「失敗すればはりつけ」―五庄屋の覚悟(うきは市吉井町)

 

大人のための歴史読本 ①

~知られざる偉業に見る日本人の自己犠牲精神~

 

「失敗すればはりつけ」―五庄屋の覚悟(うきは市吉井町

 

 

語り手 五庄屋追(つい)遠(えん)会会長 梶村福男さん(七十三歳)※2015年6月当時

 

 

 

 

五庄屋の悲願

 

 

 

寛文四年(一六六四)に「大石・長野水道」が完成して来年で三百五十周年という節目の年を迎えます。現在、地元でイベントを企画していますが、これを機会にもう一度「五庄屋」の偉業を振り返り、この大事業を成し遂げたご先祖に感謝しその感謝の気持ちを子々孫々まで語り継ぐべきだと意を新たにしているところです。

筑後川の南側・浮羽地区は今でこそ、肥沃な農地が広がる豊かな地域ですが、三百五十年前は平野の大部分は藪や林に覆われ、その間を開墾してわずかな畑作を主とした農業が営まれている、貧しい地域でした。その原因はこの地区が川より高く水を引けないという、水利に非常に不便な地域だったためでした。

特に生(いく)葉(は)郡包(かん)末(すえ)村(現在のうきは市吉井町包(かん)末(すえ)区)から西にある江南(えなみ)校区(うきは市吉井町)、竹野郡の船越、水分、柴刈地区(久留米市田主丸町)の地域の農民の生活は、貧しく水不足で不作の年には食べるものが無く餓死者や、先祖から受け継いだ土地を見捨てて他に移り住む者がいました。久留米有馬藩二十一万石には生葉郡を含めて八つの郡がありましたが、それを見ても生葉郡の石高が著しく低いということを記された記録書があります。

この頃、生葉郡には夏梅村庄屋栗林次兵衛、清宗村庄屋本松平右衛門、高田村庄屋山下助左衛門、今竹村庄屋重富平左衛門、菅村庄屋猪山作之丞(いずれも現うきは市吉井町)の五人の庄屋がいました。彼らはこのひどい農民の有様に心を痛め、このままでは村が無くなるという危機感を募らせていました。目の前を雄大に流れる筑後川から何とか水をこの地に引くことはできないかと何度も話し合った結果、ここから十キロ上流の現・うきは市浮羽町長瀬の入り江の筑後川に水門を設けて溝を掘り、落差を利用して川水を引くという、遠大な計画でした。

文三年(一六六三)の夏は暑さが特に厳しく、日照り続きで作物が不作で五庄屋は計画を早く進める必要性をさらに感じました。この年の秋に郡奉行の高村権内に五庄屋が、苦しんでいる農民の有様を伝え、かねてから構想していた計画を説明し藩の許可が出るように直談判しました。奉行から、成功すれば藩の収入も豊かになるので可能性が高い、詳しく調べて設計書や見積書を作成して願い出るように励まされます。

早速、実地の測量を始めました。水を通す溝の場所、長さ、幅、深さ、溝を通すためにつぶれる土地の広さ、工事に要する人員など詳しい見積書や水路の図面の作成に手を着けます。車もない時代に水に取り入れ口までの片道十キロの道のりを何度も往復したことでしょうし、測量機械、計算機もない時代でしたら、大変な作業だったと思います。こうした苦労の末に出来上がった願い所を大庄屋を通じて藩に提出します。そこには「これらの工事について費やす費用は五人の庄屋が全部受け持ちますから、藩にはご迷惑おかけしません」と書いてありました。

この計画に自分たちも加えてもらいたいと近隣の六人の庄屋が申し出てきました。この時、五庄屋は「自分たちは死を覚悟してやっているので。他の人まで巻き込むことはできない」と断ります。しかし、六人の庄屋は「自分の村だけに水を引くことは勝手が良すぎる」と反発、五庄屋が藩に願い出ることを止めようとします。そこで二人の大庄屋が仲裁に入って、その結果十三カ村中一任の庄屋で藩に願い出ることになりました。

ところが思わぬところから反対の声が上がりました。溝の上流域にある村々の庄屋が、ひとたび大洪水になったら自分たちの村や田畑が大水で大変な損害を受ける恐れがあるというものでした。これに対して十一人の庄屋が「計画通り工事を進めても決して損害を及ぼさない。万が一損害を与えた際は、必ず責任をとり、どんな重い罰でも受ける」という決意を示し、郡奉行も反対する庄屋たちを強く説き伏せたためにおさまりました。

藩では今まで経験のない大事業なので何度も五庄屋を呼び出して詳しく尋ねたり、念を押したりします。その度に五庄屋たちは早く工事を許可してもらうように訴え続けました。ようやく藩は土木工事に詳しい普請奉行の丹羽頼母重次を実地調査に当たらせることになりました。重次は夜間にいくつものちょうちんを竹に下げて皇帝を測ったりするなど水路の実際を測量し、藩に対して藩の仕事として取り組むべきだという意見を具申しました。

