「失敗すればはりつけ」―五庄屋の覚悟(うきは市吉井町)

 

大人のための歴史読本 ①

~知られざる偉業に見る日本人の自己犠牲精神~

 

「失敗すればはりつけ」―五庄屋の覚悟(うきは市吉井町

 

 

語り手 五庄屋追(つい)遠(えん)会会長 梶村福男さん(七十三歳)※2015年6月当時

 

 

 

 

五庄屋の悲願

 

 

 

寛文四年(一六六四)に「大石・長野水道」が完成して来年で三百五十周年という節目の年を迎えます。現在、地元でイベントを企画していますが、これを機会にもう一度「五庄屋」の偉業を振り返り、この大事業を成し遂げたご先祖に感謝しその感謝の気持ちを子々孫々まで語り継ぐべきだと意を新たにしているところです。

筑後川の南側・浮羽地区は今でこそ、肥沃な農地が広がる豊かな地域ですが、三百五十年前は平野の大部分は藪や林に覆われ、その間を開墾してわずかな畑作を主とした農業が営まれている、貧しい地域でした。その原因はこの地区が川より高く水を引けないという、水利に非常に不便な地域だったためでした。

特に生(いく)葉(は)郡包(かん)末(すえ)村(現在のうきは市吉井町包(かん)末(すえ)区)から西にある江南(えなみ)校区(うきは市吉井町)、竹野郡の船越、水分、柴刈地区(久留米市田主丸町)の地域の農民の生活は、貧しく水不足で不作の年には食べるものが無く餓死者や、先祖から受け継いだ土地を見捨てて他に移り住む者がいました。久留米有馬藩二十一万石には生葉郡を含めて八つの郡がありましたが、それを見ても生葉郡の石高が著しく低いということを記された記録書があります。

この頃、生葉郡には夏梅村庄屋栗林次兵衛、清宗村庄屋本松平右衛門、高田村庄屋山下助左衛門、今竹村庄屋重富平左衛門、菅村庄屋猪山作之丞(いずれも現うきは市吉井町)の五人の庄屋がいました。彼らはこのひどい農民の有様に心を痛め、このままでは村が無くなるという危機感を募らせていました。目の前を雄大に流れる筑後川から何とか水をこの地に引くことはできないかと何度も話し合った結果、ここから十キロ上流の現・うきは市浮羽町長瀬の入り江の筑後川に水門を設けて溝を掘り、落差を利用して川水を引くという、遠大な計画でした。

文三年(一六六三)の夏は暑さが特に厳しく、日照り続きで作物が不作で五庄屋は計画を早く進める必要性をさらに感じました。この年の秋に郡奉行の高村権内に五庄屋が、苦しんでいる農民の有様を伝え、かねてから構想していた計画を説明し藩の許可が出るように直談判しました。奉行から、成功すれば藩の収入も豊かになるので可能性が高い、詳しく調べて設計書や見積書を作成して願い出るように励まされます。

早速、実地の測量を始めました。水を通す溝の場所、長さ、幅、深さ、溝を通すためにつぶれる土地の広さ、工事に要する人員など詳しい見積書や水路の図面の作成に手を着けます。車もない時代に水に取り入れ口までの片道十キロの道のりを何度も往復したことでしょうし、測量機械、計算機もない時代でしたら、大変な作業だったと思います。こうした苦労の末に出来上がった願い所を大庄屋を通じて藩に提出します。そこには「これらの工事について費やす費用は五人の庄屋が全部受け持ちますから、藩にはご迷惑おかけしません」と書いてありました。

この計画に自分たちも加えてもらいたいと近隣の六人の庄屋が申し出てきました。この時、五庄屋は「自分たちは死を覚悟してやっているので。他の人まで巻き込むことはできない」と断ります。しかし、六人の庄屋は「自分の村だけに水を引くことは勝手が良すぎる」と反発、五庄屋が藩に願い出ることを止めようとします。そこで二人の大庄屋が仲裁に入って、その結果十三カ村中一任の庄屋で藩に願い出ることになりました。

ところが思わぬところから反対の声が上がりました。溝の上流域にある村々の庄屋が、ひとたび大洪水になったら自分たちの村や田畑が大水で大変な損害を受ける恐れがあるというものでした。これに対して十一人の庄屋が「計画通り工事を進めても決して損害を及ぼさない。万が一損害を与えた際は、必ず責任をとり、どんな重い罰でも受ける」という決意を示し、郡奉行も反対する庄屋たちを強く説き伏せたためにおさまりました。

藩では今まで経験のない大事業なので何度も五庄屋を呼び出して詳しく尋ねたり、念を押したりします。その度に五庄屋たちは早く工事を許可してもらうように訴え続けました。ようやく藩は土木工事に詳しい普請奉行の丹羽頼母重次を実地調査に当たらせることになりました。重次は夜間にいくつものちょうちんを竹に下げて皇帝を測ったりするなど水路の実際を測量し、藩に対して藩の仕事として取り組むべきだという意見を具申しました。

 

 

 

 

「庄屋どんを殺すな」

 

 

文三年十二月、ついに念願の藩からの許しが出ました。「今度の水道工事の道筋に当たる木や竹を切り払ったり。田畑をつぶしたり、家を移動したりすることについて一切反対してはならない」という厳しい命令が出されました。郡奉行は十一人の庄屋を呼んで「万が一水が出てこない時はお前たちの責任は免れない。もし失敗した時は罪として磔の刑に処されるだろうが、不服はあるまいな」と念を押され、五庄屋が進み出て「もし失敗した時はどうぞ私どもを厳しく罰して皆の見せしめにしてください。よろこんでその刑を受けて、藩や世の人々にお詫びいたします」と覚悟のほどを申し述べたのです。費用については人夫こそ藩の夫役で賄いましたが、たくさんの人夫の食費や必要な道具や支払い代金はすべて願い出た庄屋が負担しました。

寛文四年一月十一日、いよいよ工事が始まりました。藩の監督者が駐在する長野村に、「もし工事が成功しなかったら庄屋を磔の刑に処するぞ」という藩の脅しと励ましを態度として強く示すために立てられた十字形の磔の柱が立てられました。人夫たちは「庄屋どんを殺すな」と工事に必死に取り組みました。流し込んだ水が逆流したり、大きな岩に突き当たったりするなど幾多の困難がありましたが、多くの人々の懸命の働きによって、工事は意外なほどにはかどり、わずか六十日後の寛文四年三月中旬についに完成しました。

早速奉行の命令で忌まわしい磔の柱は下ろされ燃やされたそうです。工事に要した人夫は延べで四万人、この工事によって七十五町歩(約七十五ヘクタール)の田んぼに水が引かれました。この成功をきっかけに水田を広げようという気運が高まり、その後寛文五年(一六六五))から第二・三期工事が実施されました。拡張工事と共に水に需要が増していく中で計画されたのが大石堰で、延宝二年(一六七四)に築造され当初七十五ヘクタールだったかんがい面積は、貞享四年(一六八七)には千四百二十六ヘクタールに達しました。

三百五十年前の技術の高さも驚かされます。大石堰の長さは三百九十四メートルもの長さがあり、その間に仮船通し、本船通し、簗(魚道)を設け、普段堰面は全部露出しているものの、増水したときは堰面を超えて流れるなど大規模なものでした。また、筑後川から流れて出た水が北新川と南新川に分かれる分流点「角間天秤」には、水を測り分けるために川底に大きな石(沈み石)が置かれています。この分流点に差し掛かる手間では、川の流れを二ヵ所でクランク式(直角)に曲げ、水流を弱めて分流点に向かわせるなどの工夫が凝らされています。

 

 

 

三百五十年前の大恩

 

 

この偉業は明治四十年代に浮羽郡唱歌として制作され、その一部は江南小学校の校歌として子どもたちに歌い継がれています。この大事業のお陰でこの地域は米が取れて餓死者も出なくなったのですが、それが故に久留米藩の年貢の取立てが厳しくなっていきます。江戸の末期にはこの地域では農民一揆が激しくなり、五庄屋の偉業は人々から忘れ去れてしまったようです。

明治に入ってからようやく五庄屋が見直され始め、五人の御霊が祀られた長野水神社(五霊社)が創建されました。明治三十四年には五庄屋の地区の住民たちがそれぞれのお墓を作っています。九十五年前の大正七年(一九一八)五月二日に五五第一回五庄屋追遠会が開かれ、以後毎年五月二日に記念式典を開いてきています。「往時を偲び、五庄屋に感謝の誠を伝え、後進にこの偉業を伝えていく」ことを目的としています。

子どもたちにこの地の歴史を語り継いでもらおうという取り組みもずっと続いていて、江南小学校では四年生が毎年十一月には江南フェスタというイベントで五庄屋の演劇をやるようになっています。来年五月二日の追遠会は、三百五十周年を記念して大人と子どもの合作で五庄屋物語の演劇をやる予定です。再来年の「うきは市施行十周年」では、地元有志による五庄屋のミュージカルも企画しているところです。

五庄屋を題材にした小説「水神」の作者、帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんは小郡市の生まれだそうで、恐らく小さい頃から五庄屋のことを聞かされて育たれたのではないでしょうか。フィクションの部分もありますが、地名はそのままですし大筋は史実です。登場人物が筑後弁を使っているので物語にすっと入っていけましたね。読み進めると感動の連続であっという間に上下巻を読み終えていました。

気になるのは、農家が米では食べることができないので最近農業の形態が変わってきて、五庄屋の恩恵の念が薄れつつある感じがすることです。それは今だけを見るのではなく、遠く三百五十年前に思いを馳せてもらいたいのです。「五庄屋の命がけの大事業がなかったら、自分の祖先は存在しなかったかもしれない」と。

(参考文献 うきは市三堰ガイド「大石・長野・袋野水道」うきは市教育委員会刊)

「沖縄自由民権運動」の先駆者・謝花昇の生涯

 

 

埋れた歴史の語り部

「沖縄自由民権運動」の先駆者・謝花昇の生涯

 

浦崎栄徳氏 謝花昇を偲ぶ会理事

 

 

 

 

沖縄の近代史を語る時に欠かせない偉人・謝花昇(じゃはな・のぼる)。東京で学業を修め、故郷の民のために改革に敏腕を振うが、時の権力者と対立することになる。その人生は、まさに義の人そのものだった。

 

 

 

 

 

 

旧慣温存策の打破―「謝花民権」

 

 

ここで謝花を表現している「自由民権運動の父」というのは、本土で展開された自由民権運動とは違っていました。つまり、本土の運動が国会の開催、選挙権の獲得が目的だったのに対して、謝花が展開した運動はそれとは異なる面を持っていたのです。

謝花が十年間の留学生時代は、日本本土で自由民権が盛んになった時代でした。世代わりの息吹を東京で肌身に感じるわけです。明治二十四年(一八九一)に帝国大学農科大学(東京大学の前身)を卒業し、沖縄に帰ります。この年に帰県すると、謝花は沖縄県技師となり、留学時代に吸収した知識で色々な改革を試みます。

 当時の沖縄は、旧慣温存政策が布かれていました。これは、「琉球処分」で日本の社会制度にすぐに馴染めないため、明治政府が沖縄を徐々に同化させるために、琉球時代の制度をしばらく残して徐々に変えていく政策でした。その中でも幣害になっていたのが、土地制度でした。沖縄の農民総ては農地を持たない小作農で、一部の高級役人しか土地を所有することができないままでした。また、主要作物のサトウキビの植え付け制限が残っていて、農民の貧困は深刻でした。

その原因に「貢糖制度」と「買い上げ糖制度」がありました。

貢糖制度とは、沖縄が島津に納めていた租税米のうち三割三分にあたる租税米を砂糖で代納させていて、廃藩置県後は政府に納めさせていました。買い上げ糖制度とは、政府が相場より安い価格で砂糖を買い上げ、畑税として納める麦・大豆の石代金と相殺し、余剰金があれば人民に還元するという制度です。これらは旧藩時代の制度が温存されたままでした。東京で先端の農学を修めた謝花は、この二つの旧慣を廃止すべく運動を起こして、買い上げ糖制度は明治三十二年(一八九九)、貢糖制度は明治三十六年(一九〇三)にようやく廃止されます。つまり、謝花にとっての自由民権運動とは、本土のそれと同じように、藩閥政治打破や参政権獲得などを目的とする一方、旧慣温存されて困窮する沖縄の農民を解放する運動でもあったのです。それが「謝花民権」とも言われている所以です。

 

義人の原点

 

 

 

 

謝花は慶応元年(一八六五)に、東風平(こちんだ)間切(まぎり※琉球王国時代の行政区分。現在の沖縄県八重瀬町)東風平村の百姓の家の長男として誕生した謝花は、幼い頃から学問がよくできていました。そこで預けられたのが、義村按司あじ琉球諸島に存在した称号および位階の一つ。王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男がなった。按司家は国王家の分家にあたる)朝明でした。義村按司は、当時東風平間切の総地頭で間切が疲弊していたときに、自ら居を構えて間切を再建させた人物です。どのような逆境でも「まけじ魂」があれば道を切り開けると民に諭した人で、謝花はこの義村からまけじ魂を受け継いだと思います。義村の元で漢学を学んだ謝花は義村の影響を強く受けます。

義村は琉球処分の頃に「頑固党」の領袖でした。当時の沖縄では頑固党と「開化党」の二つに分かれて争っていました。明治政府は処分を断行するために、松田道之を処分官として派遣して、清国との冊封朝貢関係を廃止し中国との関係を一切断つことなどを言い渡します。頑固党の主張は、これまで中国の冊封を受けてきて経済や文化で恩恵を受けてきた中国との関係を維持すべきで、琉球処分案には断固反対するというものでした。開化党は琉球処分を受け入れて大和と一緒になろうという人たちです。結局、頑固党の主張は敗れ、義村は清に亡命し客死します。

