「沖縄自由民権運動」の先駆者・謝花昇の生涯

 

 

埋れた歴史の語り部

「沖縄自由民権運動」の先駆者・謝花昇の生涯

 

浦崎栄徳氏 謝花昇を偲ぶ会理事

 

 

 

 

沖縄の近代史を語る時に欠かせない偉人・謝花昇(じゃはな・のぼる)。東京で学業を修め、故郷の民のために改革に敏腕を振うが、時の権力者と対立することになる。その人生は、まさに義の人そのものだった。

 

 

 

 

 

 

旧慣温存策の打破―「謝花民権」

 

 

ここで謝花を表現している「自由民権運動の父」というのは、本土で展開された自由民権運動とは違っていました。つまり、本土の運動が国会の開催、選挙権の獲得が目的だったのに対して、謝花が展開した運動はそれとは異なる面を持っていたのです。

謝花が十年間の留学生時代は、日本本土で自由民権が盛んになった時代でした。世代わりの息吹を東京で肌身に感じるわけです。明治二十四年(一八九一)に帝国大学農科大学(東京大学の前身)を卒業し、沖縄に帰ります。この年に帰県すると、謝花は沖縄県技師となり、留学時代に吸収した知識で色々な改革を試みます。

 当時の沖縄は、旧慣温存政策が布かれていました。これは、「琉球処分」で日本の社会制度にすぐに馴染めないため、明治政府が沖縄を徐々に同化させるために、琉球時代の制度をしばらく残して徐々に変えていく政策でした。その中でも幣害になっていたのが、土地制度でした。沖縄の農民総ては農地を持たない小作農で、一部の高級役人しか土地を所有することができないままでした。また、主要作物のサトウキビの植え付け制限が残っていて、農民の貧困は深刻でした。

その原因に「貢糖制度」と「買い上げ糖制度」がありました。

貢糖制度とは、沖縄が島津に納めていた租税米のうち三割三分にあたる租税米を砂糖で代納させていて、廃藩置県後は政府に納めさせていました。買い上げ糖制度とは、政府が相場より安い価格で砂糖を買い上げ、畑税として納める麦・大豆の石代金と相殺し、余剰金があれば人民に還元するという制度です。これらは旧藩時代の制度が温存されたままでした。東京で先端の農学を修めた謝花は、この二つの旧慣を廃止すべく運動を起こして、買い上げ糖制度は明治三十二年(一八九九)、貢糖制度は明治三十六年(一九〇三)にようやく廃止されます。つまり、謝花にとっての自由民権運動とは、本土のそれと同じように、藩閥政治打破や参政権獲得などを目的とする一方、旧慣温存されて困窮する沖縄の農民を解放する運動でもあったのです。それが「謝花民権」とも言われている所以です。

 

義人の原点

 

 

 

 

謝花は慶応元年(一八六五)に、東風平(こちんだ)間切(まぎり※琉球王国時代の行政区分。現在の沖縄県八重瀬町)東風平村の百姓の家の長男として誕生した謝花は、幼い頃から学問がよくできていました。そこで預けられたのが、義村按司あじ琉球諸島に存在した称号および位階の一つ。王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男がなった。按司家は国王家の分家にあたる)朝明でした。義村按司は、当時東風平間切の総地頭で間切が疲弊していたときに、自ら居を構えて間切を再建させた人物です。どのような逆境でも「まけじ魂」があれば道を切り開けると民に諭した人で、謝花はこの義村からまけじ魂を受け継いだと思います。義村の元で漢学を学んだ謝花は義村の影響を強く受けます。

義村は琉球処分の頃に「頑固党」の領袖でした。当時の沖縄では頑固党と「開化党」の二つに分かれて争っていました。明治政府は処分を断行するために、松田道之を処分官として派遣して、清国との冊封朝貢関係を廃止し中国との関係を一切断つことなどを言い渡します。頑固党の主張は、これまで中国の冊封を受けてきて経済や文化で恩恵を受けてきた中国との関係を維持すべきで、琉球処分案には断固反対するというものでした。開化党は琉球処分を受け入れて大和と一緒になろうという人たちです。結局、頑固党の主張は敗れ、義村は清に亡命し客死します。

謝花は、そうした義村の義を貫く生き方に影響されたのではないでしょうか。謝花は、義人という表現がぴったりの人物だったと思います。正義を貫く人でした。かと言って、決して度量が狭い人ではなかったようです。冗談で人を笑わすこともあったようです。

謝花は小学校、沖縄県師範学校に進みます。当時はまだ琉球国時代の階級意識が強く、高等教育を受けられるのは士族の子弟が殆んどでしたから、平民の出の謝花が入学できたのは非常に珍しいことでした。師範学校を卒業した謝花は、県費留学生として東京に遊学します。選抜された中で平民は謝花一人でした。

