政談談論(消費税の本筋)太田誠一氏

消費税引き上げは、政治の覚悟が必要不可欠です

世論に阿り、友党に配慮する今の内閣にはそれがありません

 

 

 

 

軽減税率の愚

 

 

 来年十月一日からの消費税引き上げの施行に向けて着実な実行が閣議決定され、今国会で審議されています。安倍晋三首相は閣議で消費増税実施を発表し、「経済に影響を及ぼさないよう特別の措置を講じる」と指示しました。補助金の拡充やポイント還元制度の創設などの軽減税率が検討されています。その目玉に掲げたのが「ポイント還元」です。中小の小売店で商品を購入した客に、税金を原資に価格の2%分のポイントをつけるというもので、ためたポイントは商店やネット販売の代金支払いや値引きに使える。だが、対象になるのはクレジットカードや電子マネーで購入した場合だけ。現金払いだと“戻し税”の恩恵を受けられない。また、消費税引き上げ分を子育て支援など全世代型に転換する財源を確保に充てるとしています。

 軽減税率の導入などという中途半端で、国民に分かりにくく不公平で、企業にとっては煩雑な事務処理とコストの負担を課すやり方は、連立のパートナーである公明党の提案を自民党が呑んだ結果です。一律の税率でいいではありませんか。また、本来の引上げの目的は国家財政の健全化であるはずなのに、世論に阿るあまりに新しい財源に充てるというのは、財政の健全化という本来の目的に反する愚行です。

 消費税引き上げのデメリットに、消費者の購買欲が減る、中小企業の負担が大きくなる、景気が悪化する、駆け込み需要の反動が起るなどが挙げられています。確かに過去の引き上げでは、反動減がありましたし、景気が多少悪くなったのかもしれません。しかし、国家財政はそんなことを言っていられる状況ではすでにないのです。

 読者の中には目をむく向きもあるかもしれませんが、私の持論は「消費税二五%」です。以前もこの稿に書きましたので、今回は特別に紙幅を増やして引用します。

 

 

世界の非常識

 

 

 

今時、八%だ一〇%だと騒いでいること自体が世界の非常識だと思います。消費税率は二五、いや三〇%に速やかに引き上げるべきだというのが、私の以前からの持論で、この稿でも主張したことがあります。他国、特にヨーロッパ諸国は消費税を大幅に引き上げています。そのために経済的負担がかかりGDPは引き上げ分だけ落ち込みました。これは至極当然のことで、日本が消費税を8%に引き上げればGDPはその分下がり、景気が悪くなるのは当たり前です。それを私はもっと上げて25%にすべきだというわけですから、読者皆様の中には反感を感じる方もおられるでしょう。

 私が消費税をいち早く大幅に上げるべきだと主張する第一の理由は、取りも直さずわが国の財政問題です。今や一千四〇〇兆円にも膨らんだ国の借金をこれ以上増やしてはなりません。今の国の財政状態は、個人に例えれば借金した(国債発行)お金を生活費(社会福祉費)にしている、サラ金の借り手の中でも最悪の部類と同じです。借金を重ねているばかりで返す気がない。すでに破綻しているけれど外からは見えない。日本という国はまさにそのようになっているのです。これは政府だけの問題ではなく、国民も含めた国全体の問題です。とにかくこの莫大な借金をいち早く返済する方向に舵を切るしかありません。そのためには消費税を引き上げて、一方では歳出の六割を占める社会福祉費を削減するしかありません。「入るを量りて出ずるを制す」を徹底するしかありません。

 これまで消費税を「福祉目的税」と称し国民を説得していましたが、これははっきり言ってまやかしです。なぜならば福祉目的税どころか、すでにこれまで、消費税収入をはるかに上回る福祉予算を使っているではありませんか。つまり、増税分を福祉に回すどころか、将来の増税分を先喰いして福祉を賄っているのです。

未だに景気が悪い時には消費税を上げるべきではないという声が多いのですが、消費税を二五%にしたところで誰も餓死するようなことはありません。日本はかなり恵まれているのです。確かに増税をきっかけに景気が下降することはあります。しかし、その目的はあくまでも財政再建ですから当然、歳出削減も同時にやるべきです。これまでわが国は借金でその財政を賄ってきた、つまり国民は身の丈に合わない生活をやってきたのです。それを身の丈に合わせるだけなのです。景気が悪くなった、景気が悪いから引き上げないという次元の話ではありません。引き上げれば景気が悪くなるでしょうが、それは致し方ないことです。それが身の丈なのですから。消費税二五%の時代に歯を食いしばって適応する以外にありません。

ヨーロッパの例では、最も賢明な方策は財政健全化規模を十とすれば、その内六が歳出削減、四が増税ということらしいのです。財政を再建するには増税分を上回る規模で歳出を削減しなければなりません。増税社会福祉の削減を同時にやればかなりの苦しみを国民に強いることになります。パニックになるかもしれません。しかし、こうした苦しみやパニックを経験しなければ健康体になりません。こうした苦しみを西欧諸国は歯を食いしばって乗り越えてきているのに日本だけが依然として借金を重ねているのは恥ずかしいことではないでしょうか。日本全体が五年くらいは苦しい思いをして、その先に財政健全化の展望が見えてくるはずです。それを一度もやらないままズルズルと借金を重ねている、この流れを思い切って断つべき時です。

 

 

「景気判断」というまやかし

 

 

消費税引き上げを先送りするため「景気判断」という逃げ道を辿ってきました。「景気が良くなったら消費税を上げる」というステートメントは、「(財政再建を)やらない」ということと同義語になっていました。十数年間5%のまま据え置かれてきた間、ずっと「景気が良くなれば上げる」と先送りしてきました。安倍政権でようやく三ポイント上げた理由も「景気判断」でした。それがここに来て景気を理由に躊躇しています。先述したように仮に消費税を据え置いたままでも実態の景気が良くなるはずがないわけです。それを「景気」を目安に判断すると公言するから、国民は勘違いして「今は景気が悪いのに」と反発するわけです。何のために消費税を引き上げるのかを正直に国民に説明してこなかった政治の怠慢のつけが回ってきています。民主党の野田政権時代に「税と社会保障の一体改革」を打ち上げました。この時、政府は消費税引き上げの理由に社会保障の現状維持を挙げましたが、それこそ誤った「目的税」論です。増税の本来の目的から逸れてしまいました。しかし、それは消費税引き上げの方便として仕方がなかった面もあります。安倍政権は衆議院解散の前提として当時の野田首相に消費税引き上げを約束させられて3%引き上げを実行しました。ところが、アベノミクスをぶち上げて景気浮揚を国民に期待させてしまいました。その結果、アベノミクスが失速しかけて景気が腰折れしたように思い込んだ安倍首相が増税に躊躇しているというのは、実に情けないことです。振り返れば、消費税を引き上げるチャンスは小泉政権の時でした。人気があった小泉首相も引き上げに躊躇したわけです。それは「消費税を上げると政権がもたない」という打算、自己保身ではありませんか。

これまでのように小出しで引き上げていては、いつまで経っても身の丈の生活がどんなものか実感できないし、また生活防衛の手段も分かりません。納税者である国民が非常事態であることをしっかり自覚するしかないのです。今までのように政治家の腰が引けているようでは、国民もどうでもいい問題だと錯覚したままです。いち早く本当の意味での「財政再建のための増税」の重要性を国民に訴え、実行に移すことです。

さて、国全体で身の丈の生活に戻すということは、人間の体で言えばダイエットと同様かなりの努力、我慢が要求されます。それも増税社会保障削減のダブルパンチに見舞われるのですから国民にすればかなりの痛みを伴います。悲観的に受け止められるかもしれませんが、前号で述べたように日本の人件費はまだ高過ぎます。不当な円高を是正して円安に誘導し、賃金の内外格差が縮小されれば国の雇用が増大します。賃金はドル表示で下がり、円安で輸入価格が高騰し一時的に国民生活に重大な影響を与えるかもしれません。そうなると、食糧など国内で生産するしかない、農業が復活し自給自足体制を再構築するしか道はなくなります。

そもそも我々日本人は平和で治安がよく、餓死することもないことにまず感謝すべきではないでしょうか。国民全体がそれ以上の贅沢を求めた結果が国の財政が破綻しそうになるまで悪化させた要因であることを身を以って知るべきです。衣料品はタンスの中に一杯で、住宅はバブルでどんどん建って空き室が増えている、グルメ番組の影響なのかレストランで高級料理を楽しむ人々…日本人の衣食住はすでに飽和状態なのです。一言で言えば、今の日本人は贅沢過ぎるのです。昭和三十年代の日本では、知恵と工夫を凝らし汗水流して働いて、国内でカネとモノが循環した社会で人々は貧しくとも幸福感があったに違いありません。足るを知る「知足」の精神を国民が大いに発露すれば、困難を乗り越えることはきっとできるはず、と信じています。(二〇一四年十一月号)

