韓国の徴用工問題。時代主義の韓国の歴史。

『俗戦国策』(杉山茂丸著、昭和4年

  • 決死の苦諫(※くかん)、伊藤公に自決を迫る(弐)

     

     

     

     伊藤約を破る

     

     伊藤統監が、庵主との約束を無視して、朝鮮を取らぬ事に腹を極(き)めて、世界に之を公布したからである。ドンナ事を公布したか?伊藤統監は赴任日ならずして、日韓条約を復興し、其(そ)の上韓国駐在の各国総領事を官邸に招集し、宴を開いて施設の演説をした。曰く、

    「本官は今回、朝命を蒙(こうむ)つて、日韓修好の大任に当る事となつたが、仰々(そもそも)日韓の国交は、双方の国祖以来、二千有余年、重厚の歴史を閲(※け)みして来て居るが、其(そ)の国家位置上の関係から云ふも唇歯輔車(※しんしはほしゃ)であつて、少しにても粗慢(※そまん)の情実が、其(そ)の間に介在しては、忽ちにして両国の不幸を醸成するのである。故に鴻(※こう)大(だい)慈(※じ)仁(じん)の日本 天皇陛下は、本官に命じて至大の大権を任命し給ひ、内外の政治に向つて、最善の注意を以て、永久に両国民の幸福を増進せしむべき施設を行はしめ給ふ。故に坊間(※ぼうかん)動(やや)もすれば唱道(※しょうどう)する、日露の戦果として、日本が此(こ)の国を領有するなぞの説は全くの虚妄の事にして、日本の 天皇陛下は韓国に対して、其(そ)の独立の光栄を尊重し給ひ、其(そ)の国民に対しては日本国と共栄の幸福を喜び給ふのである。云々、

     と云ふやうな趣旨であつたと思ふ。

     此(こ)の演説に外国の総領事一同はビツクリ驚いたのである。ソコデ何でも白(ベ)耳(ル)義(ギー)の総領事が一番年長とかで、左の如き頌辞(※しょうじ)を述べたとの事である。曰く、

    「(前略)世界的に光輝ある歴史の発祥したる、日本 天皇陛下の鴻大慈仁なる叡旨を、親属の大任を奉持(ほうじ)たる、公爵伊藤統監の口より拝聴する、我々外国駐箚の使臣一同は、驚喜(きょうき)に耐へざる事で、是に因つて両国民の幸福は、世界人道の上に、一層の光彩を放つ事と信ずるのである。小官等は、詳(つまび)らかに此(こ)の深遠なる御趣旨を、本国政府に通報する事を、無上の光栄とするのである。云々」

     と云ふやうな事であつたらしい。此(こ)れ等の事が各新聞に掲載せられたので、庵主がクワツクワツと怒り出したのである。ナゼなれば、韓国を日本に取るやうにする約束で赴任した伊藤統監であるから、庵主等は一生懸命で内外の同志其(そ)の他へ、此(こ)の統監を屹度(きっと)助くべく伝道したのである。其(そ)の統監が行(いき)成(なり)に朝鮮は取らぬと露骨に公言しては、モウ永久に韓国は取られぬ事となるのである。

     韓国が取れねば、遠くは神功皇后以来、歴朝の難経歴や、太閤秀吉が文禄の役前後の犠牲、近くは江藤新平西郷隆盛板垣退助、大井憲太郎等の対韓の苦心や、日清戦役の犠牲、況(いわん)や今回の日露戦役の犠牲、軍費二十八億、死傷二十三万の如きも、全くの無駄事となるのである。夫(それ)が伊藤統監の根本より組織的に今回こそ韓国を領有すべき機密の大機軸を把握する大権を有しながら、日本無双の大権力、大光栄ある大官に任ぜられ、鶏林八(※けいりんはち)道(どう)に君臨する、李王家以上の優勢地位にある自己に酔うたる妄想の為に、斯(か)かる一大事を軽々敷(かるがるしく)公言するのみならず、間近く明治十七年以来、日夜の苦心を以て、親日主義を高唱し、身命を賭して、日本 天皇の御為に家資宝財までも抛(なげう)ち、全くの耐へ難き李朝政府の圧迫を凌いで、トウトウ日露戦役の終結まで漕付けた数百万に及ぶ親日主義の韓国志士を、一時に鏖殺(※おうさつ)するも顧みざるのみならず、前に云ふ日本二千年来、志士の犠牲を故意に無視したる、此(こ)の公言は、寸刻も見許(ばか)す事の出来ざる事であると思うたに相違ないのである。ソコデ庵主が熱した鉄(てつ)丸(がん)の飛ぶやうになつて、京城の統監官邸に転(ころが)り込んだのである。