東京では学習院に入学しますが、ここでも上位の成績を残しています。その後、帝国大学農林大学に進み、林業と農業を精力的に研究します。その研究は優れていて大学の恩師からは「謝花は沖縄の謝花ではなく、日本の謝花である」と称賛して、東京に残って学界で飛躍することを薦めたくらいです。しかし、謝花は故郷・沖縄の現状を変えようと決心し、帰郷します。

 

 

奈良原知事との対立

 

 

 

 

ところが暫くして時の第四代沖縄県知事である奈良原繁※1834-1918 幕末―大正時代の武士、官僚。薩摩藩士。文久2年島津久光に命じられ京都寺田屋尊攘派をおそった(寺田屋事件)。静岡県令、工部大書記官、日本鉄道初代社長,元老院議官などを歴任。明治25年から沖縄県知事として開発を専制的にすすめ、琉球王とよばれる)と対立します。奈良原は欧米諸国に鉄道調査で派遣され、帰国後日本鉄道の社長に就任、貴族院議員となり、宮中顧問官を務めた実力者で、沖縄県知事に赴任したのは、時の総理大臣松方正義の推薦だったという大物知事です。

 最初の対立は、杣山(そまやま)開墾がきっかけでした。廃藩置県によって旧藩時代の藩士が職を失い生活が困窮していて、この貧困士族の救済と人口に対して耕地が絶対的に不足していたため、開墾の必要性がありました。奈良原知事は大規模な開墾計画を打ち出し、謝花は開墾主任に命ぜられます。ところが、勝手に開墾して山林が乱伐されていたり、開墾許可の手続で賄賂や不正が行われていました。また、奈良原知事一派の開墾志願者に許可される暴挙に謝花は敢然と立ち向かい、不正な開墾願いをことごとく不許可にします。謝花はついに開墾反対の運動を始めます。しかし、公然と反対運動を起こしたことを口実に開墾主任を解任されてしまいます。これが「謝花民権」の始まりです。

 奈良原知事との対立はその後も深刻化していきます。決定的だったのは、農工銀行の設立でした。謝花は農業振興のために設立された農工銀行の常務に就任しました。真の県民のための銀行として運用されるべく公平な機関にしようと動きますが、奈良原知事はこの銀行経営にも干渉し始めて、ついに謝花を役員から追放します。

 こうした奈良原知事の悪政から県民を守るには、追放するしかないと決意した謝花は、明治三十一年(一八九八)夏に上京し、板垣退助内相に面会し知事更迭を求め、板垣もこれを約束しました。ところがわずか四ヶ月で内閣が解散してしまい、実現しませんでした。

ついに謝花は県庁を辞職して野に下り、県民と手を組んで闘い世論を興し、追放するしかないと「沖縄倶楽部」を結成し運動を始めます。その一つが、沖縄の参政権運動でした。知事の横暴に歯止めをかけられないのは、沖縄に選挙権がなく県議会もないためだと、参政権運動を始めました。政府の説明では、沖縄はまだ土地整理、税制整理が不備でそのため個人の租税が把握できていないから選挙権を与えるのは困難というものでした。謝花はこの政府の説明は建前で、沖縄に選挙権を与えないのは、専制的支配を続けさせるものだと参政権運動に転換、展開します。県人口四十万人に達していて議席がないのはおかしいし、帝国議会が発足してすでに七年も経っていましたからね。

 謝花は山林学校の恩師・中村弥六氏※1855-1929 明治・大正期の林業学者、政治家 衆院議員。長野県生まれ。大学南校卒。林学博士。ドイツに留学。独逸語学校教員、大阪師範学校教師兼監事、大蔵省御用掛、農商務省権少書記官、東京山林学校教授、東京農林学校教授、林務官、農商務技師、司法次官を歴任明治23年長野郡部より衆院議員に当選。8期。臨時政務調査委員、司法事務に関する法令審査委員長となる)を紹介議員に立てて請願書を提出します。高木正年(※1856―1934政治家。全盲の代議士。弱者の立場に立った活動を一貫。明治・昭和期の政治家。江戸品川生れ。1881年(明治14)に東京府会議員となった。1890年第1回帝国議会に民生党から立候補して当選。政府の軍備増強に反対したため、弾圧を受ける。品川漁民問題で奔走するうち眼病を患い失明。以後盲人運動にも取り組み、1920年(大正9)点字による選挙投票の公認の請願を提出。また、婦人公民権、植民地の人権問題など、大正デモクラシーを背景に庶民の視点から誠実な政治活動を展開した)、星亨(※1850―1901 政治家。江戸の生まれ。自由党に入党。官吏侮辱罪や出版条例違反などの罪で入獄。衆議院議長となったが、反対派の策動で除名。のち、立憲政友会の結成に参加し、第四次伊藤内閣の逓相。東京市会議長在職中に暗殺された)、尾崎行雄(※1858―1954 政治家。神奈川生まれ。堂(がくどう)。立憲改進党の創立に参加。第1回総選挙以来、連続25回当選、代議士生活63年。東京市長・文相・法相を歴任。大正2年第一次護憲運動では先頭に立って活躍。憲政の神様と称された)などの国会議員を中心に沖縄県参政権運動に協力を得ます。その結果、沖縄県二人の議席案が通過しました。謝花は四、五人を考えていましたので納得はしませんでしたが、ともかく沖縄にとっては第一歩の大きな前進でした。

