「ミスターゲート前」と呼ばれる男の原点 沖縄平和運動センター議長 山城博治氏

沖縄平和運動センター議長 山城博治氏

 

「ミスターゲート前」と呼ばれる男の原点

祖国復帰運動の挫折から非暴力直接行動への軌跡

 

「ミスターゲート前」「ミスターシュプレヒコール」。そうした異名をもつのは、辺野古新基地建設への抗議運動が続くキャンプ・シュワブゲート前行動の中心人物・山城博治さんだ。山城さんは、これまで、沖縄の反戦平和運動の第一線に立ち続け、沖縄平和運動の象徴とも言われてきた。昨年七月以降、辺野古新基地建設反対運動の陣頭指揮にあたってきた現場第一主義の男が、運動人生の原点を語った。

 

 

ガン闘病からの

奇跡的復帰

 

 二〇一四年七月一日、この日は、安倍政権が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした日ですが、沖縄にとっては別の意味もあります。沖縄防衛局が辺野古新基地建設に向けた関連工事を始めた日でもあるからです。

 私たちは、七月一日からキャンプ・シュワブゲート前で抗議行動を始めました。当初は、工事関係車両の通行阻止を目的としたゲート前での早朝の阻止行動、そして日中のゲート前抗議集会を続けていましたが、今年(二〇一五年)一月十日深夜、工事車両が不意打ちのように基地内に入ったとの知らせを聞いた後は、交代で二十四時間の泊まり込みの監視を続けてきました。私は、東村高江のヘリパッド建設反対闘争でも夜間泊まり込みをしながら運動を続けた経験があって慣れていたこともあり、ゲート前にテントをはって泊まり込みを始めました。

 休みなくずっと辺野古のテントで暮らす毎日でしたので、体が悪くなるはずです。今振り返るとさすがに、あれは異常でした。しかし、そうした経験がある今だからこそ、運動を続けるうえで体が一番大事だと身にしみています。

 今年の四月二十一日、悪性リンパ腫の治療のために闘病生活に入って現場を離れました。抗がん剤治療は計六回にわたり、副作用で高熱にも悩まされましたが、八月二十六日、無事に治療を終えて退院しました。退院した当初は、四カ月間の寝たきり生活のため、トイレまで歩くことすらできないほど体力が落ちていました。入院中も辺野古の現地情勢を考えない日はなく歯がゆい思いでしたので、退院後は、すぐさま「辺野古に戻るため」という思いで毎日朝夕一時間程度近所を散歩して体力の回復に努めました。

 抗がん剤治療の結果、頭髪が全部抜けてしまったのですが、これも、「辺野古の暑さに耐えるため」、ニット帽で頭を隠すことなく直射日光を浴びながら歩いたものです。私の誕生日の九月二十日、辺野古を離れてちょうど四カ月ぶりにゲート前を訪れて皆さんに挨拶しましたが、「現場復帰」は十月六日からです。

十三歳―

大衆運動の出発点

 私が中学校に入学した一九六五年、B─52戦略爆撃機が嘉手納基地に配備され、沖縄でB─52撤去運動が始まりました。中学校の先生方とともに「B─52撤去」と書かれた黄色のリボンを胸につけて初めてデモに参加しました。真っ黒な爆撃機がサメのヒレのような尾翼をたてて並んでいる嘉手納基地のB─52を初めて見た時、あれがベトナムで大勢の人たちを殺していると思うといたたまれない気持ちになりました。

 忘れられない思い出があります。B─52撤去要求集会のデモに参加していたときのことです。嘉手納基地の前で機動隊とぶつかって、みんな大通りから路地に入って逃げる途中で、私は側溝に足をとられて転んでしまい、私の上を何人も踏み越えて逃げてゆくので踏みつぶされそうになったことがありました。

 「あーここで死ぬのかな」と思ったとき、ある人が私の腕を掴んで引っ張り出して難を逃れたことがありました。時間にすると一瞬だったと思うのですが、今でも鮮明に覚えている出来事です。

 ちなみに、中学生のころは、このようなB─52撤去運動に参加したほか、中学三年生のとき、校内の弁論大会で優秀賞に選ばれたことがありました。そのときに訴えたテーマが実は特攻隊の話です。当時の自分とあまり年齢の変わらない少年兵たちがわずか二十年前に特攻をした悲劇を忘れてはいけないと訴えたのです。あの当時は、特攻隊に同情的だったし、思想的にみれば右翼的でしょう。私の人生で唯一右翼的だったのは、後にも先にもあの頃だけです。

