーチ理論を実地で学びます。それを百年以上前の日本に持って来ようとしたのですから、平太の反骨精神は並々ならぬものがあります。例えばインターバル走など今では常識になっている科学的トレーニング法を日本で最初に取り入れました。この他、採血してトレーニングの結果を検証するという方法も取り入れました。それでも当時の日本で専門のコーチ業という職は認められずに

 

恩師と決別、新天地で大暴れ

 

 

 

平太の身分はあくまでも教員でした。そこにも平太の葛藤はあったでしょうね。

―そして、ついに嘉納の元を離れますね。

橘 アメリカのプロレスラー、サンテルが講道堂に挑戦を申し込み、嘉納はそれを受けようとしますが、平太は猛然と反対します。アメリカでプロレスを実際にやったので、プロレスと対戦すると、そもそもルールが全く違うし、興行師の言いなりになって、柔道からアマチュア精神が失われると思ったからでした。二人は徹夜で議論しますが、柔道の普及を目指す嘉納は平太の説得に首を縦に振りません。ついに決別して嘉納の元を去ってしまいます。

 その後、平太は旧制水戸高校の体育講師になります。そこでは日本初の四百メートルトラックを造ったり、学生にあらゆるスポーツを教えました。しかし、校長の教育方針と対立しわずか半年で辞め、次に向ったのが満州でした。

満州ではスポーツだけではなくいろんな活動をしているようですね。

橘 水戸高を辞めた平太は大正十年(一九二一)、満州に渡り、南満州鉄道株式会社(満鉄)に体育主任として入社します。その後、満州体育協会を創設、理事長に就任。以後11年間在職することになり、平太はこの新しい国で自分の理想のスポーツを追求しようとしたのだと思います。実際、平太は満州で精力的に活動しました。大正十四年(一九二五)にマニラで行われた第七回極東選手権大会の陸上チーム総監督、昭和三年(一九二八)には、大連運動場で日本初の国際スポーツ大会である日本とフランスの国際対抗陸上競技会を提案し成功させました。

また、翌年には張作霖の長男で当時満州東北大学学長だった張学良と協力して日独支対抗陸上競技会を実現させます。また、コーチとしては陸上の岡崎勝男三段跳びの金メダリスト、南部忠平らを育てました。この他、昭和六年(一九三一)の第一回スピードスケート選手権でも監督を務めました。平太はマルチな才能の持ち主でスケールが大きいので、一面ではなかなか捉えられないですね。

―その後、平太はスポーツ界から追放されますね。

橘 昭和六年(一九三一)に満州事変が勃発し、親交あった張学良の義兄弟である馮庸(ひょうよう)という人物が亡命するというのでそれを援けました。しかし、馮庸はそれを裏切って国民党に合流します。それがスパイ疑惑関東軍に逮捕され、処刑されそうになります。それを助けたのが、石原莞爾だとされています。平太と石原の関係はよく調べないと分かりませんが、親しかったのは事実のようで恐らく二人の考え方が似ていたからかもしれません。

 

「スポーツは勝たなければならない」の真意とは

 

 

 

―張学良の父を謀殺した石原と親交があったというのも平太のスケールの大きさをうかがわせます。

橘 スポーツ界を追放された後は北京にも行っていますが、その頃の行動はまだ分かっていません。ただ、昭和二十年(一九四五)、時の総理大臣の小磯国昭に戦争終結を直言しています。平太は、終戦間近の昭和二十年(一九四五)六月に帰国して故郷に戻ります。戦後、再び平太が表舞台に出たのが、当時の福岡市長の要請による国体の誘致活動でした。それを機に平太は日本のスポーツ界に復帰することになります。

―「いだてん」金栗四三と親交が深かったようですね。

橘 同じ年で学校も東京師範学校で同じですから、かなり親しくしていたようです。平太は長年国際スポーツに触れてきて、金栗に当時の日本人が世界の陸上で勝負できるのはマラソンしかないと直言していました。そこで昭和二十五年(一九五〇)に金栗たちと福岡に「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成し、寄附金を集めて九州各地で合宿し、疲労回復などの科学的な分析を実施しました。これが今の日本のマラソン界の源流になっています。その最初の大会が昭和二十六年(一九五一)のボストンマラソンで、田中茂樹が日本人として初めて優勝を果しました。

―平太の人生を辿ってみて、彼が日本のスポーツ界に与えた影響はどう見ますか?

橘 彼がいなかったら日本のスポーツ界は相当遅れていたでしょうね。今起きているパワハラなどのスポーツ界の不祥事は、彼が生きていれば起きていなかったかもしれません。平太はスポーツ界の精神論一辺倒では駄目だと百年前から唱えて実践してきた人物ですから、いわゆるしごき、体罰などを一切認めていなかったでしょう。いわゆる根性論では強くなれない、科学的な理論を実践しないと勝てないというのが平太の信念でした。また、平太は、「スポーツは勝たなければならない。根性だけでは勝てない」ということを盛んに言っていました。

―それは勝利至上主義という意味ですか?アマチュアスポーツには過激に聞こえますが。

橘 平太の真意は、「勝つためにあらゆる努力をすべき」という意味だと思います。人事を尽して天命を待つ。つまり、科学的な練習を尽すことが人事で、その結果は問わないということではないでしょうか。それから、スポーツは平和でなければできない、だから平和が大切だというのも平太の信念でした。

 

岡部平太

明治24年(1891)~昭和41年(1966) 糸島郡芥屋村(現在の糸島市)生まれ。東京高師の柔道選手として活躍。渡米し,シカゴ大で体育理論をまなぶ。東京高師講師などをへて満州体育協会理事長。昭和26年ボストンマラソンの監督として田中茂樹を優勝にみちびいた。福岡市の平和台競技場の名付け親

 

橘京平プロフィール

知られざる偉人を発掘し、世に出すために西本新聞メディアラボ(福岡市)が立ち上げたプロジェクト名。

(株式会社西日本新聞メディアラボ)

西日本新聞社が100%出資するデジタル事業会社。1993年設立。WEB・映像コンテンツ制作、デジタルメディア運営、クラウドソーシング、デジタルマーケティング、イベントプロモーション、広告代理業など多彩な事業を展開している。

(フォーNET 2019年6月号)