     先ず後藤猛太郎伯と、後藤勝蔵を、釜山の大池と云ふ宿屋に泊らせ置き、庵主は即日夜汽車に乗込み、南大門に着くと其(そ)の儘(まま)、官邸に伺候し、伊藤公に面謁(めんえつ)したら、其(そ)の時、伊藤公は、韓国の陶器商を数人呼寄せ、其(そ)の陶器の選択に余念なかつたのである。庵主の来るを見て、

    「ヤア珍客が来たナア……君は陶器は買はぬかネ」

    「ハイ閣下はお買上げになりましたか」

    「ム(ござ)ウ此(こ)の花瓶と、此(こ)の水指と此(こ)の鉢を買うた。ドウぢや数千年を経た品としては無疵(むきず)ぢやでノウ」

    「夫(それ)ではモウ夫(それ)丈(だけ)でお仕舞ひでム(ござ)いますか」

    「ムウ買物はモウ仕舞ぢや」

     其(そ)処(こ)に三人許(ばか)りの陶器商が居て、此(こ)の品が百済でム(ござ)います……此(こ)の品が古高麗でム(ござ)います……と座敷一面に拡げて喋(しゃべ)舌(り)立てゝ居るから、庵主は、

    「アヽもう講釈には及ばぬ……其(そ)処(こ)に在る品を、全部俺が買ふから……直ぐに荷造をして俺の宿に持つて行け……早くせよ早くせよ」

    「お宿は何所(どちら)様で……」

    「夫(それ)は知らぬ。統監府の役人に聞けば。ドコにか宿が取つてある……早く行け早く行け」

    と急き立てると、伊藤公は、

    「君そんなに買ふのか……大変な金高(きんだか)ぞえ」

    「ナンボ高くても知れた物です……早く行け行け」

    「丸で藤田伝三郎が物を買ふやうぢやノウ」

     ヤツと陶器商を追払つた。ソコデ庵主は、徐に「ストーブ」の前の椅子に腰を下ろして、暫く頭を下げて、公の態度を見て居ると、公は右手にシガーを持ち、左手に「ブランデー」の「コツプ」を持ち、左(さ)も機嫌さうに、

    「思ひも寄らぬ君の来京には実に驚いたよ……電報も打たずに来たのは、何か急用でもあつてか……ドウして来たのぢや」

    「ハイ急用でもム(ござ)いませぬが……重大な事を心得ましたので、克(よ)く閣下に伺つて見たいと存じまして」

    「ハヽア何事かね」

    「事件は新聞紙で見た事でム(ござ)いますから……克(よ)く伺つて見ねばなりませぬが……閣下は御赴任後、各国総領事を官邸に召されて宴を賜ひ、其(そ)の席にて『韓国に対しては永久独立修交の政務を統監すべき任務を負ひ、世界的人道を基調として、両国民の共栄を謀り日韓両国の国交に就いては、従来の通りの保護政策の外には、何等の処置も取らぬ方針ぢや』と世界的に公布せられたやうな演説を遊ばしましたか」

    「ム(ござ)ウ其(そ)の通りぢや……其(そ)の通りの趣意で演説したよ……」

    「夫(それ)では、東京でお約束致しました通り、先ず統監制を拵(こしらえ)へ統監と成つて韓国に臨み、内外政治権の全部を総覧し、其(そ)の上にて日露の戦果に伴ふ、『日本の永久把握すべき大権を収得する』と云ふ、日韓併合の方針はお止めになつたのでム(ござ)いますか」

    「夫(それ)はソンナ事を、君等と約束したかも知れぬが……統監を拝命して調べて見ると、『韓国は絶対に取る事が出来ぬ』と云ふ厳重な条約に両国の元首が、御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)を鈐(きん)せられてある。即ち日韓協約と云ふ物がある。其(そ)の協約は君の親友の桂太郎がした条約である。夫(それ)には『絶対取る事ならぬ』と書いてある。先ず『韓国王室の隆盛を謀る事』『韓国富強の基(もとい)を開く事』『韓国が自己の力で屹度(きっと)独立し得るまでは、永久に保護をして助けて遣る』と書いてある。其(そ)の条約を締結する時は、君等も八ヶ間敷(やかましく)云うて、桂等をして此(こ)の条約をさせたのではないか。君等は其(そ)の協約は知らぬと云ふのか……夫(それ)を知つて居ながら、我輩に此(こ)の世界に公々然たる其(そ)の条約を無視し、蹂躙して、乱暴にも何でも可でも人の国を取れと云ふのか。日頃秩序を八(や)ヶ(か)間(ま)敷(しく)云ふ君にも似合はぬではないか。夫(それ)は君が無理である。ソンナ事は我輩は断じて為(せ)ぬよ……ソンナ馬鹿気た事を考へて態々(わざわざ)出て来るなどは、君もドウかして居るのではないかネーーー」