 一九六八年に沖縄県中部の前原高校に進学し、入学後は、迷うことなく社研(社会科研究クラブ)に入部しました。私が高校に進学した当時は、復帰運動が最高潮に達していたころで、社研は、文化系サークルとして沖縄が直面する課題を学び運動することを謳っていました。いうなれば、祖国復帰運動団体の高校生版の役割を担っていました。そして、もともと社会運動に非常に関心があったのと、社研の先輩の薦めもあって、高校一年生で生徒会副会長、二年生のときには生徒会長を務めました。

 一九六九年十一月、佐藤総理とニクソン米大統領との会談で、七二年の沖縄返還が決まるのですが、その佐藤・ニクソン会談の頃には、沖縄返還協定の実態がだんだん明らかになってきたのです。それが、沖縄人(ウチナーンチュ)の望んだ核抜き・基地撤去ではなく、核かくし・基地自由使用の裏取引があることがわかるにつれて、祖国復帰運動内部に、「そんな返還はまやかしだ」として批判が巻き起こりました。復帰運動に携わっていた人たちが求めていた「基地のない平和な沖縄」とは違ったのです。

高校時代に

ハンストのリーダーに

 六九年十一月の佐藤訪米に際し、「佐藤訪米は、沖縄をアメリカに売り渡すために行くものだ。絶対にとめよう」と全校生徒に呼びかけて高校のグランドに百二十人くらいの生徒を集めて一週間のハンストをうちました。そのときは、校長に呼ばれて「君の行動には問題があるけど、気持ちは理解できるので、今回は、厳重注意にとどめておこう」と言い渡されて許されました。

 しかし、翌年一九七〇年は、七〇年安保改定反対運動が盛り上がった年だったので、その年の六月再び、数人の仲間を集めて学校をバリケード封鎖しました。午前四時ころに学校に忍び込んで、三階建ての二教室しかない内側の階段の一枚扉をしめて、扉の前に机・椅子を山積みしてバリケード封鎖したのです。そして、「安保改定反対!」「沖縄返還協定反対!」と書いた垂れ幕を垂らすなどのゲリラ行動にうって出ました。

 当時は、労働運動や学生運動が激しい頃でしたので、首里高校やコザ高校など他の学校でも同様の学生運動はみられたようですが、さすがに高校生を百名以上集めたハンストは他に類を見ないものでした。

 沖縄戦後史の大家で沖縄大学名誉教授の新崎盛暉先生は、ある雑誌のインタビューの中で「私は、去年(二〇一二年)、六九年の前原高校のハンストのリーダーが、当時高校二年の生徒会長山城博治であることを知った。高江のオスプレイパッド建設反対闘争の現場や、普天間基地のゲートで、『国家権力に対する拒絶の意思』を示す非暴力実力闘争の牽引車としての役割を担っている、あの山城博治である。沖縄は、いまだに闘い続けているのである」などと語ってくれています。

 当初、祖国復帰運動は、いわゆる「銃剣とブルドーザー」によって、土地を奪われて米軍基地が建設され、日本に助けを求めて始まるのですが、日米両政府は、復帰運動をある意味利用していたのです。この時は「裏切られた」との思いが強くありました。こんな運動はナンセンスだ、敗北思想だと思ったのです。復帰運動は、沖縄を解放する運動ではないことに気付きました。

 沖縄の戦後史は、日本を選択するかアメリカを選ぶかの二者択一を迫られてきた歴史でした。終戦後、沖縄では、日本共産党の「解放軍規定」にみられるとおり、アメリカ軍を解放軍と認識する勢力がありましたが、アメリカ軍はこちらの意に反して沖縄に襲いかかってきました。そのため当時、日本からの独立を訴える勢力がいたのですが急速にしぼんでいきました。あまりに乱暴なアメリカ軍を前にして政治的修正が働いて日本に傾斜していきます。

 私は、復帰が迫り、復帰の真の姿が明らかになるにつれて「絶望感」に陥りました。米軍に助けてもらえないし、日本に救いを求めようとして復帰を求めて県民一丸となって頑張ってきたにもかかわらず、復帰が近づけば近づくほど、米軍基地はもとのままで核抜きもまやかしという実態が明らかになり、日米の国家権力が再び沖縄に牙をむいてきたからです。

