陽明学「保護主義という治国」

保護主義という治国

 

 

 

 

保護主義の本当の意味

 

 

 メキシコとの国境に壁を作るとか、入国制限など就任して大統領令を次々に出して世界を驚かせているトランプ大統領ですが、マスコミ各社は彼の政策を「保護主義」と表しています。昨年から世界ではアメリカだけではなく、イギリスのEU離脱に見られるように保護主義の傾向が強まっています。保護主義の原点とは何でしょうか?保護主義の本来の目的は、自国民の生活を安定させて国力を再構築させることに重点を置くことだと思います。

かつて世界恐慌の影響で保護主義に走り、その後戦争というものがあるからなのか、保護主義という言葉に必要以上に嫌悪感を覚える人が多いと思いますが、日本が日本らしさを取り戻すために、保護主義を見直す必要があるのではないかと思います。日本は自国のもの、特に食糧の自給率の向上を考えるべきです。今の経済の状況は、一部の大企業、資産家に富が集中するような仕組みになっています。これが新自由主義が追及してきた産物なのです。いつの間にか、公益という名の個の利益ばかりを追求して、民の為にという真の公益は無視されている状態なのです。

 そもそも本来「国」は我々が言うところの「地域」でした。旧字体では「國」です。この字は地域を城壁で囲むという意味です。治国は地域を治めるということです。

現在の国は「修身斉家治国平天下」(『大学』)でいう天下を指します。トランプ大統領が目指しているのは、アメリカという地域、コミュニティを治めて整えることだと思います。それが私の思う保護主義の原点です。そこでは経済だけではなく、教育や治安などの見直しが始まることでしょう。それに対してこれまでアメリカの新自由主義が向いていたのは、「外」でした。そのため、内に向けるべき教育、治安が疎かになってしまい、社会が不安定になってしまい、その反動が大方の予想を裏切りトランプ大統領の誕生になったのです。アメリカはこれまで移民を受け入れ、安い人件費で国力をつけ、移民の夢に向かうアメリカンドリームというエネルギーに転化してきました。それは100年近い歳月を得て、いつの間にか、自国民を疲弊させる結果となりました。

 トランプ大統領アメリカ史上初の政治経験も軍隊経験もない大統領だそうですが、長い間経営者として成功と失敗を繰り返したプロの経営者で、その経営手腕はスバ抜けたものがあると思います。

陽明学の言葉に「一了百当」という言葉があります。日本では「一を聞いて十を知る」という言葉で使われます。経営のプロは政治のプロでもあるということなのです。経営者の使命はまず自分の家族すなわち従業員を守ることです。

これは国家の立場からしたら保護主義なのです。だからといって家族のことだけを考えても会社は間違いなくつぶれるのです。社会の為、お客様の為というものが前提にないと従業員は守れないのです。今までのアメリカの経営者の多くは会社の価値を上げて、それを売買の対象にするといったものが主流で、日本株の売買も彼らを含め外国の投資家が多く関与しています。会社の社員を守るというよりも株価の変動の方に彼らの関心が行っているようです。しかし、そんな経営者の中でも異質な存在の経営者トランプは大統領にとなって守るべき第一のものが家族であるアメリカ国民そのものだというのです。そのように日本的経営者の感覚を持つトランプがアメリカだけの利益の為に動いているというのはおかしい話ですし、それはマスコミの悪意のある幻想であると思うのです。

また、そのようなトランプ大統領を選んだアメリカ国民の疲弊さは容易に想像できますし、今後展開するであろう日本の姿を見る思いがするのです。

 

 

 

横井小楠の国家観

 

 

 今後日本がそのアメリカとどう付き合うかも重要ですが、まずは世界の動きがそうであるように日本も自国の足元を見つめなおす時期が来ているのではないかと思います。

150年前の幕末の志士たちは、当初攘夷つまり開国を拒否していましたが、維新直前に一転して開国に傾きます。この動きに大きな役割を果たした人物に熊本の横井小楠がいました。彼の思想は時代を先取りし、保守派からも攘夷派からも多くの誤解を招き、その結果明治に入り暗殺されてしまいました。

彼は国家の精神の柱を「孔子」の精神におき、西洋の科学技術を習得していく、いわば「和魂洋才」を最初に唱えました。

とは中国古代の伝説上の帝王で、徳をもって理想的な仁政を行い、血筋ではなく人物の徳を持って政を行うという治世でした。

また小楠は新しい時代の日本はアメリカのような共和制が理想だと指摘しています。

また小楠は富国強兵を主張しましたが、これは戦争の為に外に出るということではなく、あくまでも自衛のため、西洋に侮られないためのものでした。小楠の「熊本実学党」は時代を先取り、日本の伝統と西洋的なものを融合させていく実利に優れていましたが、実学党に藩主・細川公の弟の長岡監物がいたためか、勢力争いに巻き込まれ保守派から批判され攻撃されることになります。

その後、彼が外遊で知り合った人の縁で福井藩主の松平春嶽に見出され「横井小楠」という存在が広く世に出る事になります。有名な坂本龍馬の『船中八策』や由利公正の『五箇条のご誓文』は小楠の『国是七条』を基に書かれています。ですから維新の本来の精神は小楠の思想が根底にあると言ってもいいでしょう。もし、小楠の「和魂洋才」が明治以後に継承されていれば、日本は本当の意味での「和の国」になれたのではないかと想像します。小楠の国家観は現在の日本にとって忘れている大切なものを思い起こさせるのに必要なものであると思います。

保護主義に話を戻しますが、コミュニティ(國)が治まらないと、家も整わない(斉家)、家が整わないと個人を確立(修身)できる場もできないということです。ですから本来の國を取り戻すために大切なことは人々の心を育てて立派な人にしていくことであり、それは家作り、地域づくりへと続いていくのです。まずは『大学』にあるように「正心・誠意・格物・致知」「修身・斎家・治國・平天下」と先人たちが継承してくれたものに従いやっていくことが正道なのです。

 

 

泰平の世に学ぶ

 

 

そうした世界の潮流の中で日本はどうすべきなのか。今までのようにアメリカに追随するだけではやっていけない時代になってくるでしょう。日本という国の真の自立を目指すべき時なのです。

戦後70年経っても自立できてない現状は日本という国の形を明確にしてこなかったことが原因にあると思うのです。まずは歴史を通して日本を知ることなのです。日本らしさとは何かを探すのに、未だ多くの歴史書が残っている江戸時代を研究してみることも一つの方法でしょう。

例えば江戸時代では他国に進出せず、侵略されなかったのは何故でしょうか。鎖国したからと言って、攻められないわけではありません。

実際、江戸時代初期にスペインは日本を虎視眈々と狙って、情報取集係りとしての役割を果たしたのが宣教師たちです。それに気づいた秀吉、家康はキリスト教を禁止し、日本を防衛したのでした。そのように情報が伝わり当然戦力的に自分たちが遥かに上であり、また彼らが欲していた金や銀、銅などの資源が豊富であった日本を攻めようと思えばできたはずですが、結果としてできませんでした。それはなぜでしょうか?いろいろな理由があるのでしょうが、一つに江戸に入り、戦乱の世の中で保持していた武器を棄てたことが大きいと思うのです。武士の刀は武器ではなく、魂を磨くための物です。例えば、目が見えない人は、健常者が持っていない別の感性が磨かれます。日本が武器に頼らなくなって得たものは、今の日本では想像できない人間力、交渉力ではなかったのでしょうか。当時の日本のリーダーたちが身に着けていた人間力が国家として最高の武力だったのではないでしょうか。

