知られざる「ドイツ兵久留米俘虜収容所」の歴史を伝える

そこが聞きたい!インタビュー

知られざる「ドイツ兵久留米俘虜収容所」の歴史を伝える

久留米とドイツの交流が生んだものとは

 

 

草場武司氏 久留米市観光ボランティアガイドの会 会長

 

リード文

ドイツ兵捕虜収容所と言えば、徳島県鳴門市の「板東収容所」の第九コンサートが有名だが、久留米俘虜収容所は全国で最初に設置され、約千三百人の最大多数のドイツ兵捕虜が、5年半もの最長期間を過ごしたことは意外に知られていない。所内の人道的処遇の結果、久留米にもたらされたものは、大きかった―

 

 

「久留米の戦争」

 

 

―大正時代に久留米市に多数のドイツ兵が収容されていたことは、あまり知られていませんね。

草場  第一次世界大戦の発火点は、ヨーロッパの火薬庫と言われていたバルカン半島サラエボ市で、オーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたことからでした。それをきっかけにして、世界三十一カ国が敵味方に分かれた戦争になりました。その中で英国はドイツに宣戦布告したのです。その結果日英同盟を結んでいた日本はそのドイツに宣戦布告し、中国におけるドイツの拠点、青島を攻略することになりました。その攻撃の主力部隊は久留米第十八師団を中心に編成された独立第十八師団です。この戦争では東京に大本営は設置されていません。ですからある意味、日本の第一次世界大戦は久留米の戦争、と言ってもいいと思います。

―大正三年(一九一四)十一月、十八師団は青島を陥落させます。

草場 久留米18師団は投降したドイツ兵捕虜四千六百七十九名を全国十六ヵ所の収容所に移送します。久留米には最大の一千三百十九名の捕虜が収容されました。しかし、総攻撃開始後わずか一週間で陥落したので収容所建設が間に合わず、当初は寺や旧料亭、演習場内の粗末な兵舎などに収容しました。一年後には新しい収容所が完成し、そこに統合させました。その様な経緯で五年半、ドイツ兵が久留米で捕虜生活することになります。百年前に一千人超の外国人。当初久留米市民も驚いた様で、色んな話が伝わっています。

―捕虜に対して人道的な扱いをしたそうですね。

草場 日露戦争もそうでしたが、戦が終われば敗者に情けをかける武士道精神が残っていたのでしょう。当時の日本はようやく欧米諸国と肩を並べて一等国になろうとしていました。ですから、日本は身も心も一等国になりたかったのでしょう。国際社会で尊敬される国になろうと・・・・。青島陥落直後の逸話があります。ドイツ軍の病院に立派な医学書がたくさんありました。日本軍はそれを戦利品として持ち帰ろうとしますが、念の為に調べてみると軍のものではなくて民間ドイツ人の寄附によるものであることが分かりました。これは持って帰るべきではないとそのまま返却して日本軍は撤収しました。

こうした行為の根底には、ドイツに対する日本人の尊敬と憧れがあったのだろうと思います。学問、医学、芸術などドイツは世界の最先端国でしたから。明治憲法、軍隊組織や学校教育制度、医学もドイツにならったもので、メスやカルテ、ガーゼはドイツ語です。

 

「初の第九」

 

 

―ドイツ兵にはかなり自由が認められていたようですね。

草場 一応検閲はしますが家族との手紙、久留米に来て住み着いた妻との面会、在日ドイツ人との接触・支援受入れ、外国新聞の持込み、日記をつける事、印刷機を持ち込み所内新聞の発行、写真撮影、収容所外への遠足等々、脱走以外は殆ど自由でした。
 五年半の間に五人の所長が就任しています。初代の樫村弘道所長は、神父が週一回の儀式を執り行う事を許可しています。また、二代目の真崎甚三郎所長は、後からお話しますが、ドイツ兵とのトラブルを頻繁に起こしますが、ドイツ兵の音楽活動に対して、「ドイツ人にとって音楽は、日本人にとっての漬物のようなものだ」と理解を示してコンサートを許可しました。三代目の林銑十郎所長は、遠足、スポーツ大会、工事への使役、野菜栽培の奨励など捕虜の健康に気を使いました。