日の丸の鉢巻から

反復帰論へ

 沖縄返還の実態が明らかになっていく中で、復帰運動も変化していきました。当初の祖国復帰運動から反戦復帰あるいは無条件全面返還要求に変わっていきます。私もそれまで祖国復帰を夢見て、日本という国家権力を正視することなく、「祖国」というオブラートに包んで幻想を抱いて運動を進めてきました。今の私の姿からは想像がつかないかもしれませんが、高校二年生の初め頃までは、日の丸で染めた鉢巻をして運動していたのです。真ん中に日の丸で、その左に「祖国」、右に「復帰」と書いた鉢巻をしめていました。

 祖国復帰運動は、復帰・返還の内実が明らかになるにつれて、反戦復帰運動や無条件全面返還運動と言葉を変えて続けられていきますが、それは、私にとって復帰運動の延長線上のものでしかなく、本質的には変わらないし、言い訳にすら感じられました。敗北を糊塗にするようなそのような運動や思想を受け入れることができませんでした。

 そうした絶望感に浸っていたときに出会ったのが、新川明さん、川満信一さんらの反復帰論でした。当時、沖縄タイムス社の発行する総合雑誌「新沖縄文学」に掲載される彼らの論考を読んで驚愕しました。これこそが私の探して求めていた思想だと思ったのです。自分自身の立ち位置や思想を確立したかった私にとって、本土に系列化されてしまう政党や思想にはまったく興味が持てませんでした。そうした中、新川さんや川満さんらが主張したのは、日本を祖国とひと括りにしてしまって「祖国日本」と幻想化してきた過ちを指摘し、復帰運動を「祖国幻想」として鋭く批判したのです。

 日本は、国家という権力機構であり、その日本という権力が沖縄をどう利用しようとしているのかに着目しないと、沖縄は救われない。日米という二つの国家権力の実態に基づいて、「祖国」とか「解放軍」といった幻想から離れて、沖縄人としての立ち位置からそれらがどういったものなのかを冷静にみるべきだと主張されていました。沖縄は歴史的に日本とは異なる独自の道を歩んできたし、また、日本に編入されて以来、差別も受けてきたのも事実です。この沖縄と日本との異質感・違和感、そして、沖縄独自の立場を踏まえ、日本とアメリカを相対化して沖縄の行く末を考えようという立場。簡潔にいうと、ウチナーンチュが日本に対峙するときの沖縄人の心のあり様を問う思想―これが反復帰論の主張でした。それ以上でもそれ以下でもありません。

 私は、別に琉球独立論を謳っているわけでも、日本の中での自治権拡大運動を呼びかけているわけでもないのです。高校一年の頃から、祖国復帰運動に染まった挙句、「祖国日本に裏切られた!」との思いを抱いてきた私たちにとって、新川さんたちの反復帰論はとても斬新で目からうろこが落ちる思いだったし、希望を託せる思想はこれしかない、と思いました。

 

沖縄の

アイデンティティとは

 高校生の時に激しい運動をやってきたので、新左翼といわれるセクトの活動家が大勢、「うちの大学に来ないか」ということでオルグにきました。当時は、沖縄の高校生に暴れている生徒がいるということで有名だったようです。しかし、その頃には、すでに祖国日本という幻想を捨て、反復帰論に目覚めていたので、本土からくる活動家には全然興味がありませんでした。日本、アメリカという国家権力から離れ、それらを相対化し、日米のどちらかに与することによって解放される沖縄ではなく、沖縄自身の力によって活路を切り開いていく運動をしなければならないというのがあの当時から今も変わらない私の考えです。

 新川さんの議論は、当時も今も、沖縄社会では、異質な思想であり、インテリの思想の遊びといった扱われ方をされていることは否定できません。運動論にはなり得ません。だから、私が最近、反復帰論者であることを方々で発言しても、誰も改めて「山城さんは反復帰論者だったんだね」なんてことを言わない。箸にも棒にもかからないようなものです。しかし、思想的には、非常に高尚な議論だと思うし、現実的な政治力は持てないかもしれないが、今もなお、沖縄人として生きる人たちの精神を支える大きな柱になり得ると思っています。

 反復帰論が今も力を持ち得ると言うのは、理由があります。沖縄では、復帰後、例えば、社会党の運動、共産党の運動というようないわば「沖縄の本土化」という現象が現れます。復帰の総括ができていないため、沖縄の社会運動は全て、中央(本土)に流されて四分五裂していきます。私が、思想的にも運動論的にも沖縄にこだわりたいのは、無条件にヤマト化するようでは混沌とした日本の政治状況に小さな沖縄が足元を必ずすくわれてしまうと感じているからです。