 

 

政治の勇気

 

 

日本人には元々「倹約精神」がありました。しかし、高度成長時代、バブル経済でその倹約能力、エネルギーが消耗した感もあります。国も個人もまだまだ無駄を削る余地はあるはずです。例えばドイツはしっかり倹約を実行してきました。当時のメルケル首相に対しドイツ国民は、財政危機に陥ったギリシャEUに救済を求めた時に、「私たちは“アリとキリギリス”のアリ。どうしてキリギリスのギリシャを救う義理があるのか」と批判しました。サミットで安倍首相がメルケル首相に「世界経済が落ち込んでいる中、日本も投資を積極的に増やすので、ドイツも一緒に世界経済の牽引車になろう」という呼びかけに対してメルケル首相は「日本はいずれギリシャのようになりますよ、そんな愚かな提案には乗れない」と一笑に付したそうです。

ドイツなど財政再建に成功した国は、国民に対して正面から消費税引き上げを呼びかけました。増税はどの国の国民もできれば避けたいから反対の声があがり、内閣がいくつも倒れました。それでも政治は引き上げを諦めず、ついに増税にこぎ着けました。これは、政治の勇気以外何物でもありません。政治が勇気を持って、国民に向き合うことが必要なのです。

 

 

 

 

 

知られざる「ドイツ兵久留米俘虜収容所」の歴史を伝える

そこが聞きたい!インタビュー

知られざる「ドイツ兵久留米俘虜収容所」の歴史を伝える

久留米とドイツの交流が生んだものとは

 

 

草場武司氏 久留米市観光ボランティアガイドの会 会長

 

リード文

ドイツ兵捕虜収容所と言えば、徳島県鳴門市の「板東収容所」の第九コンサートが有名だが、久留米俘虜収容所は全国で最初に設置され、約千三百人の最大多数のドイツ兵捕虜が、5年半もの最長期間を過ごしたことは意外に知られていない。所内の人道的処遇の結果、久留米にもたらされたものは、大きかった―

 

 

「久留米の戦争」

 

 

―大正時代に久留米市に多数のドイツ兵が収容されていたことは、あまり知られていませんね。

草場  第一次世界大戦の発火点は、ヨーロッパの火薬庫と言われていたバルカン半島サラエボ市で、オーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたことからでした。それをきっかけにして、世界三十一カ国が敵味方に分かれた戦争になりました。その中で英国はドイツに宣戦布告したのです。その結果日英同盟を結んでいた日本はそのドイツに宣戦布告し、中国におけるドイツの拠点、青島を攻略することになりました。その攻撃の主力部隊は久留米第十八師団を中心に編成された独立第十八師団です。この戦争では東京に大本営は設置されていません。ですからある意味、日本の第一次世界大戦は久留米の戦争、と言ってもいいと思います。

―大正三年(一九一四)十一月、十八師団は青島を陥落させます。

草場 久留米18師団は投降したドイツ兵捕虜四千六百七十九名を全国十六ヵ所の収容所に移送します。久留米には最大の一千三百十九名の捕虜が収容されました。しかし、総攻撃開始後わずか一週間で陥落したので収容所建設が間に合わず、当初は寺や旧料亭、演習場内の粗末な兵舎などに収容しました。一年後には新しい収容所が完成し、そこに統合させました。その様な経緯で五年半、ドイツ兵が久留米で捕虜生活することになります。百年前に一千人超の外国人。当初久留米市民も驚いた様で、色んな話が伝わっています。

―捕虜に対して人道的な扱いをしたそうですね。

草場 日露戦争もそうでしたが、戦が終われば敗者に情けをかける武士道精神が残っていたのでしょう。当時の日本はようやく欧米諸国と肩を並べて一等国になろうとしていました。ですから、日本は身も心も一等国になりたかったのでしょう。国際社会で尊敬される国になろうと・・・・。青島陥落直後の逸話があります。ドイツ軍の病院に立派な医学書がたくさんありました。日本軍はそれを戦利品として持ち帰ろうとしますが、念の為に調べてみると軍のものではなくて民間ドイツ人の寄附によるものであることが分かりました。これは持って帰るべきではないとそのまま返却して日本軍は撤収しました。

こうした行為の根底には、ドイツに対する日本人の尊敬と憧れがあったのだろうと思います。学問、医学、芸術などドイツは世界の最先端国でしたから。明治憲法、軍隊組織や学校教育制度、医学もドイツにならったもので、メスやカルテ、ガーゼはドイツ語です。

 

「初の第九」

 

 

―ドイツ兵にはかなり自由が認められていたようですね。

草場 一応検閲はしますが家族との手紙、久留米に来て住み着いた妻との面会、在日ドイツ人との接触・支援受入れ、外国新聞の持込み、日記をつける事、印刷機を持ち込み所内新聞の発行、写真撮影、収容所外への遠足等々、脱走以外は殆ど自由でした。
 五年半の間に五人の所長が就任しています。初代の樫村弘道所長は、神父が週一回の儀式を執り行う事を許可しています。また、二代目の真崎甚三郎所長は、後からお話しますが、ドイツ兵とのトラブルを頻繁に起こしますが、ドイツ兵の音楽活動に対して、「ドイツ人にとって音楽は、日本人にとっての漬物のようなものだ」と理解を示してコンサートを許可しました。三代目の林銑十郎所長は、遠足、スポーツ大会、工事への使役、野菜栽培の奨励など捕虜の健康に気を使いました。

この他、五代目の渡辺保治所長は隣接する畑を整地してスポーツが出来る環境を整えました。当時の日本人はドイツ人の生活、文化を知っていたのでしょうね。あるドイツ兵の日記に、別室で聞こえるドイツ語の会話をてっきり同胞人どうしが話していると思っていたら、一人は日本人の通訳だったのでその見事なドイツ語に驚いた、と書いています。

―スポーツ大会、演奏会も盛んにやっていたようですね。

草場 スポーツに関しては収容所内には体操、サッカー、ホッケー、テニスなどの十三のクラブが活動していて、毎週のように競技会が開かれていたようです。音楽は収容所内に二つの楽団があり、二百回以上のコンサートのプログラムが残っています。

ベートーヴェン交響曲第九の日本で初めての演奏は、板東収容所ですね。

草場 その通りです。何も競う必要はないのですが、実は日本人が初めて第九を聞いたのは、大正八年(一九一九)に久留米高等女学校(現在の明善高校の前身のひとつ)なのです。その演奏をした捕虜の日記に、予定のプログラムが終わったら一人の女学生が「これを弾いてくれないだろうか」と持ってきた楽譜がシューベルトの「セレナーデ」だったので、極東の島国の少女が・・と驚いた、と書き残しています。また、収容所内では美術や工芸も盛んでした。所内では作品展が開かれ、優秀な作品は文部省主催の展覧会にも出品されたり、地元で開かれた美術工芸品展覧会には約五千点もの作品が出品され、即売されたようです。

―しかし、軍と捕虜の間に軋轢もあったようですね。

草場 二代目の真崎所長の殴打事件がありました。殴打されたドイツ兵は捕虜の虐待を禁じているハーグ条約違反だと、中立国のアメリカに調査を依頼して実際調査団が入りました。これは隠蔽せず公明正大な日本の姿勢の現われとも言えます。真崎所長が殴打した理由は、その二週間前に四名が収容所から脱走したばかりなのにも拘わらず、捕虜全員に大正天皇の誕生日祝いにビールとリンゴを配りましたが、それに対し「敵国のトップの祝いものを貰う訳にはいかない」と将校が突き返しにきた為でした。当時の職業軍人として皇室を侮辱されては、黙って見過ごすことはできなかったのでしょう。
陸軍省は適切な行動ではなかったと裁定し、所長を実質交替しました。

―収容所の衛生、健康管理も行届いていたようですね。

草場 同じくドイツ兵を収容したロシアの収容所での捕虜の死亡率は三九・五%と高いのに対して、日本はわずか一・九%、久留米は〇・六%です。当時、世界中にスペイン風邪が流行し猛威を振るっていた中でも、久留米収容所で感染し死亡した者はゼロでした。世界で最も安全な場所だったとも言えるでしょうね。

