『奇跡の村』―その信仰の意義と歴史を語る 大刀洗町今地区に伝わる隠れキリシタン秘話

そこが聞きたい!インタビュー

 

『奇跡の村』―その信仰の意義と歴史を語る

大刀洗町今地区に伝わる隠れキリシタン秘話

 

今村信徒発見150周年記念誌『信仰の道程(みちのり)』

編集委員(海の星保育園 園長) 鳥羽清治氏

 

 

 

筑後平野の北部に位置する大刀洗町。緑豊かな田園が広がる中にひときわ目を引く建物がある。「今村カトリック教会」。赤煉瓦作りでヨーロッパ風の二つの塔を持つ、教会が秘めた隠れキリシタンの物語は、信仰の尊さを教えてくれる。

 

「奇跡の村」の所以

 

 

 

―百五十二年前の慶応三年(一八六七)、今村信徒が発見されますが、これはどういった経緯だったのでしょうか?

鳥羽 日本で初めてキリシタンを禁じたのは豊臣秀吉でしたが、その後の江戸幕府キリシタンを大追放しました。しかし、それでも秘密裏に布教活動は続いていました。ところが寛永十四年(一六三七)に起きた島原の乱に多くのキリシタンが加わったことから、キリシタンに対する弾圧がさらに厳しくなります。幕府は、踏み絵、五人組連座制度などでキリシタンを捜し出し、改宗させて、強制的に仏教徒として寺に登録させました。宣教師は、国外追放さもなくば殉教か転ぶ(キリスト教から仏教に改宗すること)かという厳しい選択を迫られ、キリシタンは徹底的に排除されました。

 そうした厳しい弾圧を逃れて、信仰を護り続けていたのが、隠れキリシタン潜伏キリシタンと呼ばれる信者たちです。彼らは長崎県西彼杵半島、平戸北部、五島列島生月島熊本県天草に約三万人が散在していたといわれています。このように隠れキリシタンのほとんどが僻地の山あいや小島、海岸に潜んでいたのです。

―ここ(今村)はそうした隠れキリシタンの里とは様相が全く違い、筑後平野の真ん中にありますね。よく隠れていたなと思います。

鳥羽 今村が「奇跡の村」と言われる所以です。幕府がキリシタン信徒を撲滅させる手段の一つに、寺請制度にして宗門人別帳を作らせて、キリシタンを必ずどこかの寺に属させてキリシタンでないことを証明させました。今村の信徒も表面上仏教に改宗しましたが、裏では密かにキリスト教の信仰を護り続けました。死者を葬る時には、いったん仏式で葬儀を行い、夜になってカトリックによる埋葬を行っていました。それまで大刀洗一帯に信徒がかなりいて、「邪宗門一件口書帳」に記されている大庄屋の申上覚えによると、八百六十八人の信徒のうち五百人が今村の信徒でした。つまり、ほとんど村全体がキリシタンでしたから、秘密を守ることができたのでしょう。

 もう一つ、今村で信仰が護り続けられたのは、大庄屋の存在です。右京、左京兄弟という熱心な信徒がいました。しかし、弟の左京は厳しい弾圧のために転んで、その代わりに大庄屋に取り立てられます。自分が魂を売って大庄屋になった左京は、建前では取締りながら、裏では大目に見てキリシタンを保護していたと伝わっています。また、村の殉教者といわれる「ジョアン又右衛門」の存在も大きいと思います。又右衛門は、島原の乱の落人など諸説ある人物ですが、熱心なキリシタンで村の人々の尊敬を集めていました。彼は強い信念で村人たちを教化指導していましたが、お上にそれが露見し、改宗を求められますが拒み続け、最後には磔刑に処されます。夜になって又右衛門の遺骸は村人たちに運ばれて埋葬されます。信徒は「ジョアン様のお墓」として、月命日にはお参りし祈りを捧げたと伝わっています。今村教会はそのお墓の上に建っています。

―平野の真ん中にあるという今村を取巻く環境では、下手をすると密告などで発覚する恐れがあったと思いますが、村人はどのようにして信仰を護り続けたのでしょうか?

