『沖縄両論』を上梓した思い

「両論」に通底するもの

 

 

 9月上旬に「沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題」(春吉書房)を上梓した。取材開始から2年をかけてインタビュー、取材したものをまとめたものだが、タイトルは最後の最後でようやく決まった。企画の段階では、基地反対の理論、思いを訊くというものだった。それまで沖縄の基地問題については全く取材したことがない当方としては、とにかく反対する声を拾うことから始めることにしたのだ。若手記者を先行させて始めると、若手のエネルギッシュである意味怖いもの知らずの突撃取材で、このままでは「両論」を編集方針としたい小誌のアイデンティティーが大きく損なわれる恐れが出てきた。押っ取り刀で思い腰を上げたが、容認・賛成派の声は容易に拾えない。焦るが、少ない手づるをつたって取材を進めた。納得するまで取材すべきだとは思ったが、この企画には締め切りがある。私としては、断腸の思いで手仕舞いした。その結果は、本書を手にとって読んでもらうと分かるが、概ね反対7対賛成(容認)3の割合になってしまった。俗に言う「オール沖縄」に関する世論調査の結果と、奇しくも同じ様な構成になった。

 内心、忸怩たる思いを載せて発行すると、読んだ人から「両論になっていない」と指摘を受けた。想定していたが、耳に痛い。強がっているわけではないが、「これが『現実』」と説明している。つまり、反対派の理論武装に容認(賛成)派のそれが追いついていないのが、基地問題議論の現実なのだ。基地を巡る翁長知事と国の対立、一部に偏向報道と批判されるいわゆる沖縄2紙の反基地の世論形勢、辺野古、高江で起きている反対派と機動隊のもみ合いに象徴される一連の騒動の要因のひとつは、いわゆる本土側が「沖縄に米軍基地が偏在する」必然性を「日本の防衛のために必要」という理由だけで済ませてきたつけではないだろうか。

 そこで、本書を世に問うならば、容認(賛成)派は反対派の意見に耳を傾け、反対派はその逆の意見に耳を傾けてもらおうと願いを込めてタイトルを考えた。私のその願いが世に届くことを願うばかりだ。

 両論併記は、一見公平な立場から話を訊いていると思われがちだが、そうとは限らない。反対派担当の若手は容認(賛成)派とは一切接触していないし、私も、反対派とは一部を除いて殆んど接触していない。互いに取材相手の話に正面から耳を傾けた。それぞれの意見を吸収してその疑問点を編集会議でぶつけ合う。たまには激論になったこともある。

本が出ておよそ1ヵ月後に沖縄の米軍基地問題の反対派リーダー、山城博治さんが逮捕された。沖縄県東村高江の米軍北部練習場内に侵入して有刺鉄線を切断した疑いだそうだ。前回、沖縄入りした時に話したばかりだが、逮捕はあり得ただろう。安倍首相が国会の冒頭で「高江のヘリパッド問題は年内に解決する」と異例の発言をしていたから、遠からずその日が来ると漠然と思っていた。確かに事実であれば犯罪は犯罪。法治国家では何らかの罰を受けるのは当たり前だと思うが、これで「左翼がやっと一掃される…」という声には現地で取材した身としては違和感がある。沖縄の真情が本当に理解されているのか。両論あろうが、彼がなぜ健康を害して体を張ってまで運動して居るのかに思いを馳せることも必要だと思う。ちなみに、山城さんには沖縄本の巻末に寄稿してもらっている。すると、今度は沖縄・高江での機動隊員の「暴言」問題が起きた。現地に行った者としては、「ついに堪忍袋の緒が切れた」のかというのが率直な感想。若い隊員にとって、面罵されることに耐性がなかったのだろう。しかし、「土人」「シナ人」はやはり暴言だろう。聞くところによると、隊員の精神的な苦痛を考慮してか入れ替わりが早いそうだ。吐いた隊員は、我慢ならなかったのだろうが、職務としては失格だと思う。耐えていかに反対派を傷つけずに「排除」するかが本来の職分だ。彼らの挑発に乗らない精神的な強靭さ、冷静さが求められる。若いから仕方が無いとも思うが…

反対派を排除して辺野古、高江の工事が終っても、沖縄と本土で同じ日本人というアイデンティティーが形成されない限り、「沖縄問題」は終結しないだろう。両論併記は、互いの意見の存在を認めながらも、丁寧に反論し修正を求めるという、前向きな議論が必要ではないだろうか。両派に通底すべきは、日本国としてのナショナル・アイデンティティーであることは論を俟たない。(月刊『フォーNET』編集長雑感)