「南京事件の虚構と真実」(中)

高橋雅雄の「醒眼正論」(平成29年5月号)

 

南京大虐殺」の裏付け取材なしの誤報の影響と「事件の実相」(中)

 

「なんということをお前たちはしてくれたのか!一部の兵の暴行によって皇軍の名を汚してしまった。今日からは、軍紀を厳正にして、絶対に無辜の民を虐げてはならない!」と隷下の全師団長や梨本宮(陸軍中将)たちを立たせたまま、松井石根上海派軍司令官(陸軍大将)は厳しく訓戒した。南京陥落5日後の1937年12月18日に南京入りした同盟通信上海支局長の松本重治が同日南京城内の故宮飛行場で行われた陸海軍合同慰霊祭を取材した時です。松本は、日本軍の略奪・暴行・残虐性が世界中に「過大」に伝えられているので、日本軍の名誉回復の一助にと、松井司令官の厳しい訓戒を世界中に打電した。松井は敗戦後、思いもよらぬ「南京虐殺」の責任を執らされてA級戦犯として処刑されたが、松井自身は軍紀に厳正で清廉潔白の立派な軍人でした。現役引退、予備役に編入されていたが、孫文蒋介石と懇意だったことから上海派遣軍司令官に抜擢された。しかし、隷下の師団・軍団の幹部たちは、松井司令官の訓戒に反感を抱いた者も多かったという。中でも第16師団長・中島今朝吾(陸軍中将)などは、日記に「捕虜は作らぬ方針」だと書き、軍中央から派遣された現地視察団の非難に対して「捕虜を殺してなぜ悪い!」「略奪、強姦は軍の常だ!」などと開き直り、松井の訓戒など無視されていたのも事実でした。

 問題は、日本軍の進撃が余りに速すぎたというより、国民政府軍が早々と雪崩を打ったように敗走するか捕虜になる兵士が続出したし、「虐殺」と言っても中国軍の督戦隊が逃げる自軍兵士に機関銃を浴びせて戦線離脱を阻止しょうとしたことも、中国兵の死者を増やしたのです。加えて、日本軍も進撃の速さに兵站線が追い付かず、先々の占領地での略奪行為を防げなかった憾みもあった。略奪が行われれば強姦、虐殺は避けられない。

 何しろ、第16師団の佐々木到一旅団長(陸軍少将)などは、1,000人規模の部隊にも拘らず、6.000人もの捕虜を抱えて持て余したという。中島師団長の「捕虜を作らない方針」に従って、捕虜としての取り扱いも食糧なども賄えない以上は、武装解除して解き放つか殺害するしかなかった。彼らが、軍服を脱いで市民服に着替えて、便衣兵というゲリラに変装した例も多かった。当然、正規兵ではないので非正規との区別ができず、スパイやゲリラと見做されて、多くが殺害されたという。

 また、南京陥落後の1938年6月の黄河決壊事件では、日本軍の進撃を止めるために黄河の幅30㍍の巨大堤防を決壊させて、11都市と4,000村を水没させ自国民100万人を水死させ、600万人が被害を受けた“焦土作戦”を日本軍の仕業だと世界に「喧伝」したというから中国も強かなものです。肝心の日本軍の被害は殆どなかったという。蒋介石は戦略家として極めて有能であったのは確かです。日本軍及び日本政府は、国民政府の首都である南京さえ落とせば蒋介石も降参すると思い込み、南京攻略に全力を挙げたが、中国人は日本及び世界の「常識」とは違っていた。蒋介石は、南京が落ちれば重慶があると、多くの兵士や市民を置き去りにして早々に脱出した。上海戦では徹底抗戦を続けたのに、南京戦ではあっさりと首都放棄して重慶に逃れたのは謎だった。基本的には、米英独ソの「援蒋工作」によって日本軍を広い国土で長期戦に引き摺り込むのが狙いだったという。中国には古来“夷を以て夷を制す”という戦略観がある。因みに、『蒋介石日記』は米スタンフォード大学フーバー研究所の秘蔵品ですが、06年から順次公開されている。これを精査したら1937年12月13日の「南京大虐殺」に関する記述は全くなかったという。

中国の歴史上、「真の南京大虐殺」は1864年7月の太平天国の乱で、清国の曽国藩が太平天国の首都・南京(天京と称していた)を攻略して10万人もの太平天国軍兵士を虐殺したという報告書を清国皇帝に提出している。そもそも、南京城に立て籠り、徹底抗戦を唱えて唐生智南京防衛司令官に命じていたのに、蒋介石は突然、南京を放棄して重慶へ政府移転を決め、直前までの徹底抗戦策を翻して重慶に脱出したが、指揮系統も乱れ脱出命令は行き届かず、南京城内は大混乱に陥ったことも「南京虐殺」に繋がったのだろう。

蒋介石日記』によれば、スペイン内戦を充分に研究した蒋はもし南京で徹底抗戦を行えば、都市を舞台にした長期市街戦となり、共産軍勢力を利する結果を招くと判断し、「南京が日本軍の手に落ちても、共産軍の手に落ちるよりも取り戻し易い」という認識に至ったというから、蓋し蒋介石は優れた危機下の酷薄な指導者としては傑物だったと言える。