インタビュー「10歳までに徹底的にしつけなければ、人類は滅亡します」

 

そこが聞きたい!インタビュー

 

教育は生物学を基本したものであるべきです

十歳までに徹底的にしつけなければ、人類は滅亡します

 

 

 

井口潔氏(九州大学医学部名誉教授)

 

川崎市中一男子殺人事件―またも青少年による衝撃的な事件が起きてしまった。

教育の荒廃が叫ばれて久しいが、国が打ち出す教育政策は対処療法に過ぎず、根本的な改革が必要ではないだろうか。

 

 

「知性偏重教育」のツケ

 

 

 

―先日起きた川崎市の17,18歳の少年達による中1男子殺人事件は、日本の教育の荒廃が「ついにここまで来たか」という大変な衝撃を社会に与えました。

井口 私は、これまで各方面に教育は生物学的に考証すべきだと訴えてきました。今の教育の最大の問題は、教育を現実社会を土台にして考証され実施されている点です。その結果、こうした凄惨な事件が起きてしまいます。問題は、教育の目的が「社会に役立つ人間をいかに効率よく育てるか」になっていることです。つまり、「人間はいかにして生きるべきか」という道徳ではなく、いかに儲ける人間を育てるかという功利的な教育に偏っているのです。本当の教育を再構築するには、「人間とはどんな生き物なのか」を解明してそれを土台に検証し実践するしかありません。

―ずい分前から、いじめや不登校が問題になっていてそれが解消するどころかますまず深刻化しています。

井口 人間は700万年前にチンパンジーから分かれて誕生しました。チンパンジーの脳は500ミリリットルくらいですが、それが150万年かけて三倍になり人間が誕生したのです。脳が発達する以前は、全ての生き物は「自分」というものを意識しないで本能的に生きてきました。ところが、創造主は人間に脳を発達させて、「お前達の価値観、理性、知性で生きるようにせよ」と言われました。しかし、いざやってみると、争いが起こりなかなかうまくいかない。元々生き物は環境と調和しながら生きていました。ダーウィンの進化論で分かるように、環境と調和しない生き物は滅んでしまいます。つまり、生き物は必要以上に争わず、環境と調和して生きてきたから種を保存できたのです。例えば、犬同士が喧嘩すると、負けた方は腹を見せて降参の意思を表わすと、勝った犬はそれ以上攻撃しません。それ以上攻撃すれば相手は死に、それを繰り返せば種が絶滅することを本能的に認識しているのです。

 ところが、「お前の価値観、理性、知性で生きよ」と言われた人間は自我とわがままのために環境と調和することができず、一般の生き物にも劣る状態になっています。現在、地球上に150万種の生き物がいますが、人間はその上に君臨して地球を征服しようという間違った方向に進んでいます。環境破壊、絶滅危惧など人間のわがまま、自我が今、地球に災いしています。このままでは人類が滅んでしまう危機感から、紀元前500年頃に世界各地で賢人が現われました。ソクラテス、釈迦、孔子などが現われ、「自我の抑制」のために道徳を説き始めました。

―しかし、人類のその後の歴史を見ると争いは尽きません。現代社会も同じです。その中でも平和を謳っている日本では、凶悪な事件が後を絶ちません。

井口 日本がおかしくなった原因の一つには、戦前戦中の修身、道徳が戦後に「軍国主義を助長するもの」として全て否定されたことにあります。その結果、人間は思うまま、わがままに好きなことをやって生きていいということになってしまいました。

―自我がさらに肥大化していったのですね。

井口 自我を抑制できず肥大化していけば、人類は必ず滅びるということを、2500年前に賢人たちは警告していました。「そんなことは杞憂だ」と言う勿れ、です。その前兆が、川崎市の事件や佐世保市女子高生殺人、名古屋の女子大生による殺人事件なのです。私が一番ショックを受けたのが、神戸で起きた「酒鬼薔薇(さかきばら)事件」や佐世保の事件で殺人を犯した少年少女が平然として「人を殺してみたかった」と言っていることです。佐世保の女子高生は尋問の時に「人を殺してなぜ悪いんですか」と平然と答えています。人間は道徳、教育を疎かにすれば、こういう人間になるのです人間は、教育、道徳によって辛うじて人間性を保つことができる生き物なのです。

 赤ちゃんは、ホモサピエンスという動物として生まれてきます。これをそのまま放ったらかしにしていたら、「人間」になりません。赤ちゃんは狼に育てられたら狼になってしまうのです。つまり、人間は人間に育てられないと人間になれないのです。親が人間のあるべき姿の規範である道徳を教えないと、人類が滅びることに繋がりかねません。

―これから始まる道徳の教科化は効果はあるでしょうか?

