「ミスターゲート前」と呼ばれる男の原点 沖縄平和運動センター議長 山城博治氏

沖縄平和運動センター議長 山城博治氏

 

「ミスターゲート前」と呼ばれる男の原点

祖国復帰運動の挫折から非暴力直接行動への軌跡

 

「ミスターゲート前」「ミスターシュプレヒコール」。そうした異名をもつのは、辺野古新基地建設への抗議運動が続くキャンプ・シュワブゲート前行動の中心人物・山城博治さんだ。山城さんは、これまで、沖縄の反戦平和運動の第一線に立ち続け、沖縄平和運動の象徴とも言われてきた。昨年七月以降、辺野古新基地建設反対運動の陣頭指揮にあたってきた現場第一主義の男が、運動人生の原点を語った。

 

 

ガン闘病からの

奇跡的復帰

 

 二〇一四年七月一日、この日は、安倍政権が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした日ですが、沖縄にとっては別の意味もあります。沖縄防衛局が辺野古新基地建設に向けた関連工事を始めた日でもあるからです。

 私たちは、七月一日からキャンプ・シュワブゲート前で抗議行動を始めました。当初は、工事関係車両の通行阻止を目的としたゲート前での早朝の阻止行動、そして日中のゲート前抗議集会を続けていましたが、今年(二〇一五年)一月十日深夜、工事車両が不意打ちのように基地内に入ったとの知らせを聞いた後は、交代で二十四時間の泊まり込みの監視を続けてきました。私は、東村高江のヘリパッド建設反対闘争でも夜間泊まり込みをしながら運動を続けた経験があって慣れていたこともあり、ゲート前にテントをはって泊まり込みを始めました。

 休みなくずっと辺野古のテントで暮らす毎日でしたので、体が悪くなるはずです。今振り返るとさすがに、あれは異常でした。しかし、そうした経験がある今だからこそ、運動を続けるうえで体が一番大事だと身にしみています。

 今年の四月二十一日、悪性リンパ腫の治療のために闘病生活に入って現場を離れました。抗がん剤治療は計六回にわたり、副作用で高熱にも悩まされましたが、八月二十六日、無事に治療を終えて退院しました。退院した当初は、四カ月間の寝たきり生活のため、トイレまで歩くことすらできないほど体力が落ちていました。入院中も辺野古の現地情勢を考えない日はなく歯がゆい思いでしたので、退院後は、すぐさま「辺野古に戻るため」という思いで毎日朝夕一時間程度近所を散歩して体力の回復に努めました。

 抗がん剤治療の結果、頭髪が全部抜けてしまったのですが、これも、「辺野古の暑さに耐えるため」、ニット帽で頭を隠すことなく直射日光を浴びながら歩いたものです。私の誕生日の九月二十日、辺野古を離れてちょうど四カ月ぶりにゲート前を訪れて皆さんに挨拶しましたが、「現場復帰」は十月六日からです。

十三歳―

大衆運動の出発点

 私が中学校に入学した一九六五年、B─52戦略爆撃機が嘉手納基地に配備され、沖縄でB─52撤去運動が始まりました。中学校の先生方とともに「B─52撤去」と書かれた黄色のリボンを胸につけて初めてデモに参加しました。真っ黒な爆撃機がサメのヒレのような尾翼をたてて並んでいる嘉手納基地のB─52を初めて見た時、あれがベトナムで大勢の人たちを殺していると思うといたたまれない気持ちになりました。

 忘れられない思い出があります。B─52撤去要求集会のデモに参加していたときのことです。嘉手納基地の前で機動隊とぶつかって、みんな大通りから路地に入って逃げる途中で、私は側溝に足をとられて転んでしまい、私の上を何人も踏み越えて逃げてゆくので踏みつぶされそうになったことがありました。

 「あーここで死ぬのかな」と思ったとき、ある人が私の腕を掴んで引っ張り出して難を逃れたことがありました。時間にすると一瞬だったと思うのですが、今でも鮮明に覚えている出来事です。