謝花は、そうした義村の義を貫く生き方に影響されたのではないでしょうか。謝花は、義人という表現がぴったりの人物だったと思います。正義を貫く人でした。かと言って、決して度量が狭い人ではなかったようです。冗談で人を笑わすこともあったようです。

謝花は小学校、沖縄県師範学校に進みます。当時はまだ琉球国時代の階級意識が強く、高等教育を受けられるのは士族の子弟が殆んどでしたから、平民の出の謝花が入学できたのは非常に珍しいことでした。師範学校を卒業した謝花は、県費留学生として東京に遊学します。選抜された中で平民は謝花一人でした。

東京では学習院に入学しますが、ここでも上位の成績を残しています。その後、帝国大学農林大学に進み、林業と農業を精力的に研究します。その研究は優れていて大学の恩師からは「謝花は沖縄の謝花ではなく、日本の謝花である」と称賛して、東京に残って学界で飛躍することを薦めたくらいです。しかし、謝花は故郷・沖縄の現状を変えようと決心し、帰郷します。

 

 

奈良原知事との対立

 

 

 

 

ところが暫くして時の第四代沖縄県知事である奈良原繁※1834-1918 幕末―大正時代の武士、官僚。薩摩藩士。文久2年島津久光に命じられ京都寺田屋尊攘派をおそった(寺田屋事件)。静岡県令、工部大書記官、日本鉄道初代社長,元老院議官などを歴任。明治25年から沖縄県知事として開発を専制的にすすめ、琉球王とよばれる)と対立します。奈良原は欧米諸国に鉄道調査で派遣され、帰国後日本鉄道の社長に就任、貴族院議員となり、宮中顧問官を務めた実力者で、沖縄県知事に赴任したのは、時の総理大臣松方正義の推薦だったという大物知事です。

 最初の対立は、杣山(そまやま)開墾がきっかけでした。廃藩置県によって旧藩時代の藩士が職を失い生活が困窮していて、この貧困士族の救済と人口に対して耕地が絶対的に不足していたため、開墾の必要性がありました。奈良原知事は大規模な開墾計画を打ち出し、謝花は開墾主任に命ぜられます。ところが、勝手に開墾して山林が乱伐されていたり、開墾許可の手続で賄賂や不正が行われていました。また、奈良原知事一派の開墾志願者に許可される暴挙に謝花は敢然と立ち向かい、不正な開墾願いをことごとく不許可にします。謝花はついに開墾反対の運動を始めます。しかし、公然と反対運動を起こしたことを口実に開墾主任を解任されてしまいます。これが「謝花民権」の始まりです。

 奈良原知事との対立はその後も深刻化していきます。決定的だったのは、農工銀行の設立でした。謝花は農業振興のために設立された農工銀行の常務に就任しました。真の県民のための銀行として運用されるべく公平な機関にしようと動きますが、奈良原知事はこの銀行経営にも干渉し始めて、ついに謝花を役員から追放します。

 こうした奈良原知事の悪政から県民を守るには、追放するしかないと決意した謝花は、明治三十一年(一八九八)夏に上京し、板垣退助内相に面会し知事更迭を求め、板垣もこれを約束しました。ところがわずか四ヶ月で内閣が解散してしまい、実現しませんでした。

ついに謝花は県庁を辞職して野に下り、県民と手を組んで闘い世論を興し、追放するしかないと「沖縄倶楽部」を結成し運動を始めます。その一つが、沖縄の参政権運動でした。知事の横暴に歯止めをかけられないのは、沖縄に選挙権がなく県議会もないためだと、参政権運動を始めました。政府の説明では、沖縄はまだ土地整理、税制整理が不備でそのため個人の租税が把握できていないから選挙権を与えるのは困難というものでした。謝花はこの政府の説明は建前で、沖縄に選挙権を与えないのは、専制的支配を続けさせるものだと参政権運動に転換、展開します。県人口四十万人に達していて議席がないのはおかしいし、帝国議会が発足してすでに七年も経っていましたからね。

 謝花は山林学校の恩師・中村弥六氏※1855-1929 明治・大正期の林業学者、政治家 衆院議員。長野県生まれ。大学南校卒。林学博士。ドイツに留学。独逸語学校教員、大阪師範学校教師兼監事、大蔵省御用掛、農商務省権少書記官、東京山林学校教授、東京農林学校教授、林務官、農商務技師、司法次官を歴任明治23年長野郡部より衆院議員に当選。8期。臨時政務調査委員、司法事務に関する法令審査委員長となる)を紹介議員に立てて請願書を提出します。高木正年(※1856―1934政治家。全盲の代議士。弱者の立場に立った活動を一貫。明治・昭和期の政治家。江戸品川生れ。1881年(明治14)に東京府会議員となった。1890年第1回帝国議会に民生党から立候補して当選。政府の軍備増強に反対したため、弾圧を受ける。品川漁民問題で奔走するうち眼病を患い失明。以後盲人運動にも取り組み、1920年(大正9)点字による選挙投票の公認の請願を提出。また、婦人公民権、植民地の人権問題など、大正デモクラシーを背景に庶民の視点から誠実な政治活動を展開した)、星亨(※1850―1901 政治家。江戸の生まれ。自由党に入党。官吏侮辱罪や出版条例違反などの罪で入獄。衆議院議長となったが、反対派の策動で除名。のち、立憲政友会の結成に参加し、第四次伊藤内閣の逓相。東京市会議長在職中に暗殺された)、尾崎行雄(※1858―1954 政治家。神奈川生まれ。堂(がくどう)。立憲改進党の創立に参加。第1回総選挙以来、連続25回当選、代議士生活63年。東京市長・文相・法相を歴任。大正2年第一次護憲運動では先頭に立って活躍。憲政の神様と称された)などの国会議員を中心に沖縄県参政権運動に協力を得ます。その結果、沖縄県二人の議席案が通過しました。謝花は四、五人を考えていましたので納得はしませんでしたが、ともかく沖縄にとっては第一歩の大きな前進でした。

 

 

 

受難の末の末路

 

 

 謝花は胆力もあって、県の権力を握る知事に正面から戦いました。運動資金には私財を全部投げ打ち、さらに稼ぐために肥料、文房具を扱う商社「南陽社」を立ち上げる一方で、機関紙「沖縄時論」を発行し奈良原県政を痛烈に批判します。教師、役人などを辞めて同志となった優秀な人たちが約二十名集ります。創刊当初は東京・神田で印刷されました。その後印刷機を買って四号からは沖縄で印刷しました。残念ながら二十七号しか収集できていなかったのですが、最近、幻の創刊号が見つかりました。通巻五十号まで発刊されたと言われています。ライバル紙の「琉球新報」(現在の琉球新報は戦後「うるま新報」を復元改題したもの)は、体制側の論陣を張って謝花と対立していました。

そんな時に起きたのが、「共有金問題」です。共有金とは貢糖制度で沖縄に課せられた現物税の砂糖が大阪市場で換金されて政府に送られていて、砂糖の売上代金と租税額の差額を還付するために積み立てていたものです。共有金には他に航路補助金の一部、飢餓などに備えた救助米を換金したものも含まれていて、莫大な金額になっていました。しかし、その共有金の存在は県民に隠されていた上に、東京の銀行に預けられていました。謝花たちはこの共有金を知事たちが私物化していることを突き止め、東京の新聞「万朝報」に暴露させ、沖縄時論でも報じました。沖縄時論のあまりの追及の鋭さに奈良原知事は、暴力団を使って謝花を襲わせますが、何とか難を逃れます。

その後も知事からの弾圧が続きますが、謝花は挫けず筆鋒をますます鋭くしていきます。しかし、今度は兵糧攻めに遭います。南陽社の取り引き先に圧力がかけられました。同志達は就職を妨害され、収入の道を閉ざされ、活動もできなくなっていきます。謝花自身も参政権運動で全財産を投じていましたから、働き口を探しますが妨害されてなかなか働けません。ついに沖縄倶楽部を解散します。

解散した後、謝花は職を山口県に得ます。山口に向う途中の神戸駅で精神衰弱になって、倒れてしまいます。駅員が倒れた謝花を病院に入院させますが、身元が不明でした。謝花が所持していた下国良之助という名刺を見つけて照会します。下国は沖縄で教鞭を執っていた人で、当時大阪で商売をしていた人物です。しばらく世話するのですが、快方に向かわないので、家族に連絡して沖縄に帰すことになります。沖縄に帰って、手厚い看病を受けて療養生活を送りますが、四年後の明治四十一年(一九〇八)についに亡くなります。四十四歳の若さでした。

 

 

 

語り継ぐために―

 

 

 平成二十九年四月に「謝花昇を偲ぶ会」を結成しました。謝花の遺徳を偲び、その業績と功労を検証して未来永劫継承していこうというのが、設立の目的です。具体的には謝花昇資料館の建設を推進します。散逸しかねない資料を収集し、学びの場として資料館は必要不可欠です。昭和10年(一九三五)には、旧謝花昇銅像とともに建設されましたが、取り壊されたままで現在は町の歴史民俗資料館に間借りした形で一部の資料を展示しています。私は個人的に謝花の資料を収集して段ボール箱の中に入れていました。ところが、東京の大学生から「沖縄の近代史を調べるには謝花を調査すべきだと言われて」と私の元にやってくるようになり、その度ごとにダンボールをひっくり返して説明していました。これでは大変だし、もっと謝花のことを知ってもらいたいと町に掛け合って、今の資料館に常設してもらうようになったのです。

この他にも膨大な資料がありますので、専用の資料館を建設して謝花の功績を後世に伝えたいと思います。今の沖縄の状況は、謝花が民権運動をやっていた時代と似てはいないか。沖縄の人々の民権が踏みにじられてはいないだろうか。謝花の生き方を知ることで、子どもたちには向学心を、大人には沖縄の人々の中にある「まけじ魂」を呼び覚ましてもらいたいと思います。

 

浦崎氏プロフィール

昭和22年生まれ(70歳)八重瀬町出身。

 

参考文献:『自由民権の父 義人・謝花昇 略伝』(2005年初版 2011年再版 八重瀬町刊)

 (月刊フォーNET2018年4月号 未校正)

 

 

人類史上最悪の「悪魔の所業」 中国の臓器狩りの実態を語る

そこが聞きたい!インタビュー

 

 

人類史上最悪の「悪魔の所業」

中国の臓器狩りの実態を語る

 

 デービッド・マタス氏 中国の臓器移植問題を調査している国際弁護士(カナダ)

 

 

本来、医療技術の発達は、人類の幸福のために研究されているものであるべきで、またそうであるべきだ―しかし、その人類の叡智を悪用し、中国では現在、年間6万から10万件の移植手術のために、「良心の囚人」の臓器が収奪されている、というショッキングな事実を我々はどう受け止めればいいのか。(平成三十年六月七日に福岡市で開かれた『ヒューマン・ハーベスト 中国の違法臓器収奪の実態』 主催・SNGネットワーク 上映会・報告会で来日したマタス氏にインタビューした)

 

「アニーの告発」

 

 

 

―今回の来日の目的から聞かせてください。

マタス 「アジア研究」をテーマとした神戸市の国際学会IAFOR(インターナショナル・アカデミック・フォーラム)に参加するために来日しました。その学会では『法輪功への迫害における民族主義的な側面』について発表しました。この機会を利用して、私たちが調査発表している中国の臓器移植についてドキュメンタリーの上映会、報告会にも参加しています。私たちは現在、中国のこの非道な行為を止めたいと思います。そのためには、日本の国民にこの事実を広く知ってもらい、日本が中国に加担しないように働きかけてもらいたいと思います。

―私は、人権意識が全くない中国で違法で非道な臓器移植が行われているようだという認識は持っていました。しかし、日本ではこのことはほとんど報道されていませんし、国会でも取上げられないので、ほとんどの日本国民は実態を知りません。

マタス 問題はかなりの日本人が臓器移植のために中国に渡航していることです。二〇〇六年に私たちが調査を発表して以来、中国当局は外国からの渡航者の数を発表することを止めました。また、日本では臓器移植のために海外に渡航した患者を国に告知する義務がないために、実際の患者数は把握できていません。しかし、調査の過程で、実際に移植で中国を訪れた他国の患者から「日本人の患者に会った」という証言を幾つも得ています。

―2006年から、カナダの元国務大臣デービッド・キルガー氏と共に、中国の「良心の囚人」(無実の人々)を対象に臓器収奪が行われている問題についての調査発表を続けていますが、この活動を始めるきっかけは?

マタス 元々私は国際弁護士として人権問題に取り組んでいて、当時は難民問題を扱っていました。そのような時に「NGO法輪功迫害調査追跡国際組織」から調査の依頼を受けたのが始まりです。私たちが調査に乗込んだきっかけは、中国の病院で夫が医師として働いていたという「アニー」と名乗った中国人女性が、ワシントンDCで衝撃的な証言を行ったことでした。彼女の夫は二年あまりのあいだに二千件ほどの角膜摘出手術を行い、そのたびに月給の何十倍もの現金が支給されていたといいます。角膜だけではありません。心臓、腎臓、肝臓、肺臓など目ぼしい臓器を抜かれて空洞同然となった法輪功学習者の遺体は、そのままボイラーに放り込まれてつぎつぎ焼却されていったと告発しました。彼女の告発を受けてNGOからアメリカの下院に働き掛けがあり、下院委員会できちんとした裏づけ調査がなければ動けないと言われ、私たちに依頼が来ました。

―調査の方法は?