江戸時代265年は泰平の世でした。これは、紛れも無い史実です。世界の情報は長崎の出島を通じて入ってきていました。江戸幕府はそれを充分に読み取り分析し、事の本質を見抜く力を持っていました。日本の歴史の中で、日本人の能力を育ててきたのは「漢学」であり、その学問は事の本質を見抜くことを目的とし、これは幼少期に素読し、丸暗記するという学習方法を身に着けていたのです。明治になって海外に出かけた多くの日本人がスペイン語オランダ語、英語をわけなくマスター出来たのは、まさしくこのような訓練を積んでいたからなのです。

 現代の日本を見ると、あまりにも情報に頼り過ぎています。情報に振り回されないためには、感性すなわち「勘」を磨くしかありません。あまりにも膨大な情報は人を情報の奴隷にしてしまうのです。内に向かうことが大切なのです。世界において保護主義の台頭ということは、日本も内に向かえということなのです。何度も言うようですが、これは他を切り捨てて自分だけ生きようとするものではありません。

トランプ大統領の誕生は、日本が自国の歴史、経済、教育などを見つめ直し、本来日本人が持っていた人間力を取り戻す絶好の機会だと捉えてはどうでしょうか。明治から150年、言うべきははっきり言い、一方では相手の話を誠意を持って聞き受け止めていく本来の日本人を取り戻していくべき時なのです。

 

 

「陽明学講座」① 陽明学とは

 橘一徳の誰でも学べる「陽明学講座」①

陽明学とは

 

 

「できない」壁

 

 

陽明学とは儒教(学)の流れで言えば朱子学とともに新儒教(学)と言われていますが、一言で言うと、朱子学の「理学」に対して陽明学は「心学」という言葉で表され、内なる心に重きを置いた学問です。儒教(学)は「善は人とともにし、楽しみは人とともにする」(『論語』)が表しているように仁(愛)を中心とした考え方ですし、実は現在私たちが当たり前のように行っている生活様式の多くが儒教から来ているのです。

しかし現代において『論語』に対する誤解が元になっているのか、非常に戒律的で自由を縛るものといった観が強く、特に陽明学は幕末の尊皇攘夷の志士達の中心的思想だったこともあり、革命的な思想だと思う人もいるようですが、実際の陽明学は、革命的で対外的に動くことを強く主張しているのではなく、あくまでも中心は自分のうちに有り、外にある権威や物に振り回されない、しっかりした心を育て本来の自分を取り戻すための学問なのです。

 人は、思いはあっても実行できない心の弱さがあります。例えば、電車の中で、お年寄りに席を譲ろうという思いはあっても、いざやろうとすると出来ないことがあります。「思い」と「行動」が対立した状態が続くと自分の中に葛藤が生じ、自己矛盾に陥ることになるのです。その「できない」という壁をいかに乗り越えていくか。それは、現代に生きる我々だけではなく、江戸時代の幕末の志士たちや、何千年も前からの人々が思い悩む事の一つなのです。

 

心の問題に関する人々の悩みや葛藤は様々な文献を見る限り、時代は変わってもさほど変わっていません。

例えば江戸時代、特にインフラ整備がほぼ完了し経済的に豊かになってきた五代将軍綱吉の時代において、武士道を表した『葉隠』の中に伝統的精神と国の歴史を知らない役人たちが多くいて彼らは政治の道しるべをもっていないことを嘆く内容が書かれてありますし、そうした時代の流れの中にあって、江戸の末期になると人々の不安は、安定してきた経済とは裏腹に、黒船来航による情報の錯綜、またその前後にあった大飢饉、震災により、それまで安定した社会に依存していた自分たちの価値観の見直しを余儀なくされたようです。そうした、一見すると危機と思われた時代に、主に下級武士や商人町人のリーダー達の中に浸透していた陽明学がグローズアップされてきたのでした。つまり、彼らが真から学びたいものは、大きく変化するであろう時代にあって、外の変化や権威にとらわれない、自由な自分の心を取り戻し、本来の自分らしさを見出すための指針を見出すことの出来る学問でした。

 

ここで江戸時代の末期において多くの藩が「官学」の朱子学ではなく、大きく陽明学に傾いたのは、なぜでしょうか?

徳川家康は幕府を開くにあたり、それまで長く続いた戦国の世を治め、平和な国にするために「儒教(学)」を政の柱に置いた「徳治政治」を行ったのでした。

儒教(学)を徳川家康に侍講していた藤原惺窩は、朱子学陽明学の折衷のような儒学者で、どちらかと言えば陽明学に傾いていました。その後継に指名されたのが、のちに大学頭になる林羅山です。羅山は「朱子学」一辺倒でそれが幕府の「官学」になっていきます。朱子学が幕府や諸藩に起用されたのは、統治する側にとっては当時の社会情勢からすると当然のことでした。朱子学陽明学と較べて外の世界に活路を見出していく(窮理)という思想性が強く、長い戦乱の世を平和な世界にするためには規律(ルール)を明確にする必要があり、民をまとめていくために必要なものでした。しかし、それは、各藩によって体制という名のもとに人が本来持つ心の自由性・自立性を抑える度合いの違いがありますが、これは時とともに、人々の心の働きは覆い隠された囲いを破ろうと働くのです。

その時代の流れの中で個人の心に向き合う学問である陽明学が脚光を浴びたのは当然の事と思われます。陽明学の「万街の人皆聖人」という言葉が示すように、全ての人には聖人と同じ心が備わっており、特に江戸時代の商人たちは「人を見たら仏の化身と思え」と言われていたようで、実に陽明学の考え方が日本人にとってピンと来ていたのかもしれません。

 

資本主義と陽明学

 

さて、現代の日本は、科学万能で「知」が重視される時代になっています。しかしそこに「いかに生きるか」という「人間性・道徳性」が欠如していては、せっかくの知も必要悪になりかねませんし、事実、悪用されている例が沢山あります。現代の学問は主に「いかにうまく・上手に生きるか」を教えるものが多いのですが、日本人が柱にしてきた儒教(学)の中心は「いかに生きるか」を教えるいわば「人間学」なのです。

私は現在、陽明学を柱に講演し、講座を開いています。なぜ、陽明学を現代に蘇らせようとしているのか。それは、今までお話してきた内容からご理解して頂けると思いますが、複雑多岐にわたった現代社会にあって、私も含め多くの人々が心の空虚感を抑えられず、自分を見失っている中で、歴史を越えて、真の心の自由を勝ち得てきた証が数多く陽明学の中にあると感じているからなのです。

現代ではフェイスブック、LineなどのSNS(ソーシャルネットワークシステム)などネット社会が発達して、人の意識は外へ、外へ向かっています。情報に振り回され、情報の多さに自分で情報を選択することすら困難な状況です。その情報の渦は便利さというものの反動で、多くの弊害を生み出しています。つまり、「自分自身を見失う」人々が増えてきているのです。選挙の投票活動を見ていても、自分の考えはなくて流れに流されて投票している傾向が強くなり、ポピュリズムによる衆愚政治の様相を呈しています。フェイスブックに「いいね!」が付かないと疎外感を強くしてより外に向かう。それを繰り返していると、いつの間にか自分の中が空虚になってしまい、振り回されるという悪循環に陥ります。現代とは違い、江戸時代における江戸城下の町衆たちの考え方は「人は十人十色、違っていて当たり前」で、100人いたら100人の江戸があると、多様な社会のあり方が本来の日本人の良さでした。それが、明治維新後に西洋化が急速に進み画一化が進み、戦後さらにその傾向が強まったようです。

 また、資本主義の限界、悪弊も見えてきました。文明を追求する資本主義では、次第に人間が不在、不要になってくるからです。現代の社会を見ると、機械化、IT化が進んで、機会やコンピューターに人が働く場所を奪われているという、本末転倒の状況になりつつあります。