 ちなみに、中学生のころは、このようなB─52撤去運動に参加したほか、中学三年生のとき、校内の弁論大会で優秀賞に選ばれたことがありました。そのときに訴えたテーマが実は特攻隊の話です。当時の自分とあまり年齢の変わらない少年兵たちがわずか二十年前に特攻をした悲劇を忘れてはいけないと訴えたのです。あの当時は、特攻隊に同情的だったし、思想的にみれば右翼的でしょう。私の人生で唯一右翼的だったのは、後にも先にもあの頃だけです。

 一九六八年に沖縄県中部の前原高校に進学し、入学後は、迷うことなく社研(社会科研究クラブ)に入部しました。私が高校に進学した当時は、復帰運動が最高潮に達していたころで、社研は、文化系サークルとして沖縄が直面する課題を学び運動することを謳っていました。いうなれば、祖国復帰運動団体の高校生版の役割を担っていました。そして、もともと社会運動に非常に関心があったのと、社研の先輩の薦めもあって、高校一年生で生徒会副会長、二年生のときには生徒会長を務めました。

 一九六九年十一月、佐藤総理とニクソン米大統領との会談で、七二年の沖縄返還が決まるのですが、その佐藤・ニクソン会談の頃には、沖縄返還協定の実態がだんだん明らかになってきたのです。それが、沖縄人(ウチナーンチュ)の望んだ核抜き・基地撤去ではなく、核かくし・基地自由使用の裏取引があることがわかるにつれて、祖国復帰運動内部に、「そんな返還はまやかしだ」として批判が巻き起こりました。復帰運動に携わっていた人たちが求めていた「基地のない平和な沖縄」とは違ったのです。

高校時代に

ハンストのリーダーに

 六九年十一月の佐藤訪米に際し、「佐藤訪米は、沖縄をアメリカに売り渡すために行くものだ。絶対にとめよう」と全校生徒に呼びかけて高校のグランドに百二十人くらいの生徒を集めて一週間のハンストをうちました。そのときは、校長に呼ばれて「君の行動には問題があるけど、気持ちは理解できるので、今回は、厳重注意にとどめておこう」と言い渡されて許されました。

 しかし、翌年一九七〇年は、七〇年安保改定反対運動が盛り上がった年だったので、その年の六月再び、数人の仲間を集めて学校をバリケード封鎖しました。午前四時ころに学校に忍び込んで、三階建ての二教室しかない内側の階段の一枚扉をしめて、扉の前に机・椅子を山積みしてバリケード封鎖したのです。そして、「安保改定反対!」「沖縄返還協定反対!」と書いた垂れ幕を垂らすなどのゲリラ行動にうって出ました。

 当時は、労働運動や学生運動が激しい頃でしたので、首里高校やコザ高校など他の学校でも同様の学生運動はみられたようですが、さすがに高校生を百名以上集めたハンストは他に類を見ないものでした。

 沖縄戦後史の大家で沖縄大学名誉教授の新崎盛暉先生は、ある雑誌のインタビューの中で「私は、去年(二〇一二年)、六九年の前原高校のハンストのリーダーが、当時高校二年の生徒会長山城博治であることを知った。高江のオスプレイパッド建設反対闘争の現場や、普天間基地のゲートで、『国家権力に対する拒絶の意思』を示す非暴力実力闘争の牽引車としての役割を担っている、あの山城博治である。沖縄は、いまだに闘い続けているのである」などと語ってくれています。

 当初、祖国復帰運動は、いわゆる「銃剣とブルドーザー」によって、土地を奪われて米軍基地が建設され、日本に助けを求めて始まるのですが、日米両政府は、復帰運動をある意味利用していたのです。この時は「裏切られた」との思いが強くありました。こんな運動はナンセンスだ、敗北思想だと思ったのです。復帰運動は、沖縄を解放する運動ではないことに気付きました。

 沖縄の戦後史は、日本を選択するかアメリカを選ぶかの二者択一を迫られてきた歴史でした。終戦後、沖縄では、日本共産党の「解放軍規定」にみられるとおり、アメリカ軍を解放軍と認識する勢力がありましたが、アメリカ軍はこちらの意に反して沖縄に襲いかかってきました。そのため当時、日本からの独立を訴える勢力がいたのですが急速にしぼんでいきました。あまりに乱暴なアメリカ軍を前にして政治的修正が働いて日本に傾斜していきます。

