日米合意の「返還」の原点に戻るべき 「世界一危険な基地」普天間の叫び 佐喜眞淳氏 宜野湾市長(当時 2018年1月)

小誌『フォーNET』今年1月号で偶然ですが、今回の知事選に出馬する佐喜眞淳氏(当時は宜野湾市長)のインタビューを掲載しました。もし、県知事になれば立場は変り、発言も少しは変るかもしれませんが、これがこの人の本音だろうと思っています。

 

そこが聞きたい!インタビュー

日米合意の「返還」の原点に戻るべき

「世界一危険な基地」普天間の叫び

 

 

「世界一危険な基地」といわれる沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場。基地の周辺には学校などの公共施設、住宅がびっしりと貼りついている。基地返還を日米で合意してから二十年以上経過してもそのめどはまだ立っていない―

 

 

 

 

佐喜眞淳氏 宜野湾市

 

 

(取材日・平成三十年一月十九日)

 

 

 

宜野湾市民の不安感情

 

 

―米軍による事故について。昨年十二月に宜野湾市の保育園の屋根に米軍ヘリの部品が落下、それから間もなく普天間第二小学校の校庭に米軍ヘリの窓枠が落下しました。

佐喜眞 当然、事故はあってはならないことであって欲しくないのですが、万一起きたら、その原因が人的ミスなのか機体の故障によるものなのか。人為的であれば、単純ミスなのか要素が複雑に絡み合っているのか、その原因をしっかり究明して万全に再発防止に努めてもらいたいというのは、誰しも思うことです。最近、事故が多いのは、米軍の中の規律の問題なのか、機体の点検メンテナンスに問題があるのではないかと思わざるを得ません。

―米軍に対して事故究明は申し入れしていると思いますが。

佐喜眞 申し入れて人的ミスという答えは返ってきていますが、その詳細な中身についてはまだ回答されていません。窓のレバーが安全ワイヤーによって適切に固定されていなかったという報告は受け取りました。しかし、市が求めていた事故が頻発する構造的な原因究明の報告はまだありません。これが機械的なトラブルによる事故、事件であれば解明まで一年かかることもありますが、今回の事故は調べればすぐに分かることではないかと思います。ただ、これはアメリカ側の仕組みもあると思います。と言うのは、公表するにしても再発防止策を実行するにしても、しっかりと正確にやるというルールがあるのかもしれません。

―しかし、その原因が報告される前に訓練が再開されました。

佐喜眞 米軍はすぐに訓練を再開してしまいますね。たとえ原因が究明されても、再発防止が講じられても、詳細が発表されないままの飛行再開では、市民の不安感情は払拭されませんので、そこは残念でなりません。

―原因究明と再発防止策が出るまでは訓練を自粛してもらいたいと。

佐喜眞 それが望ましいですね。人によるかもしれませんが、これだけ事故、事件は頻発すると、夜間訓練のヘリの音一つでも敏感になります。その上、普段と違う音だと「墜ちてくるんじゃないか」という不安でそれがストレスになります。市民の反応が敏感になってしまっています。

―実際に二〇〇四年の沖縄国際大学へのヘリ墜落が市民の記憶に残っているでしょうから、事故が起きると過敏になってしまうのは仕方がありませんね。

佐喜眞 そこは米軍に徹底してもらわないと、未だに市民の安全が脅かされているのは厳然とした事実です。

―「世界一危険な飛行場」と言われている普天間飛行場ですが、二〇一四年に岩国基地が大型空中給油機「KC130」十五機を普天間飛行場から引き受けたので、騒音はずい分減ったようですね。

佐喜眞 固定翼機が移転したのは基地負担の軽減になったのは事実ですが騒音問題は完全に解消していません。特に懸念しているのが、夜間の騒音です。特に冬は夜六時くらいから暗くなります。暗くなると見えない中で音だけが聞こえます。

―6年前に普天間飛行場に強行配備されたオスプレイですが、実際に近くの高台から見学して思ったのは、通常のヘリに比べて音が小さいなと。

佐喜眞 オスプレイの重低音が不安を増すという声もよく聞きます。また、オスプレイがヘリモードで飛行すると気流や騒音が下に吐かれるので、窓を閉めていても部屋が振動します。重低音の特徴です。水平飛行になると少し軽減されますが、ヘリモードの時もありますね。

飛行音の酷さという点から言えば、ジェット機が離発着する嘉手納基地の方が大きいと思います。普天間飛行場の場合、夜間飛行に加えてタッチアンドゴーなどの旋回飛行をしますから、一回で終らずずっと音が続きます。しかも、訓練のスケジュールを決める運営権は米軍にありますから、不定期で予告なく実施されています。最近は普天間飛行場付近での訓練は減りました。その代わりに遠隔地で訓練やって帰還するのが夜10時を回ることも度々あります。訓練回数など負担が軽減されても基地がある限り、危険性は無くなりません。飛ぶなと言っても飛びますから。車等の事故と同様で事故が起こらないという保証はありません。