 

 

 

 

「庄屋どんを殺すな」

 

 

文三年十二月、ついに念願の藩からの許しが出ました。「今度の水道工事の道筋に当たる木や竹を切り払ったり。田畑をつぶしたり、家を移動したりすることについて一切反対してはならない」という厳しい命令が出されました。郡奉行は十一人の庄屋を呼んで「万が一水が出てこない時はお前たちの責任は免れない。もし失敗した時は罪として磔の刑に処されるだろうが、不服はあるまいな」と念を押され、五庄屋が進み出て「もし失敗した時はどうぞ私どもを厳しく罰して皆の見せしめにしてください。よろこんでその刑を受けて、藩や世の人々にお詫びいたします」と覚悟のほどを申し述べたのです。費用については人夫こそ藩の夫役で賄いましたが、たくさんの人夫の食費や必要な道具や支払い代金はすべて願い出た庄屋が負担しました。

寛文四年一月十一日、いよいよ工事が始まりました。藩の監督者が駐在する長野村に、「もし工事が成功しなかったら庄屋を磔の刑に処するぞ」という藩の脅しと励ましを態度として強く示すために立てられた十字形の磔の柱が立てられました。人夫たちは「庄屋どんを殺すな」と工事に必死に取り組みました。流し込んだ水が逆流したり、大きな岩に突き当たったりするなど幾多の困難がありましたが、多くの人々の懸命の働きによって、工事は意外なほどにはかどり、わずか六十日後の寛文四年三月中旬についに完成しました。

早速奉行の命令で忌まわしい磔の柱は下ろされ燃やされたそうです。工事に要した人夫は延べで四万人、この工事によって七十五町歩(約七十五ヘクタール)の田んぼに水が引かれました。この成功をきっかけに水田を広げようという気運が高まり、その後寛文五年(一六六五))から第二・三期工事が実施されました。拡張工事と共に水に需要が増していく中で計画されたのが大石堰で、延宝二年(一六七四)に築造され当初七十五ヘクタールだったかんがい面積は、貞享四年(一六八七)には千四百二十六ヘクタールに達しました。

三百五十年前の技術の高さも驚かされます。大石堰の長さは三百九十四メートルもの長さがあり、その間に仮船通し、本船通し、簗(魚道)を設け、普段堰面は全部露出しているものの、増水したときは堰面を超えて流れるなど大規模なものでした。また、筑後川から流れて出た水が北新川と南新川に分かれる分流点「角間天秤」には、水を測り分けるために川底に大きな石(沈み石)が置かれています。この分流点に差し掛かる手間では、川の流れを二ヵ所でクランク式(直角)に曲げ、水流を弱めて分流点に向かわせるなどの工夫が凝らされています。

 

 

 

三百五十年前の大恩

 

 

この偉業は明治四十年代に浮羽郡唱歌として制作され、その一部は江南小学校の校歌として子どもたちに歌い継がれています。この大事業のお陰でこの地域は米が取れて餓死者も出なくなったのですが、それが故に久留米藩の年貢の取立てが厳しくなっていきます。江戸の末期にはこの地域では農民一揆が激しくなり、五庄屋の偉業は人々から忘れ去れてしまったようです。

明治に入ってからようやく五庄屋が見直され始め、五人の御霊が祀られた長野水神社(五霊社)が創建されました。明治三十四年には五庄屋の地区の住民たちがそれぞれのお墓を作っています。九十五年前の大正七年(一九一八)五月二日に五五第一回五庄屋追遠会が開かれ、以後毎年五月二日に記念式典を開いてきています。「往時を偲び、五庄屋に感謝の誠を伝え、後進にこの偉業を伝えていく」ことを目的としています。

子どもたちにこの地の歴史を語り継いでもらおうという取り組みもずっと続いていて、江南小学校では四年生が毎年十一月には江南フェスタというイベントで五庄屋の演劇をやるようになっています。来年五月二日の追遠会は、三百五十周年を記念して大人と子どもの合作で五庄屋物語の演劇をやる予定です。再来年の「うきは市施行十周年」では、地元有志による五庄屋のミュージカルも企画しているところです。

五庄屋を題材にした小説「水神」の作者、帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんは小郡市の生まれだそうで、恐らく小さい頃から五庄屋のことを聞かされて育たれたのではないでしょうか。フィクションの部分もありますが、地名はそのままですし大筋は史実です。登場人物が筑後弁を使っているので物語にすっと入っていけましたね。読み進めると感動の連続であっという間に上下巻を読み終えていました。

気になるのは、農家が米では食べることができないので最近農業の形態が変わってきて、五庄屋の恩恵の念が薄れつつある感じがすることです。それは今だけを見るのではなく、遠く三百五十年前に思いを馳せてもらいたいのです。「五庄屋の命がけの大事業がなかったら、自分の祖先は存在しなかったかもしれない」と。

(参考文献 うきは市三堰ガイド「大石・長野・袋野水道」うきは市教育委員会刊)