陽明学では、「万物一体の仁」という、自然と人間は一体である一元的な考え方をしています。西洋的な考え方は人間が自然をコントロールすると言った考え方で、人を含めて二元的、対立的な考え方が中心になっています。ですから西洋的な考え方が浸透している現代は物事を対立的に考えてしまいやすく、猛烈な疎外感を覚える時代だとも言えます。本来、人は他人と自分を同じあると感じる心があり、それを「同心一体」と言います。

また陽明学の考え方の中に、「知行合一」という言葉があります。本来ならば、知と行は同じで、どちらが先でもいいという考え方で、その対極にあるのが、西洋の「唯物主義」で、例えば欧米の成功哲学は、何かやろうとする時に、計画してモチベーションを上げていき、実行して失敗を修正して最後はゴールテープを切るという、いわゆる、プランドゥシーです。しかし、陽明学は先に考えるのもよし、先に行動していく中でそこで考えるのもよしと教えています。行動していれば、何か頭に浮かぶものがあるはずだと。それが、昔の日本人の行動・思考パターンでした。皆さんも身近に知行合一を体験し実践されていると思いますが、実は車の運転などもそうなんですね。

知(思い)と行(行動)が一つになっている(知行合一)人は自然な人です。

武道や書道など「道」の達人は実に自然な動きをされます。これこそ「知行合一」をなしている状態だといえます。

四書五経の『中庸』で「天の命これを性といい 性に従うこれを道といい 道を修むる これを教えという」というのがあります。先達の生き方には、必ず道がありました。古典の中には多くの生きた証があります。それがすなわち道なのです。分かりやすく言えば、道を学び、それを自分が実践し習得することで、豊かな心を育成してきました。

もう一つ陽明学の特徴は「老荘」「仏教」「儒教」の考え方が融合されている点です。ですから、陽明学は武士道に通じるものがあり、日本人が歴史を通して様々なものを結び融合してきた「日本人の心」を現代に繋げる役割があるという点です。

 人が豊かな心を育て、個性を花開かせながら、人として生きる道しるべを、陽明学に見い出すことができます。これから、このコーナーでは、心豊かに人生を過ごしてもらえるように、陽明学を分かりやすく解説していきたいと思います。

 

 

 

学生時代に作家故山本七平に師事(山本七平:山本書店店主、文部科学省教育審議会会長、『論語の読み方』『聖書の常識』『徳川家康』など著者多数)に西洋・東洋思想のイロハを学ぶ。その後独自に中国哲学・日本の思想・歴史を研究し、現代の社会において実践、活用する。現在、陽明学を中心に『論語』などの講演会、講座を数多く手がける。

たちばな教育総合研究所・代表

 

 

 

 

 

弾圧、強制収用…ウイグル人への迫害の実態 日本ウイグル連盟代表 トゥール・ムハメット氏

そこが聞きたい!インタビュー

 

弾圧、強制収用…ウイグル人への迫害の実態

中国による重大な人権侵害を許してはならない

 

日本ウイグル連盟代表 トゥール・ムハメット氏

 

 

 

中央アジア東トルキスタン。元々ウイグル民族の領土だったが、周辺の大国から侵略、支配された歴史を持つ。中国共産党政権樹立以来、自治区として支配されてきたが、96年から民族浄化政策が進み、激しい弾圧が続いている。このままでは民族が消滅する―その現状と声を聞いた。

(※編集部註:中国による正式な呼称は「新疆ウイグル自治区」だが、実態と乖離していることからこの記事では「東トルキスタン」と表記を統一する)

 

 

 

 

第七号文書「中央政治局新疆工作会議紀要」

 

 

 

―まず、日本に来られた経緯から聞かせてください。

トゥール 九四年に留学生として九州大学大学院の農学研究員として来日、九九年に博士号を取得しました。その間の九七年、修士課程を修了し博士課程一年目の時に東トルキスタンのグルジャ市で中国政府による宗教弾圧が起き、これに抗議したウイグル人を武力弾圧しました。この事件は、八九年の天安門事件、九〇年の南部のバレン郷の大規模な農民蜂起に対する弾圧に次ぐ大規模な弾圧でこの時、四、五百人の人々が射殺されました。日本では大きく報道されませんでしたが、欧米のメディアには大々的に取上げられました。トルコではトップニュースでした。天安門事件まで中国で起きていることに関して、国際社会はそんなに注目していませんでした。天安門事件が起きた時、中国の人権問題に国際社会が注目し始めて、その背景があってグルジアの虐殺では国際社会が大々的に報道しました。

 しかし、日本ではあまり報道されず、NHKにいたっては全く報道しませんでした。日本にいる私としてはおかしいと思っていました。当時、たまたま九七年四月にロータリー米山記念奨学金をいただくことになって、それを機会に奨学生として東福岡ロータリークラブに所属することになりました。そこで東トルキスタンで何が起きているのかを私の知りうる限りを話すことになりました。

ところで東トルキスタンに対する弾圧の背景には、九六年三月十九日に北京の中国共産党の秘密会議で二、三十年の間にウイグル人を同化させるという、機密文書である第七号文書「中央政治局新疆工作会議紀要」が決まりまったことがあります。それが初めて実行されたのが、グルジャ事件です。それまではウイグル人を他の民族と同等に扱うという建前があったのですが、この文書が通達されてからははっきりとウイグル人は中国の敵であるとされたのです。

―この政策転換の理由は?

トゥール 九一年のソ連崩壊があります。帝政を打破して共産党政権が二百年近く続いたのに、ソ連共産党が解散した途端にバルト三国ウクライナカザフスタンウズベキスタンベラルーシーなどが次々と独立してしまったのを目の当たりにして民族主義や宗教に中共が脅威を感じたからです。中国国内にあるウイグル、モンゴル、チベットなどの他民族が次々と独立することを恐れた中共がそれを防ぐためには、ウイグルチベットの独立意識を根絶やしにする同化政策をやるしかないと考えたのです。それはすなわち、ウイグル人から自治権を奪い取ることを始めたのです。しかし、それを明文化すると国内でも反発がありますから、表向きは自治区という体裁を保ちながら実態は同化政策を進めているのが実態です。この文書の概要だけは省長以上の役職者にしか伝達されず、それ以下の省職員には知られていませでした。その後、県レベルまで伝達されます。

自治区政府の中にはウイグル人もいますよね。

トゥール いますが、彼らはもう魂は中共そのものになってしまっています。仲間を討っているのです。いったん政府に取り込まれれば、漢民族は当然ですが、政府に入ったウイグル人でも中共の決定から独立した意思を持つことはできません。ただ、ウイグル人漢民族と違って決定権は持っていません。自治区主席のウイグル人もただの傀儡で、実権はありません。

―そうした事実を日本で講演されたそうですが、反応はどうでしたか?

トゥール 初めて話したのはロータリークラブで依頼されたものでした。ロータリークラブは政治的な活動は一切やらず、地域社会への奉仕活動が目的です。ですから、私の話はそぐわないものでした。しかし、当時の会長がウイグルの実態は会員にも知ってもらいたいからと勧められました。当時の私には、どこまで話していいのかという判断基準が無かったので、自分が知りえた事実を話すことにしました。

ウイグル自治区の欺瞞性、中国共産党の統治システムが日本の自由民主義体制と相容れないことや、言論の自由が無く、生命がまったく尊重されない中国とビジネスをやることは、中国を富ませそして軍事力を強めることになるだろう。中国は決して日本を友好的に見ておらず、むしろ敵対的行為を繰り返すだろうと話しました。また、ウイグルでの弾圧の状況を説明しました。すると、中には中国とビジネスをやっている人からは私の話を好ましく思われなかったようです。特に、私が「中国に投資してはいけない。この投資が中国を富ませる。それがひいては日本にとって脅威になって利敵行為になる」と言うと、「それは違う。中国はそこまで悪い国ではない。ウイグル人にも問題があるだろう」と反論されました。

―当時は多くの日本人の中国に対する認識が甘かったようですね。

トゥール そういう人は少数派で、私の卓話の後にそのクラブの卓話委員会で政治的テーマは止めようという意見が出たそうです。ありがたかったのは、気にしなくてもいいと言われました。多くの方が私の話に理解を示してくれ、ウイグル人に同情してくれたのです。実は、この時に「私は日本で博士号を取得して中国に帰って知識を活かしたいので、中国当局にマークされたくないのでこの話は内密にしてください」と頼みました。すると、数ヵ月後には違う北九州市のクラブから講演の依頼が来ました。少し悩みましたが引受ける事にしました。これで中国には帰れない、自分は日本で活動するしかないと腹を括りました。それ以来、帰国していません。帰れば刑務所に入れられるのは間違いありません。また、親族にも累を及ぼしますから、祖国の家族とも一切連絡していません。それならば、苦労してでも日本でウイグル人の状況を日本人に訴えるべきだと活動を始めました。

 

 

「抵抗と弾圧」の歴史

 

 

 

 

―家族の反対はなかったのですか?