鳥羽 発覚せずに信仰を続けるには、外部との接触を極力避けるしかありません。また、建前は仏教徒として普通に生活していかなければならない上に、教化してくれる神父がいない中では、どうしても形が変化してしまいます。その結果、宗教上の儀式や祈りの形は崩れてしまいます。そこには先祖代々の信仰、しきたりを守るという日本人特有の気質、生き方があったのではないかと思います。それが異教徒とも摩擦もなく、潜伏できた理由の一つではないでしょうか。慣れ親しんできた神仏や先祖を否定し、カトリックの教義や祈りを二百五十年以上にわたって秘密裡に、口伝のみで伝えることは非常に困難なことでした。「これはカトリックの信仰ではない」といわれるほど宗教上の祭儀や祈りの形は崩れてしまっていたのです。しかし、信徒が再び本当の教えに接した時に、長崎まで何度も足を運び、迷わず洗礼を受けたということはまさに奇跡であり、教えの核心は確実に代々伝わっていたのだと思います。

 

「今村信徒」発見秘話

 

―今村のキリシタンの種は大友宗麟時代の永禄四年(一五六四)に蒔かれたとされていますね。

鳥羽 熱心なキリシタン大名だった宗麟は、日本にキリスト教を始めて伝来したフランシスコ・ザビエルが宗麟の領地である豊後に到着すると、手厚く迎えてキリスト教に深い興味を覚え、領内での布教を保護します。勢力をつけた宗麟は北部九州まで版図を広げます。その頃、古くから大刀洗町の上高橋・下高橋地区を中心に高橋家という名家がありました。その高橋家の嗣子が絶える危機に直面したことを知った宗麟が、後継者に家臣の一万田右馬助(いちまんだ・うまのすけ)を推薦し大庄屋になります。右馬助の家中にはキリスト教の信者もいたことが類推され、この地区の庄屋、村人にキリスト教が布教されたと考えられます。修道士アルメイダも1564年、大友宗麟を表敬訪問した後平戸へ向かう途中、3年ぶりに立ち寄った土地があり、それがこの今村、上高橋地区ではないかといわれています。ちなみに今村は当初田中村と称していましたが、慶長六年(一六〇一)、田中吉政筑後国主になった時に、領主と同じ名称では恐れ多いと今村に改められます。吉政もキリスト教に理解があったため、信仰は保護されました。

隠れキリシタン潜伏キリシタンという言葉がありますが、この違いは?

鳥羽 隠れキリシタンとは禁教時代に隠れて信仰していた者を指します。そして禁教が解かれて発見された隠れキリシタンたちは、二つの道に分かれます。それまでに変形してしまった教義を改め、正しいカトリックを受け入れて正式な洗礼を受けて、憚ることなくカトリック教徒として生きる道を選んだ人々を、潜伏キリシタンと呼びます。今村は潜伏キリシタンになります。一方、潜伏していた時の教えをそのまま引き継ぎ護り続けた人々が、隠れキリシタンとして残っています。隠れキリシタンが残っているのは、長崎・生月島などです。

―さて、いよいよ今村の信徒が発見されるのですが、先に長崎・浦上で発見されますね。

鳥羽 安政元年(一八五四)に開国した日本にフランスの宣教師たちが入国しました。まず横浜に最初の天主堂を建設した後に、長崎に初めての宣教師が来ました。その大きな目的は、激しい弾圧によって潜伏しているキリシタンを捜し出すことでした。元治二年(一八六五)、浦上地区に潜んでいた信徒が名乗り出てきました。これが日本で初めての隠れキリシタン発見でした。しかし、まだ禁教令は続いているので、神父は注意深く、その秘密を守りながら行動します。信徒たちは、浦上の山間や、長崎港内の島々、五島諸島などで信徒の仲間を捜し出します。

 今村の信徒が発見されたのはその二年後ですが、それは偶然の出来事でした。浦上城の越の紺屋が久留米地方に藍を仕入れに行ったところ、今村にもキリシタンがいることを聞きます。紺屋は早速そのことを神父に伝え、四人の信徒を今村に派遣しました。