マタス まずは中国で行われている違法な臓器移植が真実なのか、それとも嘘なのかを決定することでした。まず、それを実証する証拠を集めていきました。中国では臓器移植についての情報は厳重に秘匿されています。中国当局に収容され運よく国外に逃れられた法輪功の人々や中国に移植手術のために渡航した本人や家族、告発者にインタビューしました。この他、中国の統計、各病院のウェブサイトも参考にし、病床数、利用率、職員数、助成金・賞与金などの詳細な事項も調べました。もう一つの調査方法は、電話による抜き打ち取材です。約十ヵ月間にわたり、調査員が患者家族を装い、移植認可を受けた中国国内百六十九の病院に電話を掛け、病院の施設状況や手術内容を直接聞き出す方法です。

 こうした調査によって、それぞれの情報の真偽を確認したのですが、虚偽を裏付ける証拠は一つもありませんでした。その結果、中国での違法な臓器移植は真実であると結論付けたのです。

 

 

人類史上最悪の虐殺

 

 

―移植件数はどれくらいあるのですか?

マタス 私たちが調査を始めた二〇〇六年当時、中国当局は死刑囚の臓器を使った移植件数を年間一万人と発表していました。しかし、その数字と実態が大きく乖離していることが分かっています。一九九九年以前の中国の移植病院は百五十軒、二〇〇六年に中国衛生部は新たに移植病院の認可制度を導入、千軒の病院が申請し、そのうち百六十九軒が移植手術病院として認可を受けました。我々がその病床数、稼働率から割り出した年間の移植手術件数は最低でも六万五千件から十万件になります。移植設備のあるこれらの国家認定レベルの病院は、稼働率が軒並み百%を超え、患者一人あたり一ヵ月を入院期間と想定すると、例えば病床数五百の天津第一中心病院では年間約八千件の手術が行われていることになります。このようにして調査していったところ、中国における臓器移植の実態は、中国政府による公式発表の実に六倍から十倍なのです。

―移植手術を受けた日本人の数は把握しているのですか?

マタス 私たちの調査前までの中国の発表では、移植のための海外からの渡航者は全体の二〇%という数字を出していましたが、今は公表していません。また、私たちが「良心の囚人」と呼んでいる収容されて臓器を抜かれている法輪功学習者などの存在は認めていません。日本からの渡航者を把握するためには、医療関係者から国家への告知の義務化が必要です。

―中国の法輪功学習者が迫害を受けていることを中国の一般国民は知っていているのでしょうか?

マタス まず、なぜ法輪功なのかから説明します。法輪功は心身を向上させる中国の伝統的な修煉方法で、中国政府は一九九〇年末までに七千万人の中国国民が修煉していると発表しました。共産党員を上回る数となったため、当時の江沢民国家主席が、法輪功学習者の拡大に脅威を覚えて、迫害し始めたのです。また、中国国内では政府の「法輪功は邪教である」というデマが流されました。法輪功が臓器移植のために虐殺されていることは秘匿されています。私の報告書もインターネットがブロックされていますから、中国国民は知ることはできません。法輪功学習者は迫害されていることを知っていますが、それでも学習する人は絶えないそうです。

―国際社会が臓器移植に反対する動きに対する中国の反応は?

マタス 私たちの調査が出た時に、中国はほとんどの臓器は提供されたものであると回答しました。しかし、当時の中国には臓器提供、ドナーの制度はありませんでした。その後、中国は死刑囚の臓器を使っていると認めます。中国政府はその後、二〇一五年には死刑囚からの臓器は使わず、総て自主的提供者からのものだと発表しましたが、その数は移植手術数と大きく乖離しています。私たちの報告を中国は、単なる噂に過ぎないと否定しましたが、一つひとつ裏付け調査したもので口伝えのものは総て排除しています。また、証拠の数字は総て、この報告を否定している中国が発表したものです。中国政府の否定は全く辻褄が合わないのです。

―この事実を突き止めた時は、どんな気持ちでしたか?

マタス 背筋が凍る思いがしました。囚われて逃げ出すことができた法輪功の学習者にインタビューすると、収容中に定期的に血液、内臓検査を受けていたと異口同音に答えました。彼らにとって過酷な拷問に比べれば検査は苦ではなかったようです。この事実を知った時には、衝撃というよりも悲しい気持ちでした。ユダヤ人である私は、弁護士としてナチスホロコースト戦争犯罪人を追及する活動もやっていました。この体験から、人間の堕落には際限がないということを突きつけられました。本来人命を救うために開発された移植技術という最先端技術が、人命を奪うために使われてしまっています。中国が臓器移植を産業化して金儲けの道具に人命を簡単に奪ってしまう。移植手術を開発した人たちは、まさかこうしたことに使われるとは想像もしなかったでしょう。将来こうしたことに使われないよう歯止めをかけておくべきでした。

アインシュタインも自分の理論が大量殺戮兵器になるとは思わなかったでしょう。

マタス アインシュタインはまさか残虐な兵器に利用されるとは露とも思わなかったでしょう。アインシュタインは元々時計の技術士でした。自分が考えた理論が悪用されることが分かっていたら、時計の技術士のままだったでしょう。広島・長崎への原爆投下は確かにショッキングな出来事ですが、明らかに目に見える証拠があります。しかし、手術室という密室で行われる臓器移植は闇に包まれていて、中国政府は否定していますから、それを実証するのはかなり困難でした。人類はこれまで様々な悪行を重ねてきましたが、これほど邪悪な悪行はありません。中国の臓器移植はホロコーストよりも性質が悪い、人類史上最悪の虐殺だと思います。ホロコーストには、ユダヤ人への妬み、憎しみ、嫌悪などの人間的な感情がありました。しかし、中国の臓器移植は単に金儲けのために殺人が行われているのです。人間的な感情が全くない、国家的な犯罪なのです。

 

 

 

 

犠牲者は法輪功、新疆ウィグルなど無実の人々

 

―中国の臓器移植のやり方ですが、ドナーを脳死状態にするのですか?

マタス ドナーという言葉は正確ではありません。臓器提供を望んでいるわけでなく、強制的に抜取られているわけですから。臓器を取られる人たちは脳死状態にされるのではなく、麻酔をかけられ生きたまま手術されます。臓器を取られているのは無実の人々です。莫大な数の法輪功学習者や新疆ウィグルの独立運動家など政治犯がその犠牲になっています。

―国家による殺人ですね。こうした中国の暴虐に対して世界各国の反応は?

マタス この問題は、国連の人権・拷問に関する調査委員会で取り上げられました。また、いくつかの国々で動きがありました。米下院議会は「移植臓器販売の目的で宗教犯、政治犯を殺害することは、言語道断な行為であり、生命の基本的権利に対する耐え難い侵害である」として、「すべての良心の囚人(無実の人々)からの臓器狩りを即刻停止することを中華人民共和国政府と中国共産党に要求する」などの内容を含む六項目の決議案三四三号を採択しました。欧州議会も同様の決議案が通過しています。この他、イスラエル、スペイン、イタリア、台湾、ノルウェーでは、違法移植を禁止する法律が成立しています。

―これに対して中国の反応は?

マタス 残念ながら具体的な効果はまだあがっていません。二〇一五年に中国は「死刑囚の臓器使用を停止し、国民の自発的提供が唯一であり、臓器提供源は合法的」と発表しましたが、これは言葉遊びに過ぎません。今でも多くの「良心の囚人」たちが生きたまま臓器を収奪されています。二〇一六年の報告書には、中国が意図的に脳死させる機械の実案特許についても記載しています。実際にどれくらい使われているのかはまだ調査できていません。これは、生きたまま取り出した内臓が新鮮な方がいいことと、血液を固まらせない薬や麻酔などは内臓に蓄積されるので、これを使わないために開発されたようです。

習近平体制が強化されています。今後、習体制になって状況は変化していますか。

マタス 習体制が確立されて、一見法輪功にとって良い方向に向かっているとも映るかもしれません。しかし、中国政府の法輪功は邪教であるという方針は変わっていません。臓器移植件数は減るどころかむしろ増加傾向です。これは、中国の医療体制が臓器移植に依存しているからです。迫害を止めろと非難することは簡単なのですが、これを中国が変えることは現実的に難しい。臓器移植産業は中国の五カ年計画の大きな柱になっています。その一方で、法輪功側も二十年近く迫害を受けていますから、警戒心が非常に強くなって国外に逃れたり、隠れて修養している学習者が多くなって、法輪功の囚人の数が減っています。それにもかかわらず、件数が増えているということは、どこからか臓器を取ってきていることになります。

 それではどこから取ってきているのか。昨年から今年にかけて宗教政策が厳しくなって狙われているのが、イスラム教とキリスト教です。イスラム教については二千万人といわれている新疆ウィグル自治区で弾圧が激しくなっています。中国の民族浄化政策で、少数民族を殲滅させようとしています。もう一つの狙いは、その地下に眠る資源です。現在、ウィグル民族全体の血液検査が行われています。さらに現在、中国に一億二千万人いるといわれているキリスト教徒もそのターゲットになっています。

中国共産党が認めているキリスト教徒は三千万人ですが、地下教会といわれるクリスチャンが九千万人います。特に中国共産党を公然と批判している「全能神」という教派は邪教と指定され、片っ端から収容されています。

 

 

日本も加担している事実を知ってほしい

 

 

―このままでは中国を止めることはできませんね。

マタス その通りですが、少なくともお願いしたいのは、日本が中国のこの行為に加担しないことです。これは他の国にも言えることです。日本が加担しない方法は、まず中国の移植医に研修等で技術を教えないことです。また、日本政府のODAで一九八四年に中日友好医院が出来ていますから、それ以降も日本からの資金が新しい病院建設などに流れている可能性もあります。それは調査する価値があると思っています。日本から移植で中国に渡航することも加担していることになりますね。昨年、厚生労働省で移植手術を公的保険の給付対象にする方針が定まり、一千万円ほどになる可能性があるということです。私たちは厚生労働省に直接確認しましたが、残念ながら中国での臓器移植に関しては制限する動きがありません。是非、制限していただきたいと思います。

―また、日本から臓器移植に必要な器材や薬剤が入っているとも聞きます。

マタス 移植された臓器の拒絶反応を抑える薬の術後薬は日本で作られています。たとえ代金と引換であっても移殖手術に必要な器材や薬剤を中国に売らないことも臓器移植の歯止めになります。

―過激な表現になりますが、中国のこの「悪魔の所業」を止めるには、日本は何らかの法整備を急ぐ必要がありますね。

マタス 法整備は是非進めてもらいたいですが、同時に医療の倫理指針も向上させていただきたい。現在、全国の地方議員約六十名が賛同していただき、九つの地方議会で意見書が提出されています。非常に重要な動きです。日本ではSMGネットワーク(医療殺人を止めよ:Stop Medical Genocide)という団体が今年一月に発足し活発に活動しています。ほとんどの日本人がこの事実を知らないことに非常に強い危機感を持って、この事実を少しでも知ってもらおうと活動しています。この団体は、国会議員、地方議員、ジャーナリストらが結集して、非人道的な行為が強く懸念される中国の臓器移植に、日本が関わらないように問題を周知させ、国内の臓器移植環境と法整備を働きかけています。

―本来なら国会議員に働きかけるべきでは?尖閣諸島での中国によるたび重なる公海侵犯や中国海軍の膨張など仮想敵国である中国の悪行は国を挙げて阻止すべきだと思います。

マタス 国会が動くのは簡単ではないようですので、地方議員のネットワークを拡大し多くの国民の認識を高める運動が現実的です。もちろん最低限日本は中国に加担することを止めること、特に医療関係者には中国の医師との交流を断つなどプレッシャーをかけてもらいたい。日本は重要な役割を果せると思います。現在、ニューヨーク、ワシントン、オーストラリア、台湾そして日本で様々な組織が活動しています。欧州評議会で決議された条約には欧州以外の国も署名できますから、まず日本政府が署名するように国民的運動を展開すべきです。そうなると、他のアジア諸国も署名することになるでしょう。地方議員のネットワークの次は国会議員のネットワークを作り、議連に発展させて法整備を働きかけてもらいます。

―これまでの活動で中国からの妨害は?