    「ハテ左様(そう)ですか……閣下は東京でアレ程堅いお約束を為されまして、私共を雀躍させて喜ばせて、是迄日韓両国の為に、長年艱難辛苦を致しました、両国多数の志士等に、一斉に新統監の施設を歓迎すべく通牒を発せしめられた上に於いて、俄然として其(そ)の約を無視し、終に私に向つて馬鹿呼ばわりを遊ばす様では又例に拠つて閣下のお心が狂始めたかと思ひます。能(よ)く御考慮を願上げます」

    「ナニ我輩が気狂ぢやと……夫(それ)だけは聞捨ならぬぞ……何を押へて左様な暴言を云ふのか……」

    「失言はお許を願ますが、此(こ)れは単なる閣下と、私の私事ではム(ござ)いませぬ。全く以て日本帝国の安危存亡に関する事であるのみならず、閣下の御一身に於かせられても、取返しの付かぬ一大事と存じ上げます」

     

    • 苦諫 言いにくいことをはっきり言って、目上の人をいさめること。
    • 閲み (閲みする)調べる。見て確かめる。あらためる。
    • 唇歯輔車 (「春秋左氏伝」僖公五年の「諺に所謂 (いはゆる) 、輔車相依り、唇 (くちびる) 亡ぶれば歯寒しとは」から)一方が滅べば他方も成り立たなくなるような密接不離の関係にあって、互いに支え助け合って存在していることのたとえ。
    • 粗慢 考え方ややり方などが、大ざっぱで、いいかげんなこと。
    • 鴻大 きわめて大きいこと。また、そのさま。
    • 慈仁 なさけ深いこと。
    • 坊間 市中、世間。
    • 唱道 ある思想や主張を人に先立って唱えること。
    • 頌辞 功績を褒めたたえる言葉。
    • 鶏林八道 朝鮮全土。
    • 鏖殺 皆殺しにすること。
    • 藤田伝三郎 (一八四一~一九一二)実業家。山口生まれ。明治維新後、陸軍用達業者となり、西南戦争で巨利を得て藤田組を創設。鉱業を主に多数の事業を行った。
    • 鈐す 印を捺す。
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     伊藤公と一騎打

     

     

    「君、生意気な事を云ふな……国家の安危存亡は博文、君には習はぬぞ……博文は心身共に国家の為に捧げて、此(こ)の地に赴任して居るのである。下らない、咄(はなし)なら止め給へ」

    「外(ほか)の事なら何でも閣下のお叱りを受けますが、国事となつては、是非とも伺ふ丈(だけ)は伺はねば決して此(こ)の席は退(の)きませぬ……先ず落ち着いてお聞きなさいませ……閣下は日韓協約の事を統監拝命の以前から、私と共に飽迄(あくまで)お存じの唯一の御方でム(ござ)います。今回統監御赴任になつて、初めて此(こ)の協約の存在を御発見になつたのではム(ござ)りませぬ……其(そ)の協約があるから、韓国は併合する事が出来ぬと仰せられますが、夫(それ)は私に向つて仰せらるゝ事ではム(ござ)いませぬ……議員の観光団でも、参りましたら左様の事を仰せられて宜しうム(ござ)います。