トゥール ありました。「迷惑をかけるな」と。しかし、何とか説得してようやく表に出て発言、活動することができるようになりました。それが、評論家の宮崎正弘先生と座談会です。特に宮崎先生との座談会は二〇〇八年に『週刊朝日』に掲載され、日本で初めてウイグル人の声が週刊誌に掲載されました。その座談会には匿名で出て、ウイグル人の私の他にモンゴル人、チベット人満州人、回族の中国の異民族が出席しました。その後、宮崎先生から櫻井よしこ先生を紹介していただいて座談会が実現しました。これは『週刊新潮』に掲載され、これをきっかけに日本のメディアが取り上げるようになりました。この時も匿名で出ました。

―表に出るようになったのは?

トゥール 妻からは私の活動に対してずっと反対されていました。その後別居状態になって彼女たちはアメリカに渡ってしまいます。それをきっかけに私は表に出るようになりました。すると、彼女がウルムチ市に帰ると言い出したので、危ないから反対したいのですが振り切って帰ってしまいました。しばらくして中国当局からの圧力が強くなってきて離婚を言い出すようになり、二人の子供の親権が問題になりました。娘は既に二十歳になっていて問題はなかったのですが、息子はまだ十二歳でしたので私が親権を取ってそのままアメリカに残したままでした。ところが、成人の娘が妻を追ってウルムチに帰ってしまいました。その結果、二人とも精神病院に入れられてしまいました。事実上の軟禁状態です。義父が政府の高官だったのでそれで済んでいますが、そうでなかったらキャンプに強制収用されていたでしょうね。

アメリカ副大統領が収容キャンプについて言及したり、日本でも漸く報道されていますが新疆ウイグルの実態はどうなっていますか?

トゥール ウイグルへの弾圧は一九四九年から始まっていて、徐々に進めてきました。厳しい弾圧で民族の浄化がある程度進んだと見ると緩めて、また厳しくするということを繰り返してきました。それは、世代が交代すると民族意識が薄れますが、次の世代で再び民族意識が高揚してくるとまた弾圧してそれを沈静化するためなのです。抵抗と弾圧、その繰返しです。その間、夥しい数の同胞が犠牲になってきました。しかし、九六年までの弾圧はウイグル人の中で共産党政権に抵抗する勢力が対象でした。しかし、先ほどの七号文書以降は、ウィグル民族全体が対象になってしまいました。つまり、ウイグル民族を地上から抹殺して、分離独立の芽を完全に摘み取ろうというものなのです。

 それまではウイグル語の教育などウイグル文化を認めていたのですが、九六年以降それすらも総て認めなくなりました。虐殺すれば早いのでしょうが、インターネットなどの情報手段が発達した現代でそうした残虐行為は国際社会に知れ渡り、反発を買うのでウィグル民族のアイデンティティを抹殺しようとしているのです。政治面では先ほど言いましたが、傀儡的な政府登用しかしなくなりました。経済面では、ウイグル民族の経済を発展させないために締め付け、規制をかけています。例えば、会社設立や融資など漢民族は優遇されますが、ウイグル人には厳しく規制されます。手かせ足かせが掛けられているのです。

 最近、弾圧は厳しくあからさまになってきています。中国共産党は二〇一七年春からの約一年間で、「再教育キャンプ」という名の強制収容所に約百万人のウイグル人を拘束しました。収容されたウイグル人は信仰心が厚く、民族的アイデンティティが強い人々です。

―この選別はどうやっているのですか?

トゥール あるアンケートを実施して数値化しています。その数値が低ければ低いほど危険人物だと判定されます。減点方式で、例えば、外国に行ったことがあるか、家にイスラム教の経書が置いてあるか、一日五回の礼拝をするかで「はい」と答えると減点されていきます。こうして次々と収容されていて場所が足りないので学校、政府庁舎などがキャンプとして使われていて、政府はまだキャンプを建設していていますから、これからも収容される人は増えていくことでしょう。

 

 

 

拷問、「屋根のない収容所」

 

 

 

 

―中でどんな扱いを受けているのでしょうか。

トゥール 収容されてもテストを受けさせられます。点数が低い人は、酷い拷問が日常的に行われています。刑務所では男女関係なく裸で訊問されます。訊問に答えなければ拷問されます。

拷問を受けているウイグル人もいます。経験者の体験を聞くと、殴られる、電気棒で拷問されます。また、違う方法もあります。黒いビニール袋を頭から被せられ首のところで縛られます。すると、当然息が出来なくなり窒息します。その寸前に隙間をつくられ、必死に息を吸おうとします。すると、また閉める。そうした拷問が繰り返されます。今度は息を吸い込んだお腹に針で刺します。刺した所が紫色に変色します。痛くて痛くて仕方が無いそうです。もう一つの拷問のやり方は、二人の警官で強制的に手を挙げられます。これも激痛で苦しむそうです。女性は集団で何度もレイプされます。拷問を受けた後、重傷を負っても放置されます。

 こうして口が堅い人を拷問で白状させた警官には一件あたり五万元、日本円で約八十万円の報奨金が出るそうです。だから警官はお金のために盛んにやっているのです。警官には一日の収容人数にもノルマが課せられています。これも奨励金が出ています。ですから、少しでも反抗的な態度を見せればすぐに逮捕されます。中国は賄賂社会ですから、警官に賄賂を渡せば逃れられる可能性もあります。

―筆舌に尽くしがたい拷問と異常な社会…

トゥール ある宗教指導者は、頭を棒で挟まれて白状しなければ頭が変形するまで締め付けられました。そして死んでしまいます。こうした実態は、まだなかなか知られていませんが、事実です。また、点数が高い人は月に一回外部の家族などと連絡を取る事が許されます。無事にキャンプを出ても、特別監視対象者として「屋根のないキャンプ」生活を送ることになります。

―こうした実態に国際社会は動き出しましたね。

トゥール 中国政府の弾圧は国外に逃れたウイグル人にも及んでいます。カンボジア、タイ、ウズベキスタン、などからウイグル人政治亡命者が中国に強制送還されたのです。この中には国連難民高等弁務官事務所から難民として認定された人も含まれています。国際法では、生命や自由が脅かされかねない人々を追放したり送還することを禁止する条項があるにもかかわらず、送還されたのは中国政府が亡命先の政府に強く圧力を掛けた結果で、送還された彼らはほぼ投獄され無期懲役か死刑になっていると思われます。そうした中で、全世界に情報網を張っているアメリカにはウイグルで何が起きているかという正確な情報が入ってきています。アメリカ政府は、この重大な人権問題に介入しようという動きが出てきました。これは心強いです。ただし、フランス、ドイツに関しては、残念ながら静観しています。これは中国とのビジネスを重要視しているからです。先日、ドイツに亡命を申請した若いウイグル人が、ドイツの移民局により中国に強制送還されてしまいました。ドイツは手続き上のミスだと釈明していますが、メリケル首相の訪中のためだと思われます。中国の重大な人権侵害より経済を優先させているのが実態です。ドイツだけではなく中東諸国などもこうした姿勢なのは問題です。