マタス 何度か体験しました。オーストラリアのブリスデンでのイベントに招かれたのですが、開催前日に私を招聘した新聞社に弾丸が撃ち込まれました。中国領事館の圧力で、サンフランシスコ、オーストラリアなどイベントが直前キャンセルされることは数度あります。香港では中国政府の協力者から私のスピーチ中に大声で邪魔されたこともあります。フロリダ・ゴールドコーストのイベントでは、接続されたインターネット経由で「私はインターネットポリス。あなたは自分の生命を危険に曝しています。怖くはないですか」という脅迫を受けたこともあります。私は「法輪功学習者の虐殺から目を背ける前に、虐殺を阻止してください。私を威嚇しても仕方がありません」と答えました。

 

 

 

 

 

 

デービッド・マタス氏プロフィール

 

カナダのウィニペグを拠点とする国際的な人権擁護の弁護士、著者、調査者。

 

2008年マニトバ弁護士会 殊勲賞、2009年カナダ勲章、2009年カナダ弁護士会 市民・移民部門功労賞、2010年国際人権協会スイス部門人権賞、2016年ガンジー賞など、多くの賞や栄誉を授かる。

2006年、Bloody Harvest: Organ Harvesting of Falun Gong Practitioners in China(血まみれの臓器狩り:中国での法輪功修煉者からの臓器収奪)と題する報告書をデービット・キルガー氏と共著で発表。マタス氏もキルガー氏もこの問題に関する調査のため2010年ノーベル平和賞候補となる。2009年にはBloody Harvest-The Killing of Falun Gong for Their Organs (Seraphim Editions)として一冊の本にまとめる。(邦訳『中国臓器狩りアスペクト社)

2012年、State Organsを共編。(邦訳『国家による臓器狩り自由社

2016年、An Update to Bloody Harvest and The Slaughter(『血まみれの臓器狩り』『The Slaughter』最新報告書)をイーサン・ガットマン氏とキルガー氏の共著でEOP国際ネットワークのサイトより発表。同報告書は、メディア報告、公的なプロパガンダ、医療関係誌、病院のホームページ、アーカイブされた削除済みの大量のホームページなどからの情報を合わせ、中国における数百件の病院の移植手術の開発計画を綿密に精査している。

 

 

 

 

 

 

IR法成立に潜む危険 作家・精神科医(通谷メンタルクリニック院長)帚木蓬生氏

IR法が成立しました。この法律に潜む危険をインタビューしました。

 

 

そこが聞きたい!インタビュー

作家・精神科医(通谷メンタルクリニック院長)帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏

 

 

 

 

 

「日本人の百人に五人」。この数字は何の数字かお分かりだろうか。何と「ギャンブル依存症」患者の有病率なのだ。日本列島には五百三十六万人と、福岡県の人口を上回るギャンブル狂がいるー

 

 

 

二大症状は「借金」と「嘘」

 

 

精神科医としてギャンブル依存症に関する本を書かれていますが、ギャンブル依存症という精神の病気を初めて知りました。

帚木 ギャンブル依存症は、言い方は悪いかもしれませんが、正式には病的賭博と言われる立派な病気です。一九八〇年にアメリカの診断基準であるDSM精神障害分類判断基準)に入って、九二年にはWHOの国際疾病分類にも記載されました。アメリカでは三十年以上前に、イギリスではその以前から病気として認定されています。フロイトもこの病気に百年前に注目していました。

―日本にはどれくらいの潜在的な「患者」がいるのでしょうか。

帚木 ギャンブルをやめたいのにやめられない人を患者と定義するならば、五百三十六万人いますね。これは福岡県の人口五百五万人を超え、九州最大都市の福岡市の人口百四十六万人の実に三・八倍にも上ります。人口六百万人のノルウェー一国に迫ろうという数字です。有病率は男性が八・七%、女性が一・八%で平均四・八%です。あのギャンブル好きの韓国ですら〇・八%、アメリカは一・六%ですから断トツに高く、日本の異常な状態が分かると思います。

―パチンコ・スロットが元凶であると主張されています。私も三十年以上前の学生時代、パチンコにはまった時期がありましたが…

帚木 それまでのパチンコは時間消費型でした。それが変わったのが八〇年頃から普及した「フィーバー機」ですね。自動的に止まるドラムの絵柄が777になると大当たりする台が一気に広がりました。これはあまりにも射幸心を煽るということで規制が入りました。九〇年代に入ってプリペイドカードに対応したCR機は連チャンを警察庁に規制されていたのですが、普及しないために確率変動(確変)を許可して一気に広がりました。結果的にギャンブル性が高くなってしまいました。

―依存症の症状はどのようなものですか。

帚木 二大症状は借金と嘘です。ギャンブルに行く時間と軍資金、お金を作らないとといけませんから、嘘に嘘を重ねてしまう。借金については色んな患者さんを診てきましたが、平均の借金額は一千万円を超えています。最高は一億六千万円の患者もいました。患者のほとんどが借金で家族、親類、友人を巻き込んでしまっています。借金の尻拭いで家族まで巻き込まれるのは、これは日本独特の社会風土で、本人に立ち直ってほしいという思いが強いのでしょうね。本人が「もう二度と絶対、ギャンブルはしません」と誓約書を書いても、これが守れることは万に一つもありません。それだけこの病は深刻なのです。

また、九〇年くらいから借金し易くなったのも、依存症を増やした背景にあります。パチンコ店内にATMまで設置する銀行まで出てきましたからね。家族には残業だとか出張だとか上司から呼び出されたなどギャンブルに行くために嘘が次から次へと繰り出されます。お金についても、財布を無くした、送別会があったなど嘘を重ねていきます。こうして重篤な状態になっても本人はケロッとしていて、家族など周囲が大変な状態になっています。家族がうつ病になったり、不眠症狭心症パニック障害などになったケースが多いですね。

 開業して十年目になりますが、相談に来たのが、本人が五百二十四人、家族が百八十人で計七百人ですから、一年平均で七十、月平均で約六人になります。最近の傾向としては、患者が若年化しています。十年前の平均年齢が三十九歳くらいだったのが最近は二十代から三十代の前半が多くなりました。それは、早く気付くことが多くなったのではないかと思います。これは、依存症の認知が進んだからでしょうね。早めに病院に来ればそれだけ借金が抑えられ悲惨な事態にはなりませんから、いいことです。

 

 

「一生治らない」病

 

 

 

―これは脳に障害が発生するのですか。

帚木 長年の習慣によって脳が変化します。脳の生化学的研究によると、ドーパミンノルアドレナリンの量が増加し、セロトニン系の機能が低下していることが明らかになっています。脳の変化で「勝ち負けに鈍感になる」、例えば十万円すってもなんてことはないし、三万円勝っても感動しなくなります。つまり、人間の脳の仕組みからしても、誰でも陥る可能性がある病気なのです。だから、妻や親から必死に諭されても「本人の意思で止める」ことは不可能なんです。

―早期発見で早く治せば…

帚木 いや、この病気は完治しません。すべての依存症がそうですが、治ったと思っても、再び始めてしまえば元の木阿弥です。ギャンブル依存も、自然治癒しない進行性の病気なのです。ある人は一年半くらいパチンコから離れていましたが、「新台入れ替え」のチラシを見て腰が浮いたそうです。最近のパチンコ業界はDMを送ったりしますから、みな誘惑にさらされている。私たち医師にとっては、業界は治療の敵ですよ。実際、庶民の娯楽、ゲームといったレベルをはるかにこえたギャンブルになっていると思いますね。昔から、為政者は賭博を厳しく取り締まってきました。日本でも天平時代の双六禁断の法から明治政府の賭博犯処分規則などがあります。それだけ、賭博が社会の土台を腐らせてしまうものだと分かっていたのでしょう。アルコール依存症の患者の平均寿命は五十二歳ですが、ギャンブル依存症は健康を害することがないので、治療しないと借金を重ねて周囲を不幸のどん底に落としますから、より深刻です。

―治療法は?

帚木 GA(ギャンブラーズ・アノニマス)といって、アルコール依存症治療にならってつくられた自助グループにも参加してもらいます。アノニマスとは匿名の意味で、参加メンバーは全員依存症の人で本名を明かさずに参加できます。たまに私たち医療関係者も同席することがありますが、助言などはせずただ見守るだけです。最低週一回、できれば二回参加して、小グループで具体的なテーマに沿って自分の内面を語るのです。「家族に迷惑をかけたこと」とか「自分の意志が働かなかった時のこと」など、心の奥底を吐露していく。いわば、常に自分の病気に直面するわけです。GAの出発点にあるのは、「自分はギャンブルに対して無力である」ということ。

自分では止められない病気にかかっているのだという認識を根本に据えるのです。この場では、決して人を責めず、ただ各々が互いの体験を聞くだけですが、キレイごとではない、深い本音が出ます。それまで被告人のように吊るし上げられて説教される場ではないことが分かってくると、次第に胸襟を開いて自分のことを語ることができます。参加した人たちは、ここで思いやり、寛容、正直さ、謙虚さを学び直し、社会に復帰しています。しかし、行かなくなったらまた再発します。この病気は一生治らないからです。十年間止めていても、GAに行くのを止めたら再発します。麻薬患者と一緒です。このワクチン効果は一週間しかもちません。

 私のところに通い始めて十一年になる人がいますが、そういう人たちが自主的にGAを開設していて、現在、福岡県内に十六ヵ所あります。最近できたGAは苅田町ですが、それまでこの地域の患者は小倉に通っていましたから、近くにできると便利で確実に参加できます。現在、全国に百五十カ所ありますから、その十分の一が福岡県に集中していています。これは患者の努力ですね。GAがない県は岩手、岐阜、鳥取の三県になりました。また、数年前まではこの治療を医療行為として認めていない県もありましたが、今では全国で認められています。

―先生達精神科医が蒔いた種が芽を出してきたのですね。

帚木 中には、GAが多い所はギャンブルするところが多いと揶揄する他県の精神科医がいますが、とんでもありません。その地域の精神科医たちが依存症を見て見ぬ振りをしているだけの話です。

 

 

「ギャンブル王国」ニッポンーこのままでは滅亡する

 

 

 

 

―この病気を治す、根本療法はギャンブルをこの社会から無くすしかないですね。

帚木 そう思いますが、無くなりませんね。警察の天下りなどの利権ですから。

―勝つと、パチンコホールのカウンター景品をもらって、外にある景品買取所で現金に換えますが、これは厳密に言えばギャンブルとし言いようがありません。

帚木 パチンコ・スロット業界を取り締まっている法律は、風営法です。この法律では客に現金を提供すること、提供した景品を買い取ることを禁じていて、この二つのうちどちらかを行えば、ギャンブルになり違法行為になります。この法律を骨抜きにしているのが、景品買取所です。店が景品を出してそれを店外の買取所が換金して、景品は再び店に買い取られるのですから迂回しているだけです。それを、直接客から買い取るわけではないので違法ではないという、まさに詭弁がまかり通っているのが実情です。たちが悪いのは、あくまでも遊戯、ゲームですから、広告宣伝の規制がありませんから、どんどん広告やチラシを打つことができます。以前はマスコミは自主規制して、パチンコの広告は出していなかったのですが、長引く不況でマスコミがなし崩しにしてしまい、今やパチンコ業界に支えられている体たらくぶりです。日本の依存症患者が異常に多い元凶は、パチンコ業界です。耽溺しているギャンブルの八二%がパチンコ・スロットだけの耽溺者ですからね。競馬、競艇、麻雀など他のギャンブルは合わせて四%しかありませんから、パチンコ・スロットが絡む耽溺者の比率は九六%にもなります。女性、お年寄りの耽溺者にいたってはパチンコ・スロットは百%に近い。

―すでに「ギャンブル王国」になっている日本で、カジノ構想が持ち上がっています。

帚木 全く正気の沙汰とは思えませんね。世界の潮流は脱カジノです。本場・ラスベガスは今、脱カジノ都市を目指しています。自動車産業が斜陽化しカジノを誘致したアトランティックシティでは、貧困率、青少年の犯罪率などが高く、薬物依存者が増えるなど社会が廃れています。カジノを持ってきても活性化するどころか、衰退します。ただでさえパチンコでギャンブル依存症患者が異常に増えているのに、カジノを作ろうというのは、まさに火に油を注ぐようなものです。

―パチンコに規制をかけるのが、まず必要ですね。

帚木 規制するどころか、パチンコ店出店に反対すると、逆に「法律で守られている」と公安委員会から横槍が入るくらいです。

―確か、風営法で学校など教育施設に近いところでは出店できないなどの規制があったのでは?

帚木 自治体によっては条例によってまちまちです。厳しいところもありますがそれは稀で、ほとんどの自治体の規制は緩いですね。

―著書で「パチンコは日本を滅ぼす」と警告されています。

帚木 パチンコ業界はあちこちにお金をばら撒いていますから、反対する国会議員はあまりいませんね。パチンコ業界の売り上げはピークの三十兆円には及びませんが、今でも二十兆円産業です。これはトヨタの年商に匹敵する大きさです。

 

 

今や国民病―防ぐ手立ては?

 

 

 

 

―しかし、ギャンブル依存症の患者を生み出し、ギャンブルなのにギャンブルと認めさせず、非生産的なこの業界を産業と言えるでしょうか。

帚木 人々のポケットから金と時間を取り上げ、そして最後には家族の人生まで取り上げてしまいますからね。政府にギャンブルを一括して統治する機構がないことも問題です。つまり、競馬は農水、競輪は経済産業、競艇は国交とそれぞれ省益を手放しません。最近では教育を監督する文部科学省までスポーツくじを始めたでしょ。開いた口がふさがりません。こうした公営ギャンブルが始まったのは戦後で、復興の財源を確保するために始められたものなのですが、その目的から外れてしまって今では既得権益化してしまっています。公営ギャンブルは赤字なのにそれでも止められない。

 特にパチンコ・スロットはあくまでも娯楽として居座っています。娯楽なら娯楽らしくあるべきですが、ギャンブル性をどんどん高めていますから、罪深い。平日昼間のパチンコ店を覗いてみてください。駐車場は満杯で、多くの客が入り浸っています。こんな異常な光景を見られるのは、日本だけです。パチンコ店の店舗数一万二千軒で、これはコンビニ業界二位のローソンの店舗数を上回っています。全国至る所にパチンコ店があるのは、異常です。世界のギャンブル機の台数は七百二十万台で、日本のパチンコ・スロット機の台数は実に四百六十万台です。恐ろしい数字です。もちろん、他国にもギャンブルはありますし、社会問題になっていますが、日本の特異性は普通の人々が気軽にギャンブルをやる環境が出来上がり、それをさらに煽っているわけです。

―パチンコをやっている人は、娯楽感覚でやっているのではないと。

帚木 はまってしまっている人が圧倒的に多いでしょうね。つまり、依存症という病人からお金を吸い上げているのが、パチンコ業界なのです。こうしたギャンブル天国とも言える日本でギャンブルによる犯罪が水面下で増えています。アメリカの受刑者の四分の一がギャンブル絡みです。恐らく、日本の犯罪もギャンブルに起因するものがかなりあるのではないでしょうか。横領、窃盗、殺人…しかし、警察はそれらを「遊興費」の一言で済ませていますし、マスコミも突っ込みません。パチンコ・スロットで依存症に罹り、それが高じて賭け率が高いギャンブルに走り犯罪に手を染める。このままでは、日本という国が滅んでしまいます。

―政治でそれに歯止めをかけようという動きは?