 日本政府が沖縄を差別し、沖縄を犠牲にするシステムをつくっている以上、沖縄が日本の「四十七分の一化」することなく、沖縄と本土とは違うということを踏まえないと、沖縄は生き残ることができないと思っています。一足飛びに独立とか、自治権拡大とかを議論するのではありません。そうした沖縄と日本の差異を踏まえたうえで、沖縄としての足元を見据えるべきだという考えです。

 

戦争観の原点

 

 私の行動の根っこには父母から聞かされた戦争体験の話があります。私は、具志川村(現、うるま市)の農家の次男として生まれたのですが、私の父は、昭和二年生まれで沖縄戦のときは満十七歳です。父は、防衛隊として戦争を経験していますが、南部戦線で死に目に会うのです。左足やわき腹に三カ所の貫通弾を受けています。致命傷にならない程度に傷を負ったそうです。最初は、仲間に肩車をされたり、担架で担がれたりしていたらしいですが、最後は、体が全く動かなくなってしまって原野に捨てられました。

 三日間、銃弾の飛び交う中、側溝の中に隠れて、水がなかったので、雑草を食べながら水分を補給していたと聞いています。後で分かったのですが、まともな水がなかったので命拾いできたようです。もし、あの時に水を腹一杯飲んでいたら、出血多量で死んでいたかもしれません。命拾いしたとはいえ、傷口にはウジ虫がわいて痒くてたまらなかったそうです。

 こういった話を子どもの時から聞かされて、「ひどい話だな」と思ったものです。一方、母親からは、逆に戦争の話をほとんど聞くことはありませんでした。母の一家は、当時日本統治下にあった北マラリア諸島のテニアン島に入植者として移住していたのですが、母方の祖父は病気で島で亡くなり、女だけの五人家族で日本に引き揚げてきたそうです。戦争体験を語る人の中には、多少は自慢げに語る人もいるようですが、母の口から、戦争の話を聞くことがなかったのは、本物の恐怖を感じたからだと、子どもながらに感じたものです。

 あるとき、叔母から母の戦争体験にまつわる話を聞かされたことがあります。母の一家は、アメリカ軍の砲弾を避けるため、海岸線の鍾乳洞のガマに輪をつくるように座っていたところ、朝目が覚めると、外側の海側に座っていた人たちが全員亡くなっていたそうです。母たちは、たまたまガマの奥に座っていたので助かったのです。また、帰国しても、収容所生活は言語を絶する辛さがあったと思います。収容所には、隣人同士で盗難や強盗、強姦などもあったらしく、母の一家は、女性だけの集まりでしたので、言葉では表せないような辛い経験をしたかもしれません。

戦争の被害者であり

加害者でもある

 もっとも、私は、沖縄が全部被害者だという捉え方をするつもりはあません。被害者というのも一面です。母は、沖縄が当時貧しかったので南方に移り住んだと言うのですが、南方地域は、第一次世界大戦でドイツから割譲した領土です。これは加害の歴史であり、植民者として移住したのですから、単純に沖縄の歴史を全て被害の歴史とするわけにはいかないはずです。移住した沖縄人は、日本人の一人として、戦前の帝国主義による世界植民地分割競争の歴史の中で生きてきたわけです。

 そうした点で、日本のトータルの戦争の歴史の中で、沖縄の被害と加害の両面を捉えるべきで、一面だけをみると真実を見落としてしまいます。

 私がこうした歴史の多面性を強調したいのには理由があります。「永遠の0」の著作で知られる作家の百田尚樹氏にみられるような特攻隊を美化する思想に違和感を覚えるからです。日本の保守層の論調は、わずか二十歳の若者が国を守るために鹿児島の知覧から特攻隊として出撃していった。彼らは、愛する人・家族を守るために死んでいった。この人たちを英霊と言わずして誰を英霊と言うのかーと主張します。

 私は、その気持ちが分からないではないのです。後世に生きる私たちが、特攻隊の青年の悲しさや苦しさを受けとめることは大事なことだと思います。しかし、違和感を覚えるのは、それが全てになってしまっていることです。