 

 

ブリヂストン飛躍の礎

 

 

―五年間の収容所生活を終え、母国に帰還する捕虜の中にはそのまま久留米に残った兵もいましたね。

草場 そうです。久留米収容所の捕虜二十一名が、日本残留を希望しました。そのうち十二名が地元などの企業に雇用されました。特に日本足袋のヒルシュベルゲル氏と、つちや足袋のヴェデキント氏は久留米のゴム産業の発展に重要な役割を果たします。

―日本足袋は後にブリヂストンになって世界的企業に発展しますね。

草場 ブリヂストンの創業者である石橋正二郎氏は、十七歳の時に父から足袋屋の家業を引き継ぎました。当時は丁稚八人が座布団に座って足袋を縫う、家内制手工業規模でした。それが一代で世界的企業に大成長したのは、経営理念の誠実さと優秀なドイツ人捕虜を雇用したことにあると思います。正二郎は親から引き継いだ足袋屋を製品と価格の均一化で成功し二十九歳の時には三百万足を販売するまでに成長します。この頃、正二郎は新しい製品開発を進めました。

それが「地下足袋」です。それまで日本の勤労者の履物はわらじでしたが、わらじでは足に十分な力が入らないため作業効率を妨げ、釘やガラスの破片を踏み抜きやすく危険でもありました。耐久性が無いため一日に一足は履きつぶしてしまいます。履物代がかかり、勤労者にとって決して馬鹿にはできぬ負担となっていました。そこで正二郎はわらじよりもはるかに耐久性に富むゴム底足袋、地下足袋の開発を目指します。

 この時に貢献したのが、優秀な化学技師だったヒルシュベルゲル氏でした。彼はこの時に雇用されます。この地下足袋が激しい労働環境の三池炭鉱で使われその優秀性が認められて全国的な大ヒットになります。生産が間に合わないほどだったそうです。力をつけた正二郎が次に目指したのが、国産自動車タイヤの製造でした。ブリヂストンが宣伝用に購入した自動車を、馬を使わない馬車が来たと人だかりがした時代です。ゴム技師長だったヒルシュベルゲル氏はゴムの配合を担当し、見事成功します。

社名のブリヂストンヒルシュベルゲル氏の提案です。タイヤのブランド名を考えた正二郎から、石橋を英語風にもじって「ストーンブリッヂ」にしようかと相談されたヒルシュベルゲル氏が、語呂が悪いからとさかさまにした「ブリッヂストン」を提案したのが始まりです。つちや足袋、現在の株式会社ムーンスターに雇用されたヴェデキント氏も会社に大きく貢献します。つまり、久留米の発展にドイツ兵は欠かせない存在だったと言えるでしょう。ヴェデキント氏は久留米を愛し骨を埋めた人で、帰化して日本名を「上田金蔵」と改名しました。この他ドイツハムの製法と味を久留米人に教えたのも、ドイツ兵でした。「松尾ハム」はドイツハムの製造に成功します。松尾家はもともと、外国人居住者や出入りの多い長崎でハム製造をしていました。久留米俘虜収容所との接点を作ったのは、久留米市の目抜き通りの「明治通り」にあるカトリック教会の、ミシェル・ソーレ神父です。ドイツ人にとってハムは、日本人にとっての味噌汁の様に、なければない程恋しい食べ物であったようです。収容所に出入りしていた神父は何とかハム・ソーセージを食べたいとの捕虜達の希望を知り、たびたび訪れる長崎で松尾さんに声を掛けて、久留米への転身を働き掛けたのでした。しかし、最初は捕虜達に言わせると、故国の味とは全く違っていて、「こんなものは食えるか!」だった様です。捕虜のなかにハム職人がいました。アウグストス・ローマイヤーです。シュミット・村木万寿美著『ロースハムの誕生』にドイツでの職人修行の苦労話しが出ています。彼の指導助言で、捕虜たちが納得する味を実現する事が出来た様で、「おいしいものを長年有り難う!」と感謝した捕虜達は、帰国の際に記念に手作りの収容所レイアウトのレリーフをプレゼントしたのです。下部に、KRIEGSGEFANGENEN LAGER KURUME(久留米俘虜収容所)とあります。この現物は、調査の段階で松尾さんから見せて貰った事があります。この様に故国の味を長年納入して大いに感謝された松尾ハムは、残念ながら最近閉店しました。

 

シリアル・ノミネーション

 

 

―四年前(二〇一四)からドイツ兵久留米俘虜収容所のガイド活動を始めたきっかけは?

草場 あることがきっかけで収容所のことを知りました。平成十四年から活動している会のメンバーに「この史実を久留米市民に伝えるのは私たちの務めではないか」と呼びかけました。そこで内部で勉強会を開き色々と調べていくうちに、資料と写真などを求めて久留米市文化財保護課を訪ねると、ちょうど第一次世界大戦百周年の資料展を企画しているとのことでした。それでは一緒にやろうという事になって、私たちはまち歩きガイドを担当しました。それ以来毎年三回開催しています。しかし毎回、同じテーマで同じ場所を巡るので、次第に参加者が少なくなってきたので、もっと広く知ってもらうために私も講師を務めて公民館等で講演会を開いています。先立っては「えーるピア」で160人へ、来月は市教育会館で退職教職員協会からのお招きで講演します。

―参加された人の反応は?

草場 皆さん、「聞いてよかった」と好評です。なかには「部分的には知っていたけど、これだけ全貌は初めて知った」と喜んでいただいています。

―収容所に関しては、第九の演奏など徳島県鳴門市の板東収容所が有名ですね。ユネスコの「世界の記憶」にエントリーしようとしたそうですが・・・

草場 鳴門市側は申請書類を出すだけになっていたのですが、ある事件があってユネスコは受付を停止しました。ある事件とは、中国の南京虐殺が登録されたことでした。あらためてユネスコ執行委員会が調査してみると、虐殺された人数が三十万人とされるなど根拠が極めて杜撰で、登録までのプロセスが不透明だったことが判明したそうです。そこでユネスコ執行委員会が制度を見直すことを事務局に指示し、その結果が出るまでは登録申請を受付しないことになりました。

人類はシベリア抑留、アウシュビッツなど非道な歴史を持っています。しかし、百年前の日本は捕虜に対して人道的な処遇を施したのです。これは人類が記憶すべき歴史ですし、後世にしっかりと語り継がれるべきだと思います。八県にわたって世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」や最近世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方潜伏キリシタン関連遺産」のと同じ様に、ドイツ兵の捕虜収容所も一ヵ所のみではなく全体で一つの価値を生むとの考え方である、「シリアル・ノミネーション」で申請すべきだと思います。

 世界遺産や世界の記憶の制度の根本精神は、人類にとって忘れてはならない歴史上のエビデンスを風水害や戦争被害から保護して、確実に子孫に遺そうというものだと思います。そこには、その純粋な学術的価値論以外の、あらゆる要素は持ち込まないことになっています。しかし例えば、「明治日本の産業革命遺産」に対して韓国、中国から「強制徴用」を理由に、数ヵ所の登録に反対されました。人類の歴史として記憶し遺すべき価値があるのかとの学術的議論に、このような政治的議論を持ち込むべきではないというのが、ユネスコ制度の根本精神です。「明治日本の産業革命遺産」の歴史的価値と意義は、その結果欧米列強の植民地にならずに独立国家になったのは世界唯一日本だけである、という事実です。何が人類にとって歴史的価値があるかを見誤ってはいけないと思います。最近登録された実例を見ても分かる通り、シリアル・ノミネーションはその為の、専門家の間にほぼ確立した基本概念なのです。

 

―板東収容所がある鳴門市との交流はあるのですか?