井口 なかなか難しいでしょうね。問題は先生なのです。先生の大半が、子供達に知性を教えれば済むと思っています。しかし、本当に大切なことは、先生という「人間」が「道徳」を子供に教えているのです。道徳の「教科書」が教えているのではありません。知性偏重の教育が様々な弊害を生んでいます。また、問題行動を起こす子供の親は高学歴者が多く、子供を「いい大学に入れていい会社に就職させる」ことを教育だと勘違いして、人間教育を全くやっていません。人間教育とは、「感性」の子供が人間の信頼関係を築くことから始まります。その重要な役割を果すのが、母親です。赤ちゃんが生まれて最初に愛情を受けるのは母親からで、そこで母子の愛情関係が成立するはずなのですが、十分に愛情を受けなかった子供は思春期になって必ず問題を起こします。人を信頼できないのです。

 

 

「内なる神」との対話

 

 

 

 

―親の子供への愛情は、甘やかすということではありませんね。

井口 親は愛情があるからこそ、ある時は子供を厳しく躾けます。叱った後は必ず優しくして下さい。三歳までに「人間を信頼する」心が出来上がります。「三つ子の魂百まで」という日本のことわざは、大脳生理学で十分証明できます。赤ちゃんの脳は三歳までに大人の80%のニューロン回路(神経細胞の絡み合い)ができて、内部世界(心の基本)が作られます。

 四歳になると、外部環境からの刺激を受けるようになり、それまでに出来上った内部世界(心)が外部刺激に反応するようになります。親はそれを注意深く見守って、適不適を評価する。つまり、「善悪の躾」をするのです。例えば、自分の子供が発達障害の子供の真似をしているのを見た時に、親は「それが人間として最も恥ずかしいこと。二度とやったら承知せんぞ」と激しく怒ってみせるのです。そこで、子供が「どうして?」と不思議そうに訊いても、「問答無用。ダメなものはダメ」と返せば、子供は二度とそういう行動はしません。これは、知性でなく感性に働きかけることで、「人間として正しい道を歩く」ことをしつけることになります。十歳までは子供の感性を育てる教育が必要なのです。

―ご自身の理論では、人間の脳の「大脳辺縁系」という古い脳が感性を司るそうですね。

井口 赤ちゃんは生まれてくる時に、この古い脳しか持っていません。チンパンジーでは獣的で機能していますが、ヒトでは親から「真善美」の刺激を与えられるので、人間の古い脳は、獣的から人間的になって人格を形成します。分かりやすく言うと、古い脳は「人間として善く生きる」ことを考え、それに対して新しい脳は「うまく生きる」つまり、要領よく生きることを考えます。すなわち、古い脳は感性、新しい脳は知性を司ります。

例えば、新しい脳(知性脳)たくさんの物質的な知識を詰め込み(習得性)、それを現実に生かす(合理・論理)ことに心が働きます。そうすると、外向性が強くなって、現実的な思考が働き流行を追い求めるようになります。他者を利用することを考え、効率・要領を追い求めそれで立身出世を目指します。そのために戦略戦術を組み立てるという「社会性・処世術」に頼る心になります。それに対して、古い脳(感性脳)では人類が長年蓄積してきた「心の記憶」と言った方がいいかもしれませんが、感性を機能させます。感性は逞しく生きる力、人間力と言えます。直感的で非合理な心の働きです。

 大脳生理学の観点からは、今の教育は点数という数量だけの教育、つまり新しい脳の働き(知性)に偏って、真善美という感性教育を無視した教育です。その結果、とんでもない人間が育っているのです。

―脳と心の働き、精神の関係性はどうなっているのですか?

井口 心すなわち精神は、脳という臓器のニューロン回路で発生するものです。人間の脳は、「自分自身」という自意識を形成します。かつて、人間は神を外に置きました。原始時代の人間が台風や地震などの自然災害が起きると、外なる神に祈っていました。それが次第に自分自身の中に「内なる神」を持つようになりました。宗教や道徳がそれです。「こうしなくてはいけない」と諭す内なる神、自分自身を生身の自分より一段高い所に置き、常に対話することで

心の安定を得、さらに自分を高めることができます。ところが、現代は「知性だけでいい」という唯物的な考えが蔓延していますから、不安を抱える人が多くなりました。自分自身と向き合っていない人は自分に自信が持てず、不安になると、他者を攻撃するようになります。自分自身と向き合うことによって、自分を強くする。その柱になるのが、真善美を求める道徳なのです。

 心はほんの最近になって脳が巨大化した時にできたものなので、進化の過程で引き継がれたものではありません。善悪の概念に遺伝子的なものはないのです。つまり、「言わなくても分かる」という予断は、人間の心には通用しません。だから、小さい頃に「ダメなものはダメ」という躾をしっかりやる必要があるのです。

 

 

 

うなぎ屋のお父さんと、小野田さんのお母さん

 

 

 

 

 

 

―大人の中には「そんなことはわざわざ言わなくても…」という心理が働いている人が多いような気がします。

井口 確かに昔は親が注意しそこなっても、祖父母や地域社会がそれをカバーしていました。しかし、今やコミュニティーは崩壊し、核家族化していますから、善悪の区別を教えるのは、家庭と学校しかありません。

