糸島が生んだ「反骨のコーチ」岡部平太  日本近代スポーツの礎を築いた伝説の男を発掘する

そこが聞きたい!インタビュー

糸島が生んだ「反骨のコーチ」岡部平太

 日本近代スポーツの礎を築いた伝説の男を発掘する

 

『Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語』著者 橘京平氏

 

 

 

日本初のコーチ、日本に初めてアメフトを紹介、百年前にスポーツに科学的トレーニングを取り入れる、柔道をはじめ野球、テニスなど何でもこなすスポーツ万能の持ち主、そして平和台(福岡市)を築いた男・岡部平太の存在は一般にはこれまで全く知られていなかった。その伝説の男の人生を発掘する意義とは―

 

 

「Peace-Hill」に込められた想い

 

 

―現在、陸上競技場や平安時代の外国からの使節を接待していた鴻臚館(こうろかん)跡やかつて球場があった「平和台」を作った岡部平太の存在は、地元福岡でさえほとんど知られていませんね。

橘 戦時中にこの地には歩兵第二十四連隊の本営が置かれていましたが、終戦GHQに接収されて将校宿舎が建設される予定でした。昭和二十三年(一九四八)の福岡国体当時、国体事務局長だった平太が、何度もGHQと直談判してついに福岡市が取得します。平和台の命名は、「兵(つわもの)どもの夢の跡を平和の台(うてな)にする」として、英語で「Peace-Hill」(平和の丘)を意味する「平和台」と名付けたのです。当時のGHQは日本の支配者的立場ですから、そのGHQから奪還したのですから驚きです。命名のもう一つの理由は、平太の長男、平一が昭和二十年(一九四五)四月十二日に特攻隊として鹿児島県の鹿屋基地を立って、沖縄で散華したこともあります。平一への鎮魂と平和なくしてスポーツもないという思いが込められています。戦後初めて日章旗が掲揚されたのは、平太が取り戻した平和台で開催された福岡国体の開会式でした。当時はまだ許されていなかったにもかかわらずです。正式にマッカーサーが許可したのは、その一年後の昭和二十四年(一九四九)元旦からですからね。

―平和台がなければ今の福岡のスポーツの隆盛もなかったでしょうね。

橘 もしこれが実現していなかったら、福岡ひいては日本のスポーツは相当遅れていたかもしれません。実際、その後福岡では地方都市では珍しい大相撲の九州場所開催、プロ野球球団、プロサッカーチームが誕生しています。

―岡部平太を取り上げる目的は?

橘 会社(西日本新聞メディアラボ)の方針である地域貢献があります。また、新しいデジタルコンテンツを作る際にその題材を埋れた人物にスポットを当てようということになりました。あることをきっかけに平太のことを知ったのですが、私自身それまで全く知りませんでしたから、新鮮でした。こうした人物を世に出すべきだと。新聞にも連載していますが、ほとんど知られていない人物です。

―その平太ですが、上巻(下巻は今夏に発行予定)を読むと、快男児という表現がぴったりの人物ですね。

橘 糸島郡芥屋村(現在の糸島市)に生まれた平太は、小さい頃は悪僧(わるそう)坊主で、運動神経抜群で悪さをよくやっていました。「天狗の平太」と近所では有名だったそうです。福岡師範学校に進んだ平太はその運動神経を存分に発揮して、柔道、相撲、野球、テニス、ボート競技などで活躍します。特に柔道では、当時の国内最大の大会「京都武徳会」で準優勝します。また、 福岡市の柔道場双水執流(そうすいしつりゅう)隻流館でも腕を磨き、自由に技を掛け合う乱取りの「千本取り」を千本続けて行う修行で、通常八時間はかかるのに平太は五時間で成し遂げます。

 

 

強烈な反骨精神の持ち主

 

 

―平太は反骨精神が旺盛だったようですね。

橘 反骨精神の塊のような人物でした。これは生涯通じての平太の生き方です。福岡師範では教師の偽善的な教育に反発してわざと生っているキンカンをなぎ倒して退学処分になりかかります。平太の人生を辿っていくと、それがよく分かります。

―嘉納に誘われて東京高等師範に進みましたよね?