 

 

 

受難の末の末路

 

 

 謝花は胆力もあって、県の権力を握る知事に正面から戦いました。運動資金には私財を全部投げ打ち、さらに稼ぐために肥料、文房具を扱う商社「南陽社」を立ち上げる一方で、機関紙「沖縄時論」を発行し奈良原県政を痛烈に批判します。教師、役人などを辞めて同志となった優秀な人たちが約二十名集ります。創刊当初は東京・神田で印刷されました。その後印刷機を買って四号からは沖縄で印刷しました。残念ながら二十七号しか収集できていなかったのですが、最近、幻の創刊号が見つかりました。通巻五十号まで発刊されたと言われています。ライバル紙の「琉球新報」(現在の琉球新報は戦後「うるま新報」を復元改題したもの)は、体制側の論陣を張って謝花と対立していました。

そんな時に起きたのが、「共有金問題」です。共有金とは貢糖制度で沖縄に課せられた現物税の砂糖が大阪市場で換金されて政府に送られていて、砂糖の売上代金と租税額の差額を還付するために積み立てていたものです。共有金には他に航路補助金の一部、飢餓などに備えた救助米を換金したものも含まれていて、莫大な金額になっていました。しかし、その共有金の存在は県民に隠されていた上に、東京の銀行に預けられていました。謝花たちはこの共有金を知事たちが私物化していることを突き止め、東京の新聞「万朝報」に暴露させ、沖縄時論でも報じました。沖縄時論のあまりの追及の鋭さに奈良原知事は、暴力団を使って謝花を襲わせますが、何とか難を逃れます。

その後も知事からの弾圧が続きますが、謝花は挫けず筆鋒をますます鋭くしていきます。しかし、今度は兵糧攻めに遭います。南陽社の取り引き先に圧力がかけられました。同志達は就職を妨害され、収入の道を閉ざされ、活動もできなくなっていきます。謝花自身も参政権運動で全財産を投じていましたから、働き口を探しますが妨害されてなかなか働けません。ついに沖縄倶楽部を解散します。

解散した後、謝花は職を山口県に得ます。山口に向う途中の神戸駅で精神衰弱になって、倒れてしまいます。駅員が倒れた謝花を病院に入院させますが、身元が不明でした。謝花が所持していた下国良之助という名刺を見つけて照会します。下国は沖縄で教鞭を執っていた人で、当時大阪で商売をしていた人物です。しばらく世話するのですが、快方に向かわないので、家族に連絡して沖縄に帰すことになります。沖縄に帰って、手厚い看病を受けて療養生活を送りますが、四年後の明治四十一年(一九〇八)についに亡くなります。四十四歳の若さでした。

 

 

 

語り継ぐために―

 

 

 平成二十九年四月に「謝花昇を偲ぶ会」を結成しました。謝花の遺徳を偲び、その業績と功労を検証して未来永劫継承していこうというのが、設立の目的です。具体的には謝花昇資料館の建設を推進します。散逸しかねない資料を収集し、学びの場として資料館は必要不可欠です。昭和10年(一九三五)には、旧謝花昇銅像とともに建設されましたが、取り壊されたままで現在は町の歴史民俗資料館に間借りした形で一部の資料を展示しています。私は個人的に謝花の資料を収集して段ボール箱の中に入れていました。ところが、東京の大学生から「沖縄の近代史を調べるには謝花を調査すべきだと言われて」と私の元にやってくるようになり、その度ごとにダンボールをひっくり返して説明していました。これでは大変だし、もっと謝花のことを知ってもらいたいと町に掛け合って、今の資料館に常設してもらうようになったのです。

この他にも膨大な資料がありますので、専用の資料館を建設して謝花の功績を後世に伝えたいと思います。今の沖縄の状況は、謝花が民権運動をやっていた時代と似てはいないか。沖縄の人々の民権が踏みにじられてはいないだろうか。謝花の生き方を知ることで、子どもたちには向学心を、大人には沖縄の人々の中にある「まけじ魂」を呼び覚ましてもらいたいと思います。

 

浦崎氏プロフィール

昭和22年生まれ(70歳)八重瀬町出身。

 

参考文献:『自由民権の父 義人・謝花昇 略伝』(2005年初版 2011年再版 八重瀬町刊)

 (月刊フォーNET2018年4月号 未校正)