 日本の保守と言われる方たちは、これを否定することは絶対に許さないという立場でしょう。しかし、私は、特攻は人間のやることではないと思うし、そんなことを命じる国家は異常だと思います。わずか二十歳になるかならないかの若者たちを死に追いやった国家、一縷の望みもない特攻という作戦を組んだ国家の無謀さ・非道さを問わずに、国のために殉じた英霊として美化する考え方に疑問をもつのです。

 当時の若者たちの気持ちを省みず、そこまで追い詰めた政府や日本軍国主義の責任を追及しない百田氏のような発言には違和感を覚えます。私も、特攻機の本や映像をみると彼らの非業の死に対して涙します。しかし同時に、それを強要するような戦法をとった当時の軍部に対して限りない怒りを禁じえないのです。

米軍統治下の

沖縄社会に生きて

 七二年復帰までの米軍支配下の沖縄社会では、米軍は、本当にやりたい放題でした。あの空気を今でも覚えています。ここ沖縄市は、当時はコザ市と呼ばれていましたが、市街地中心部のコザ十字路は黒人街、ゴヤ十字路は白人街にわかれていて夜な夜な酔っぱらった米兵が街にあふれて坂の上のゴヤ十字路から坂の下にあるコザ十字路の間くらいで白人と黒人の殴りあいが始まるのです。MPや琉球政府の警察が駆けつけて仲裁に入るのですが、あの当時の沖縄の世相は戦後そのものでした。街には、経済と呼べるようなものはなく、米軍基地の中で働くか、米兵相手のバーやコーヒーシャープと呼ばれた食堂で働くくらいでした。島全体が米軍の色に染めぬかれていました。

 そういう中にA&Wというアメリカの外食産業が入ってきて、広い駐車場のあるお店にハンバーガーやコーラといった食べ物はキラキラと別世界のように輝いて見えました。私たちは、そうした光景をみて育ちました。こちらはというと、はだしで歩きまわり、毎日昼も夜も同じ半ズボンをはいているような時代だったので、まるで別世界でした。

 沖縄には、ある種の「ねじれ現象」があって、学校では、皆さんが想像されるような平和教育を教わってきたわけではありません。終戦後、沖縄は、再び日本の餌食にならないように、日本からの独立論がもっとあって然るべきだったのですが、やってきた米軍がもっと酷かったのです。米軍統治からの解放を願って日本復帰運動が始まるのですが、そこでは、沖縄戦の悲劇や日本軍の暴力などが完全に捨象されてしまいました。私自身も、中学・高校の頃、日本を批判することは一切なかったですし、沖縄社会全体が「祖国日本」ということで美化していたのです。

 しかし、残念ながらこれは、戦前と同じ構図です。沖縄戦までは、沖縄がやられてもいずれ「友軍」─当時の沖縄では日本軍を指して「友軍」と呼称していました─が助けに来てアメリカ軍を追い返してくれると信じられていました。友軍待望論があったのです。本土の捨て石にされ、その幻想が打ち砕かれた後もそうです。戦後になり進駐してきたアメリカ軍は、沖縄中を蹂躙し、婦女を暴行し、幾多の殺人事件も発生しました。金網で軍事基地を囲い、酷い世界が現れました。当時の沖縄には、人権もなく、ただ米国布令の中で生きていくだけでした。そうした社会情勢を背景として、祖国待望論や平和憲法待望論がでてきたのです。

 そうした米国の植民地的統治に対する不満が爆発したのがコザ騒動です。私は、高校生の頃の運動がたたって学校を退学させられたのですが、その後、労働・平和団体の事務所に出入りしていました。当時は街のあちこちで、全軍労を始め学生団体や労働団体が70年安保と沖縄返還反対を訴えてデモ行進をしていましたが、私は、全軍労の労働者を中心につくられた中部地区反戦青年委員会に出入りして、大人たちに交じって話を聞き議論をしたものでした。コザ騒動が起きたその日は、自宅に戻って翌朝目覚めると、ゴヤで大暴動が起きたと知って地団太を踏んだものです。チキショー、おれも大暴れしたかった(笑)と思って、慌ててゴヤに駆けつけると、焼け焦げた米兵車両を何十台も目にしました。

 しかし、一人の米兵も死者もけが人もでていません。騒動といっても、米兵を殺傷する目的ではないので、沖縄の人たちにとって、憂さ晴らしだったのでしょう。米兵の車両だけをひっくり返して火をつけたのですが、米兵の犯罪があちこちで起きていた時代に唯一起きた出来事でした。本来なら、文字どおりの暴動が起きてもおかしくないでしょうが、沖縄人が米兵を殺したことはただの一度もありません。