 四人が今村近くの茶店で休んでいる時のことです。今村への道を訊くと、西目の今村か北目の今村か問われます。とりあえず西目の今村への道を教えてもらう道すがら、偶然、地元の人が西目の今村にキリシタンがいると話しているのが耳に入ります。四人は早速村に入って昼飯を食べるために小さなお店に入り、一晩泊めてほしいと頼みますが、店の主人に頑なに断れました。すると、村の一銭床屋のおシマという女の家に泊めてもらうことになります。おシマもキリシタンですがそんなことはおくびにも出さずに、浦上から来た四人の正体を探ろうとします。互いに相手がキリシタンであるかどうかの会話が続きました。

 夕食の時におタキが、「おかずは鶏にしますか?」と訊くと、「鶏は嫌いではないが、今は食べる時ではない」と答えます。「卵は?」とさらに訊くと「卵も食べる時期ではない」と答え、おシマは四人がキリシタンであることを確信します。これは、当時「悲しみ節(せつ)」という復活祭前四十日間のことです。キリスト死去前の苦難を思い、断食、苦行、祈りによって罪を悔い改め、償いながら復活を待つ時期で、この時期は鳥獣の肉をはじめ卵も摂らないのがしきたりでした。ようやく今村の人々がキリシタンであることを認めました。その後、四人はローマから宣教師が派遣されて浦上の天主堂に入ったこと、浦上のキリシタンたちが名乗り出て熱心に教理を学んで秘蹟を受けていることを告げました。

―しかし、長い間迫害に苦しめられていた村人たちは、俄かに信じることができたのでしょうか。

鳥羽 確かにすぐには信じられなかったようです。その事実を確かめるために今村から三人の信徒が長崎に行き、教会を見学したり浦上のキリシタンたちが大勢集って教えを学んでいるところを目の当たりにして驚きます。派遣された一人は今に捕まると恐れおののいて今村に帰ってしまいますが、一人は残って教理を学び正しい洗礼を授かって村に帰りました。その後九人の村人を連れて長崎を訪れます。

 ところが帰ってくると捕えられ牢に繋がれてしまいました。まだ禁教が続いていて密告があったからです。庄屋と大庄屋が仲に入って、今後は決してキリシタンを信奉させないと保証し、入獄者たちも改宗すると誓ったので全員が釈放されます。

 

 

 

教会建設への道

 

 

―それでも村人たちは信仰を止めなかったのですね。明治十二年(一八七九)、ついに神父が今村に入りますね。

鳥羽 教会がないという不自由な環境の中でコール神父は、旧信者の発見と信仰的教育、集団洗礼へ導きました、村人たちは土蔵で次々に洗礼を受けていきます。初代のコール神父時代の一年間で七百人近くの村人が洗礼を受けました。その後も年々洗礼を受けた信徒数は増え続けていきます。増えると土蔵では手狭になって、ついに明治十四年(一八八一)に藁葺き木造の教会が建てられました。

―その後も信徒が増え続け、ついに現在の教会が建設されることになりますね。

鳥羽 初代から四代目の神父まで大変な苦労をして布教活動をされました。そうして今の教会建設を進めたのが、五代目の本田保神父でした。本田神父は三十二年間という長きにわたって在任し、半生を今村に捧げた人です。本田神父が着任した時には信徒数はすでに千七百人を数え、教会は満杯でした。それから十年も経つと新しい改宗者や、自然増加で増え続けて二千人という大所帯になりました。

 本田神父は、自分が在任中に真摯な今村カトリック教徒にふさわしい聖堂を建設する夢を持っていましたが、信徒の急増で建設せずにはいられない窮地に追い込まれます。しかし、貧しい村人からの献金ではとても費用を捻出することができません。そこで本田神父はドイツの布教雑誌の編集者である神父に教会建設のための資金援助の手紙を書きます。その内容が掲載され、ドイツの多くの信徒を感動させ、多額の献金が今村に贈られました。この資金を元に教会建設は具体的に進められます。設計は、日本人技師で礼拝堂教会建設の第一人者である鉄川与助に依頼しました。