草場 鳴門市板東収容所とその展示博物館には、ガイドの会の研修で行って、館長からのご説明などを受けました。しかし私たちは民間人ですからユネスコ申請については前面に出る訳にはいきません。久留米市の担当部局の方が鳴門市を訪問してその活動や取り組みについて視察されました。鳴門市は板東収容所の歴史調査と市民への啓発・広報活動を三十年以上も取り組んでいて、その努力には頭が下る思いです。その視察の結果、これまでは史料収集以外には市民への啓蒙活動を鳴門の様に本格的にはやっていなかった久留米市が「どうか一緒に」と入るのは、如何なものだろうかという話に役所の中ではなったそうです。ただ、久留米市も本格的に始めたので、今回の受付の延期は鳴門市には申し訳ないですが、私たちに時間が与えられた形になりました。

個人としての所感を述べれば、上述のユネスコ制度の根本精神、つまり「人類にとって何が歴史的価値があるのか?のみで純粋に判断しろ」に照らせば、「今久留米が鳴門に共同申請を申し入れするのは、久留米の品格が問われる」との判断もあるでしょうが、しかしそれはユネスコ精神にもとる面もあるのではないでしょうか。その道の外部専門家を交えて再検討願えればと思います。

歴史的事実として、ドイツ兵捕虜収容所と第九演奏は久留米が本家本元なのです。鳴門市にならって、この素晴らしい収容所の歴史とその「世界の記憶」にもなり得る世界史的意義とを、久留米市民に広く知ってもらう努力を官民一致協力して進めるべきです。日本人が久留米高女で初めて聞いた第九演奏100周年記念にあたる来年の十二月三日に向けての諸記念行事を行政に提案しています。今年はその露払いの年として、わたくし共も自分たちがやれることを今年も継続したいと思いますので、その為にも、今は何一つない肝心の捕虜収容所跡と第九演奏が行われた高女跡などに、史跡碑や説明板の設置を行政にお願いしたいと思っています。

 

草場氏プロフィール 昭和19年久留米市生まれ。県立明善高、熊本大学工学部卒。卒業後通信機メーカーに就職。その後再び大学に戻り熊大大学院に進学。修了後ブリヂストンに入社。二〇〇四年に定年退職後、帰郷。

 

 

「天皇陛下のメッセージ」

そこが聞きたい!インタビュー 

 

「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、

安定的に続いていくことをひとえに念じ」という天皇陛下

お言葉を矮小化させてはいけません

 

評論家 江崎道朗(えざきみちお)氏

 

 

8月8日に陛下自らが発された「お言葉」。我々国民は、陛下が何を国民に語られたのかをしっかりと受け止めるべきだ。しかし、その受け止め方こそに我々国民の側の問題が潜んでいる、と江崎氏は鋭く指摘する。(取材日平成28年8月29日)

 

 

 

 

皇室存続への強い危機感

 

 

 

―8月8日の「天皇陛下のお言葉」をどう受け止めていますか。

江崎 「生前退位」というテレビや新聞の印象操作の影響でしょうが、陛下のお言葉をきちんと読んでいる人があまりにも少ないと思いました。戦後、天皇皇后両陛下がご苦労をされて国家の安泰と国民の幸福を祈念される「皇室の伝統」を守ってこられたわけですが、そのようなご苦労に対する敬意を払うこともなく、自分の翩々(へんぺん)たる知識と翩々たる理解だけで陛下のお言葉を論評するという傲慢さには、驚き憤りさえ感じます。これでは両陛下はお辛いだろうなと忖度してしまいます。

―お言葉の中でもどこに注目すべきでしょうか。

江崎 我々は、お言葉の一言一句を理解しようと努めるべきなのは言うまでもありません。例えば、「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、天皇が国民に、天皇と云う象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」という箇所には、陛下が「国民に、天皇と云う象徴の立場への理解を求める」ために全国をご巡幸なさるなど、超人的な努力をされてこられたことを我々は深く受け止めるべきなのです。

こうしたご努力をされてきた陛下のお言葉の中に非常に深刻な一節があります。それが最後の「このたび我が国の長い天皇の歴史をあらためて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しました。国民の理解を得られることを、切に願っています」のところです。

 陛下ご自分が象徴天皇を含めた天皇のあり方を国民に理解してもらうために全国を懸命に回られ、そうしたご努力の上に戦後、皇室と国民の関係が成り立ってきたという側面があるわけです。逆に言えば、陛下がここまでやらないと、安定的に続いていかないと、陛下は深刻な危機感を抱いておられるということだと思います。

―陛下ご自身の体力に不安を感じられてのお言葉とも受け取る向きがありますが…

江崎 「国民に、天皇と云う象徴の立場への理解を求める」ために陛下は超人的な努力をされてこられたおかげで、皇室と国民との関係が維持されてきた。ところが、高齢のため、そうした超人的な努力をできなくなるかもしれない中で、今後果たして「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくこと」のかということを危惧されているのではないかと思うのです。単にご自身の体力に不安を覚えたという話ではないと思います。

宮中祭祀をはじめとした国事行為を続けることがご自身の高齢化で危惧されている、と受け止めたのですが…

江崎 本来でしたら、政府が「国民に、天皇と云う象徴の立場への理解を求める」ために学校教育なり、さまざまな行事を開催するべきなのですが、そうしたことをほとんどしてこなかった。そこで陛下は、全国を御巡幸なさるなど、自ら全国に出向いて、国民に皇室に対する理解を求めようとされてこられたわけです。そうした努力が、ご自身の高齢化でできなくなっていったとき、「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いて」いかなくなるかも知れないという危機感がおありだということだと思うのです。

今上天皇陛下は幼少の頃から深い覚悟を持ってらっしゃったようですね。

江崎 終戦の日の日誌に十一歳だった陛下は、「敵がどんなことを言ってくるか分からないが、明治天皇のように皆から仰がれるようになって、日本を導いていく」覚悟をされました。二十歳の時の立太子礼の際には「与えられた運命を逃避することなく、これからの困難な道を進みたい」と決意を述べられました。そうした悲壮な覚悟をされた背景には、皇室を支える仕組みがほとんど無くなってしまったことでした。まず、天皇を輔弼する人物が周囲に乏しかった。それでも高松宮殿下のように昭和の時代にはその任に堪えうる方がいらっしゃいました。

一番の問題は、やはり現行憲法です。憲法の制約に基づいて戦後、どんどん皇室の伝統が削がれていきました。皇室を支えてきた歴史と文化、伝統が消えていったのです。昭和50年頃には内閣法制局が現行憲法下では大嘗祭違憲だという馬鹿げた見解を示しました。そうした動きに対して、一部の民間が懸命に対応しようとしただけで、今でもそうですが、政府・自民党は何もしてこなかった。そうした何のサポートも無い中で、皇室としての立ち位置を現行憲法の中で確保しなければならない、そのご苦労のほどがいかばかりかについて思いをいたす国民がほとんどいないのが現状です。戦後、現行憲法と皇室、皇室の伝統についての理解が少ないのに、軽々に法整備を論じる姿は本当に見苦しいものです。

女系天皇論議も盛んになっていました。

江崎 男系天皇は皇室の大事な伝統であり、それを軽んじることは慎むべきです。ただ、その前提として国民・国家の安寧・幸せを祈る中で皇室がどうやって日本を支えてこられたかということを我々国民の側がしっかりと知っておく必要があると思います。陛下の超人的な努力によって支えられてきた象徴天皇の務めが、陛下の高齢化の中で「途切れることなく、安定的に続いていく」ことが困難になるかも知れないという事態に対して、そもそも陛下が超人的な努力をしなければならないほど、皇室をお支えする仕組み、皇室に対する国民の理解を深める仕組みが欠落している現状をどう立て直すのかが、政府に問われていることだと私は思うのです。

宮内庁は外務省と厚労省の役人達の出向で占められ、輔弼する役所にはなっていない。そもそも、天皇の務めに対する国民の理解を深める学校教育をやってこなかったことが大きいと思います。それどころか、学習指導要領から天皇に対する理解と敬愛の念を削ってしまいました。

皇室に対する国民の理解を深める仕組みが無いから、陛下自ら全国を回られて国民の声を聞かざる得ない状況になってしまっていることに対する痛苦な反省の念を、政府はまず持つべきです。政府も国民もなにもしなくても、皇室は続いていくという幻想にひたってしまって、皇室をお支えするという意味を理解できる人がほとんどいなくなってしまったことが最大の危機だと思います。

 

 

国民の側が深く忖度すべきこと

 

 

 

―そのためには大人が皇室の存在を再認識する必要がありますし、将来世代の子どもたちの教育も重要になりますね。どこから始めればいいでしょう?