 普通はありそうだと思いませんか?民家に侵入して婦女子に暴行する事件が相次ぎ、由美子ちゃん事件という、わずか六歳の女の子を強姦して殺害後に基地のゴミ捨て場に死体を捨てるといった凄惨な事件も起きていました。あるいは、落下傘でジープが落ちてきて圧殺される事件もありましたし、中には、黙認耕作地に入って薬莢を拾って小銭を稼ぐ暮らしをしていたところを米兵が遊び半分に撃ち殺すといった事件もありました。こうした事件は枚挙にいとまがありません。しかし、一人の米兵も殺害することはなかったのですから、基本的には、物静かなやさしい県民性だと思います。

ケビン・メアとの因縁

 高校退学後は、大学受験資格検定試験(大検)を経て大学に進学しました。卒業後は、沖縄に戻って働いていましたが、二十七歳のときに再上京し、いろいろあったのですが、最終的には、一九八三年五月から沖縄県庁に勤めるようになりました。平和運動センターの事務局長は二〇〇四年から務めています。二〇〇二~二〇〇三年頃まで沖縄県職労副委員長を務めていましたが、私は、イラク戦争反対や選挙支援の街頭演説などを連日行っていました。それが、当時の沖縄平和運動センター議長の崎山嗣幸さん(現、沖縄県議)の目にとまって、平和センターに呼ばれて担当することになりました。

 平和運動センター事務局長としての最初の取り組みは、二〇〇四年の与那国島への掃海艦寄港阻止闘争でした。乗組員が掃海艇のタラップから降りてくるのを止めるため、タラップ下に座り込んで七時間以上にわたって米兵の下船・上陸を阻止したことがあります。その時、漁港ヤードにケビン・メア米国総領事が立っていました。

 彼が近づいてきて「君は誰だ?」と尋ねるので、「答えてもいいけど、この国には人の名前を聞くには、まず自分から名乗るのが常識だ」と言ったところ、彼は、「ケビン・メアだ」と言うから、「よく知っているよ。君が、あの悪名高いケビン・メアか。ここは、あなたの来るような場所じゃないから帰りなさい。もし強行するようなら、座り込みを続けさせてもらう」と言って、後は、機動隊との激しいもみ合いになりました。そのときから私とケビン・メアとの関係が始まります。

 私は、最初から、日程調整や会議・会計などの事務方を務める事務局長ならば引き受けるつもりはありませんでした。先頭に立って運動を引っ張り、現場第一で組織を牽引したいと考えていました。そうした現場第一の運動としては、そのほかにも二〇〇九年四月、在日米海軍が掃海艦を石垣港に入港させるというので、港のゲート前に座り込んで車両の通過を阻止したことがありました。そのとき、先頭車両に乗車していたのがケビン・メアです。

 何時間もとめましたが、私は、そのとき警察に対して「ゲートは他にもある。遠回りして別のゲートから行くのであれば、我々としては、そこまで止めるつもりはない。ここでは、市民として抗議の意思表明をやるので、無理にここから出る必要はないでしょう」と伝えたのですが、メアは、意地でもここから行くといってきかない。すると、メアは、車から降りてきて座り込んでいる私たちの頭の上を跨いでいくのです。当然、怒号が飛び交った挙句、足を引っ張ったり、米兵に飛び乗って首に腕をかけたりの乱闘騒ぎになってしまいます。私たちとしては、非暴力でありつつも、実力行動を指針として運動を進める方針をとったわけです。

 ちなみに、こうしたメアとの確執には後日談があります。メアが沖縄を離れるとき、離任式に列席する東門沖縄市長(当時)に、「メア、あなたはとても頑固な男だけど、アメリカ人らしくわかりやすかった。アメリカの本性がよくわかった。そういう意味で敬意を表したい」といった伝言を頼んだのです。すると、メアから「山城は、いい男だけど、あいつは頑固だ」とのメッセージが返ってきました。彼の居室には、沖縄一頑固な男ということで、私の写真が飾ってあったそうです(笑)。

非暴力だが

無抵抗ではない

 辺野古での運動も非暴力で運動を進めるつもりですが、だからと言って無抵抗主義ではありません。非暴力の実力行動が私のスタンスです。キャンプ・シュワブゲート前に座り込んで阻止線を張ると、機動隊にごぼう抜きされるけど、それでもそうした意思表示を行動であらわさないといけない。

