『沖縄両論』第6章承前 このままでは沖縄は独立する?

昨日、沖縄県知事選で故翁長知事の継承者で「辺野古反対」派が押すデニー・玉城氏が当選した。沖縄に関しては1冊上梓しているので、色々と書きたいことはあるが、一言。これからアップする拙著『沖縄両論』の第6章承前のような危機が、この新しい知事で少し現実味を帯びてしまうのではないかという危機感を覚えた。

 

拙著『沖縄両論』から 第6章承前

 

第6章 このままでは沖縄は独立する?

 

 

自己決定権

 

 

2015年、翁長知事は、アメリカや国連知事会で「日本政府に人権や自己決定権をないがしろにされている」と訴えた。この知事発言の背景には、2008年に国連の人権規約委員会が日本政府に対して出した「日本政府は(アイヌと同じく)沖縄の人々を公式に先住民と認め、文化、言語を保護すべき」という勧告が念頭にあったと思われる。つまり、翁長知事は、沖縄は元々、琉球王国という「先住民」の国家が、薩摩に侵攻されて明治維新後の琉球処分で併合されたのだから、日本民族ではないということを言いたいのだろうか。翁長知事の主張する自己決定権」とは何だろうか?「沖縄は自分のことは自分で決めることができるのに、それを日本政府に妨害されている」と解釈されるが、自分の身に置き換えると、違和感を覚えてしまう。例えば、現在、福岡県民(出身は熊本県)の私たちが、「福岡のことは福岡で決める権利」を行使するには、県議会選挙に投票するしかない。しかし、その議会が決める(自己決定できる)ことは、都市計画、道路、河川、警察、病院の設置など県民生活に密着したものに制限されていて、外交、防衛などは国の専権事項で、この決定に参画するには我々国民は国政選挙に委ねるしかない。それが議会制民主主義で自己決定権とは、段階的な権利ではないかと思う。あらためて沖縄の自己決定権と言われると、正直ピンと来ないのである。また、先住民である沖縄の人には沖縄のこと、特に基地の受け入れを決める自己決定権があると言うが、基地問題は明らかに外交・防衛の問題で決めるのは国政の場しかない。

本書で登場いただいている島袋純琉球大学教授はインタビューで沖縄の「自己決定権」について、国連自由権規約社会権規約第1条で規定された「人民の自決権」のことであり、具体的には、政治的地位の自由や経済的、社会的及び文化的発展の自由の権利だと説明する。つまり、その中核は政治的地位を自由に決定する権利のことで、政治的地位の自由とは、その人民が新たに主権国家をつくる、あるいは高度な自治権をもつ自治州、地方自治体を形成する権利を持っていることを意味すると話している。沖縄の人を「人民」と呼ぶ根拠は、「主権国家内で構造的差別を受けている少数派の人たちや先住民の権利を守ることができなかったことから、1960年代以降、その「人民」の概念を幅広く解釈するようなった」と説明していただいた。その文脈では、構造的差別を受けてきた沖縄の人々も、国連の規定でマイノリティまたは先住民にあたることから、国際人権法にいう「人民」に該当し、自己決定権を持つという。

 

 

根底にあるもの

 

 

その論理から言うと、「沖縄は独立できる」ことになる。

確かに、沖縄の歴史を見ると、15世紀に誕生した琉球王国が薩摩に侵攻され、明治維新になって沖縄県として併合されたことは史実で、そういう意味では沖縄は元々違う国家でそこには先住民が存在したとも言える。現代の目で見れば、それは紛れも無く併合であり、琉球の「先住民」は日本の圧制に苦しめられ、民族の文化、習慣、言語を奪われ、いわゆる「民族浄化」という塗炭の苦しみを味わった―と解釈しがちになるだろう。しかし、現実には沖縄の文化は残り、言葉もウチナーグチという方言として地元の人々は使っているではないか。方言禁止、美しい流麗な琉球舞踊を禁止されているわけでもあるまい。また、琉球王国時代に人頭税という重税に庶民が苦しんでいたという史実は見逃されがちで、日本に編入されるのを一番喜んだのは、沖縄の庶民だった。むしろ、明治維新後、沖縄の教育水準が向上したと言われている。アメリカが先住民インディアンを殺戮して殲滅させた後ろ暗い歴史とは雲泥の差ではないだろうか。

私は日本と琉球は同じ民族という日琉同祖論に納得している口だが、それはさて置き、先に住んでいた民族の自己決定権を現代に認めるのならば、殲滅されたマイノリティは全て認められる論法になる。それならば、大和朝廷成立前の熊襲薩摩隼人や、大和から討伐された蝦夷の子孫にも自己決定権を認めるべきなのだろうか?民族とは血脈だけではなく、言語、文化、そして政治形態を共にする集団ではないかと思う。そういう意味では、今日の沖縄は紛れも無く日本と同じ民族であることは間違いない。

沖縄に自己決定権、独立論が出る原因は、やはり米軍基地の偏在にその根源があるのではないか。本気で沖縄が独立を考えているのではないと思う。それは、非現実であることは沖縄が一番分かっているのではないか。その苦しみを日本人全体で分かち合えない、もどかしさ、怒りが沖縄の中にある。その魂の叫びだと私は、解釈している。