 

 

 

 

「基地の固定化」の不安

 

 

 

普天間飛行場の移設について。市長の公約である「普天間の固定化阻止」「早期の危険性除去」「五年以内の運用停止」など見通しはどうでしょうか。

佐喜眞 普天間飛行場の返還合意は、一九九五年に起きた米兵による少女暴行事件で在沖米軍の整理縮小に合意した九六年のSACO(日米特別行動委員会)合意が基本にあります。五年から七年での返還で合意したのですが、普天間飛行場の代替施設が必要だという条件が付きました。普天間飛行場の返還合意から今年で22年目となり、時間がかかっているのも事実です。

 我々が望んでいるのは、一日も早い返還です。返還するためには日米両政府で移設先を整備することになっています。これは我々がやるのではなく、あくまでも政府がやるべきことなんです。宜野湾市民が望んでいるのは、合意した普天間飛行場の全面返還という約束を守ってもらいたいということだけなんです。

―固定化阻止を訴えていますが、固定化される恐れがまだあると。

佐喜眞 私が市長に就任してから、「名護市辺野古のキャンプシュワブへの代替施設建設が、普天間飛行場の継続的な使用を回避するための唯一の解決策である」と日米両政府は公式に発表しております。代替施設が完成しなければ普天間飛行場の固定化もあり得るかもしれないという不安を持っているのは私だけでは無いと思います。つまり、普天間飛行場の代替施設の運用が可能になって初めて普天間飛行場が返還されるという論理で、代替施設運用がいつの間にか大前提になっているのです。

 合意は、あくまでも返還が大前提でした。それが、移転先の運用がなかなか進まなくなって、いつの間にか合意が破棄され固定化される不安は拭えません。「(普天間飛行場を)しばらく運用する」という文言が入るかもしれない。事実、民主党政権時代に普天間飛行場の返還期日が無くなったことがありました。日米の信頼関係が損なわれた結果、合意が見直されて2006年の在日米軍再編協議最終報告(日米ロードマップ)で改めて示された2014年までとする返還期日が

延期になった上に、期限が無くなりました。安倍政権になり日米首脳会談、ツープラスツー会合を経て合意した沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画で、「二〇二二年度またはその後」という返還時期が改めて設定されました。このことに関しては、安倍政権を評価したいと思います。

 しかし、それでも当初の返還合意から二十年以上経っています。そして気になるのは「その後」という文言です。我々の不安を取り除いてもらいたいのですが、それを実行するのは日米両政府です。しかし、「キャンプシュワブへの代替施設建設が、普天間飛行場の継続的使用を避ける唯一の方策」という発言が平気で出ることに非常に不安を覚えます。

つまり、議論がいつの間にか普天間飛行場の返還が最優先では無くなってきている感じがするのです。最近のアジア情勢が変化する中で海兵隊が持つ機能、特に普天間飛行場のような特殊な機能を持った基地を手放すだろうかとも推測します。沖国大にヘリが墜落して県民があれだけ反対運動を起こした時ですら、普天間飛行場は返還されませんでした。

普天間以外で返還された基地もありますね。

佐喜眞 基地の整理統合計画では、普天間飛行場をはじめいくつかの基地が返還されて縮小される予定です。実際に返還された基地もあります。特に、県民の生活圏である都市部から米軍施設がなくなることは画期的なことだと思います。返還が始まるのは、復帰の一九七二年後からですが、総ての基地が沖縄から無くなる事にはならないと思います。あくまでも生活圏の危険性除去が目的で、事故という重大な事態が起きる危険性を除去することは、ひいては日米安保にも適うことだと思います。

―「五年以内の運用停止」は現段階ではなかなか難しいですね。

佐喜眞 仲井眞前沖縄県知事の時代、普天間飛行場がすぐには返還出来ないことを踏まえながら、危険性を早期に除去しようと政府、沖縄県宜野湾市による構成メンバーで検討した結果、「五年以内の運用停止」を目標に推進することになりました。その一環で、先ほどのKC130の岩国基地への先行移転です。本来の日米合意では代替施設が出来てからの移転でした。そういう意味では画期的なことでした。具体的に目に見える形で危険性除去をやるという日米間に素地は出来ています。ただ、移設先とその運用を決めるのはあくまでも日米両政府ですから、我々としては延び延びになっている返還をいち早く実現したいという目標を設定しているだけなのです。「いつか」では困ります。

―次の軽減策は?