江崎 そのためには、歴代天皇と国民の関係性についての歴史を学ぶべきです。伝統の継承者である天皇の、その皇室の伝統をしっかりとイメージできる今の日本に日本人がどれだけいるでしょうか。

陛下の「伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深い思いを致し」というお言葉について、深く思いを致している国民が果たしてどれだけいるでしょうか。我々は、「皇室の伝統について何も知らない」という痛苦な反省に基づいて謙虚に学ぶところから始めるべきだと思います。政府も、皇室制度についての審議会などを開く前に、皇室の伝統と、戦後の皇室に対する憲法解釈の間違いについて正確に理解する必要があります。左翼メディアは、現行憲法の枠組みの中に天皇を押し込めようとしていますし、内閣法制局も昭和50年代以降、宮沢憲法学といって、天皇はロボットに過ぎないという極めて偏った天皇観に立脚している。

こうした傾向に対して陛下は憲法だけではなく皇室の長い歴史と伝統も踏まえてらっしゃいます。政府は、憲法に規定されている天皇の条文だけで天皇を理解しようとしている傲慢さも改めるべきなのです。そもそも現行憲法の英文の原本では「エンペラー」になっていたのを、和訳する時に「国王」ではなく「天皇」としました。天皇という長い歴史と伝統をGHQも、現行憲法もそれを認めていることになります。それが正しい現行憲法の解釈だと思います。

その歴史と伝統は、歴代天皇の御製、詔勅などに現れていいます。歴代天皇が「国と国民の安寧」のために身を削る努力をされてこられたことを理解すべきです。さらに、戦後の現行憲法体制の中で象徴として国民を統合するために今上天皇陛下は様々な努力をされてこられました。そうしなければ国民がバラバラになるという危機感をお持ちだったのでしょう。そのご努力を我々国民が思いを致す必要があります。

―現行憲法にはGHQの「いずれ天皇制を廃止へ」という意図が盛り込まれているとされていますが。

江崎 確かに、皇室を解体しようという当時のGHQ、特にニューディーラー達の思惑がありました。

―その中で陛下は「開かれた皇室」を目指すと一部伝わっていますね。

江崎 それは朝日新聞が歪曲して使った言葉です。陛下は、あくまでも「国民と共にある皇室」と仰いました。そのお言葉を歪曲して、あたかも陛下が皇室の伝統を軽視しているようなイメージを振りまいたのです。朝日新聞らの印象操作に残念ながら、保守派と言われる人たちもそれに引っ掛かってしまっています。「開かれた皇室」とは一言も仰っていません。

―そもそも戦前と戦後で皇室は変質したのでしょうか?

江崎 戦前も一部の左翼・右翼勢力が天皇陛下のお言葉を勝手に自分の都合の言いように解釈して利用していました。統帥権干犯はその典型的な例です。戦前、学校教育で、教育勅語の意味やその背景を正確に理解し、それをどう実践していくのかこそが重要であったはずなのに、教育勅語を暗記することが皇室に対する忠義だといった形式主義に陥ったことも含め、皇室の大御心を仰ぐということが疎かにされてきました。

支那事変勃発後、昭和天皇が「早期解決を」と仰ったにもかかわらず、政府も軍部もそれを無視した。つまり、戦前も戦後も、天皇陛下の仰っていることを軽んじて、自分勝手な解釈をしている点は変わりが無いと思います。

―先のお言葉もしっかりと理解する必要がありますね。

江崎 何度も言いますが、皇室と国民が支え合おうとするところに日本の国柄があるわけで、その国柄のあり様を戦前も一部の為政者たちは見失っていたし、戦後はますますそれが分からなくなってしまいました。今回のお言葉だけが大きく扱われていますが、陛下は毎年年末と年始、そして歌会始に思いを込められた御製を発表されています。お誕生日の会見でも陛下は、多くのお言葉を示されています。普段から陛下のお気持ちに思いを致す機会はあるのに、今回のお言葉だけをクローズアップするのは、いかに日頃から両陛下がどういうことを思っていらっしゃるかに思いを致してきていないかの証左ではないでしょうか。

 

 

 

「典憲体制」復活こそ

 

 

 

―そういう危機感を我々国民が共有した後は、皇室の安定的な存続のためにどうあるべきかを考える必要がありますね。

江崎 旧皇室典範がきちんと整備されたのは、戦前の大日本帝国憲法が制定された18年後なのです。それくらい時間がかかったということは、皇室の歴史と伝統がそれほど重厚なものであり、明治の時代でさえ、皇室の制度を整えるのにそれぐらいの時間をかけたということです。まして皇室の伝統について理解する人もほとんどしない現代においては、まずは政府の中にしかるべき機関を設置して、皇室について徹底的な調査・研究を進めるべきです。

―どうも現状は皇室典範を一般の法律と同列に考えていますね。

江崎 その通りで、皇室典範が現行憲法の下の「法律」となっていること自体が実は問題なのです。

皇室のあり方は(政府要路が懸命にお支えすることを前提に最終的には)皇室にお決めいただくべきであり、政府は干渉すべきではない、これを法制度として考えた場合、皇室典範大日本帝国憲法という両立体制という意味で「典憲体制」と言いますが、こうした趣旨から皇室典範憲法は互いに独立して両立していました。こうすることで、皇室制度に対する政治の影響を抑えるようにし、皇室も政治にできるだけ関与しない体制が確立されました。皇室は政治の権力闘争から一線を画し、国家の安泰と国民の幸福を祈念するという仕組みが明治時代に出来上がったのです。

この先人の知恵を今に生かして、本来でしたら、皇室典範を現行憲法から切り離すべきなのです。終戦後、憲法を押し付けらた時に日本側は、この典憲体制を必死に守ろうとしました。それにもかかわらず、GHQのニューディーラーたちに押し切られてしまいました。この中心人物であるT・A・ビッソンは後に、ソ連のスパイだったことが判明します。皇室典範憲法のもとにおいて、政治家が皇室制度に関与できるようにしておくことで、将来、サヨク政権ができたとき、一気に皇室を廃止しようと考えていたわけです。

戦後、GHQ内部に入り込んだソ連のスパイたちによって「典憲体制」から「憲法の下の皇室典範」に改悪されて、現在に至っているわけです。

―この改悪によって、皇室制度が大きく歪められていきますね。

江崎 GHQの占領政策と現行憲法の解釈によってまず、国政についての陛下の発言権が奪われてしまいました。この典型的な例が、ご自身のことである皇室典範改訂議論が起きた平成18年には、陛下は一切発言されなかったことに現れています。

また、皇室を支えていた枢密院、相談相手であった華族制度が廃止されました。宮内府は宮内庁に格下げされました。皇室経費がすべて国会のコントロール下に置かれたことも問題です。GHQによって経済的特権を剥奪されたこともあって11宮家が臣籍降下をせざるを得なかったことが、現在の男系男子の皇位継承資格者の激減につながっています。

皇室典範等関係法令の大半が廃止されたために、皇族の葬儀や元号即位式に関する法的根拠がなくなってしまったことで、内閣法制局が皇室の儀式などにあれこれと容喙するようになったことも大きな問題です。さらに深刻だったのが、学校で「皇室排除」教育が横行したことです。その上、刑法の不敬罪が廃止されたので、皇室の誹謗記事が氾濫するようになりました。

にもかかわらず、現行憲法では「国民統合の象徴」と規定されて、ばらばらになっていく国民を統合、つまり、国民をまとめていく役割を陛下に担っていただいているわけです。国民をまとめていくということは極めて大変なことです。そして、シリアやウクライナ、ユーゴ、ボスニアなど国家が分裂して内戦になった国を見れば、国民統合がいかに重要なことなのか、よく分かると思います。

このように、極めて重要な国民を統合するという役割を、皇室に担っていただいているのに、その皇室を支える仕組みがGHQと現行憲法によって弱体化されてしまっている。その実情を放置したままでいいのか、ということです。

 なお、具体的な課題である今回の「生前退位」、正確に申し上げれば「譲位」については、陛下が「譲位」なされるとなると、陛下ご自身は「上皇」という御立場になるのではないかと思います。

問題は、その「上皇」になっていただくのを誰が決めるのか、ということです。「典憲体制」という伝統を踏まえれば、現行憲法体制下で可能なのは、皇族もメンバーとなっている皇室会議において、天皇陛下に「上皇」になっていただくことを決定するわけですが、重要なことは、そのことを事前に新帝陛下にご奉告申し上げ、「御勅許」を賜るという形で、あくまで皇室のことは、新帝陛下にお決めいただくということです。そこに政府が介入しないよう慎むべきだと思います。

 

ボールは国民の側に

 

 

 

―皇室は、わが国の国の形の中枢ですから、もっと深く理解すべきですね。皇室の「君臨すれども統治せず」という体制があればこそだと思います。

江崎 正確に言えば、「君臨すれども支配せず」ですね。その支配という意味には、「専制政治を敷かない」という意味が込められています。日本のアカデミズム、特に憲法学の世界は、ヨーロッパの君主制度と日本の皇室とを混同していますが、本来であるならば、ヨーロッパ的な君主制度の概念を日本に適用させていること自体が、おかしいと思います。