 

 

 

 

組織の課題

 

 

 

ウイグル独立運動の現状について聞かせてください。

トゥール ウイグル独立運動の歴史は古く、二十世紀初頭の清が倒れ建国された中華民国の時代に激しい独立運動が起きました。一九三三年イスラム教徒による東トルキスタン共和国建国が計られましたが、ソ連軍に制圧されます。ウイグル人は日本にも支援を要請しますが、上手くいきませんでした。その結果、ソ連の支援で一九四九年に再び共産党支配下の中国に統一され、五五年に自治区が設置されます。日本がウイグルを支援しなかった原因はよく分かりませんが、遠いウイグルで何が起きているのか当時の日本は知らなかったのでしょう。これは今もそうです。ウイグル支援をやっている日本人も、よく分かっていない面もあります。

―現在支援している日本人がよく分かっていないというのは、どの辺ですか。

トゥール 複数の支援団体がありますが、それぞれの団体の中味をよく分からないままに支援しています。戦前の日本のようにウイグルの実態をよく分かっていません。彼らに本当の情報を流しても本質が見えていないため支援に一貫性がないのが残念です。しかし、アメリカなどの支援運動は、しっかりした情報収集を下に活動しているので一貫性があります。

―確かに複数の団体のうちどれを支援すればいいのか分からない人もいますね。

トゥール まずはウイグルを理解してもらいたいです。それぞれの団体と代表がどういう人物でどういう活動をしているのかをしっかり見極めてもらいたい。そこから本当の支援が始まります。口だけの支援では意味がありません。私たちの団体が主流なのは間違いありませんが、色々な思惑が交錯して混乱している側面もありますが、いずれはこの問題は解消するでしょう。

―支援する側が本質を見極める、あるいは売名、示威などの私心を持って参加している一部の日本人がいるということですね。

トゥール 日本の保守団体もたくさんありますが、目的は一つなのになぜまとまらないのですか?それは「好き嫌い」という低次元のレベルで活動しているからではないでしょうか。こうした運動は、理念、理想、目標で判断すべきです。私たちはウイグル人を救い、独立を果すための支援を真剣に取り組んでいます。是非、そこは見極めていただきたいと思います。そこを見極めずに支援するとむしろ分断を助長することになりかねません。私たちも支援を申し出る日本人を見極めて手を組むようにしています。しっかり組み相手を選びたいと思っています。一方では日本のことを分からず付き合っている在日本のウイグル人もいます。極右団体や左翼、反社会の人間と知らずに付き合ってしまっているウイグル人もいます。分からない者同士が運動している面もあります。相互理解が重要です。そこから本当の信頼関係が築けるのです。そこを整理することが課題ですね。

―運動の目的は、やはり中国問題ですね。

トゥール そうです。自分たちがどこと闘っているのかという覚悟がまだ足りないように思います。中国という悪魔のような国と闘う覚悟が必要です。その悪魔は近代的な知識と武器を持っているのです。あの手この手で工作していることを認識すべきです。だからこそ、しっかり見極めて手を組む相手を見極めているのです。日本で本当のウイグル支援のネットワークを作りたいと思っています。そうして機会を見て全力で中国と闘える態勢を構築しておきたい。

 

 

 

日本に期待すること

 

 

 

―今後東トルキスタンの今後はどうあるべきでしょうか。

トゥール まず、中国側の問題があります。中国が今後どうなるか。私は楽観的でいずれ崩壊するだろうと見ています。しかし、ある日突然変ることは考えられません。崩壊までは時間を要するでしょう。崩壊してどのような政治形態になるのか。私が懸念しているのは、共産党支配の国家から民主的な国家に変ればいいのですが、中華ナショナリズムによるファシスト的な国家になる可能性です。こうなると、非常に安定します。なぜかと言えば、一人の指導者の下に強力な政党がついて国家社会主義で民族を支配するからです。ナチスドイツを崩壊させたのは、ドイツの侵略行為に対して国際社会が一致して立ち上がったからです。

 今、膨張主義に走っている中国ですが、日本が中国と手を組む事は、歴史的にも、現実的にもありえません。日本はアジアのリーダーとしての存在感を増すべきなのです。韓国、ロシア、中央アジア、東南アジア、インド、台湾などの国々としっかり連携して中国に対抗していくのが、日本の進むべき道ではないでしょうか。日本の技術力と資金力でできないことはありません。日本はロシアとの北方領土問題以外はこれらの国々との間に領土問題はありません。ほとんどが親日的ですから、日本がその気になればできるはずなのですが、今の日本外交は中途半端に映ります。安倍首相が習近平と握手するなど世界に間違ったメッセージを送っているくらいですから。そうした日本の曖昧な態度が中国の崩壊を遅らさせている一因になると思います。自由民主主義国家としてはっきりと中国に向かう姿勢をとれば、国際社会も判断を間違えません。欧米ははっきり言っていますよ。

東トルキスタンの今後については?

トゥール 国外に幾つか組織がありますが、今バラバラで行動しているのが現状です。そろそろ一つのテーブルに集る時期に来ています。その話し合いを一人のリーダーが呼びかけてやるのではなく、慎重な計画と根回し、指導者同士の信頼関係構築などをやって初めて一つのテーブルに集まることができます。好き嫌いなどの感情、利害を超えた大同団結が必要な時期に来ているのです。

―日本に期待することは?

トゥール 先ほども言いましたように、幾つかの団体を支援することはありがたいのですが、違う組織を非難することは止めていただきたいと思います。組織の対立に口を出したり、干渉しないようにしてください。それから、中国の脅威を本当に認識していただきたいですね。

―反中、嫌中というムードが一部あります。

トゥール そうした感情的なものではなく、アジアで自由民主主義をどのように定着させるかという大きな視点で捉えていただきたいです。それから、一日も早く憲法を改正してもらいたい。今の日本では足かせが多く大きな期待は持てません。改正後の日本に期待しています。日本自ら主張するようになりますから。

 

 

 

トゥール ムハメットさんプロフィール

1963年東トルキスタン新疆ウイグル自治区)のボルタラ市に生まれる。1981年に北京農業大学(中国農業大学の前身)に入学。卒業後、1985年から1994年にかけて東トルキスタンの新疆農業大学で講師を務める。1994年に来日して九州大学に留学。農学博士を取得。日本留学時に天安門事件を知り、さらに、東トルキスタンのグルジャ市で抗議デモをしていたウイグル人たちを中国当局の警察が発砲して弾圧、数百人もの民衆が犠牲になったグルジア事件が発生。その実態を福岡県内のロータリークラブで講演して以来、人権活動家として活動を展開する。2015年10月18日、同日付で世界ウイグル会議への参加資格を失った日本ウイグル協会に代わり、世界ウイグル会議の新しい構成団体として日本ウイグル連盟が発足、ムハメットが会長に就任。現在、会社員をしながら、日本ウイグル連盟会長、任意団体中央アジア研究所代表などを務める。

 

 

 

二百年以上の時空を超えてアフガンの人々を救った 山田堰(朝倉市)

 日本人の自己犠牲精神

 

 

二百年以上の時空を超えてアフガンの人々を救った

山田堰(朝倉市

 

語り手 水土里ネット山田堰

朝倉郡山田堰土地改良区) 事務局長 徳永哲也さん

 

 

 

 

寛政二年(一七九〇)に度重なる旱魃に苦しみ、飢餓を克服するために朝倉の人々の勇気と苦闘によって築造された「山田堰」が、時空を超えてアフガニスタンの人々を救いました。

 

 