この他、五代目の渡辺保治所長は隣接する畑を整地してスポーツが出来る環境を整えました。当時の日本人はドイツ人の生活、文化を知っていたのでしょうね。あるドイツ兵の日記に、別室で聞こえるドイツ語の会話をてっきり同胞人どうしが話していると思っていたら、一人は日本人の通訳だったのでその見事なドイツ語に驚いた、と書いています。

―スポーツ大会、演奏会も盛んにやっていたようですね。

草場 スポーツに関しては収容所内には体操、サッカー、ホッケー、テニスなどの十三のクラブが活動していて、毎週のように競技会が開かれていたようです。音楽は収容所内に二つの楽団があり、二百回以上のコンサートのプログラムが残っています。

ベートーヴェン交響曲第九の日本で初めての演奏は、板東収容所ですね。

草場 その通りです。何も競う必要はないのですが、実は日本人が初めて第九を聞いたのは、大正八年(一九一九)に久留米高等女学校(現在の明善高校の前身のひとつ)なのです。その演奏をした捕虜の日記に、予定のプログラムが終わったら一人の女学生が「これを弾いてくれないだろうか」と持ってきた楽譜がシューベルトの「セレナーデ」だったので、極東の島国の少女が・・と驚いた、と書き残しています。また、収容所内では美術や工芸も盛んでした。所内では作品展が開かれ、優秀な作品は文部省主催の展覧会にも出品されたり、地元で開かれた美術工芸品展覧会には約五千点もの作品が出品され、即売されたようです。

―しかし、軍と捕虜の間に軋轢もあったようですね。

草場 二代目の真崎所長の殴打事件がありました。殴打されたドイツ兵は捕虜の虐待を禁じているハーグ条約違反だと、中立国のアメリカに調査を依頼して実際調査団が入りました。これは隠蔽せず公明正大な日本の姿勢の現われとも言えます。真崎所長が殴打した理由は、その二週間前に四名が収容所から脱走したばかりなのにも拘わらず、捕虜全員に大正天皇の誕生日祝いにビールとリンゴを配りましたが、それに対し「敵国のトップの祝いものを貰う訳にはいかない」と将校が突き返しにきた為でした。当時の職業軍人として皇室を侮辱されては、黙って見過ごすことはできなかったのでしょう。
陸軍省は適切な行動ではなかったと裁定し、所長を実質交替しました。

―収容所の衛生、健康管理も行届いていたようですね。

草場 同じくドイツ兵を収容したロシアの収容所での捕虜の死亡率は三九・五%と高いのに対して、日本はわずか一・九%、久留米は〇・六%です。当時、世界中にスペイン風邪が流行し猛威を振るっていた中でも、久留米収容所で感染し死亡した者はゼロでした。世界で最も安全な場所だったとも言えるでしょうね。

 

 

ブリヂストン飛躍の礎

 

 

―五年間の収容所生活を終え、母国に帰還する捕虜の中にはそのまま久留米に残った兵もいましたね。

草場 そうです。久留米収容所の捕虜二十一名が、日本残留を希望しました。そのうち十二名が地元などの企業に雇用されました。特に日本足袋のヒルシュベルゲル氏と、つちや足袋のヴェデキント氏は久留米のゴム産業の発展に重要な役割を果たします。

―日本足袋は後にブリヂストンになって世界的企業に発展しますね。

草場 ブリヂストンの創業者である石橋正二郎氏は、十七歳の時に父から足袋屋の家業を引き継ぎました。当時は丁稚八人が座布団に座って足袋を縫う、家内制手工業規模でした。それが一代で世界的企業に大成長したのは、経営理念の誠実さと優秀なドイツ人捕虜を雇用したことにあると思います。正二郎は親から引き継いだ足袋屋を製品と価格の均一化で成功し二十九歳の時には三百万足を販売するまでに成長します。この頃、正二郎は新しい製品開発を進めました。

それが「地下足袋」です。それまで日本の勤労者の履物はわらじでしたが、わらじでは足に十分な力が入らないため作業効率を妨げ、釘やガラスの破片を踏み抜きやすく危険でもありました。耐久性が無いため一日に一足は履きつぶしてしまいます。履物代がかかり、勤労者にとって決して馬鹿にはできぬ負担となっていました。そこで正二郎はわらじよりもはるかに耐久性に富むゴム底足袋、地下足袋の開発を目指します。