 大勢の沖縄県民がわざわざ遠い那覇市内から車で1時間以上の距離を辺野古まで駆けつけるのは何のためか。毎朝、ゲートには、工事車両が入っていきます。私たちは、その車両の基地内への進入を阻止して少しでも工事を遅らせたいのです。ゲート前を封鎖するのは、沖縄に牙をむいて襲いかかってくる政府や機動隊を前に、単に「反対」「抗議」といった声をあげるだけでは、残念ながら基地建設をとめることができないからです。そのための行動こそが大事なのです。私は、抗議行動を過激にしようとは思っていませんし、非暴力に徹するつもりですが、直接行動は今後も続けていきます。高齢のおじい・おばあたちもゲート前に寝そべったり、座り込んだりして工事車両の通行を阻止しようと頑張っています。

 与那国島掃海母艦のときもそうです。軍艦を寄港させることをとめることはさすがにできませんが、タラップの下に座り込んで兵士を下すことを阻止することはできます。私の運動のスタイルはいつもこうです。もっとも、私は、過激な暴力は大衆運動ではないと思っています。今でも、キャンプ・シュワブゲート前で座り込みを続けると、機動隊と激しいもみ合いになってしまいますが、基本的には、海上に出る車両など関係車両以外は止めるつもりはありません。

 また、抗議現場では、ときには怪我人や逮捕者を出すこともあります。そうした抗議行動で市民に逮捕者がでてしまうと、「過激派」というレッテルを貼られかねませんし、せっかくはるばる遠い那覇市内から辺野古まで来てくれた市民の足を遠のかせてしまうことにもなります。「逮捕覚悟」ということは威勢はいいですが、極力、逮捕者を出さないように運動を進めたいですし、逮捕者を仮に出してしまった場合は、全力で仲間を助けるために動く、これが鉄則です。

本土の皆さんへ

 本土の皆さんは、日本の安全保障や防衛抑止力について、沖縄が反発していることに対して懸念や疑問があると思います。しかし、私たち沖縄県民が訴えているのは、全国四十七都道府県の中で沖縄にだけこれだけの基地が集中している現状をどうみるのか。基地が集中していることは、同時に戦争の脅威が沖縄に集中していることを意味します。

 政府は、先の戦争のときと同じように、いざ有事の時に沖縄を犠牲にして切って捨てればいいと思っているのではないでしょうか。沖縄は、それが再現されようとしていることに対し、それだけは勘弁してくれと訴えているだけです。もしそんなに中国の脅威やそのための抑止力が必要だというのであれば、日本全体で、みなさんでそれを考えてくれ、一緒に考えてほしい、なぜ沖縄にだけ基地を集中させてそれで平然としていられるのか、私たちはそのことに対してNOと言っているのであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

 政府は、沖縄の過激派・左翼が反対しているような言い方をしますが、そうではありません。沖縄は、今や県知事から現場末端の人まで同じ気持ちで運動しています。その事実と沖縄の苦しみ・悲しみを理解してほしいと思います。

 二〇一五年十月十三日、翁長知事は、仲井眞前県政による公有水面埋め立て承認を取消しました。ゲート前は、歓喜の坩堝でわきにわきました。しかし、政府は早速茶番劇のように取消し処分に対する不服申し立てと執行停止の申し立てをしたので、早ければ来週には埋め立て本体工事に着工するおそれがあります。今後、ゲート前はますます激しいものになるでしょう。しかし、それでも私たちは、引き続き、翁長知事の決断を支える運動を進めていきます。

 

 

 

 

 

 

山城博治さん略歴

1952年沖縄県生まれ。法政大学社会学部卒業後、沖縄県庁に入庁。駐留軍従業員対策事業、不発弾対策事業、税務などを担当。沖縄県職員労働組合副委員長を経て自治労沖縄県本部副委員長。2004年から沖縄平和運動センター事務局長、2013年に同議長。東村高江のヘリパッド建設反対運動、米軍普天間基地へのオスプレイ配備反対運動、現在、辺野古新基地建設反対運動など反基地運動の先頭に立ち続けている。沖縄平和運動の象徴的存在。共著「琉球共和社会憲法の潜勢力」(未来社

 

『沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題』(フォーNET取材班編著 春吉書房 2016年9月)