橘 平太の類希な才能を見出したのは嘉納です。実際に学生では只1人の講道館四段を授与され、その後、平太は嘉納について各地を回って模範実技を披露します。その後、結婚した平太は嘉納らの援助で二十六歳で単身、アメリカに渡ります。これが嘉納との対立の原因になりました。

アメリカでは最初にシカゴ大学に留学します。この時に運命的な出会いがありました。その人物、スタッグ教授は米大学スポーツ指導の先駆者でアメリカンフットボールの父と言われた人でした。平太の渡米の当初の目的は柔道の紹介と普及だったのですが、スタッグ教授との出会いでスポーツ探究にのめり込んでいきます。平太は生涯コーチで生きていくことをスタッグ教授との出会いで決めたのです。スタッグ教授は九十六歳まで現役のコーチとして活躍します。平太にとっては人生で最も強い影響を受けた師匠でしょうね。アメフトをはじめ、ボクシング、レスリング、スキージャンプ、バスケット、野球、ボート、水泳、陸上などありとあらゆるスポーツに挑戦し活躍します。ちなみに日本で初めてアメフトを日本に紹介したのは、平太です。

―スタッグ教授という人物は?

橘 スコットランド系の移民で貧しいピューリタンの家で育ちました。プロ野球に最高年俸で誘われますが断って、アメリカで初めて体育で大学教授になり、アマチュアスポーツのコーチとして生涯を貫いた人物です。九十六歳まで六十八年間もコーチ人生を歩みました。

―そのスタッグ教授の薫陶を受けて、日本で初めてコーチという役割を導入したのも平太だそうですね。

橘 今の日本のアマチュアスポーツでもコーチという役割が確立されていません。学校の運動部では専門的なコーチの技術を持っていない教師がやっていますからね。だからどうしても精神主義的な指導になってしまい科学的なコーチ法は無視されがちです。平太はスタッグ教授の指導の下、体育理論とコーチ理論を実地で学びます。それを百年以上前の日本に持って来ようとしたのですから、平太の反骨精神は並々ならぬものがあります。例えばインターバル走など今では常識になっている科学的トレーニング法を日本で最初に取り入れました。この他、採血してトレーニングの結果を検証するという方法も取り入れました。それでも当時の日本で専門のコーチ業という職は認められずに

 

恩師と決別、新天地で大暴れ

 

 

 

平太の身分はあくまでも教員でした。そこにも平太の葛藤はあったでしょうね。

―そして、ついに嘉納の元を離れますね。

橘 アメリカのプロレスラー、サンテルが講道堂に挑戦を申し込み、嘉納はそれを受けようとしますが、平太は猛然と反対します。アメリカでプロレスを実際にやったので、プロレスと対戦すると、そもそもルールが全く違うし、興行師の言いなりになって、柔道からアマチュア精神が失われると思ったからでした。二人は徹夜で議論しますが、柔道の普及を目指す嘉納は平太の説得に首を縦に振りません。ついに決別して嘉納の元を去ってしまいます。

 その後、平太は旧制水戸高校の体育講師になります。そこでは日本初の四百メートルトラックを造ったり、学生にあらゆるスポーツを教えました。しかし、校長の教育方針と対立しわずか半年で辞め、次に向ったのが満州でした。

満州ではスポーツだけではなくいろんな活動をしているようですね。

橘 水戸高を辞めた平太は大正十年(一九二一)、満州に渡り、南満州鉄道株式会社(満鉄)に体育主任として入社します。その後、満州体育協会を創設、理事長に就任。以後11年間在職することになり、平太はこの新しい国で自分の理想のスポーツを追求しようとしたのだと思います。実際、平太は満州で精力的に活動しました。大正十四年(一九二五)にマニラで行われた第七回極東選手権大会の陸上チーム総監督、昭和三年(一九二八)には、大連運動場で日本初の国際スポーツ大会である日本とフランスの国際対抗陸上競技会を提案し成功させました。