 イギリスの憲法の一部「マグナ・カルタ」は国王の専横をどう抑制するかという目的で制定されました。これが「立憲君主制」の始まりです。

他にも、国王の悪政を打倒してできたフランスの「共和制」や、行政、立法、司法がそれぞれ互いに悪さをしないように監視するアメリカの「大統領制プラス三権分立」や、中国にように歴代の王朝が暴政を敷く度に新しい王朝が勃興して現王朝を打倒し新しい王朝を創設することを繰り返す「易姓革命」など、権力者は必ず悪さをするという前提で政治の仕組みを作っています。

ところが、日本の十七条憲法大日本帝国憲法もその逆で、皇室の「大御心(おおみごころ)」というものを国民や政府要人がきちんと受け止めていく事が日本の政治を良くすることだという立法趣旨で作られています。つまり、「国王の意思に制限をかけることが国民の幸せになる」と考えるイギリスと、「天皇の意思を政治に反映させることが国民の幸せになる」と考える日本とは、法の定め方が全く逆なんですね。

―個人的な認識ですが、父とほぼ同世代だからなのかもしれませんが、今上天皇に父性を感じて仕方がありません。昭和天皇は祖父と同世代だったので、「おじいちゃん」という感覚を持ってしまいます。そう考えると、天皇は我々国民の父的な存在ではないかと思います。懐深く黙ってその後姿で国民を善導される無二の存在ではないかとつくづく思います。

江崎 そうした感覚は多くの国民が持っているはずです。問題は、天皇陛下の大御心を拝するのではなく、現行憲法やヨーロッパ流の国王制度を持ち出して、皇室をあれこれと縛ることが正しいと思っているメディアや政治家たちが多いということです。

―メディアや有識者は、むしろ、事の本質、つまり皇室が継承してきた歴史と文化、本来あるべき皇室と国民の関係などを共に考える運動を起こすべきですね。

江崎 陛下の懸命なご努力にお応えし、国民の側がお支えしようとしなければ皇室を戴く日本は成り立たないということを再認識すべきです。ボールは我々国民の側にあります。そのためにも、学校教育が重要になってきます。

―そのためには政府がしっかりしないといけません。

江崎 天皇は国民統合の象徴ですから、党派を超えて皇室を支えるためにどうすればいいかということを政府は知恵を絞るべきです。そのためにも、例えば、陛下が年末、年始に発表される御製について、総理大臣も見解を述べるなど政府の要人たちは両陛下が国・国民の安寧と幸福のために祈念されていることを常に意識し、その重要性を国民に伝えるよう努力すべきです。かつて、文芸評論家の江藤淳先生は「戦後も、大臣はすべからく天皇の大臣である」と述べました。それは、決して封建的な意味ではなく、国民統合の象徴である天皇の意を受けて、政治家は国民のためになる政治をやるべきだという意味なのです。繰り返しますが、そもそも今上陛下がなぜこれほどまでに超人的なご努力をされてこられたのか、それは、陛下に「国民統合」をお願いしながら、現行憲法体制の不備を放置するなど、政府、国民の側の努力が不足しているからです。今回の「お言葉」を契機に、皇室を支えるために政府、国民の側が、現行憲法体制の不備を改め、「国民統合」の役割を果されるに相応しい仕組みを整えるといった具体的な努力をすべきなのです。

 

 

 

 

「南京事件の虚構と真実」(下)

 

 

旧植民地帝国主義諸国の如何なる国も「南京大虐殺」などは問題としない (下)

「醒眼正論」(高橋雅雄 平成29年6月号)

 

 

 「首脳会談で習氏は<南京大虐殺>を持ち出し、日本を批判した。だが、トランプ氏は知識がないため話が噛み合わず、習氏は苛立った」(毎日新聞2017年4月27日付)と同6日に行われた米中首脳会談で、米国の北朝鮮への対応策に手詰まり感を感じた習氏は、対米協調を演じようとした中で述べたとある外交筋が明かした。

トランプ氏の外交知識は不十分だが、それだけに常識外れの行動に踏み切る可能性があり、北朝鮮を歴史的地政学的に「庇護」する戦略的立場の習氏も危機感を抱いていたからです。いずれにしても、不確かな「南京大虐殺」を事あるごとに相手構わず対日批判のカードとして切り捲る中国の外交マナー欠如には呆れるしかない。やはり、「嘘から出たまこと」「嘘も百回囁けば本当になる」ことを踏襲している中国ならではの執念からです。

習氏は、2014年3月のベルリン訪問でも講演中に突然、「南京大虐殺」に触れて、「日本軍国主義」の侵略戦争を糾弾し、南京で日本軍が30万人以上を虐殺したと執拗に批判した。

当時、ナチ党員で、シーメンス社(兵器メーカー)の中国駐在30年の武器商人ジョン・ラーベナチス南京支部幹部でもあったが、南京陥落後に日独伊三国同盟に反対していたとして、日本軍からドイツへ追放され、失意の中で書いたのが『ラーベの日記』です。日本軍による「30万人虐殺」を日記に書いたと習氏が明かした。しかし、ラーベ本人が直接見聞したのではなく、伝聞に基づいた記録でした。不確かな「オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)」を執拗に一国の首脳が引用して他国を誹謗するのは中国得意の情報戦の「常套手段」です。だから、蒋介石共産党軍との内戦に敗れるまでラーベの恩に報いるため少額年金を送り続けたという。ラーベが公平な歴史の観察者でないのは明らかです。

トランプ氏の米国はもとより、欧州の大国は旧植民地帝国主義国ばかりでしたから、習氏の日本批判はスルーされるだけです。まして、米国も原爆投下はもとより、1945年3月10日一夜の東京大空襲焼夷弾の絨毯爆撃によって市民10万人以上を殺戮したが、これも戦時国際法違反の戦争犯罪です。日本は敗戦国の故か対米抗議をしないし、米国も謝罪しない。仮に、「南京大虐殺」が真実だったとしても、かつての植民地帝国主義国はどの国も対日批判はしないだろう。「虐殺」自体、身に覚えがない国など歴史的に存在しないのです。そもそも「大虐殺」と「虐殺」を犠牲者数で比較するのはナンセンスです。

問題は、ナチスドイツの「ホロコ―スト」はなかったという「説」も「南京大虐殺」は「幻だ」という「説」と同じく無意味です。「ユダヤ人抹殺」と「南京虐殺」自体は否定できない史実だろうが、比較できない。真の「加害者と犠牲者」の検証・特定も難しい以上、数の問題ではないのです。大虐殺の根拠が曖昧のままでは、建設的議論などできない。

日本が、国際情報戦を戦えるだけの体制を持たない中で、ホテルチェーン「アパホテル」を率いる元谷外志雄代表が「南京大虐殺」を否定した自著を世界中のアパホテルの客室に置いていることから中韓が大騒ぎした「事件」があった。しかし、雑誌『新潮45』(2017年5月号)に元谷氏の「中国のアパホテル攻撃に私はいかに対処したか」と題した論文によると、この騒動で逆に客室稼働率が大幅に伸び、ある試算によれば一連の騒動で約1,000億円相当の宣伝効果をもたらしたというから、“災い転じて福となす”の典型です。元谷氏は「歴史というのは、真実の断片を集めて整合性が取れ、あり得る話かあり得ない話か、という観点から理詰めで検証していくべきだ」と毅然と対処したからです。元谷氏は、日本も3,000億円予算、3,000人規模の「情報省」を作るべきだと主張する。

因みに、『新潮45』の論文執筆中、見知らぬ医師から「南京大虐殺」がなかったことを証明する記録映画の存在を知らされた。東宝の戦線後方記録映画『南京』(1938年公開)で、「上海」「南京」「北京」3編の1本だった。「上海」戦後、南京に撮影機材を移動させ、南京陥落翌日に到着して4日間撮影した。このフィルムは全8巻あった。1945年3月の東京大空襲で焼失したが、1995年に北京で8巻中7巻が保管されていたのを中国軍関係者から仲介者を通じて買い取ったものです。解説文によれば、陥落前の南京では、蒋介石による“漢奸狩り”(親日派市民の虐殺)が大規模に行われていた。民間人の大量虐殺を隠蔽するために日本軍の仕業としたのです。映画には、陥落後の南京街は「平和」を維持し路上で爆竹を鳴らして遊ぶ子供たちや市民と日本軍兵士との友好的な交歓風景も撮られている。

 

「南京事件の虚構と真実」(中)