「傾斜堰床式石張堰」

 

 

 「現代の山田堰」を再現したのは、アフガニスタンパキスタンで活動している福岡市の非政府組織ペシャワール会の代表である中村哲医師でした。ペシャワール会は昭和五十九年(一九八四)から主にアフガニスタンで貧民層の診療に携わってきました。平成十二年(二〇〇〇)以降は清潔な水と食べ物を求めて井戸掘りに奔走し六年間で千六百ヵ所の水源を得ました。平成十五年(二〇〇三)からは食料生産の用水を得るために全長二十五・五キロのマルワリード用水路建設に着手しますが、取水技術の壁に突き当たり、アフガニスタンのどこでも誰でも多少の資金と工夫でできるものを探していました。

 解決の糸口は意外なところにありました。近世・中世日本の古い水利施設で当然全て自然の素材を使い、手作りで作られたものでした。それが山田堰だったのです。筑後川もクナール川も規模こそ違え、急流河川、水位差の極端な暴れ川という点で似ていました。山田堰の中核の技術である「傾斜堰床式石張堰」を調べれば調べるほど他にないと確信したそうです。中村代表は山田堰をモデルに二〇〇三年三月~二〇一〇年二月までの七年間を費やし、マルワリード用水路全長二十五・五キロが開通、広大な荒れ野三千haが農地となり、農民十五万人が生活するまでに復興、新開地の砂漠で田植えができるまでになったそうです。

 自給自足の農業国・アフガニスタンの水欠乏と貧困は、近年の地球温暖化による取水困難が深く関係しています。現在、「山田堰方式」を隣接地域に拡大し、荒れた村が次々と回復し、六十万人の農民、一万四千haの農地が恩恵を受けているそうです。

 

 

「堀川の恩人」古賀百工

 

 

 二百二十年もの時空を超えて日本から遠く離れたアフガニスタンの人々を救った「山田堰」とは、一体どんな施設なのでしょうか。

 山田堰の起こりは、寛文三年(一六六三)に初めて設置された堰で、川を斜めに半分ほど締め切った突堤でした。同時に水を水田に送るために掘削された農業用水路が「堀川用水」です。当時の全長は約八キロでした。最初の堰の完成から六十年後の享保七年(一七二二)により多くの水を取水するために、恵蘇(えそ)山塊が筑後川に突き出した大きな岩盤を貫く大工事を敢行します。これが現在に受け継がれている「切貫(きりぬき)水門」です。水門の上に建つ水神社は、この工事の安全と水難退除のために建立されたものです。宝暦九年(一七五九)、切貫水門の幅は一・五メートルから三メートルに二倍に切り広げられ、堀川用水にはより多くの水が導き入れられるようになりました。

 それでも残る広大な原野を水田に変えるために立ち上がったのが、下大庭村の庄屋、古賀百工(ひゃっこう)でした。後に「堀川の恩人」といわれるようになる百工は、宝暦十年(一七六〇)から明和元年(一七六四)まで五年の歳月をかけて、堀川用水を拡幅・延長した後、山田堰の大改修という悲願を達成します。

 百工は、筑後川からより多くの水を取水するために川幅全体に石を敷き詰めた堰を設計し、自ら工事の指揮を執ります。寛政二年(一七九〇)に行われた大工事には、旱魃に苦しんできた多くの人々が豊かな実りを夢見て、水量が多く流れも速い九州一の大河での難工事に身を投じました。その数は延べ六十二~六十四万人に達するといわれています。こうして総面積二万五千三百七十㎡の広さを誇る、全国で唯一の「傾斜堰床式石張堰」が誕生し、水田面積は四百八十八haに拡大しました。

 筑後川の水圧と激流に耐える精巧かつ堅牢な構造を持つ山田堰には、南舟(みなみふな)通し、中舟(なかふな)通し、土砂吐きの三つの水路が設けられています。川が運んでくる土砂は、切貫水門に流れ込む前に土砂吐きから排出されます。当時盛んだった舟運を妨げずに鯉や鮎などの魚が容易に移動できるように生態系にも配慮されています。

 山田堰は度重なる洪水によって崩壊や流失の被害に遭いましたがその度に修復され、現在に引き継がれています。巨石を敷き詰めた石積みは永く自然石を巧みに積み上げた「空石(からいし)積み」でしたが、昭和五十五年(一九八〇)に起きた水害の修復工事によって、石と石との間をセメントで固定する「練石(ねりいし)積み」に変わりました。

 山田堰から取水した水を農地に送る重要な役割を果たしている堀川用水は、より多くの水を得てより多くの水田を開くため、山田堰の改修とともに新田開発が進み、両者を結ぶために拡幅され延長されてきました。開削から百年後には、堀川用水を延長する工事が行われました。この大工事によって約八・五キロの新しい水路が完成し、水田面積は三百七十haに拡大しました。

 永い歳月の間に幾多の洪水が堀川用水を決壊させ、あるいは土砂で埋没させました。しかし、朝倉の先人たちはその度に力を合わせて修復工事に当たり、堀川用水を守り続けてきました。

 堀川用水の総延長は、本線四・六キロ、幹線六・二キロ、支線七十七・三キロを合わせて八十八キロに達します。三百五十年前の十一倍に延び、大地に張り巡らされた水路は、六百五十二haの水田を今も潤しています。平成十八年(二〇〇六)、堀川用水は「疎水百選」に認定されました。

 堀川用水の下流には日本最多を誇る農業用揚水水車が今も現役で稼動しています。揚水水車は、川面より高所の耕地に送水する灌漑装置です。菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車の三群七基で構成される水車群。水車に関する最古の記録は、二連水車を三連に増設したという寛政元年(一七八九)の古文書にさかのぼり、同時期に二連水車も建造されたと推測されています。

 七基の水車が汲み揚げる水は、サイフォンの原理を利用して、農道の下に埋設された土管を通って吹き出し、三十五haの水田を潤しています。歴代の水車大工によって改良されてきたこの水車群は、勇壮な意匠と精緻な構造、揚水能力と灌漑面積のすべてにおいて日本の水車技術の到達点といわれています。福岡県を代表する観光資源として多くの人々を魅了している水車群は、平成二年(一九九〇)に国の史跡に指定されました。七基の水車による温室効果ガスの削減量は年間約五十トンと試算されています。

 

先人たちの知恵に感謝

 

 

 筑後川阿蘇山麓にある熊本県小国町を水源として熊本県大分県、福岡県、佐賀県の四県を流れて、有明海に注ぎます。その水は生活用水、農業用水、工業用水として、流域に生きる百万人以上の人口を支えています。筑後川中流域に開かれた筑後平野に位置する朝倉も、その恩恵を受けてきました

  私ども朝倉郡山田堰土地改良区では、将来にわたって地域農業を守り続ける為に、未来を生きる子供たちが、朝倉の農業を支える水源林と農業用水の関係を学ぶ体験学習を支援しています。これに応えて、朝倉地区の小学校では四年生の子供たちが総合学習の授業で一年をかけて朝倉の農業や水源林の役割などを体系的に学ぶカリキュラムを組みました。子供たちは筑後川の源流である熊本県小国町を訪れ、小国の人々が林業に励むことによって水源林を守り続けてきたことを学びます。そして、朝倉の人々はその水源林が育む農業用水を大切に使い続けてきたことを学びます。

 この学習の成果は「朝倉地域文化祭」で地域住民にも披露されます。地域の誇りを懸命に伝える子供たちの発表を見入る人の中には、郷土愛を再認識し感動の涙を流す人も少なくありません。こうして、地域が一体となって、水源林と農業用水を守ろうという意識が醸成されています。

 また、山田堰の技術的価値を国内外に伝えようと、「世界農業遺産」登録への活動を行っています。ペシャワール会アフガニスタンに築いた農業用水路の取水口のモデルになった山田堰は郷土の先人たちの知恵の結晶で、登録でその技術力と勇気を称えることと同時に、途上国へその技術を伝えたいと願っています。 