 私は、復帰が迫り、復帰の真の姿が明らかになるにつれて「絶望感」に陥りました。米軍に助けてもらえないし、日本に救いを求めようとして復帰を求めて県民一丸となって頑張ってきたにもかかわらず、復帰が近づけば近づくほど、米軍基地はもとのままで核抜きもまやかしという実態が明らかになり、日米の国家権力が再び沖縄に牙をむいてきたからです。

日の丸の鉢巻から

反復帰論へ

 沖縄返還の実態が明らかになっていく中で、復帰運動も変化していきました。当初の祖国復帰運動から反戦復帰あるいは無条件全面返還要求に変わっていきます。私もそれまで祖国復帰を夢見て、日本という国家権力を正視することなく、「祖国」というオブラートに包んで幻想を抱いて運動を進めてきました。今の私の姿からは想像がつかないかもしれませんが、高校二年生の初め頃までは、日の丸で染めた鉢巻をして運動していたのです。真ん中に日の丸で、その左に「祖国」、右に「復帰」と書いた鉢巻をしめていました。

 祖国復帰運動は、復帰・返還の内実が明らかになるにつれて、反戦復帰運動や無条件全面返還運動と言葉を変えて続けられていきますが、それは、私にとって復帰運動の延長線上のものでしかなく、本質的には変わらないし、言い訳にすら感じられました。敗北を糊塗にするようなそのような運動や思想を受け入れることができませんでした。

 そうした絶望感に浸っていたときに出会ったのが、新川明さん、川満信一さんらの反復帰論でした。当時、沖縄タイムス社の発行する総合雑誌「新沖縄文学」に掲載される彼らの論考を読んで驚愕しました。これこそが私の探して求めていた思想だと思ったのです。自分自身の立ち位置や思想を確立したかった私にとって、本土に系列化されてしまう政党や思想にはまったく興味が持てませんでした。そうした中、新川さんや川満さんらが主張したのは、日本を祖国とひと括りにしてしまって「祖国日本」と幻想化してきた過ちを指摘し、復帰運動を「祖国幻想」として鋭く批判したのです。

 日本は、国家という権力機構であり、その日本という権力が沖縄をどう利用しようとしているのかに着目しないと、沖縄は救われない。日米という二つの国家権力の実態に基づいて、「祖国」とか「解放軍」といった幻想から離れて、沖縄人としての立ち位置からそれらがどういったものなのかを冷静にみるべきだと主張されていました。沖縄は歴史的に日本とは異なる独自の道を歩んできたし、また、日本に編入されて以来、差別も受けてきたのも事実です。この沖縄と日本との異質感・違和感、そして、沖縄独自の立場を踏まえ、日本とアメリカを相対化して沖縄の行く末を考えようという立場。簡潔にいうと、ウチナーンチュが日本に対峙するときの沖縄人の心のあり様を問う思想―これが反復帰論の主張でした。それ以上でもそれ以下でもありません。

 私は、別に琉球独立論を謳っているわけでも、日本の中での自治権拡大運動を呼びかけているわけでもないのです。高校一年の頃から、祖国復帰運動に染まった挙句、「祖国日本に裏切られた!」との思いを抱いてきた私たちにとって、新川さんたちの反復帰論はとても斬新で目からうろこが落ちる思いだったし、希望を託せる思想はこれしかない、と思いました。

 

沖縄の

アイデンティティとは

 高校生の時に激しい運動をやってきたので、新左翼といわれるセクトの活動家が大勢、「うちの大学に来ないか」ということでオルグにきました。当時は、沖縄の高校生に暴れている生徒がいるということで有名だったようです。しかし、その頃には、すでに祖国日本という幻想を捨て、反復帰論に目覚めていたので、本土からくる活動家には全然興味がありませんでした。日本、アメリカという国家権力から離れ、それらを相対化し、日米のどちらかに与することによって解放される沖縄ではなく、沖縄自身の力によって活路を切り開いていく運動をしなければならないというのがあの当時から今も変わらない私の考えです。