帚木 ないですね。恐らく、かなりのお金が各方面にばら撒かれているのではないでしょうか。私のところにも業界から声を掛けられたことがありますよ。即座にお断りしましたが、うるさい私を懐柔しようとしたのでしょうね。中には、業界から助成金をもらって、依存症の電話相談をやっているところもあるようですが、電話で「止めたほうがいいですよ」と言って治るはずがありません。ちゃんと対策を講じています、という業界のアリバイ、おためごかしですよ。

―どう見ても、日本全体でこの問題に取り組むべきだと思うのですが…

帚木

 ギャンブルはあくまでも個人責任だと言いますが、アルコールもそうですが、国は何も規制していませんから、その責任はかなりあります。予防策をまったく講じず、逆に業界の宣伝を規制せず野放しにしているのは、国に責任がありますよ。

―政府が何も手を打たずに放置してきたために、国民病になってしまった感が強いですね。

帚木 確かに国民病と言える状態になってしまっています。それなのに、カジノを作ろうとしているのですから、狂気の沙汰です。業界は知らんぷり、監督官庁警察庁は見て見ぬふり、政府は一向に規制しようとしませんから、深刻です。予防しかないのが現実的でしょうね。「この病気になったら一生治りません。罹ったら治療しないと、家族、家庭を崩壊させ、友人を無くし、職もなくなり最後はホームレスになる可能性が十分にある」ことを広く認知させることしか、この国を滅亡から救う方法はないのかもしれません。

 

帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい)氏プロフィール

昭和22年、福岡県小郡市生まれ。小説家精神科医

東京大学文学部仏文科卒、九州大学医学部卒。ペンネームは、『源氏物語』五十四帖の巻名「帚木(ははきぎ)」と「蓬生よもぎう)」から。本名、森山 成彬(もりやま なりあきら)。東大卒業後TBSに勤務。2年後に退職し、九州大学医学部を経て精神科医に。その傍らで執筆活動に励む。1979年、『白い夏の墓標』で注目を集める。1992年、『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞受賞。八幡厚生病院診療部長を務める。2005年、福岡県中間市にて精神科心療内科を開業。開業医として活動しながら、執筆活動を続けている。医学に関わる作品が多く、また自身(精神科医)の立場から『やめられないーギャンブル地獄からの生還  』を上梓している

(フォーNET2015年5月号)

空気に支配された「長期政権止む無し」という閉塞状態を打破するには

自民党総裁選目前なので総裁選をどう見るかの一考察。

 

 

空気に支配された「長期政権止む無し」という閉塞状態を打破するには、

自民党総裁選で少しでも「石破票」を上積みするしかありません

 

太田誠一

 

 

 

岸田氏の大罪

 

 

 今月に行われる自民党総裁選挙。八月七日現在では、三期目を目指す安倍首相に対して、元幹事長の石破茂氏、総務相野田聖子氏が出馬を表明していますが、事実上安倍、石破の一騎打ちになるでしょう。しかも、すでに「安倍続投」の空気が漂っていますから、「消化試合」の様相を呈しています。かつて自民党総裁選は各派閥の領袖が政策論で火花を散らし、事実上の総理選出の場でもあり、白熱した選挙戦が繰り広げられていたものでした。そういう意味では、今回の総裁選の白けムードにはある種の危機感を覚えてしまいます。

 このムードを作ってしまった戦犯の一人は、早々と不出馬を表明した岸田文雄政調会長でしょう。通常国会が閉会して総裁選に向けてこれからという時に不出馬を表明した岸田氏は派閥の領袖としての責任を放棄したという他ありません。これは出馬の動きすら見せなかった他の派閥の領袖にも同じ事が言えますが、岸田氏の場合、今回は出ないという選択がなかった立場であり、負けたからどうということはなかったのですから、敵前逃亡と非難されても仕方がありません。しかも、不出馬を表明した後に、自分の派閥に対して、「安倍支持」を呼びかけるなど、その節操の無さには呆れてしまいました。そもそも岸田氏は、総裁選に出る気持ちが無いのなら、宏池会の会長を引き受けるべきではなかったのです。また、出ないのなら会長を辞し出る気のある後継にバトンを渡すべきです。

 今の段階の総裁選の状況は、自民党国会議員の七割が安倍支持という数字が出ています。前前回の総裁選で党員票を集め、党員票では首相を圧倒した石破氏でしたが、今回は党内がある種の「安倍再選」の空気に支配されていて、本来は「石破氏を支持している」層も自己保身で安倍支持に流れています。前前回は国会議員にはすでにそうした空気が漂っていましたが、今回は党員まで広がっています。しかし、この選択はあくまでも「消去法」「自己保身」によるものではありませんか。つまり、自民党議員の大多数が安倍政権の六年間を評価して支持しているわけではありません。確かに二期目の総裁選(無投票)で安倍首相が再選されたのは、一期目のアベノミクスや異次元の金融緩和、インフレターゲットなどの政策が一応順調に推移していると思われたからでしょう。

 二期目には、「モリカケ問題」などの不祥事や経済政策に陰りが見え始めたことに加え、安倍首相の態度物腰に嫌悪感を持ち始めている議員は多いはずです。決して安倍政権の二期目の評価しているわけではありません。

 

 

試される自民党

 

 

 このままの情勢では、安倍再選は間違いないでしょう。焦点は、石破氏に投票する議員がどれだけいるか、ということになります。安倍批判の意思表示をどれだけの議員ができるか。一部に政権を批判すれば「冷や飯」を食わされると自己保身に走っている議員や首相に逆らって「冷や飯」を示唆する首相側の派閥領袖がいると報道されていますが、全く以て低次元で情けない話ではありませんか。実際、安倍不支持で安倍政権の間に冷や飯を食わされたとして、それがそれぞれの議員の政治生命や議員活動にどれだけの影響があるというのでしょうか。

 実態は周囲の阿り、或いはレベルの低い恫喝による安倍一強という自民党、対して野党はきちんとした対案を出せずその上分裂状態に陥っている今の政治状況は、一種の閉塞状態だと言ってもいいでしょう。また、コアな自民党支持者の傾向は、今の党内の状況を良くないと思っていても、自分が支持する議員には、波風立てず大勢に順応して欲しいという矛盾した思いを持っているはずです。一方では、こういう時こそ闘うべきだと思っている支持者もいるはずですが、切り崩されている状態です。無党派も含めた自民党支持層には、反安倍のマグマはたぎっているかもしれません。

 そういう意味では、自民支持層と総裁選の実態にはねじれ現象が起きていると言えるかもしれません。それならば、自民党以外の保守政党の萌芽があるかと言えば、ありません。なぜなら、メディアの存在があるからなのです。安倍

政権もそうですが、政治がメディアに迎合しているのです。メディアを利用しようとしているから、メディアの目を気にするが余り、自らの政治活動を自縄自縛の状態に陥っています。本来、政治家は自身の政策、政治信条を内外に打ち出すという潔さが求められるはずです。ところが、今の政治は無難に過ごそうと、メディアに迎合しているのです。ところが政治がそれだけ恐れているメディア自身が「政治の現実」に迎合しようとしているのですから、政治、メディア双方が竦んでいるのが、実態です。

 

 

独裁に歯止めを

 

 

 

 よく「安倍首相に代わる人材がいない」という声が聞こえますが、これは全く根拠のないデマです。こうした声を流しているのは、安倍首相を徒に擁護しようという周辺なのです。これにメディアも加担しているのです。対抗する候補に対して「顔付きが悪い」など本来政治に全く関係ない、貶める報道や醸成する空気もそうした勢力の仕業でしょう。「安倍続投だろう、仕方がないからついていこう」という党内のこうした閉塞感を打破する方法は、一つしかありません。いかに石破票を増やすか、です。安倍周辺の心胆寒からしめるくらいの総裁選にすべきです。それが、この国の閉塞した政治状況を打破する無二の手段なのです。

 連続で2期6年までとなっている自民党総裁の任期が「3期9年」まで延長されました。今回安倍首相が再選されると、二〇二一年までが任期になります。この任期延長の幣害について、この稿でこう指摘しました。

 

「長期政権に立ち向かう党内の対立候補が出にくいということです。実に情けないことですが、現に「長いものには巻かれろ」「嵐が過ぎ去るまで」と異論はあっても無抵抗になってしまっている総裁候補者がいます。そうしたリーダー候補の後姿を見せられると、党内若手に人材が枯渇してしまう危険性があります。最大の幣害は、長期政権によって総理が「裸の王様」になることです。つまり、権力の長期化で周囲がゴマすり集団化してしまう恐れがあります。政策、政治信条に賛同するのではなく、首相の歓心を買いたいイエスマンが周囲に集まって、独裁的になってしまう恐れがあります。独裁者を目指すこと自体が悪いのではなく、それにブレーキをかける気概が誰にも無いことです。皆が権力者に群がってその結果、雪だるま式に独裁的になることが一番恐ろしいことなのです。何の定見も無く、意思も薄弱な政権が独裁的になることほど厄介なものはありません。任期延長の話が出ているのは、取り巻く議員たちのそうした権力への迎合姿勢の現われではありませんか。」

 

 今の総裁選の様相はまさに私が恐れていた状況になりつつあります。中身が空っぽの雪だるまが大きくなっています。だからこそ、今回の総裁選は、敗北する側が「意味のある敗北」を目指すべきで、現政権に圧力をかけ、独裁を阻むべきなのです。

 

フォーNET 2018年9月号

 

「ミスターゲート前」と呼ばれる男の原点 沖縄平和運動センター議長 山城博治氏

沖縄平和運動センター議長 山城博治氏

 

「ミスターゲート前」と呼ばれる男の原点

祖国復帰運動の挫折から非暴力直接行動への軌跡

 

「ミスターゲート前」「ミスターシュプレヒコール」。そうした異名をもつのは、辺野古新基地建設への抗議運動が続くキャンプ・シュワブゲート前行動の中心人物・山城博治さんだ。山城さんは、これまで、沖縄の反戦平和運動の第一線に立ち続け、沖縄平和運動の象徴とも言われてきた。昨年七月以降、辺野古新基地建設反対運動の陣頭指揮にあたってきた現場第一主義の男が、運動人生の原点を語った。

 

 

ガン闘病からの

奇跡的復帰

 

 二〇一四年七月一日、この日は、安倍政権が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした日ですが、沖縄にとっては別の意味もあります。沖縄防衛局が辺野古新基地建設に向けた関連工事を始めた日でもあるからです。

 私たちは、七月一日からキャンプ・シュワブゲート前で抗議行動を始めました。当初は、工事関係車両の通行阻止を目的としたゲート前での早朝の阻止行動、そして日中のゲート前抗議集会を続けていましたが、今年(二〇一五年)一月十日深夜、工事車両が不意打ちのように基地内に入ったとの知らせを聞いた後は、交代で二十四時間の泊まり込みの監視を続けてきました。私は、東村高江のヘリパッド建設反対闘争でも夜間泊まり込みをしながら運動を続けた経験があって慣れていたこともあり、ゲート前にテントをはって泊まり込みを始めました。

 休みなくずっと辺野古のテントで暮らす毎日でしたので、体が悪くなるはずです。今振り返るとさすがに、あれは異常でした。しかし、そうした経験がある今だからこそ、運動を続けるうえで体が一番大事だと身にしみています。

 今年の四月二十一日、悪性リンパ腫の治療のために闘病生活に入って現場を離れました。抗がん剤治療は計六回にわたり、副作用で高熱にも悩まされましたが、八月二十六日、無事に治療を終えて退院しました。退院した当初は、四カ月間の寝たきり生活のため、トイレまで歩くことすらできないほど体力が落ちていました。入院中も辺野古の現地情勢を考えない日はなく歯がゆい思いでしたので、退院後は、すぐさま「辺野古に戻るため」という思いで毎日朝夕一時間程度近所を散歩して体力の回復に努めました。

 抗がん剤治療の結果、頭髪が全部抜けてしまったのですが、これも、「辺野古の暑さに耐えるため」、ニット帽で頭を隠すことなく直射日光を浴びながら歩いたものです。私の誕生日の九月二十日、辺野古を離れてちょうど四カ月ぶりにゲート前を訪れて皆さんに挨拶しましたが、「現場復帰」は十月六日からです。

十三歳―

大衆運動の出発点

 私が中学校に入学した一九六五年、B─52戦略爆撃機が嘉手納基地に配備され、沖縄でB─52撤去運動が始まりました。中学校の先生方とともに「B─52撤去」と書かれた黄色のリボンを胸につけて初めてデモに参加しました。真っ黒な爆撃機がサメのヒレのような尾翼をたてて並んでいる嘉手納基地のB─52を初めて見た時、あれがベトナムで大勢の人たちを殺していると思うといたたまれない気持ちになりました。

 忘れられない思い出があります。B─52撤去要求集会のデモに参加していたときのことです。嘉手納基地の前で機動隊とぶつかって、みんな大通りから路地に入って逃げる途中で、私は側溝に足をとられて転んでしまい、私の上を何人も踏み越えて逃げてゆくので踏みつぶされそうになったことがありました。