 時空を超えて現代に山田堰を再現したペシャワール会の中村医師は山田堰の歴史的意義をこう強調しています。

「山田堰が時代と場所を超え、多くの人々に恵みをもたらした不思議。朝倉の先人に、ただ感謝です。技術的に優れているだけでなく、輝くのは、自然と同居する知恵です。昔の日本人は自然を畏怖しても、制御して征服すべきものとは考えなかった。治水にしても“元来人間が立ち入れない天の聖域がある。触れたら罰が当たるけれど、触れないと生きられない”という危うい矛盾を意識し、祈りを込めて建設に臨んだと思われます。その謙虚さの余韻を、“治水”という言葉が含んでいるような気がします」

「寛政二年、測量技術も重機もない時代に造られた山田堰は、自然と共存する紛れもない日本が誇れる歴史的農業遺産です。この堰が時を超え、現代の私たちに語りかけるものは小さくありません。国内外に広く知られ、輝き続けて欲しいと心から願っています」。

 

参考資料 朝倉郡山田堰土地改良区刊 「地域を潤し350年 歴史的農業遺産を守る」

(フォーNET 2015年7月)

 

『沖縄両論』第6章承前 このままでは沖縄は独立する?

昨日、沖縄県知事選で故翁長知事の継承者で「辺野古反対」派が押すデニー・玉城氏が当選した。沖縄に関しては1冊上梓しているので、色々と書きたいことはあるが、一言。これからアップする拙著『沖縄両論』の第6章承前のような危機が、この新しい知事で少し現実味を帯びてしまうのではないかという危機感を覚えた。

 

拙著『沖縄両論』から 第6章承前

 

第6章 このままでは沖縄は独立する?

 

 

自己決定権

 

 

2015年、翁長知事は、アメリカや国連知事会で「日本政府に人権や自己決定権をないがしろにされている」と訴えた。この知事発言の背景には、2008年に国連の人権規約委員会が日本政府に対して出した「日本政府は(アイヌと同じく)沖縄の人々を公式に先住民と認め、文化、言語を保護すべき」という勧告が念頭にあったと思われる。つまり、翁長知事は、沖縄は元々、琉球王国という「先住民」の国家が、薩摩に侵攻されて明治維新後の琉球処分で併合されたのだから、日本民族ではないということを言いたいのだろうか。翁長知事の主張する自己決定権」とは何だろうか?「沖縄は自分のことは自分で決めることができるのに、それを日本政府に妨害されている」と解釈されるが、自分の身に置き換えると、違和感を覚えてしまう。例えば、現在、福岡県民(出身は熊本県)の私たちが、「福岡のことは福岡で決める権利」を行使するには、県議会選挙に投票するしかない。しかし、その議会が決める(自己決定できる)ことは、都市計画、道路、河川、警察、病院の設置など県民生活に密着したものに制限されていて、外交、防衛などは国の専権事項で、この決定に参画するには我々国民は国政選挙に委ねるしかない。それが議会制民主主義で自己決定権とは、段階的な権利ではないかと思う。あらためて沖縄の自己決定権と言われると、正直ピンと来ないのである。また、先住民である沖縄の人には沖縄のこと、特に基地の受け入れを決める自己決定権があると言うが、基地問題は明らかに外交・防衛の問題で決めるのは国政の場しかない。

本書で登場いただいている島袋純琉球大学教授はインタビューで沖縄の「自己決定権」について、国連自由権規約社会権規約第1条で規定された「人民の自決権」のことであり、具体的には、政治的地位の自由や経済的、社会的及び文化的発展の自由の権利だと説明する。つまり、その中核は政治的地位を自由に決定する権利のことで、政治的地位の自由とは、その人民が新たに主権国家をつくる、あるいは高度な自治権をもつ自治州、地方自治体を形成する権利を持っていることを意味すると話している。沖縄の人を「人民」と呼ぶ根拠は、「主権国家内で構造的差別を受けている少数派の人たちや先住民の権利を守ることができなかったことから、1960年代以降、その「人民」の概念を幅広く解釈するようなった」と説明していただいた。その文脈では、構造的差別を受けてきた沖縄の人々も、国連の規定でマイノリティまたは先住民にあたることから、国際人権法にいう「人民」に該当し、自己決定権を持つという。

 

 

根底にあるもの

 

 

その論理から言うと、「沖縄は独立できる」ことになる。

確かに、沖縄の歴史を見ると、15世紀に誕生した琉球王国が薩摩に侵攻され、明治維新になって沖縄県として併合されたことは史実で、そういう意味では沖縄は元々違う国家でそこには先住民が存在したとも言える。現代の目で見れば、それは紛れも無く併合であり、琉球の「先住民」は日本の圧制に苦しめられ、民族の文化、習慣、言語を奪われ、いわゆる「民族浄化」という塗炭の苦しみを味わった―と解釈しがちになるだろう。しかし、現実には沖縄の文化は残り、言葉もウチナーグチという方言として地元の人々は使っているではないか。方言禁止、美しい流麗な琉球舞踊を禁止されているわけでもあるまい。また、琉球王国時代に人頭税という重税に庶民が苦しんでいたという史実は見逃されがちで、日本に編入されるのを一番喜んだのは、沖縄の庶民だった。むしろ、明治維新後、沖縄の教育水準が向上したと言われている。アメリカが先住民インディアンを殺戮して殲滅させた後ろ暗い歴史とは雲泥の差ではないだろうか。

私は日本と琉球は同じ民族という日琉同祖論に納得している口だが、それはさて置き、先に住んでいた民族の自己決定権を現代に認めるのならば、殲滅されたマイノリティは全て認められる論法になる。それならば、大和朝廷成立前の熊襲薩摩隼人や、大和から討伐された蝦夷の子孫にも自己決定権を認めるべきなのだろうか?民族とは血脈だけではなく、言語、文化、そして政治形態を共にする集団ではないかと思う。そういう意味では、今日の沖縄は紛れも無く日本と同じ民族であることは間違いない。

沖縄に自己決定権、独立論が出る原因は、やはり米軍基地の偏在にその根源があるのではないか。本気で沖縄が独立を考えているのではないと思う。それは、非現実であることは沖縄が一番分かっているのではないか。その苦しみを日本人全体で分かち合えない、もどかしさ、怒りが沖縄の中にある。その魂の叫びだと私は、解釈している。

 

『沖縄両論』を上梓した思い

「両論」に通底するもの

 

 

 9月上旬に「沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題」(春吉書房)を上梓した。取材開始から2年をかけてインタビュー、取材したものをまとめたものだが、タイトルは最後の最後でようやく決まった。企画の段階では、基地反対の理論、思いを訊くというものだった。それまで沖縄の基地問題については全く取材したことがない当方としては、とにかく反対する声を拾うことから始めることにしたのだ。若手記者を先行させて始めると、若手のエネルギッシュである意味怖いもの知らずの突撃取材で、このままでは「両論」を編集方針としたい小誌のアイデンティティーが大きく損なわれる恐れが出てきた。押っ取り刀で思い腰を上げたが、容認・賛成派の声は容易に拾えない。焦るが、少ない手づるをつたって取材を進めた。納得するまで取材すべきだとは思ったが、この企画には締め切りがある。私としては、断腸の思いで手仕舞いした。その結果は、本書を手にとって読んでもらうと分かるが、概ね反対7対賛成(容認)3の割合になってしまった。俗に言う「オール沖縄」に関する世論調査の結果と、奇しくも同じ様な構成になった。