―子供に関る大人たちがしっかりと教える必要がありますね。

井口 ただし、それはあくまでも十歳までのことです。それ以後になると、新皮質、新しい脳が本格的に働きはじめます。新しい脳は、自己判断をするところなので青年期になっても幼年期の躾をやっていると、子供の脳は混乱してしまいます。

―思春期はなかなか難しいと言われます。

井口 思春期の子供が何か問題行動を起こした時に、頭ごなしに叱るのではなく「こういうことは控えた方がいいんじゃないかな。先生は何と仰るかな」とやんわりと投げ掛けるくらいにしておいて、「困ったことが起きたらいつでも父さんに相談しなさい」と、判断を本人に投げかけるようにします。十歳までにしつけをやり足りなかったと思っても、思春期以後に躾を強くやると逆効果です。実際、思春期にいきなりきつくしつけた結果、子供が自宅に放火した事件が奈良県で起きました。

 私がよく行っていた東京のうなぎ屋のおかみさんから、親のしつけについて自身の経験を聞いたことがあります。おかみさんのお父さんのしつけは料理屋なのでかなり厳しく、何か間違えると頭を叩かれていたそうです。おかみさんが思春期になった頃、またお父さんに叩かれそうになって、おかみさんは本能的にお父さんの手を払いのけました。すると、お父さんは「あぁそうか…俺の仕事は済んだのか」と呟いて、それから二度と手をあげなくなったそうです。

 もう一つ、象徴的な話があります。昨年亡くなった、作戦中止の命令に接しないとして、終戦後も29年間もフィリピンのルバング島に隠れていた小野田寛郎さんは、小学1年生の時に上級生に小刀でけがさせました。学校から連絡を受けていた母親は、帰宅した小野田少年に「なぜけがをさせたのか」厳しく詰問します。ところが、少年は何度も「正当防衛だった」と言い張り反省しません。母は息子に風呂に入るように命じ、風呂からあがると、裃が用意してありました。「どこかいい所に連れて行ってもらえるのかな」と思っていると、仏間に連れていかれました。母は息子に短刀を渡し、「お前は、人を殺めてはいけないと何度言っても言い訳ばかり。小野田家には物騒な血筋がある。このままではご先祖に申し訳ないので、腹を切りなさい。私も後を追います」。少年は驚いて、謝りました。

 小野田さんが長じて出征することになり、母と墓参りに行った時、母から短刀事件の当時の気持ちを初めて聞かされます。「あの時は一世一代の大芝居だった。あの時、お前が謝ってくれたからホッとした。お前もこうやって成長して出征することになって本当に有り難いことだ。ただ、これだけは言っておく。お前が無事に戦地から帰ってきて男の子を授かったら、あれくらいの迫力でしつけをしなければいかんぞ。元気で行ってきなさい」と激励されて戦地に赴きました。

 これが、明治の父親、母親の躾の姿です。この力強いしつけの迫力には驚きます。明治の人は、「善悪」はこれほどの迫力でやらないと子供は分からないということを伝統的に知っていたのです。

―「躾は幼年期では徹底的にやり、青年期になったら逆に抑える」ことが、肝要ですね。

井口 中高生の道徳教育のポイントは幼年期のそれとは少々違います。思春期を過ぎれば、自分の意思で意欲的にやりたいことをやりたがります。そこで、発揮する人間力は小学校時代に涵養されたものですから、あくまでも小学校の道徳教育が一番重要です。ただ、中高での道徳教育は、生徒に判断させる指導が望ましいでしょう。生徒自身に気づかせる授業であるべきで、教師は生徒の生き方のアドバイザーであり、生徒達のお手本になるべきです。

―小学生の道徳教育は「考えさせる」内容になっています。

井口 子供の脳は自分で考える能力がまだ不十分です。それを先生から「考えなさい」と言われても何を言われているかよく分からないのいです。しかし、子供は賢いので考えている振りをして、大人が騙されるケースが多い。小学生の道徳教育は「理屈抜き」で当たるべきですよ。

―今、「褒める」教育法が一部、支持されていますね。しかし、褒め過ぎると叱りにくくなると思うのですが。

井口 厳しいしつけと褒めることのバランスをうまく取ることでしょうね。親の心の中に「叱った後は十分に褒める」という気持ちがあればいいのです。あくまでも愛情が根底にないといけません。しつけを厳しくやり過ぎると、子供から薄情な親だと思われはしないかと心配するお母さんの声を聞きますが、しつけは子供のために絶対に必要で、叱った後はそれを上回る愛情表現をいつも用意していればいいのです。「叩いた手を子供から外したら最後。叩いた手でそのまま子供を抱きしめなさい」という言葉がありますが、その通りだと思います。(フォーNET 2015年10月号より)

 

 

 

大正十年久留米市生まれ 九州大学医学部卒 井口野間病院理事長 日本外科学会名誉会長 ヒトの教育の会会長