 工事は大正元年(一九一二)に始まります。鉄川が連れてきた職人十数人と今村信徒の勤労奉仕団が加わり大勢で取り掛かります。ところが思い掛けない難事にぶつかります。今村の地盤が予想外の軟弱地盤で掘れば掘るほど大量の水が湧いて出て度々工事が中断し、予想外の莫大な費用がかかりました。費用も底を尽きます。本田神父は再びドイツの布教雑誌に手紙を書きます。そしてドイツ人のキリスト教徒はまた願いを聞き入れ、献金を贈ります。信仰の力には感動しますね。この献金と他の善意の資金で工事を再開することができ、大正二年(一九一三)十二月に完成しました。以後、水害や幾多の台風の被害を受けましたが、その都度修理され、平成十八年(二〇〇六)に福岡県有形文化財、平成二十七年(二〇一五)には国の重要文化財に指定されました。

―今村教会は築百年以上の建物とは思えない美しさです。

鳥羽 「より高くより美しく」という信徒たちの一途な思いが結晶されて建設されましたから、今でもその美しさは色あせないのでしょう。二つの塔を持つロマネスク様式赤煉瓦造りで国内に残るレンガ造りの教会として貴重なものです。また、ステンドグラスと十字架の道行(キリスト受難の十四枚の聖絵)はフランス製、柱は高良山の杉、レンガは特注品で歴史的価値のある建造物でもあります。ただ、老朽化は進んでいて、現在、耐震調査中ですが、やはり傷みが進んでいて補修が必要です。耐震補強・補修工事には五、六億円では到底足りないという説明を受けました。国の重要文化財には指定されましたが、国と県と町で総額の四分の三までは補助されますが、残りの四分の一は福岡教区で賄う必要があります。仮に総額八億円かかるとすれば、二億円を集めないといけないので、とても厳しいというのが現状です。補修のために町がクラウドファンディングを立ち上げて、ありがたいことに現在約百万円集っています。

―ところで取材前に周囲を車で走らせたのですが、この地区の静けさに不思議なものを感じたのですが。

鳥羽 (笑)どこにでもある田舎の雰囲気だと思います。しかし、確かに周囲の集落とは少し違った感じはあるかもしれませんね。周囲も何となく認めてきたという感じではないでしょうか。禁教時代には、お寺も神社も必要以上に関わらず見知らぬふりをしてきたのだと思います。外部から来られた方がそう感じられたのは、そのような歴史が背景にあるのかもしれません。

―現在も今村地区の信徒は多いのですか?

鳥羽 詳しくわかりませんが7割くらいでしょうか。この地区に嫁いで洗礼を受けていない人やアパートが建ってそこに越してきた人など徐々に増えてきています。やはり、高齢化が進み若い人は区外に出て行っていて、今後信徒はかなり減ると思います。

世界文化遺産潜伏キリシタン関連遺産が登録されましたが、今村は登録されませんでしたね。

鳥羽 一時は候補に挙がっていたようですが、絞り込まれる中で外れたということだと思います。現在、国の重要文化財に指定され、巡礼団や見学者はとても増えました。これまでの自分たちだけの教会、閉ざされた教会ではなく、もっと開かれた教会として多くの人に開放され、情報を発信し、福音宣教につながることを期待しています。そしてそのような活動が少しずつ実を結んでいるのも事実です。しかし、ややもすると、過去の遺産、先祖の残してくれたものだけに頼りすぎる説明、自慢話に陥る危険もあります。大切なのは、それを受け継いだ私たちがどのような希望を持って毎日を過ごし、その信仰の喜びをどれだけ伝えきれているかということです。信徒の数は減っても、信仰の灯は姿や形を変え、これからも消えることはないのだと思います。福音宣教とは、難しく教義を教えることでも祈りを教えることでもなく、生活の中で喜びのうちに素朴に信仰を生きること、そういう人がいる限り、今村の地は奇跡の村としてこれからも生き続けるのだと信じています。

 

鳥羽氏プロフィール 長崎県平戸市出身。昭和28年生まれ。関西外語大学中退。昭和五十一年に今村にあった老人ホームの生活相談員として就職。平成17年から現職。

 

参考文献:『隠れキリシタンの里・今村 奇跡の村』(佐藤早苗 河出書房 二〇〇二年)、『守教 上・下』(箒木蓬生 新潮社 二〇一七年)、今村信徒発見150周年記念誌『信仰の道程(みちのり)』