佐喜眞 オスプレイの移転でしょう。現在二十四機ありますが、まずその半数を県外移転か訓練移転させるように働きかけています。

 

 

 

 

 

すり替わった「オール沖縄

 

 

 

―残念ながら、オスプレイの配置には本土では拒否感が一部にあります。

佐喜眞 衆議院の安保委員会に呼ばれると、「市長は、移設先は県外が希望しますか?それとも国外?」という質問を受けます。これは私がどうこうできることではなくあくまでも国政が決めることです。先日も窓が落ちた普天間第二小学校に与野党の安保委員会が視察にきたので、「去年の暮れに窓枠が落ちて、年が明けると早々に二回も不時着が起きました。それでも訓練は止めないのが現実です。国会で普天間飛行場の移転についてちゃんと議論してください」と伝えました。主義主張の問題ではありません。国民の生命財産を守る国政が第一に優先すべき問題なのです。

―沖縄の基地問題に対する関心は、本土と沖縄ではかなり温度差があります。

佐喜眞 自衛隊、在沖米軍の存在理由をもっと具体的に国民の間で理解すべきだと思います。米軍の中には、陸海空軍がありそれぞれに役割分担があり、それぞれに必要な装備があります。その運用は法治国家ですから法に則った運用であるべきです。日本の平和を維持するために何が必要なのかという基本的な議論から始めるしかありません。必ずしも最悪の事態ばかり想定する必要は無いと思いますが、アジアの情勢が極めて不安定な情勢の中で、抑止力を持つことは当たり前のことであり、そうしないと国民を危険にさらすことになります。しかし、国防に関して国民的コンセンサスが得られているかといえば総て得られているとは思えません。特に日米安保における在日、在沖米軍は必ずしも歓迎されていません。

―そうした議論で本土と沖縄の意識格差が縮まらないといけませんね。

佐喜眞 日本人が平和を尊ぶならば、そのために何が必要で何をなすべきか。理想と現実をしっかりわきまえて議論すべきでしょう。行き着くところは教育だと思います。

沖縄戦、米軍による統治、日本復帰、そして基地返還など沖縄の歴史を日本全体が共有できていないと思いますね。

佐喜眞 それに気が付かないようになってきています。戦争を知っている世代が少なくなったこともあるでしょうね。政治家だったら、初代沖縄開発庁長官だった山中貞則先生や、SACO合意の当時の首相だった橋本龍太郎先生など沖縄のために心を砕いていただいた政治家は、沖縄の地上戦での県民の悲惨な体験に配慮する方が多かったですね。その世代が代ってしまい、その歴史の記憶をしっかり継承すべきです。

―本土の日本人の中には「基地周辺の建物は基地が出来てからできたもので、住民の選択だった」という意見も散見されます。

佐喜眞 誤解されていますね。元々普天間飛行場の場所は戦前の宜野湾村の中心地でした。沖縄戦の時に上陸してきた米軍に日本本土への爆撃基地として強制的に土地を接収されて建設されたのが始まりです。一九七二年の本土復帰の頃までは今のような運用ではなく、補助飛行場としてパラシュート降下の訓練が行われていたのです。その後、嘉手納基地にP3Cが移駐され、その補助飛行場として滑走路が整備され、岩国基地から千人規模の第一海兵航空団が沖縄に移設するなど徐々に基地機能が強化されていきます。現在のような運用が始まったのは、一九七八年に北谷町のハンビー飛行場が返還されてその機能が普天間に移されてからです。

 宜野湾市は復帰前の一九六二年に市制が施行されて、一九七五年には人口は五万人を超えていて、基地の今のような運用が始まった時にはすでに基地周辺では市街地が形成されていました。

―本土の無知、無関心がそうした風評を生み出しているんですね。ところで、沖縄では「オール沖縄」という言葉が盛んに言われますが、これは沖縄県民の民意なのでしょうか?

佐喜眞 当時の「オール沖縄」と現在の「オール沖縄」が何に依拠しているのかを考える必要があります。オール沖縄という言葉が初めて使われたのは、私たちがオスプレイ配備に反対する市民大会を開いた時でした。当初は、オスプレイが配備されるから早く普天間飛行場を返還しようというのが県民の民意で、それはオール沖縄という言葉に凝縮されたのです。それがいつの間にか「辺野古反対」に取って代わられているのが現状です。普天間飛行場をいち早く取り戻そうというのが、オール沖縄の原点なのです。これが沖縄の民意だと言ってもいいでしょう。今のオール沖縄はその原点がすり替わってしまい、政治闘争の具として使われています。普天間飛行場の危険性除去という本来の目的のために建設的な議論をすべきです。

 オール沖縄の目的が変わったのにもかかわらず、民意だというのはおかしな話です。本当の沖縄の民意には基地は無い方がいいというものが多いと思いますが、だからと言って今の反対運動にように法律を破っていいということにはなりません。

 

 

佐喜眞氏プロフィール

昭和39年(1964)、沖縄県宜野湾市出身。千葉商科大学経済学卒。沖縄県議会議員(2期)、宜野湾市議会議員(2期)を務め、2012年宜野湾市長選で初当選。現在2期目。

 

月刊「フォーNET]2018年2月号