高橋雅雄の「醒眼正論」(平成29年5月号)

 

南京大虐殺」の裏付け取材なしの誤報の影響と「事件の実相」(中)

 

「なんということをお前たちはしてくれたのか!一部の兵の暴行によって皇軍の名を汚してしまった。今日からは、軍紀を厳正にして、絶対に無辜の民を虐げてはならない!」と隷下の全師団長や梨本宮(陸軍中将)たちを立たせたまま、松井石根上海派軍司令官(陸軍大将)は厳しく訓戒した。南京陥落5日後の1937年12月18日に南京入りした同盟通信上海支局長の松本重治が同日南京城内の故宮飛行場で行われた陸海軍合同慰霊祭を取材した時です。松本は、日本軍の略奪・暴行・残虐性が世界中に「過大」に伝えられているので、日本軍の名誉回復の一助にと、松井司令官の厳しい訓戒を世界中に打電した。松井は敗戦後、思いもよらぬ「南京虐殺」の責任を執らされてA級戦犯として処刑されたが、松井自身は軍紀に厳正で清廉潔白の立派な軍人でした。現役引退、予備役に編入されていたが、孫文蒋介石と懇意だったことから上海派遣軍司令官に抜擢された。しかし、隷下の師団・軍団の幹部たちは、松井司令官の訓戒に反感を抱いた者も多かったという。中でも第16師団長・中島今朝吾(陸軍中将)などは、日記に「捕虜は作らぬ方針」だと書き、軍中央から派遣された現地視察団の非難に対して「捕虜を殺してなぜ悪い!」「略奪、強姦は軍の常だ!」などと開き直り、松井の訓戒など無視されていたのも事実でした。

 問題は、日本軍の進撃が余りに速すぎたというより、国民政府軍が早々と雪崩を打ったように敗走するか捕虜になる兵士が続出したし、「虐殺」と言っても中国軍の督戦隊が逃げる自軍兵士に機関銃を浴びせて戦線離脱を阻止しょうとしたことも、中国兵の死者を増やしたのです。加えて、日本軍も進撃の速さに兵站線が追い付かず、先々の占領地での略奪行為を防げなかった憾みもあった。略奪が行われれば強姦、虐殺は避けられない。

 何しろ、第16師団の佐々木到一旅団長(陸軍少将)などは、1,000人規模の部隊にも拘らず、6.000人もの捕虜を抱えて持て余したという。中島師団長の「捕虜を作らない方針」に従って、捕虜としての取り扱いも食糧なども賄えない以上は、武装解除して解き放つか殺害するしかなかった。彼らが、軍服を脱いで市民服に着替えて、便衣兵というゲリラに変装した例も多かった。当然、正規兵ではないので非正規との区別ができず、スパイやゲリラと見做されて、多くが殺害されたという。

 また、南京陥落後の1938年6月の黄河決壊事件では、日本軍の進撃を止めるために黄河の幅30㍍の巨大堤防を決壊させて、11都市と4,000村を水没させ自国民100万人を水死させ、600万人が被害を受けた“焦土作戦”を日本軍の仕業だと世界に「喧伝」したというから中国も強かなものです。肝心の日本軍の被害は殆どなかったという。蒋介石は戦略家として極めて有能であったのは確かです。日本軍及び日本政府は、国民政府の首都である南京さえ落とせば蒋介石も降参すると思い込み、南京攻略に全力を挙げたが、中国人は日本及び世界の「常識」とは違っていた。蒋介石は、南京が落ちれば重慶があると、多くの兵士や市民を置き去りにして早々に脱出した。上海戦では徹底抗戦を続けたのに、南京戦ではあっさりと首都放棄して重慶に逃れたのは謎だった。基本的には、米英独ソの「援蒋工作」によって日本軍を広い国土で長期戦に引き摺り込むのが狙いだったという。中国には古来“夷を以て夷を制す”という戦略観がある。因みに、『蒋介石日記』は米スタンフォード大学フーバー研究所の秘蔵品ですが、06年から順次公開されている。これを精査したら1937年12月13日の「南京大虐殺」に関する記述は全くなかったという。

中国の歴史上、「真の南京大虐殺」は1864年7月の太平天国の乱で、清国の曽国藩が太平天国の首都・南京(天京と称していた)を攻略して10万人もの太平天国軍兵士を虐殺したという報告書を清国皇帝に提出している。そもそも、南京城に立て籠り、徹底抗戦を唱えて唐生智南京防衛司令官に命じていたのに、蒋介石は突然、南京を放棄して重慶へ政府移転を決め、直前までの徹底抗戦策を翻して重慶に脱出したが、指揮系統も乱れ脱出命令は行き届かず、南京城内は大混乱に陥ったことも「南京虐殺」に繋がったのだろう。

蒋介石日記』によれば、スペイン内戦を充分に研究した蒋はもし南京で徹底抗戦を行えば、都市を舞台にした長期市街戦となり、共産軍勢力を利する結果を招くと判断し、「南京が日本軍の手に落ちても、共産軍の手に落ちるよりも取り戻し易い」という認識に至ったというから、蓋し蒋介石は優れた危機下の酷薄な指導者としては傑物だったと言える。

 

「醒眼正論」「南京事件」の虚構と真実 (上)

「醒眼正論」平成29年4月号

裏付け取材なしの「誤報」がもたらした「南京事件」の虚構と真実 (上)

 「(報道に接した者が)最初に抱いた印象を基準にして判断し、逆に公判廷で明らかにされた方が間違っているとの不信感を持つ者がいないとは限らない」とロス疑惑事件の三浦和義被告に無罪判決を言い渡したのは、1998年7月の東京地裁・秋山規雄裁判長でした。マスコミ報道先行型の特殊事件として犯罪報道の問題点を厳しく指摘したのです。

 要するに、裏付け取材を無視した間違った報道が与える報道被害については、後日、撤回されても原状回復は極めて難しい。一度、誤った報道で拡散、定着した報道被害は計り知れない。勿論、「裏付け取材なき誤報」と「意図的誤報」は結果として同じ結果を招くものです。その典型的誤報によって、国益を大いに損なった代表的事例が、韓国の「従軍慰安婦」と中国の「南京大虐殺」です。前者の場合は、1989年から94年まで、毎日新聞韓国特派員だった下川正晴氏(元論説委員)によれば、「朝日の植村隆氏の記事が出る前に、韓国の慰安婦支援団体から取材協力を依頼されたが、日韓間に揉め事を起こそうとする意図を感じて、断った。植村記者は特ダネが取れると思ったのではないか。証言テープを聴いただけで記事を書いたようだ。本当に慰安婦問題に関心があるなら、裏付け取材をするはず」と言う。植村氏の韓国人妻は、91年頃、取材協力記者探しが難航していた頃に、「太平洋戦争犠牲者遺族会」で働いていた女性だった。母親が同会の副会長をしていた。そして、結婚した91年の8月11日付の朝日新聞大阪版に“思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く”の見出しで書いたのが最初でした。

 後者の場合は、71年8月から12月まで朝日新聞本多勝一記者が40回も連載したルポ『中国の旅』が事の始まりだった。連載初回から、「南京大虐殺」のことを針小棒大に書いたので、読まされた日本人は驚愕した。旧日本軍は、そんな酷い「大虐殺」を中国の首都南京で働いたのかと贖罪意識を持ったのも無理はない。中国の目論見は大成功でした。中国の巧妙なお膳立てに乗って、ほんの数日間の南京滞在と4,5人の中国側が用意した証言者の言うままに、裏付け取材もなしに書いたのです。中国の得意技「ハニ―トラップ」に引っ掛かったのかどうか分からないが、後日、本多氏は抗議に対して「中国の視点を紹介するのが目的であり、その意味では<取材>でさえない」と無責任な弁解をしたという。

そもそも、『中国の旅』が出る前まで、毛沢東周恩来も「南京虐殺」自体を話題にしたこともなかった。71年と言えば、同年3月に名古屋で「世界卓球選手権大会」があり、中国からも選手団が来日した。終了後、米国選手団の訪中による“ピンポン外交”が話題になり、同年7月には、キッシンジャー大統領補佐官が密かに訪中、翌72年にニクソン大統領が電撃訪中したが、中ソ関係悪化という背景もあった。71年6月頃に、中国からの協力依頼が本多記者もしくは朝日新聞に持ち掛けられ、対日関係「改善」戦略の一環として「南京大虐殺」キャンペーンを企図したのだろう。その罠に嵌ったのがスター記者の本多氏であり、朝日新聞だった。その意味では、「意図的誤報」を演出させられた形です。