 内心、忸怩たる思いを載せて発行すると、読んだ人から「両論になっていない」と指摘を受けた。想定していたが、耳に痛い。強がっているわけではないが、「これが『現実』」と説明している。つまり、反対派の理論武装に容認(賛成)派のそれが追いついていないのが、基地問題議論の現実なのだ。基地を巡る翁長知事と国の対立、一部に偏向報道と批判されるいわゆる沖縄2紙の反基地の世論形勢、辺野古、高江で起きている反対派と機動隊のもみ合いに象徴される一連の騒動の要因のひとつは、いわゆる本土側が「沖縄に米軍基地が偏在する」必然性を「日本の防衛のために必要」という理由だけで済ませてきたつけではないだろうか。

 そこで、本書を世に問うならば、容認(賛成)派は反対派の意見に耳を傾け、反対派はその逆の意見に耳を傾けてもらおうと願いを込めてタイトルを考えた。私のその願いが世に届くことを願うばかりだ。

 両論併記は、一見公平な立場から話を訊いていると思われがちだが、そうとは限らない。反対派担当の若手は容認(賛成)派とは一切接触していないし、私も、反対派とは一部を除いて殆んど接触していない。互いに取材相手の話に正面から耳を傾けた。それぞれの意見を吸収してその疑問点を編集会議でぶつけ合う。たまには激論になったこともある。

本が出ておよそ1ヵ月後に沖縄の米軍基地問題の反対派リーダー、山城博治さんが逮捕された。沖縄県東村高江の米軍北部練習場内に侵入して有刺鉄線を切断した疑いだそうだ。前回、沖縄入りした時に話したばかりだが、逮捕はあり得ただろう。安倍首相が国会の冒頭で「高江のヘリパッド問題は年内に解決する」と異例の発言をしていたから、遠からずその日が来ると漠然と思っていた。確かに事実であれば犯罪は犯罪。法治国家では何らかの罰を受けるのは当たり前だと思うが、これで「左翼がやっと一掃される…」という声には現地で取材した身としては違和感がある。沖縄の真情が本当に理解されているのか。両論あろうが、彼がなぜ健康を害して体を張ってまで運動して居るのかに思いを馳せることも必要だと思う。ちなみに、山城さんには沖縄本の巻末に寄稿してもらっている。すると、今度は沖縄・高江での機動隊員の「暴言」問題が起きた。現地に行った者としては、「ついに堪忍袋の緒が切れた」のかというのが率直な感想。若い隊員にとって、面罵されることに耐性がなかったのだろう。しかし、「土人」「シナ人」はやはり暴言だろう。聞くところによると、隊員の精神的な苦痛を考慮してか入れ替わりが早いそうだ。吐いた隊員は、我慢ならなかったのだろうが、職務としては失格だと思う。耐えていかに反対派を傷つけずに「排除」するかが本来の職分だ。彼らの挑発に乗らない精神的な強靭さ、冷静さが求められる。若いから仕方が無いとも思うが…

反対派を排除して辺野古、高江の工事が終っても、沖縄と本土で同じ日本人というアイデンティティーが形成されない限り、「沖縄問題」は終結しないだろう。両論併記は、互いの意見の存在を認めながらも、丁寧に反論し修正を求めるという、前向きな議論が必要ではないだろうか。両派に通底すべきは、日本国としてのナショナル・アイデンティティーであることは論を俟たない。(月刊『フォーNET』編集長雑感)

 

書評『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三著、講談社文庫、1997年)

たまの息抜き。書評(未推敲)

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三著、講談社文庫、1997年)

 

 

 

45年という節目

 

 

今年5月15日、沖縄が本土に復帰して45年目という節目を迎えた。

しかし、依然として普天間飛行場辺野古移設を巡って政府と沖縄県の対立が続いている。なぜなのか。そうした素朴な疑問から取材を敢行し、昨年9月に「沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題」(春吉書房)を上梓した。取材前に読んだのが、この本だった。私にとって沖縄取材の原点と言ってもいい。

本書は、主人公の太田實海軍中将の戦記でもあり、家族の歴史を綴った優れたノンフィクションだ。沖縄方面根拠地隊司令だった大田中将が自決直前に認めた電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ…」。1945年6月6日、米軍の激しい攻撃にさらされ孤立した沖縄戦司令部から本土参謀本部へ発信。ひたすら沖縄県民の献身と健闘を称えている。この太田中将の最後のメッセージを日本国民、特に我々本土の人間は忘れてはならない。その想いを秘めて取材を進めたことを思い出す。

人間、武人、家庭人としての太田中将の魅力が余すところ無く書き綴られているが、最終章「太田中将の遺産」で本土の沖縄への「配慮」が取上げられている。

初代沖縄開発庁長官を務めた山中貞則氏(鹿児島県選出の衆議院議員、1921-2004)その人だ。沖縄の本土復帰直前に起きたニクソンショックは、円とドルの固定相場制が廃止され、変動相場制に移行した。当時一ドル=に急転換させたニクソンショック。それまでの1ドル=360円から当時の為替相場で1ドル=305円の交換レートに変わった。本土復帰までドルが正式通貨だった沖縄にとって、急激な円高ドル安になり、このままでは沖縄経済に甚大な損害を蒙ることになる。山中氏は、当時の大蔵省、アメリカの猛反対を承知の上で、差額の補填政策を命じ、沖縄の日本人が所有するドルに限って1ドル360円レートで交換させた。その結果、5億6200万ドルに達した。

山中がここまで沖縄のために汗を流した背景には、出身地の鹿児島がかつて琉球王朝に侵攻した負い目があったという。もう一つ、山中氏の背中を強力に押したのが、太田中将の打電だった。山中氏はこの打電を昭和31年に初めて目にしたという。大田中将の沖縄県民に馳せた思いを引き継ぐべきだという信念で山中は選挙区でもない沖縄のために683本もの特例法を通した。

 

 

意外な人物

 

 

もう一人、中将の遺志を継いで復帰に汗を流した人物がいた。驚いたと同時に、ある「悔悟」を覚えた。それは、20年以上前にある人物にインタビューした時に「聞くべき」ことを聞かなかった後悔と、情けなさだった。1992年夏。当時、前職の地方経済情報誌編集長時代に新木文雄福岡銀行会長(当時、故人)に、「九州国際空港構想」をテーマに話を聞く機会を得た。当時、荒木さんは福岡経済同友会代表幹事だった。原稿の修正が終って印刷に回したところで、新木さんの突然の訃報に接して、呆然となったことを思い出す。

それから20数年経って、この本を読んで愕然とした。本書の筆者も取材してわずか2ヵ月後に急逝されたことに驚いたことを書いている。

山中氏が沖縄のために敢行した通貨交換の当事者が初代日本銀行那覇支店長だった新木さんだったのだ。新木さんは、海軍少尉時代に鹿屋の司令部通信室で大田中将の電報を受信した体験を持っている。「沖縄の本土復帰一年前、那覇支店開設準備室長を命じられた時、今こそ沖縄県民のためにやって上げねばならん、それが大田司令官の御遺志に報いる道だ、と思いました」(539P)と筆者のインタビューに答えている。日本銀行出身の新木さんの履歴に「日本銀行那覇支店長」という1行があったことは知っていたが、当時30代そこそこで沖縄戦に関心を持っていなかった私は、20数年経った今、新木さんに聞くべきことを聞かなかったことに強い悔悟を覚えたのだ。

戦争経験世代は、それだけ沖縄に心を寄せていた。それは同胞としての連帯感、同胞に対する情け以外何物でもない。

翻って、現代に生きる日本人はどうだろうか。

沖縄の人が「屈辱の日」としている4月28日に「主権回復の日」として祝う日本政府の無神経さ、「(沖縄の基地問題は)お金さえやっておけばいい」と嘯く本土の日本人…同胞である沖縄の問題は、我々日本の問題であることを、自覚すべきではないだろうか。沖縄を理解するには、外せない本である。

 (2017年6月号)