 この時に貢献したのが、優秀な化学技師だったヒルシュベルゲル氏でした。彼はこの時に雇用されます。この地下足袋が激しい労働環境の三池炭鉱で使われその優秀性が認められて全国的な大ヒットになります。生産が間に合わないほどだったそうです。力をつけた正二郎が次に目指したのが、国産自動車タイヤの製造でした。ブリヂストンが宣伝用に購入した自動車を、馬を使わない馬車が来たと人だかりがした時代です。ゴム技師長だったヒルシュベルゲル氏はゴムの配合を担当し、見事成功します。

社名のブリヂストンヒルシュベルゲル氏の提案です。タイヤのブランド名を考えた正二郎から、石橋を英語風にもじって「ストーンブリッヂ」にしようかと相談されたヒルシュベルゲル氏が、語呂が悪いからとさかさまにした「ブリッヂストン」を提案したのが始まりです。つちや足袋、現在の株式会社ムーンスターに雇用されたヴェデキント氏も会社に大きく貢献します。つまり、久留米の発展にドイツ兵は欠かせない存在だったと言えるでしょう。ヴェデキント氏は久留米を愛し骨を埋めた人で、帰化して日本名を「上田金蔵」と改名しました。この他ドイツハムの製法と味を久留米人に教えたのも、ドイツ兵でした。「松尾ハム」はドイツハムの製造に成功します。松尾家はもともと、外国人居住者や出入りの多い長崎でハム製造をしていました。久留米俘虜収容所との接点を作ったのは、久留米市の目抜き通りの「明治通り」にあるカトリック教会の、ミシェル・ソーレ神父です。ドイツ人にとってハムは、日本人にとっての味噌汁の様に、なければない程恋しい食べ物であったようです。収容所に出入りしていた神父は何とかハム・ソーセージを食べたいとの捕虜達の希望を知り、たびたび訪れる長崎で松尾さんに声を掛けて、久留米への転身を働き掛けたのでした。しかし、最初は捕虜達に言わせると、故国の味とは全く違っていて、「こんなものは食えるか!」だった様です。捕虜のなかにハム職人がいました。アウグストス・ローマイヤーです。シュミット・村木万寿美著『ロースハムの誕生』にドイツでの職人修行の苦労話しが出ています。彼の指導助言で、捕虜たちが納得する味を実現する事が出来た様で、「おいしいものを長年有り難う!」と感謝した捕虜達は、帰国の際に記念に手作りの収容所レイアウトのレリーフをプレゼントしたのです。下部に、KRIEGSGEFANGENEN LAGER KURUME(久留米俘虜収容所)とあります。この現物は、調査の段階で松尾さんから見せて貰った事があります。この様に故国の味を長年納入して大いに感謝された松尾ハムは、残念ながら最近閉店しました。

 

シリアル・ノミネーション

 

 

―四年前(二〇一四)からドイツ兵久留米俘虜収容所のガイド活動を始めたきっかけは?

草場 あることがきっかけで収容所のことを知りました。平成十四年から活動している会のメンバーに「この史実を久留米市民に伝えるのは私たちの務めではないか」と呼びかけました。そこで内部で勉強会を開き色々と調べていくうちに、資料と写真などを求めて久留米市文化財保護課を訪ねると、ちょうど第一次世界大戦百周年の資料展を企画しているとのことでした。それでは一緒にやろうという事になって、私たちはまち歩きガイドを担当しました。それ以来毎年三回開催しています。しかし毎回、同じテーマで同じ場所を巡るので、次第に参加者が少なくなってきたので、もっと広く知ってもらうために私も講師を務めて公民館等で講演会を開いています。先立っては「えーるピア」で160人へ、来月は市教育会館で退職教職員協会からのお招きで講演します。

―参加された人の反応は?