 確かに、昨年10月に薨去された三笠宮は、1943年1月から1年間、支那派遣軍総司令部に参謀として南京に駐留された経験があり、94年の雑誌インタビューで「南京大虐殺」のことを聞かれた。「最近の新聞などで議論されているのを見ると、何だか人数のことばかりが問題になっている気がする」が物事の本質を無視しているではないか、と不満気だった。

 因みに、戦前から戦後にかけて国際ジャーナリストとして大活躍した松本重治(当時、同盟通信上海支局長)が『昭和史への一証言』(1986年、毎日新聞社刊)の中で、「確かに、南京虐殺があったのは事実です…南京陥落直後に、南京に入った。占領5日目に入った時は既に平穏でした。支局の記者たちの話でも、何十万人という“大虐殺”はなかったと言っていた。私は、南京内外で虐殺された中国人は捕虜と一般市民たちを総計して3万人位と推測している」と語る。古来、中国流の“白髪三千丈”(李白)など誇張表現を好む民族性の所為かも知れない。つまり、本来は数が問題なのではなく如何なる戦争であれ、「虐殺」そのものは付き物だということです。これまでの中国側の「宣伝」戦術に対して、黙っていては国際的問題では不利になるのは当然であり、「吠えない犬は、何時までも叩かれる」のです。虐殺があったか、なかったかと矮小化されていい問題でもない。まして“沈黙は金なり”とは、国際間では通用しない日本的美意識に過ぎないことを思い知るべきです。

「天皇の存在」太田誠一氏コラムより

(2015年12月)

 

 

国民を想い身を削って捧げる祈り

天皇は世界でも稀有な元首です

あらためて天皇という存在を意識すべき時代です

 

 

内奏の思い出

 

 

 

私事で恐縮ですが、この秋に天皇陛下より旭日大綬章を親授されました。今まで人の叙勲に関わってきていたので、大体の予測はついていました。内心、そろそろかなと思っていた叙勲の数ヵ月前に内閣府の賞勲局から連絡が入ってきて「大綬章が親授される見通しです。ところで確認したいのは、まだ選挙に出られますか?」ということでした。実際には、十月二十七日の閣議で正式に決定します。親しい議員の中に叙勲を辞退した人がいます。理由は、一人は祝賀会などを開いてもらって、また頭を下げなければならないから面倒くさいということでした。もう一人は恐らく選挙に出ないけれども、まだ現役のつもりで活動しているのにそれがやりにくくなるということらしいのです。行政などから表彰されるのを辞退するのは構いませんが、天皇陛下からいただくものを辞退することなど、とんでもない失礼な話です。叙勲を辞退するなど日本国民として許されません。

予想はしていたものの、あらためて私が叙勲できたことを振り返ってみました。十一回の選挙戦で八回の当選、大臣を二回経験させていただいたのは、偏に支援者の方々のお蔭に他なりません。こうした支援者の方々の努力に比べて私は何もしなかったに等しいのです。たまに好き勝手なことを発言してマスコミからバッシングされても変わらず応援していただいたのですから、私が叙勲を受けるのではありません。感謝というよりも、本来はこの支援者の方々が叙勲を受けるべきだと申し訳なく思いました。陛下から親授される時、そうした支援者の方々を代表した気持ちで臨みました。

大臣時代に四回、直接陛下とお話しする機会をいただきました。一回目は行政改革担当大臣の時、宮内庁から陛下に内奏の要請が来ました。こちらはご進講役の心積もりで皇居に参内しました。行革担当大臣時代に二回ご進講させていただきましたが、在任中に一回も内奏されない閣僚が多い中これは稀なことでした。当然、事前に宮内庁から内奏の中身を口外しないように厳しく言い渡されました。最初に驚いたのは、陛下と私の二人だけでお話したことでした。誰か随伴者がいるかと思っていたのですが、普通の広さの応接室に陛下と二人きりです。正直、緊張しました。私の説明を聞かれるだけだと思っていると、私が話している間に「それはこうではないか」と指摘され、私がそれにお答えするとさらに鋭いご指摘を受けました。しかも、担当大臣の私よりも詳しくご存知でした。その知識の該博さに驚きました。かなり厳しい口調で的確なご質問でした。国会の質疑のレベルどころではありません。

その十年後に農水大臣に就任した私は、再び直接陛下とお話しする機会をいただきました。栃木県塩谷郡高根沢町御料牧場の隣の牧場でジャージー牛の飼育を天皇皇后両陛下が視察されるということで、担当大臣の私も同行しました。視察後、牧場の小屋で昼食を相伴することになりました。その席も余人を交えずお話しましたが、陛下の変化に少なからず驚きました。低姿勢になられていて、私に対して「大臣はどう思われますか」という丁寧語でお話になられるのです。十年前の行革担当大臣の時には一切敬語を使われないお話しぶりが大きく変化していました。その十年間の間には週刊誌などに度々、皇室批判のような記事が出ていて、ご心労を重ねられていたのではないかと想像します。大臣や大使は陛下が任命(認証)する「臣下」、部下なのです。その部下に対して丁寧語を使われる陛下にお気の毒な感じを受けました。「太田」と呼び捨てにしていただきたいと思ったことが記憶に残っています。

 

 

 

頭が下る想い

 

 

天皇皇后両陛下は,宮中の祭祀を大切に受け継がれ,常に国民の幸せを祈っておられ,年間約20件近くの祭儀が行われています。皇太子同妃両殿下をはじめ皇族方も宮中祭祀を大切になさっています。そのお姿を拝見する機会もありました。毎年十一月二十三日に、天皇五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる新嘗祭」に閣僚として参列しました。夜の十一時から始まり、真夜中の二時ごろに宮内庁から「お寒いでしょうからお帰りになっても結構です」と言われて、私たち閣僚は辞去するのですが、宮家の方々はそのままの姿勢で残られていましたから、恐らく朝まで行われているのでしょう。真冬の深更ですからかなり寒いのですが、国民の為に祈られる両陛下及び宮家の方々には本当に感謝の言葉もありません。また、宮中三殿賢所(かしこどころ)で両陛下の儀式を拝見しましたが、ご高齢にもかかわらず、かなり激しい動きで驚きました。このお祈りを年十数回こなされた上に、総理大臣、最高裁判所長官の任命、国会の招集など様々な国事行為の他に、園遊会、会見、外国からの賓客を迎えての晩餐会などのご公務をこなされるのですから、頭が下る思いです。

両陛下自ら国民の為にお祈りされるお姿を拝見し、日本国民にとって天皇という存在はどういうものなのかを考えさせられます。五穀豊穣の神様に感謝する神事は、瑞穂の国・日本の精神的土台になるものです。身を削って神事を敢行なさる天皇という存在は、他国にはない「戦わない元首」の姿に他なりません。その意味を国民全体で共有すべきではありませんか。そうした天皇の真のお姿を伝えられていないのは、「政教分離」という宮内庁の深謀遠慮からきているのかもしれません。しかし、陛下が勤しまれる神事は「神道」で、宗教ではなく日本の文化であり生き方なのです。国民の為にお祈りされるのは、「政教一致」でも何でもありません「君臨すれど統治せず」国民の為に、ある意味自己犠牲を厭わずお祈りされる陛下に対して、国民が自然に崇敬の念を抱くことが、国家の精神的安寧に繋がるのです。

皇太子殿下のエピソードがあります。現・皇太子殿下が小学生時代、学校行事として学外の施設を見学に行かれた後、学友たちと銀座のデパートを訪れた時に、他のご学友がおもちゃを買っている中で皇太子は何も買われなかったそうです。どう見ても欲しいのに我慢している様子を見た学友が「殿下、買われたらいいではないですか」と誘うと「国民の税金で自分が好きなものを買ってはいけないんだ」と仰ったそうです。恐らく、天皇皇后両陛下がこうした教育をされていたのでしょう。「他の国の王室と皇室は違うんだ」自分自身を律していらっしゃるこの姿が、日本国民に伝わっているのです。「この崇敬すべきご一家を身を挺してお守りするのが宮内庁の仕事ではないか」週刊誌のバッシング記事が出ていた頃に、宮内庁長官に苦言を呈したことがあります。

新しい年。今年も色んなことが国内外で起きるでしょう。「決して戦わず、権力も持たず、その権威とお祈りで国民の平和と健康を願う」世界にも稀有な元首が、天皇という存在である事。この日本人の精神的支柱をもう一度再認識することが必要です。