     彼等貴衆両院の者共なら、国家の根本をも理解せぬ者共許(ばか)りでム(ござ)いますから、統監の御威光で晩餐でも賜つて、左様な御演説でもありましたら、随喜の涙を零して有り難くお聴きするでム(ござ)りませうが……私丈(だけ)には決して左様な乱暴を仰せられる事をお止め遊ばすが、閣下のお為でム(ござ)ります……能くお考へ遊ばしませ。其(そ)の桂総理大臣の締結致しました、日韓協約を挙げて韓国の国王及び政府が、日本 天皇多年の御仁恵と御保護と共に忘却し、無視し、其(そ)の上に夫(それ)を土足に掛けて蹂躙し、彼が方から破棄致しまして其(そ)の協約が無くなりましたから、茲(ここ)に初めて日露戦争が起つたのでム(ござ)います……元来日清戦争後に於いて、露清両国は、屡々(しばしば)秘密条約を致しますので、日本政府よりは数回警告を両国に発しましたが、夫(それ)を彼露清両国は、極端に刎(は)ね付けました。日本政府は其(そ)の権幕に恐怖して、只之を見て居ました処が、露西亜は屡々(しばしば)『バ(※)ルカン』に対する強行南下に失敗し、今度は西比(シベ)利(リ)亜(ア)鉄道施設首部なる物を起し、烈寒瘠土(※れつかんせきど)、三(※)千余英里の西比(シベ)利(リ)亜(ア)に鉄道を布設すべく、二億六千万留(ルーブル)の巨資を以て計画し、露国第一の政治家にして、経済家たる『ウ(※)ヰツテ』伯を擢(※ぬ)いて、此(こ)の施設首部の委員長に上げ、一(※)意勇往、浦塩(※うらじお)に達すべく、十六ヶ所より一斉に着手致しました。其(そ)の時私は閣下に御意見を伺ひましたら、(ナニ露西亜人の煩悶ぢや……日本は露西亜人の煩悶の相手にはなれぬ…『バイカル』の湖水は汽車を抱へて越すのか……ソンナ痴漢(こけ)威(おど)しで……露西亜自身が滅亡する丈(だけ)の外(ほか)何の興味もない事ぢや)と仰られました。夫(それ)から其(そ)の鉄道路線が『ハルビン』に達するか達せぬ頃、パツと露(※)清の秘密条約を発表し、『ハルビン』より『南マンチユリア』に『ブランチ』(支線)を起工し、奉天、遼陽、南山、大連、旅順、と五ヶ所より工事を始め、今迄蓄積した布設材料は、一斉に『バイカル』の湖水を『フヱレーボート』にて列車を其(その)儘(まま)船に積んで輸送し、一方は自国の船と、支那の招商局の残船にて、海路より輸送し来り、夫(それ)が悉(ことごと)く軍事的永久の設備を為すのでム(ござ)ります。アレヨアレヨと云ふ間に、露国は絶対無限の権力を持った、東洋総督たる『ア(※)レキシーフ』が、天津に往来を始めました。

     オヤオヤと云ふ間に、京城駐在の露国公使に命(めい)を伝へて、韓国の王室及び政府をグーツと押へ付けました。唯さへ自(※)強会と云ふ親露党を高唱する事(※)大主義の、李(※)完用内閣は、国王と共に日本より受けたる多年の煦育(くいく)保護の恩義を、瞬間にして放棄し、日韓協約をもズタズタに引裂いて、直ぐに馬(※ば)山浦(さんほ)を三方の上に載せて、露西亜公使の前に跪(ひざまず)き(東洋に於ける海陸連絡は、馬山浦が一番宜しうム(ござ)ります。対馬の租借もお望みならば、尻さへ押して下されば、韓国から日本に申込みます)と申出たのでム(ござ)ります。サア、日韓協約が此(かく)の如く蹂躙破棄され、多年の東洋の家庭に苦楽を共にせねばならぬ女房の韓国が、斯(か)くの如く白日公然露国公使と姦通をして、彼が懐に抱かれた上は、日本は忽ちにして、東洋家庭の破滅であるから、国家を焦土となすも、最後の一人となるも、刀の鞘を払うて戦はねばならぬ事になつたのでム(ござ)います。サア如何でム(ござ)います。此(こ)の日韓協約が韓国の不埒で、破棄されたればこそ、閣下は小村外務大臣と東京駐在の露国公使『バロン・ローゼン』と談判をさせねばならぬと云ふ事をお極(き)めになつたではム(ござ)りませぬか。此(こ)の小村外相に命ずる、日露談判の元價(もとね)、即ち是所(ここ)までは戦はずに我慢する、是(これ)以上はモウ国家を失ふも戦争をすると云ふ、談判の根本を極(き)めて、小村に命ぜねばならぬと云ふので、閣下は前代未聞の御謹慎で、伊勢大廟(だいびょう)に御参拝になつて、京都に待つて居られる、山縣公の別荘に御参集になる桂、小村の両相は、大阪の藤田の別荘で閣下をお待申して居る。

     児玉台湾総督と、私は呼ばれて、京都にお待ち申して居ます。ヤツと閣下が京都にお着きが、即ち明治三十六年の四月廿一日であつたと思ひます。夫(それ)から閣下と山縣さんと、桂総理大臣と、小村外務大臣との四人は、アノ山縣さんの内の西洋館の二階に、朝の十時頃から午後の四時頃まで、弁当まで二階に取寄せて、御評議になつたのは何事でム(ござ)いました。是が日本開闢以来、又なき無鄰(※むりん)庵(あん)会議と申す、全く国家を粉砕するか、取留めるかと云ふ天地も震動する程の会議でム(ござ)いましたぞ。私と児玉さんは、下の座敷で大欠伸して寝て居りましたが、晩方に二階から降りてお出になつた閣下方は、如何なる事を御評定になりました。