 「あーここで死ぬのかな」と思ったとき、ある人が私の腕を掴んで引っ張り出して難を逃れたことがありました。時間にすると一瞬だったと思うのですが、今でも鮮明に覚えている出来事です。

 ちなみに、中学生のころは、このようなB─52撤去運動に参加したほか、中学三年生のとき、校内の弁論大会で優秀賞に選ばれたことがありました。そのときに訴えたテーマが実は特攻隊の話です。当時の自分とあまり年齢の変わらない少年兵たちがわずか二十年前に特攻をした悲劇を忘れてはいけないと訴えたのです。あの当時は、特攻隊に同情的だったし、思想的にみれば右翼的でしょう。私の人生で唯一右翼的だったのは、後にも先にもあの頃だけです。

 一九六八年に沖縄県中部の前原高校に進学し、入学後は、迷うことなく社研(社会科研究クラブ)に入部しました。私が高校に進学した当時は、復帰運動が最高潮に達していたころで、社研は、文化系サークルとして沖縄が直面する課題を学び運動することを謳っていました。いうなれば、祖国復帰運動団体の高校生版の役割を担っていました。そして、もともと社会運動に非常に関心があったのと、社研の先輩の薦めもあって、高校一年生で生徒会副会長、二年生のときには生徒会長を務めました。

 一九六九年十一月、佐藤総理とニクソン米大統領との会談で、七二年の沖縄返還が決まるのですが、その佐藤・ニクソン会談の頃には、沖縄返還協定の実態がだんだん明らかになってきたのです。それが、沖縄人(ウチナーンチュ)の望んだ核抜き・基地撤去ではなく、核かくし・基地自由使用の裏取引があることがわかるにつれて、祖国復帰運動内部に、「そんな返還はまやかしだ」として批判が巻き起こりました。復帰運動に携わっていた人たちが求めていた「基地のない平和な沖縄」とは違ったのです。

高校時代に

ハンストのリーダーに

 六九年十一月の佐藤訪米に際し、「佐藤訪米は、沖縄をアメリカに売り渡すために行くものだ。絶対にとめよう」と全校生徒に呼びかけて高校のグランドに百二十人くらいの生徒を集めて一週間のハンストをうちました。そのときは、校長に呼ばれて「君の行動には問題があるけど、気持ちは理解できるので、今回は、厳重注意にとどめておこう」と言い渡されて許されました。

 しかし、翌年一九七〇年は、七〇年安保改定反対運動が盛り上がった年だったので、その年の六月再び、数人の仲間を集めて学校をバリケード封鎖しました。午前四時ころに学校に忍び込んで、三階建ての二教室しかない内側の階段の一枚扉をしめて、扉の前に机・椅子を山積みしてバリケード封鎖したのです。そして、「安保改定反対!」「沖縄返還協定反対!」と書いた垂れ幕を垂らすなどのゲリラ行動にうって出ました。

 当時は、労働運動や学生運動が激しい頃でしたので、首里高校やコザ高校など他の学校でも同様の学生運動はみられたようですが、さすがに高校生を百名以上集めたハンストは他に類を見ないものでした。

 沖縄戦後史の大家で沖縄大学名誉教授の新崎盛暉先生は、ある雑誌のインタビューの中で「私は、去年(二〇一二年)、六九年の前原高校のハンストのリーダーが、当時高校二年の生徒会長山城博治であることを知った。高江のオスプレイパッド建設反対闘争の現場や、普天間基地のゲートで、『国家権力に対する拒絶の意思』を示す非暴力実力闘争の牽引車としての役割を担っている、あの山城博治である。沖縄は、いまだに闘い続けているのである」などと語ってくれています。

 当初、祖国復帰運動は、いわゆる「銃剣とブルドーザー」によって、土地を奪われて米軍基地が建設され、日本に助けを求めて始まるのですが、日米両政府は、復帰運動をある意味利用していたのです。この時は「裏切られた」との思いが強くありました。こんな運動はナンセンスだ、敗北思想だと思ったのです。復帰運動は、沖縄を解放する運動ではないことに気付きました。

 沖縄の戦後史は、日本を選択するかアメリカを選ぶかの二者択一を迫られてきた歴史でした。終戦後、沖縄では、日本共産党の「解放軍規定」にみられるとおり、アメリカ軍を解放軍と認識する勢力がありましたが、アメリカ軍はこちらの意に反して沖縄に襲いかかってきました。そのため当時、日本からの独立を訴える勢力がいたのですが急速にしぼんでいきました。あまりに乱暴なアメリカ軍を前にして政治的修正が働いて日本に傾斜していきます。

 私は、復帰が迫り、復帰の真の姿が明らかになるにつれて「絶望感」に陥りました。米軍に助けてもらえないし、日本に救いを求めようとして復帰を求めて県民一丸となって頑張ってきたにもかかわらず、復帰が近づけば近づくほど、米軍基地はもとのままで核抜きもまやかしという実態が明らかになり、日米の国家権力が再び沖縄に牙をむいてきたからです。

日の丸の鉢巻から

反復帰論へ

 沖縄返還の実態が明らかになっていく中で、復帰運動も変化していきました。当初の祖国復帰運動から反戦復帰あるいは無条件全面返還要求に変わっていきます。私もそれまで祖国復帰を夢見て、日本という国家権力を正視することなく、「祖国」というオブラートに包んで幻想を抱いて運動を進めてきました。今の私の姿からは想像がつかないかもしれませんが、高校二年生の初め頃までは、日の丸で染めた鉢巻をして運動していたのです。真ん中に日の丸で、その左に「祖国」、右に「復帰」と書いた鉢巻をしめていました。

 祖国復帰運動は、復帰・返還の内実が明らかになるにつれて、反戦復帰運動や無条件全面返還運動と言葉を変えて続けられていきますが、それは、私にとって復帰運動の延長線上のものでしかなく、本質的には変わらないし、言い訳にすら感じられました。敗北を糊塗にするようなそのような運動や思想を受け入れることができませんでした。

 そうした絶望感に浸っていたときに出会ったのが、新川明さん、川満信一さんらの反復帰論でした。当時、沖縄タイムス社の発行する総合雑誌「新沖縄文学」に掲載される彼らの論考を読んで驚愕しました。これこそが私の探して求めていた思想だと思ったのです。自分自身の立ち位置や思想を確立したかった私にとって、本土に系列化されてしまう政党や思想にはまったく興味が持てませんでした。そうした中、新川さんや川満さんらが主張したのは、日本を祖国とひと括りにしてしまって「祖国日本」と幻想化してきた過ちを指摘し、復帰運動を「祖国幻想」として鋭く批判したのです。

 日本は、国家という権力機構であり、その日本という権力が沖縄をどう利用しようとしているのかに着目しないと、沖縄は救われない。日米という二つの国家権力の実態に基づいて、「祖国」とか「解放軍」といった幻想から離れて、沖縄人としての立ち位置からそれらがどういったものなのかを冷静にみるべきだと主張されていました。沖縄は歴史的に日本とは異なる独自の道を歩んできたし、また、日本に編入されて以来、差別も受けてきたのも事実です。この沖縄と日本との異質感・違和感、そして、沖縄独自の立場を踏まえ、日本とアメリカを相対化して沖縄の行く末を考えようという立場。簡潔にいうと、ウチナーンチュが日本に対峙するときの沖縄人の心のあり様を問う思想―これが反復帰論の主張でした。それ以上でもそれ以下でもありません。

 私は、別に琉球独立論を謳っているわけでも、日本の中での自治権拡大運動を呼びかけているわけでもないのです。高校一年の頃から、祖国復帰運動に染まった挙句、「祖国日本に裏切られた!」との思いを抱いてきた私たちにとって、新川さんたちの反復帰論はとても斬新で目からうろこが落ちる思いだったし、希望を託せる思想はこれしかない、と思いました。

 

沖縄の

アイデンティティとは

 高校生の時に激しい運動をやってきたので、新左翼といわれるセクトの活動家が大勢、「うちの大学に来ないか」ということでオルグにきました。当時は、沖縄の高校生に暴れている生徒がいるということで有名だったようです。しかし、その頃には、すでに祖国日本という幻想を捨て、反復帰論に目覚めていたので、本土からくる活動家には全然興味がありませんでした。日本、アメリカという国家権力から離れ、それらを相対化し、日米のどちらかに与することによって解放される沖縄ではなく、沖縄自身の力によって活路を切り開いていく運動をしなければならないというのがあの当時から今も変わらない私の考えです。

 新川さんの議論は、当時も今も、沖縄社会では、異質な思想であり、インテリの思想の遊びといった扱われ方をされていることは否定できません。運動論にはなり得ません。だから、私が最近、反復帰論者であることを方々で発言しても、誰も改めて「山城さんは反復帰論者だったんだね」なんてことを言わない。箸にも棒にもかからないようなものです。しかし、思想的には、非常に高尚な議論だと思うし、現実的な政治力は持てないかもしれないが、今もなお、沖縄人として生きる人たちの精神を支える大きな柱になり得ると思っています。

 反復帰論が今も力を持ち得ると言うのは、理由があります。沖縄では、復帰後、例えば、社会党の運動、共産党の運動というようないわば「沖縄の本土化」という現象が現れます。復帰の総括ができていないため、沖縄の社会運動は全て、中央(本土)に流されて四分五裂していきます。私が、思想的にも運動論的にも沖縄にこだわりたいのは、無条件にヤマト化するようでは混沌とした日本の政治状況に小さな沖縄が足元を必ずすくわれてしまうと感じているからです。

 日本政府が沖縄を差別し、沖縄を犠牲にするシステムをつくっている以上、沖縄が日本の「四十七分の一化」することなく、沖縄と本土とは違うということを踏まえないと、沖縄は生き残ることができないと思っています。一足飛びに独立とか、自治権拡大とかを議論するのではありません。そうした沖縄と日本の差異を踏まえたうえで、沖縄としての足元を見据えるべきだという考えです。

 

戦争観の原点

 

 私の行動の根っこには父母から聞かされた戦争体験の話があります。私は、具志川村(現、うるま市)の農家の次男として生まれたのですが、私の父は、昭和二年生まれで沖縄戦のときは満十七歳です。父は、防衛隊として戦争を経験していますが、南部戦線で死に目に会うのです。左足やわき腹に三カ所の貫通弾を受けています。致命傷にならない程度に傷を負ったそうです。最初は、仲間に肩車をされたり、担架で担がれたりしていたらしいですが、最後は、体が全く動かなくなってしまって原野に捨てられました。

 三日間、銃弾の飛び交う中、側溝の中に隠れて、水がなかったので、雑草を食べながら水分を補給していたと聞いています。後で分かったのですが、まともな水がなかったので命拾いできたようです。もし、あの時に水を腹一杯飲んでいたら、出血多量で死んでいたかもしれません。命拾いしたとはいえ、傷口にはウジ虫がわいて痒くてたまらなかったそうです。

 こういった話を子どもの時から聞かされて、「ひどい話だな」と思ったものです。一方、母親からは、逆に戦争の話をほとんど聞くことはありませんでした。母の一家は、当時日本統治下にあった北マラリア諸島のテニアン島に入植者として移住していたのですが、母方の祖父は病気で島で亡くなり、女だけの五人家族で日本に引き揚げてきたそうです。戦争体験を語る人の中には、多少は自慢げに語る人もいるようですが、母の口から、戦争の話を聞くことがなかったのは、本物の恐怖を感じたからだと、子どもながらに感じたものです。

 あるとき、叔母から母の戦争体験にまつわる話を聞かされたことがあります。母の一家は、アメリカ軍の砲弾を避けるため、海岸線の鍾乳洞のガマに輪をつくるように座っていたところ、朝目が覚めると、外側の海側に座っていた人たちが全員亡くなっていたそうです。母たちは、たまたまガマの奥に座っていたので助かったのです。また、帰国しても、収容所生活は言語を絶する辛さがあったと思います。収容所には、隣人同士で盗難や強盗、強姦などもあったらしく、母の一家は、女性だけの集まりでしたので、言葉では表せないような辛い経験をしたかもしれません。

戦争の被害者であり

加害者でもある

 もっとも、私は、沖縄が全部被害者だという捉え方をするつもりはあません。被害者というのも一面です。母は、沖縄が当時貧しかったので南方に移り住んだと言うのですが、南方地域は、第一次世界大戦でドイツから割譲した領土です。これは加害の歴史であり、植民者として移住したのですから、単純に沖縄の歴史を全て被害の歴史とするわけにはいかないはずです。移住した沖縄人は、日本人の一人として、戦前の帝国主義による世界植民地分割競争の歴史の中で生きてきたわけです。

 そうした点で、日本のトータルの戦争の歴史の中で、沖縄の被害と加害の両面を捉えるべきで、一面だけをみると真実を見落としてしまいます。

 私がこうした歴史の多面性を強調したいのには理由があります。「永遠の0」の著作で知られる作家の百田尚樹氏にみられるような特攻隊を美化する思想に違和感を覚えるからです。日本の保守層の論調は、わずか二十歳の若者が国を守るために鹿児島の知覧から特攻隊として出撃していった。彼らは、愛する人・家族を守るために死んでいった。この人たちを英霊と言わずして誰を英霊と言うのかーと主張します。

 私は、その気持ちが分からないではないのです。後世に生きる私たちが、特攻隊の青年の悲しさや苦しさを受けとめることは大事なことだと思います。しかし、違和感を覚えるのは、それが全てになってしまっていることです。