草場 皆さん、「聞いてよかった」と好評です。なかには「部分的には知っていたけど、これだけ全貌は初めて知った」と喜んでいただいています。

―収容所に関しては、第九の演奏など徳島県鳴門市の板東収容所が有名ですね。ユネスコの「世界の記憶」にエントリーしようとしたそうですが・・・

草場 鳴門市側は申請書類を出すだけになっていたのですが、ある事件があってユネスコは受付を停止しました。ある事件とは、中国の南京虐殺が登録されたことでした。あらためてユネスコ執行委員会が調査してみると、虐殺された人数が三十万人とされるなど根拠が極めて杜撰で、登録までのプロセスが不透明だったことが判明したそうです。そこでユネスコ執行委員会が制度を見直すことを事務局に指示し、その結果が出るまでは登録申請を受付しないことになりました。

人類はシベリア抑留、アウシュビッツなど非道な歴史を持っています。しかし、百年前の日本は捕虜に対して人道的な処遇を施したのです。これは人類が記憶すべき歴史ですし、後世にしっかりと語り継がれるべきだと思います。八県にわたって世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」や最近世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方潜伏キリシタン関連遺産」のと同じ様に、ドイツ兵の捕虜収容所も一ヵ所のみではなく全体で一つの価値を生むとの考え方である、「シリアル・ノミネーション」で申請すべきだと思います。

 世界遺産や世界の記憶の制度の根本精神は、人類にとって忘れてはならない歴史上のエビデンスを風水害や戦争被害から保護して、確実に子孫に遺そうというものだと思います。そこには、その純粋な学術的価値論以外の、あらゆる要素は持ち込まないことになっています。しかし例えば、「明治日本の産業革命遺産」に対して韓国、中国から「強制徴用」を理由に、数ヵ所の登録に反対されました。人類の歴史として記憶し遺すべき価値があるのかとの学術的議論に、このような政治的議論を持ち込むべきではないというのが、ユネスコ制度の根本精神です。「明治日本の産業革命遺産」の歴史的価値と意義は、その結果欧米列強の植民地にならずに独立国家になったのは世界唯一日本だけである、という事実です。何が人類にとって歴史的価値があるかを見誤ってはいけないと思います。最近登録された実例を見ても分かる通り、シリアル・ノミネーションはその為の、専門家の間にほぼ確立した基本概念なのです。

 

―板東収容所がある鳴門市との交流はあるのですか?

草場 鳴門市板東収容所とその展示博物館には、ガイドの会の研修で行って、館長からのご説明などを受けました。しかし私たちは民間人ですからユネスコ申請については前面に出る訳にはいきません。久留米市の担当部局の方が鳴門市を訪問してその活動や取り組みについて視察されました。鳴門市は板東収容所の歴史調査と市民への啓発・広報活動を三十年以上も取り組んでいて、その努力には頭が下る思いです。その視察の結果、これまでは史料収集以外には市民への啓蒙活動を鳴門の様に本格的にはやっていなかった久留米市が「どうか一緒に」と入るのは、如何なものだろうかという話に役所の中ではなったそうです。ただ、久留米市も本格的に始めたので、今回の受付の延期は鳴門市には申し訳ないですが、私たちに時間が与えられた形になりました。

個人としての所感を述べれば、上述のユネスコ制度の根本精神、つまり「人類にとって何が歴史的価値があるのか?のみで純粋に判断しろ」に照らせば、「今久留米が鳴門に共同申請を申し入れするのは、久留米の品格が問われる」との判断もあるでしょうが、しかしそれはユネスコ精神にもとる面もあるのではないでしょうか。その道の外部専門家を交えて再検討願えればと思います。

歴史的事実として、ドイツ兵捕虜収容所と第九演奏は久留米が本家本元なのです。鳴門市にならって、この素晴らしい収容所の歴史とその「世界の記憶」にもなり得る世界史的意義とを、久留米市民に広く知ってもらう努力を官民一致協力して進めるべきです。日本人が久留米高女で初めて聞いた第九演奏100周年記念にあたる来年の十二月三日に向けての諸記念行事を行政に提案しています。今年はその露払いの年として、わたくし共も自分たちがやれることを今年も継続したいと思いますので、その為にも、今は何一つない肝心の捕虜収容所跡と第九演奏が行われた高女跡などに、史跡碑や説明板の設置を行政にお願いしたいと思っています。

 

草場氏プロフィール 昭和19年久留米市生まれ。県立明善高、熊本大学工学部卒。卒業後通信機メーカーに就職。その後再び大学に戻り熊大大学院に進学。修了後ブリヂストンに入社。二〇〇四年に定年退職後、帰郷。