    (韓国を確実に日本の有とするなら、戦争は我慢しよう……若し夫(それ)を露国が承諾せず、一歩でも鴨(※おう)緑(りょく)江(こう)を超えて来たらば、日本は滅亡を期して飽くまでも戦争を仕よう)

    と云ふのでム(ござ)いました。私と児玉さんは、実に実に其(そ)の閣下方の御評議の安價に一驚(※いっきょう)を喫しましたが、皆々一通りならぬ緊張の時でム(ござ)いましたから、怏々として東京へ帰つて来ました。夫(それ)から同年の六月廿三日、天皇陛下の御前で其(そ)の条件を議題として、御前会議が開かれました。其(そ)の時、明治天皇は、

    (卿等が評議した通りで宜しい……遄(すみや)かに両国の談判を開始せしめよ)

     と仰出されましたので、此(こ)の無隣庵会議の決議は、直ぐに夫(それ)が国是となりました。夫(それ)から両国の談判日に非にして、トウトウ翌年の二月七日には、瓜(※)生、八(※)代の両将が、仁川に於いて露国の軍艦二隻を撃沈致しました。夫(それ)から旅順の海戦となり、延(ひ)いて海陸の大戦二年に亘りまして、非常の惨烈を極(き)めましたが、夫(それ)は国是の為に戦うたのでム(ござ)います。(其(そ)の国是は即ち韓国を確実に取るのでム(ござ)い升。モウ協約は疾(とう)の昔風邪に舞うて飛んで散つて仕舞うて、此(こ)の世には在りませぬ)即ち是丈(だけ)の事実は、一事として閣下が御自身に御関係ない事はム(ござ)いませぬ。幸いに、天皇の稜(み)威(いつ)と、閣下方の御苦心と、海陸兵士の忠勇とによつて天佑(※てんゆう)常に日本軍に厚うして、大捷(※たいしょう)を得ました。今日となりましては、最も当然の措置として、

    (1)先ず韓国の意思を叱責して、二度と此(かく)の如き不埒を為し得ぬ丈(だけ)の措置をする為に、統監制が出来ました。

    (2)国是として韓国を確実に取る為に、統監制が出来ました。

    (3)取るに就いては、既に其(そ)の代価は払い済みでム(ござ)います。即ち軍費二十八億円、死傷二十三万、是は韓国の代価としては、過当の高率である事を、世界に高唱して、深く韓国の上下を戒めて、此(こ)の国是の為に斃れた多くの者を弔うてお遣りなさねばなりませぬ。夫(それ)等の事を、公明正大に執行する為に、統監制が出来ました。

     然るに閣下は、既に破棄せられて、影も形もない日韓協約を、マダ現存するかのやうに拾い上げて、別に閣下の協約を拵(こしらえ)へて、其(そ)の疾(とう)の事前に締結した、桂公のみに其(そ)の責めを負はせて偶々(たまたま)得られた、此(こ)の権要の位置に恋々(れんれん)と遊ばして、此(こ)の国是に背き、全国民血誠の軍費に背き、海陸百万の忠誠に背き、二十三万の義勇死傷の神霊に背きて、斯(か)かる畏るべき公言を世界に向つて遊ばした上、永年間、人間の耐へ得ざる、苦痛惨憺を凌いで、日韓の為に赤誠を尽くしました、日韓両国の志士の誠忠に背き給ふ事は、仮染めにも血あり、誠ある人の為し難き事と存じます。其(そ)の上に私微力ながら、此(こ)の事を聞くと其(そ)の儘(まま)、御身辺の事をも気遣ひ、急煎(きゅうせん)の如く飛来して、親しく閣下にお諌(いさめ)を申上げるのに、馬鹿呼ばはりを遊ばすとは、全く御凶狂気でも遊ばしたと存ずる外(ほか)はム(ござ)りませぬ……ドウか思召を改め給うて、一意専心東洋の永久に、国家の面目が相立つやうのお考へに返らせらる事を、両国の為に昧死(まいし)頭を叩いてお願致しますのでム(ござ)います」

     と庵主は生まれて四十三年、幾度か遭遇した死生の刹那も、嘗(かつ)て無かりし程の切情に迫られ、声涙(せいるい)共に下りて、苦諫を為したのである。伊藤公は、全く沈黙に耽つて居られたが、ヤヽ暫くして、

    「杉山君……僕は君の誠意を感謝する……僕は生まれて六十四年君程の人を知らなかつた……夫(それ)では一体ドウしたら好いと云ふのか……」