また、翌年には張作霖の長男で当時満州東北大学学長だった張学良と協力して日独支対抗陸上競技会を実現させます。また、コーチとしては陸上の岡崎勝男三段跳びの金メダリスト、南部忠平らを育てました。この他、昭和六年(一九三一)の第一回スピードスケート選手権でも監督を務めました。平太はマルチな才能の持ち主でスケールが大きいので、一面ではなかなか捉えられないですね。

―その後、平太はスポーツ界から追放されますね。

橘 昭和六年(一九三一)に満州事変が勃発し、親交あった張学良の義兄弟である馮庸(ひょうよう)という人物が亡命するというのでそれを援けました。しかし、馮庸はそれを裏切って国民党に合流します。それがスパイ疑惑関東軍に逮捕され、処刑されそうになります。それを助けたのが、石原莞爾だとされています。平太と石原の関係はよく調べないと分かりませんが、親しかったのは事実のようで恐らく二人の考え方が似ていたからかもしれません。

 

「スポーツは勝たなければならない」の真意とは

 

 

 

―張学良の父を謀殺した石原と親交があったというのも平太のスケールの大きさをうかがわせます。

橘 スポーツ界を追放された後は北京にも行っていますが、その頃の行動はまだ分かっていません。ただ、昭和二十年(一九四五)、時の総理大臣の小磯国昭に戦争終結を直言しています。平太は、終戦間近の昭和二十年(一九四五)六月に帰国して故郷に戻ります。戦後、再び平太が表舞台に出たのが、当時の福岡市長の要請による国体の誘致活動でした。それを機に平太は日本のスポーツ界に復帰することになります。

―「いだてん」金栗四三と親交が深かったようですね。

橘 同じ年で学校も東京師範学校で同じですから、かなり親しくしていたようです。平太は長年国際スポーツに触れてきて、金栗に当時の日本人が世界の陸上で勝負できるのはマラソンしかないと直言していました。そこで昭和二十五年(一九五〇)に金栗たちと福岡に「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成し、寄附金を集めて九州各地で合宿し、疲労回復などの科学的な分析を実施しました。これが今の日本のマラソン界の源流になっています。その最初の大会が昭和二十六年(一九五一)のボストンマラソンで、田中茂樹が日本人として初めて優勝を果しました。

―平太の人生を辿ってみて、彼が日本のスポーツ界に与えた影響はどう見ますか?

橘 彼がいなかったら日本のスポーツ界は相当遅れていたでしょうね。今起きているパワハラなどのスポーツ界の不祥事は、彼が生きていれば起きていなかったかもしれません。平太はスポーツ界の精神論一辺倒では駄目だと百年前から唱えて実践してきた人物ですから、いわゆるしごき、体罰などを一切認めていなかったでしょう。いわゆる根性論では強くなれない、科学的な理論を実践しないと勝てないというのが平太の信念でした。また、平太は、「スポーツは勝たなければならない。根性だけでは勝てない」ということを盛んに言っていました。

―それは勝利至上主義という意味ですか?アマチュアスポーツには過激に聞こえますが。

橘 平太の真意は、「勝つためにあらゆる努力をすべき」という意味だと思います。人事を尽して天命を待つ。つまり、科学的な練習を尽すことが人事で、その結果は問わないということではないでしょうか。それから、スポーツは平和でなければできない、だから平和が大切だというのも平太の信念でした。

 

岡部平太

明治24年(1891)~昭和41年(1966) 糸島郡芥屋村(現在の糸島市)生まれ。東京高師の柔道選手として活躍。渡米し,シカゴ大で体育理論をまなぶ。東京高師講師などをへて満州体育協会理事長。昭和26年ボストンマラソンの監督として田中茂樹を優勝にみちびいた。福岡市の平和台競技場の名付け親

 

橘京平プロフィール

知られざる偉人を発掘し、世に出すために西本新聞メディアラボ(福岡市)が立ち上げたプロジェクト名。

(株式会社西日本新聞メディアラボ)

西日本新聞社が100%出資するデジタル事業会社。1993年設立。WEB・映像コンテンツ制作、デジタルメディア運営、クラウドソーシング、デジタルマーケティング、イベントプロモーション、広告代理業など多彩な事業を展開している。

(フォーNET 2019年6月号)