 日本の保守と言われる方たちは、これを否定することは絶対に許さないという立場でしょう。しかし、私は、特攻は人間のやることではないと思うし、そんなことを命じる国家は異常だと思います。わずか二十歳になるかならないかの若者たちを死に追いやった国家、一縷の望みもない特攻という作戦を組んだ国家の無謀さ・非道さを問わずに、国のために殉じた英霊として美化する考え方に疑問をもつのです。

 当時の若者たちの気持ちを省みず、そこまで追い詰めた政府や日本軍国主義の責任を追及しない百田氏のような発言には違和感を覚えます。私も、特攻機の本や映像をみると彼らの非業の死に対して涙します。しかし同時に、それを強要するような戦法をとった当時の軍部に対して限りない怒りを禁じえないのです。

米軍統治下の

沖縄社会に生きて

 七二年復帰までの米軍支配下の沖縄社会では、米軍は、本当にやりたい放題でした。あの空気を今でも覚えています。ここ沖縄市は、当時はコザ市と呼ばれていましたが、市街地中心部のコザ十字路は黒人街、ゴヤ十字路は白人街にわかれていて夜な夜な酔っぱらった米兵が街にあふれて坂の上のゴヤ十字路から坂の下にあるコザ十字路の間くらいで白人と黒人の殴りあいが始まるのです。MPや琉球政府の警察が駆けつけて仲裁に入るのですが、あの当時の沖縄の世相は戦後そのものでした。街には、経済と呼べるようなものはなく、米軍基地の中で働くか、米兵相手のバーやコーヒーシャープと呼ばれた食堂で働くくらいでした。島全体が米軍の色に染めぬかれていました。

 そういう中にA&Wというアメリカの外食産業が入ってきて、広い駐車場のあるお店にハンバーガーやコーラといった食べ物はキラキラと別世界のように輝いて見えました。私たちは、そうした光景をみて育ちました。こちらはというと、はだしで歩きまわり、毎日昼も夜も同じ半ズボンをはいているような時代だったので、まるで別世界でした。

 沖縄には、ある種の「ねじれ現象」があって、学校では、皆さんが想像されるような平和教育を教わってきたわけではありません。終戦後、沖縄は、再び日本の餌食にならないように、日本からの独立論がもっとあって然るべきだったのですが、やってきた米軍がもっと酷かったのです。米軍統治からの解放を願って日本復帰運動が始まるのですが、そこでは、沖縄戦の悲劇や日本軍の暴力などが完全に捨象されてしまいました。私自身も、中学・高校の頃、日本を批判することは一切なかったですし、沖縄社会全体が「祖国日本」ということで美化していたのです。

 しかし、残念ながらこれは、戦前と同じ構図です。沖縄戦までは、沖縄がやられてもいずれ「友軍」─当時の沖縄では日本軍を指して「友軍」と呼称していました─が助けに来てアメリカ軍を追い返してくれると信じられていました。友軍待望論があったのです。本土の捨て石にされ、その幻想が打ち砕かれた後もそうです。戦後になり進駐してきたアメリカ軍は、沖縄中を蹂躙し、婦女を暴行し、幾多の殺人事件も発生しました。金網で軍事基地を囲い、酷い世界が現れました。当時の沖縄には、人権もなく、ただ米国布令の中で生きていくだけでした。そうした社会情勢を背景として、祖国待望論や平和憲法待望論がでてきたのです。

 そうした米国の植民地的統治に対する不満が爆発したのがコザ騒動です。私は、高校生の頃の運動がたたって学校を退学させられたのですが、その後、労働・平和団体の事務所に出入りしていました。当時は街のあちこちで、全軍労を始め学生団体や労働団体が70年安保と沖縄返還反対を訴えてデモ行進をしていましたが、私は、全軍労の労働者を中心につくられた中部地区反戦青年委員会に出入りして、大人たちに交じって話を聞き議論をしたものでした。コザ騒動が起きたその日は、自宅に戻って翌朝目覚めると、ゴヤで大暴動が起きたと知って地団太を踏んだものです。チキショー、おれも大暴れしたかった(笑)と思って、慌ててゴヤに駆けつけると、焼け焦げた米兵車両を何十台も目にしました。

 しかし、一人の米兵も死者もけが人もでていません。騒動といっても、米兵を殺傷する目的ではないので、沖縄の人たちにとって、憂さ晴らしだったのでしょう。米兵の車両だけをひっくり返して火をつけたのですが、米兵の犯罪があちこちで起きていた時代に唯一起きた出来事でした。本来なら、文字どおりの暴動が起きてもおかしくないでしょうが、沖縄人が米兵を殺したことはただの一度もありません。

 普通はありそうだと思いませんか?民家に侵入して婦女子に暴行する事件が相次ぎ、由美子ちゃん事件という、わずか六歳の女の子を強姦して殺害後に基地のゴミ捨て場に死体を捨てるといった凄惨な事件も起きていました。あるいは、落下傘でジープが落ちてきて圧殺される事件もありましたし、中には、黙認耕作地に入って薬莢を拾って小銭を稼ぐ暮らしをしていたところを米兵が遊び半分に撃ち殺すといった事件もありました。こうした事件は枚挙にいとまがありません。しかし、一人の米兵も殺害することはなかったのですから、基本的には、物静かなやさしい県民性だと思います。

ケビン・メアとの因縁

 高校退学後は、大学受験資格検定試験(大検)を経て大学に進学しました。卒業後は、沖縄に戻って働いていましたが、二十七歳のときに再上京し、いろいろあったのですが、最終的には、一九八三年五月から沖縄県庁に勤めるようになりました。平和運動センターの事務局長は二〇〇四年から務めています。二〇〇二~二〇〇三年頃まで沖縄県職労副委員長を務めていましたが、私は、イラク戦争反対や選挙支援の街頭演説などを連日行っていました。それが、当時の沖縄平和運動センター議長の崎山嗣幸さん(現、沖縄県議)の目にとまって、平和センターに呼ばれて担当することになりました。

 平和運動センター事務局長としての最初の取り組みは、二〇〇四年の与那国島への掃海艦寄港阻止闘争でした。乗組員が掃海艇のタラップから降りてくるのを止めるため、タラップ下に座り込んで七時間以上にわたって米兵の下船・上陸を阻止したことがあります。その時、漁港ヤードにケビン・メア米国総領事が立っていました。

 彼が近づいてきて「君は誰だ?」と尋ねるので、「答えてもいいけど、この国には人の名前を聞くには、まず自分から名乗るのが常識だ」と言ったところ、彼は、「ケビン・メアだ」と言うから、「よく知っているよ。君が、あの悪名高いケビン・メアか。ここは、あなたの来るような場所じゃないから帰りなさい。もし強行するようなら、座り込みを続けさせてもらう」と言って、後は、機動隊との激しいもみ合いになりました。そのときから私とケビン・メアとの関係が始まります。

 私は、最初から、日程調整や会議・会計などの事務方を務める事務局長ならば引き受けるつもりはありませんでした。先頭に立って運動を引っ張り、現場第一で組織を牽引したいと考えていました。そうした現場第一の運動としては、そのほかにも二〇〇九年四月、在日米海軍が掃海艦を石垣港に入港させるというので、港のゲート前に座り込んで車両の通過を阻止したことがありました。そのとき、先頭車両に乗車していたのがケビン・メアです。

 何時間もとめましたが、私は、そのとき警察に対して「ゲートは他にもある。遠回りして別のゲートから行くのであれば、我々としては、そこまで止めるつもりはない。ここでは、市民として抗議の意思表明をやるので、無理にここから出る必要はないでしょう」と伝えたのですが、メアは、意地でもここから行くといってきかない。すると、メアは、車から降りてきて座り込んでいる私たちの頭の上を跨いでいくのです。当然、怒号が飛び交った挙句、足を引っ張ったり、米兵に飛び乗って首に腕をかけたりの乱闘騒ぎになってしまいます。私たちとしては、非暴力でありつつも、実力行動を指針として運動を進める方針をとったわけです。

 ちなみに、こうしたメアとの確執には後日談があります。メアが沖縄を離れるとき、離任式に列席する東門沖縄市長(当時)に、「メア、あなたはとても頑固な男だけど、アメリカ人らしくわかりやすかった。アメリカの本性がよくわかった。そういう意味で敬意を表したい」といった伝言を頼んだのです。すると、メアから「山城は、いい男だけど、あいつは頑固だ」とのメッセージが返ってきました。彼の居室には、沖縄一頑固な男ということで、私の写真が飾ってあったそうです(笑)。

非暴力だが

無抵抗ではない

 辺野古での運動も非暴力で運動を進めるつもりですが、だからと言って無抵抗主義ではありません。非暴力の実力行動が私のスタンスです。キャンプ・シュワブゲート前に座り込んで阻止線を張ると、機動隊にごぼう抜きされるけど、それでもそうした意思表示を行動であらわさないといけない。

 大勢の沖縄県民がわざわざ遠い那覇市内から車で1時間以上の距離を辺野古まで駆けつけるのは何のためか。毎朝、ゲートには、工事車両が入っていきます。私たちは、その車両の基地内への進入を阻止して少しでも工事を遅らせたいのです。ゲート前を封鎖するのは、沖縄に牙をむいて襲いかかってくる政府や機動隊を前に、単に「反対」「抗議」といった声をあげるだけでは、残念ながら基地建設をとめることができないからです。そのための行動こそが大事なのです。私は、抗議行動を過激にしようとは思っていませんし、非暴力に徹するつもりですが、直接行動は今後も続けていきます。高齢のおじい・おばあたちもゲート前に寝そべったり、座り込んだりして工事車両の通行を阻止しようと頑張っています。

 与那国島掃海母艦のときもそうです。軍艦を寄港させることをとめることはさすがにできませんが、タラップの下に座り込んで兵士を下すことを阻止することはできます。私の運動のスタイルはいつもこうです。もっとも、私は、過激な暴力は大衆運動ではないと思っています。今でも、キャンプ・シュワブゲート前で座り込みを続けると、機動隊と激しいもみ合いになってしまいますが、基本的には、海上に出る車両など関係車両以外は止めるつもりはありません。

 また、抗議現場では、ときには怪我人や逮捕者を出すこともあります。そうした抗議行動で市民に逮捕者がでてしまうと、「過激派」というレッテルを貼られかねませんし、せっかくはるばる遠い那覇市内から辺野古まで来てくれた市民の足を遠のかせてしまうことにもなります。「逮捕覚悟」ということは威勢はいいですが、極力、逮捕者を出さないように運動を進めたいですし、逮捕者を仮に出してしまった場合は、全力で仲間を助けるために動く、これが鉄則です。

本土の皆さんへ

 本土の皆さんは、日本の安全保障や防衛抑止力について、沖縄が反発していることに対して懸念や疑問があると思います。しかし、私たち沖縄県民が訴えているのは、全国四十七都道府県の中で沖縄にだけこれだけの基地が集中している現状をどうみるのか。基地が集中していることは、同時に戦争の脅威が沖縄に集中していることを意味します。

 政府は、先の戦争のときと同じように、いざ有事の時に沖縄を犠牲にして切って捨てればいいと思っているのではないでしょうか。沖縄は、それが再現されようとしていることに対し、それだけは勘弁してくれと訴えているだけです。もしそんなに中国の脅威やそのための抑止力が必要だというのであれば、日本全体で、みなさんでそれを考えてくれ、一緒に考えてほしい、なぜ沖縄にだけ基地を集中させてそれで平然としていられるのか、私たちはそのことに対してNOと言っているのであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

 政府は、沖縄の過激派・左翼が反対しているような言い方をしますが、そうではありません。沖縄は、今や県知事から現場末端の人まで同じ気持ちで運動しています。その事実と沖縄の苦しみ・悲しみを理解してほしいと思います。

 二〇一五年十月十三日、翁長知事は、仲井眞前県政による公有水面埋め立て承認を取消しました。ゲート前は、歓喜の坩堝でわきにわきました。しかし、政府は早速茶番劇のように取消し処分に対する不服申し立てと執行停止の申し立てをしたので、早ければ来週には埋め立て本体工事に着工するおそれがあります。今後、ゲート前はますます激しいものになるでしょう。しかし、それでも私たちは、引き続き、翁長知事の決断を支える運動を進めていきます。

 

 

 

 

 

 

山城博治さん略歴

1952年沖縄県生まれ。法政大学社会学部卒業後、沖縄県庁に入庁。駐留軍従業員対策事業、不発弾対策事業、税務などを担当。沖縄県職員労働組合副委員長を経て自治労沖縄県本部副委員長。2004年から沖縄平和運動センター事務局長、2013年に同議長。東村高江のヘリパッド建設反対運動、米軍普天間基地へのオスプレイ配備反対運動、現在、辺野古新基地建設反対運動など反基地運動の先頭に立ち続けている。沖縄平和運動の象徴的存在。共著「琉球共和社会憲法の潜勢力」(未来社

 

『沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題』(フォーNET取材班編著 春吉書房 2016年9月)

日米合意の「返還」の原点に戻るべき 「世界一危険な基地」普天間の叫び 佐喜眞淳氏 宜野湾市長(当時 2018年1月)

小誌『フォーNET』今年1月号で偶然ですが、今回の知事選に出馬する佐喜眞淳氏(当時は宜野湾市長)のインタビューを掲載しました。もし、県知事になれば立場は変り、発言も少しは変るかもしれませんが、これがこの人の本音だろうと思っています。

 

そこが聞きたい!インタビュー

日米合意の「返還」の原点に戻るべき

「世界一危険な基地」普天間の叫び

 

 

