「醒眼正論」「南京事件」の虚構と真実 (上)

「醒眼正論」平成29年4月号

裏付け取材なしの「誤報」がもたらした「南京事件」の虚構と真実 (上)

 「(報道に接した者が)最初に抱いた印象を基準にして判断し、逆に公判廷で明らかにされた方が間違っているとの不信感を持つ者がいないとは限らない」とロス疑惑事件の三浦和義被告に無罪判決を言い渡したのは、1998年7月の東京地裁・秋山規雄裁判長でした。マスコミ報道先行型の特殊事件として犯罪報道の問題点を厳しく指摘したのです。

 要するに、裏付け取材を無視した間違った報道が与える報道被害については、後日、撤回されても原状回復は極めて難しい。一度、誤った報道で拡散、定着した報道被害は計り知れない。勿論、「裏付け取材なき誤報」と「意図的誤報」は結果として同じ結果を招くものです。その典型的誤報によって、国益を大いに損なった代表的事例が、韓国の「従軍慰安婦」と中国の「南京大虐殺」です。前者の場合は、1989年から94年まで、毎日新聞韓国特派員だった下川正晴氏(元論説委員)によれば、「朝日の植村隆氏の記事が出る前に、韓国の慰安婦支援団体から取材協力を依頼されたが、日韓間に揉め事を起こそうとする意図を感じて、断った。植村記者は特ダネが取れると思ったのではないか。証言テープを聴いただけで記事を書いたようだ。本当に慰安婦問題に関心があるなら、裏付け取材をするはず」と言う。植村氏の韓国人妻は、91年頃、取材協力記者探しが難航していた頃に、「太平洋戦争犠牲者遺族会」で働いていた女性だった。母親が同会の副会長をしていた。そして、結婚した91年の8月11日付の朝日新聞大阪版に“思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く”の見出しで書いたのが最初でした。

 後者の場合は、71年8月から12月まで朝日新聞本多勝一記者が40回も連載したルポ『中国の旅』が事の始まりだった。連載初回から、「南京大虐殺」のことを針小棒大に書いたので、読まされた日本人は驚愕した。旧日本軍は、そんな酷い「大虐殺」を中国の首都南京で働いたのかと贖罪意識を持ったのも無理はない。中国の目論見は大成功でした。中国の巧妙なお膳立てに乗って、ほんの数日間の南京滞在と4,5人の中国側が用意した証言者の言うままに、裏付け取材もなしに書いたのです。中国の得意技「ハニ―トラップ」に引っ掛かったのかどうか分からないが、後日、本多氏は抗議に対して「中国の視点を紹介するのが目的であり、その意味では<取材>でさえない」と無責任な弁解をしたという。

そもそも、『中国の旅』が出る前まで、毛沢東周恩来も「南京虐殺」自体を話題にしたこともなかった。71年と言えば、同年3月に名古屋で「世界卓球選手権大会」があり、中国からも選手団が来日した。終了後、米国選手団の訪中による“ピンポン外交”が話題になり、同年7月には、キッシンジャー大統領補佐官が密かに訪中、翌72年にニクソン大統領が電撃訪中したが、中ソ関係悪化という背景もあった。71年6月頃に、中国からの協力依頼が本多記者もしくは朝日新聞に持ち掛けられ、対日関係「改善」戦略の一環として「南京大虐殺」キャンペーンを企図したのだろう。その罠に嵌ったのがスター記者の本多氏であり、朝日新聞だった。その意味では、「意図的誤報」を演出させられた形です。

 確かに、昨年10月に薨去された三笠宮は、1943年1月から1年間、支那派遣軍総司令部に参謀として南京に駐留された経験があり、94年の雑誌インタビューで「南京大虐殺」のことを聞かれた。「最近の新聞などで議論されているのを見ると、何だか人数のことばかりが問題になっている気がする」が物事の本質を無視しているではないか、と不満気だった。

 因みに、戦前から戦後にかけて国際ジャーナリストとして大活躍した松本重治(当時、同盟通信上海支局長)が『昭和史への一証言』(1986年、毎日新聞社刊)の中で、「確かに、南京虐殺があったのは事実です…南京陥落直後に、南京に入った。占領5日目に入った時は既に平穏でした。支局の記者たちの話でも、何十万人という“大虐殺”はなかったと言っていた。私は、南京内外で虐殺された中国人は捕虜と一般市民たちを総計して3万人位と推測している」と語る。古来、中国流の“白髪三千丈”(李白)など誇張表現を好む民族性の所為かも知れない。つまり、本来は数が問題なのではなく如何なる戦争であれ、「虐殺」そのものは付き物だということです。これまでの中国側の「宣伝」戦術に対して、黙っていては国際的問題では不利になるのは当然であり、「吠えない犬は、何時までも叩かれる」のです。虐殺があったか、なかったかと矮小化されていい問題でもない。まして“沈黙は金なり”とは、国際間では通用しない日本的美意識に過ぎないことを思い知るべきです。