「世界一危険な基地」といわれる沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場。基地の周辺には学校などの公共施設、住宅がびっしりと貼りついている。基地返還を日米で合意してから二十年以上経過してもそのめどはまだ立っていない―

 

 

 

 

佐喜眞淳氏 宜野湾市

 

 

(取材日・平成三十年一月十九日)

 

 

 

宜野湾市民の不安感情

 

 

―米軍による事故について。昨年十二月に宜野湾市の保育園の屋根に米軍ヘリの部品が落下、それから間もなく普天間第二小学校の校庭に米軍ヘリの窓枠が落下しました。

佐喜眞 当然、事故はあってはならないことであって欲しくないのですが、万一起きたら、その原因が人的ミスなのか機体の故障によるものなのか。人為的であれば、単純ミスなのか要素が複雑に絡み合っているのか、その原因をしっかり究明して万全に再発防止に努めてもらいたいというのは、誰しも思うことです。最近、事故が多いのは、米軍の中の規律の問題なのか、機体の点検メンテナンスに問題があるのではないかと思わざるを得ません。

―米軍に対して事故究明は申し入れしていると思いますが。

佐喜眞 申し入れて人的ミスという答えは返ってきていますが、その詳細な中身についてはまだ回答されていません。窓のレバーが安全ワイヤーによって適切に固定されていなかったという報告は受け取りました。しかし、市が求めていた事故が頻発する構造的な原因究明の報告はまだありません。これが機械的なトラブルによる事故、事件であれば解明まで一年かかることもありますが、今回の事故は調べればすぐに分かることではないかと思います。ただ、これはアメリカ側の仕組みもあると思います。と言うのは、公表するにしても再発防止策を実行するにしても、しっかりと正確にやるというルールがあるのかもしれません。

―しかし、その原因が報告される前に訓練が再開されました。

佐喜眞 米軍はすぐに訓練を再開してしまいますね。たとえ原因が究明されても、再発防止が講じられても、詳細が発表されないままの飛行再開では、市民の不安感情は払拭されませんので、そこは残念でなりません。

―原因究明と再発防止策が出るまでは訓練を自粛してもらいたいと。

佐喜眞 それが望ましいですね。人によるかもしれませんが、これだけ事故、事件は頻発すると、夜間訓練のヘリの音一つでも敏感になります。その上、普段と違う音だと「墜ちてくるんじゃないか」という不安でそれがストレスになります。市民の反応が敏感になってしまっています。

―実際に二〇〇四年の沖縄国際大学へのヘリ墜落が市民の記憶に残っているでしょうから、事故が起きると過敏になってしまうのは仕方がありませんね。

佐喜眞 そこは米軍に徹底してもらわないと、未だに市民の安全が脅かされているのは厳然とした事実です。

―「世界一危険な飛行場」と言われている普天間飛行場ですが、二〇一四年に岩国基地が大型空中給油機「KC130」十五機を普天間飛行場から引き受けたので、騒音はずい分減ったようですね。

佐喜眞 固定翼機が移転したのは基地負担の軽減になったのは事実ですが騒音問題は完全に解消していません。特に懸念しているのが、夜間の騒音です。特に冬は夜六時くらいから暗くなります。暗くなると見えない中で音だけが聞こえます。

―6年前に普天間飛行場に強行配備されたオスプレイですが、実際に近くの高台から見学して思ったのは、通常のヘリに比べて音が小さいなと。

佐喜眞 オスプレイの重低音が不安を増すという声もよく聞きます。また、オスプレイがヘリモードで飛行すると気流や騒音が下に吐かれるので、窓を閉めていても部屋が振動します。重低音の特徴です。水平飛行になると少し軽減されますが、ヘリモードの時もありますね。

飛行音の酷さという点から言えば、ジェット機が離発着する嘉手納基地の方が大きいと思います。普天間飛行場の場合、夜間飛行に加えてタッチアンドゴーなどの旋回飛行をしますから、一回で終らずずっと音が続きます。しかも、訓練のスケジュールを決める運営権は米軍にありますから、不定期で予告なく実施されています。最近は普天間飛行場付近での訓練は減りました。その代わりに遠隔地で訓練やって帰還するのが夜10時を回ることも度々あります。訓練回数など負担が軽減されても基地がある限り、危険性は無くなりません。飛ぶなと言っても飛びますから。車等の事故と同様で事故が起こらないという保証はありません。

 

 

 

 

「基地の固定化」の不安

 

 

 

普天間飛行場の移設について。市長の公約である「普天間の固定化阻止」「早期の危険性除去」「五年以内の運用停止」など見通しはどうでしょうか。

佐喜眞 普天間飛行場の返還合意は、一九九五年に起きた米兵による少女暴行事件で在沖米軍の整理縮小に合意した九六年のSACO(日米特別行動委員会)合意が基本にあります。五年から七年での返還で合意したのですが、普天間飛行場の代替施設が必要だという条件が付きました。普天間飛行場の返還合意から今年で22年目となり、時間がかかっているのも事実です。

 我々が望んでいるのは、一日も早い返還です。返還するためには日米両政府で移設先を整備することになっています。これは我々がやるのではなく、あくまでも政府がやるべきことなんです。宜野湾市民が望んでいるのは、合意した普天間飛行場の全面返還という約束を守ってもらいたいということだけなんです。

―固定化阻止を訴えていますが、固定化される恐れがまだあると。

佐喜眞 私が市長に就任してから、「名護市辺野古のキャンプシュワブへの代替施設建設が、普天間飛行場の継続的な使用を回避するための唯一の解決策である」と日米両政府は公式に発表しております。代替施設が完成しなければ普天間飛行場の固定化もあり得るかもしれないという不安を持っているのは私だけでは無いと思います。つまり、普天間飛行場の代替施設の運用が可能になって初めて普天間飛行場が返還されるという論理で、代替施設運用がいつの間にか大前提になっているのです。

 合意は、あくまでも返還が大前提でした。それが、移転先の運用がなかなか進まなくなって、いつの間にか合意が破棄され固定化される不安は拭えません。「(普天間飛行場を)しばらく運用する」という文言が入るかもしれない。事実、民主党政権時代に普天間飛行場の返還期日が無くなったことがありました。日米の信頼関係が損なわれた結果、合意が見直されて2006年の在日米軍再編協議最終報告(日米ロードマップ)で改めて示された2014年までとする返還期日が

延期になった上に、期限が無くなりました。安倍政権になり日米首脳会談、ツープラスツー会合を経て合意した沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画で、「二〇二二年度またはその後」という返還時期が改めて設定されました。このことに関しては、安倍政権を評価したいと思います。

 しかし、それでも当初の返還合意から二十年以上経っています。そして気になるのは「その後」という文言です。我々の不安を取り除いてもらいたいのですが、それを実行するのは日米両政府です。しかし、「キャンプシュワブへの代替施設建設が、普天間飛行場の継続的使用を避ける唯一の方策」という発言が平気で出ることに非常に不安を覚えます。

つまり、議論がいつの間にか普天間飛行場の返還が最優先では無くなってきている感じがするのです。最近のアジア情勢が変化する中で海兵隊が持つ機能、特に普天間飛行場のような特殊な機能を持った基地を手放すだろうかとも推測します。沖国大にヘリが墜落して県民があれだけ反対運動を起こした時ですら、普天間飛行場は返還されませんでした。

普天間以外で返還された基地もありますね。

佐喜眞 基地の整理統合計画では、普天間飛行場をはじめいくつかの基地が返還されて縮小される予定です。実際に返還された基地もあります。特に、県民の生活圏である都市部から米軍施設がなくなることは画期的なことだと思います。返還が始まるのは、復帰の一九七二年後からですが、総ての基地が沖縄から無くなる事にはならないと思います。あくまでも生活圏の危険性除去が目的で、事故という重大な事態が起きる危険性を除去することは、ひいては日米安保にも適うことだと思います。

―「五年以内の運用停止」は現段階ではなかなか難しいですね。

佐喜眞 仲井眞前沖縄県知事の時代、普天間飛行場がすぐには返還出来ないことを踏まえながら、危険性を早期に除去しようと政府、沖縄県宜野湾市による構成メンバーで検討した結果、「五年以内の運用停止」を目標に推進することになりました。その一環で、先ほどのKC130の岩国基地への先行移転です。本来の日米合意では代替施設が出来てからの移転でした。そういう意味では画期的なことでした。具体的に目に見える形で危険性除去をやるという日米間に素地は出来ています。ただ、移設先とその運用を決めるのはあくまでも日米両政府ですから、我々としては延び延びになっている返還をいち早く実現したいという目標を設定しているだけなのです。「いつか」では困ります。

―次の軽減策は?

佐喜眞 オスプレイの移転でしょう。現在二十四機ありますが、まずその半数を県外移転か訓練移転させるように働きかけています。

 

 

 

 

 

すり替わった「オール沖縄

 

 

 

―残念ながら、オスプレイの配置には本土では拒否感が一部にあります。

佐喜眞 衆議院の安保委員会に呼ばれると、「市長は、移設先は県外が希望しますか?それとも国外?」という質問を受けます。これは私がどうこうできることではなくあくまでも国政が決めることです。先日も窓が落ちた普天間第二小学校に与野党の安保委員会が視察にきたので、「去年の暮れに窓枠が落ちて、年が明けると早々に二回も不時着が起きました。それでも訓練は止めないのが現実です。国会で普天間飛行場の移転についてちゃんと議論してください」と伝えました。主義主張の問題ではありません。国民の生命財産を守る国政が第一に優先すべき問題なのです。

―沖縄の基地問題に対する関心は、本土と沖縄ではかなり温度差があります。

佐喜眞 自衛隊、在沖米軍の存在理由をもっと具体的に国民の間で理解すべきだと思います。米軍の中には、陸海空軍がありそれぞれに役割分担があり、それぞれに必要な装備があります。その運用は法治国家ですから法に則った運用であるべきです。日本の平和を維持するために何が必要なのかという基本的な議論から始めるしかありません。必ずしも最悪の事態ばかり想定する必要は無いと思いますが、アジアの情勢が極めて不安定な情勢の中で、抑止力を持つことは当たり前のことであり、そうしないと国民を危険にさらすことになります。しかし、国防に関して国民的コンセンサスが得られているかといえば総て得られているとは思えません。特に日米安保における在日、在沖米軍は必ずしも歓迎されていません。

―そうした議論で本土と沖縄の意識格差が縮まらないといけませんね。

佐喜眞 日本人が平和を尊ぶならば、そのために何が必要で何をなすべきか。理想と現実をしっかりわきまえて議論すべきでしょう。行き着くところは教育だと思います。

沖縄戦、米軍による統治、日本復帰、そして基地返還など沖縄の歴史を日本全体が共有できていないと思いますね。

佐喜眞 それに気が付かないようになってきています。戦争を知っている世代が少なくなったこともあるでしょうね。政治家だったら、初代沖縄開発庁長官だった山中貞則先生や、SACO合意の当時の首相だった橋本龍太郎先生など沖縄のために心を砕いていただいた政治家は、沖縄の地上戦での県民の悲惨な体験に配慮する方が多かったですね。その世代が代ってしまい、その歴史の記憶をしっかり継承すべきです。

―本土の日本人の中には「基地周辺の建物は基地が出来てからできたもので、住民の選択だった」という意見も散見されます。

佐喜眞 誤解されていますね。元々普天間飛行場の場所は戦前の宜野湾村の中心地でした。沖縄戦の時に上陸してきた米軍に日本本土への爆撃基地として強制的に土地を接収されて建設されたのが始まりです。一九七二年の本土復帰の頃までは今のような運用ではなく、補助飛行場としてパラシュート降下の訓練が行われていたのです。その後、嘉手納基地にP3Cが移駐され、その補助飛行場として滑走路が整備され、岩国基地から千人規模の第一海兵航空団が沖縄に移設するなど徐々に基地機能が強化されていきます。現在のような運用が始まったのは、一九七八年に北谷町のハンビー飛行場が返還されてその機能が普天間に移されてからです。

 宜野湾市は復帰前の一九六二年に市制が施行されて、一九七五年には人口は五万人を超えていて、基地の今のような運用が始まった時にはすでに基地周辺では市街地が形成されていました。

―本土の無知、無関心がそうした風評を生み出しているんですね。ところで、沖縄では「オール沖縄」という言葉が盛んに言われますが、これは沖縄県民の民意なのでしょうか?

佐喜眞 当時の「オール沖縄」と現在の「オール沖縄」が何に依拠しているのかを考える必要があります。オール沖縄という言葉が初めて使われたのは、私たちがオスプレイ配備に反対する市民大会を開いた時でした。当初は、オスプレイが配備されるから早く普天間飛行場を返還しようというのが県民の民意で、それはオール沖縄という言葉に凝縮されたのです。それがいつの間にか「辺野古反対」に取って代わられているのが現状です。普天間飛行場をいち早く取り戻そうというのが、オール沖縄の原点なのです。これが沖縄の民意だと言ってもいいでしょう。今のオール沖縄はその原点がすり替わってしまい、政治闘争の具として使われています。普天間飛行場の危険性除去という本来の目的のために建設的な議論をすべきです。

 オール沖縄の目的が変わったのにもかかわらず、民意だというのはおかしな話です。本当の沖縄の民意には基地は無い方がいいというものが多いと思いますが、だからと言って今の反対運動にように法律を破っていいということにはなりません。

 

 

佐喜眞氏プロフィール

昭和39年(1964)、沖縄県宜野湾市出身。千葉商科大学経済学卒。沖縄県議会議員(2期)、宜野湾市議会議員(2期)を務め、2012年宜野湾市長選で初当選。現在2期目。

 

月刊「フォーNET]2018年2月号