 新川さんの議論は、当時も今も、沖縄社会では、異質な思想であり、インテリの思想の遊びといった扱われ方をされていることは否定できません。運動論にはなり得ません。だから、私が最近、反復帰論者であることを方々で発言しても、誰も改めて「山城さんは反復帰論者だったんだね」なんてことを言わない。箸にも棒にもかからないようなものです。しかし、思想的には、非常に高尚な議論だと思うし、現実的な政治力は持てないかもしれないが、今もなお、沖縄人として生きる人たちの精神を支える大きな柱になり得ると思っています。

 反復帰論が今も力を持ち得ると言うのは、理由があります。沖縄では、復帰後、例えば、社会党の運動、共産党の運動というようないわば「沖縄の本土化」という現象が現れます。復帰の総括ができていないため、沖縄の社会運動は全て、中央(本土)に流されて四分五裂していきます。私が、思想的にも運動論的にも沖縄にこだわりたいのは、無条件にヤマト化するようでは混沌とした日本の政治状況に小さな沖縄が足元を必ずすくわれてしまうと感じているからです。

 日本政府が沖縄を差別し、沖縄を犠牲にするシステムをつくっている以上、沖縄が日本の「四十七分の一化」することなく、沖縄と本土とは違うということを踏まえないと、沖縄は生き残ることができないと思っています。一足飛びに独立とか、自治権拡大とかを議論するのではありません。そうした沖縄と日本の差異を踏まえたうえで、沖縄としての足元を見据えるべきだという考えです。

 

戦争観の原点

 

 私の行動の根っこには父母から聞かされた戦争体験の話があります。私は、具志川村(現、うるま市)の農家の次男として生まれたのですが、私の父は、昭和二年生まれで沖縄戦のときは満十七歳です。父は、防衛隊として戦争を経験していますが、南部戦線で死に目に会うのです。左足やわき腹に三カ所の貫通弾を受けています。致命傷にならない程度に傷を負ったそうです。最初は、仲間に肩車をされたり、担架で担がれたりしていたらしいですが、最後は、体が全く動かなくなってしまって原野に捨てられました。

 三日間、銃弾の飛び交う中、側溝の中に隠れて、水がなかったので、雑草を食べながら水分を補給していたと聞いています。後で分かったのですが、まともな水がなかったので命拾いできたようです。もし、あの時に水を腹一杯飲んでいたら、出血多量で死んでいたかもしれません。命拾いしたとはいえ、傷口にはウジ虫がわいて痒くてたまらなかったそうです。

 こういった話を子どもの時から聞かされて、「ひどい話だな」と思ったものです。一方、母親からは、逆に戦争の話をほとんど聞くことはありませんでした。母の一家は、当時日本統治下にあった北マラリア諸島のテニアン島に入植者として移住していたのですが、母方の祖父は病気で島で亡くなり、女だけの五人家族で日本に引き揚げてきたそうです。戦争体験を語る人の中には、多少は自慢げに語る人もいるようですが、母の口から、戦争の話を聞くことがなかったのは、本物の恐怖を感じたからだと、子どもながらに感じたものです。

 あるとき、叔母から母の戦争体験にまつわる話を聞かされたことがあります。母の一家は、アメリカ軍の砲弾を避けるため、海岸線の鍾乳洞のガマに輪をつくるように座っていたところ、朝目が覚めると、外側の海側に座っていた人たちが全員亡くなっていたそうです。母たちは、たまたまガマの奥に座っていたので助かったのです。また、帰国しても、収容所生活は言語を絶する辛さがあったと思います。収容所には、隣人同士で盗難や強盗、強姦などもあったらしく、母の一家は、女性だけの集まりでしたので、言葉では表せないような辛い経験をしたかもしれません。

戦争の被害者であり

加害者でもある

 もっとも、私は、沖縄が全部被害者だという捉え方をするつもりはあません。被害者というのも一面です。母は、沖縄が当時貧しかったので南方に移り住んだと言うのですが、南方地域は、第一次世界大戦でドイツから割譲した領土です。これは加害の歴史であり、植民者として移住したのですから、単純に沖縄の歴史を全て被害の歴史とするわけにはいかないはずです。移住した沖縄人は、日本人の一人として、戦前の帝国主義による世界植民地分割競争の歴史の中で生きてきたわけです。

 そうした点で、日本のトータルの戦争の歴史の中で、沖縄の被害と加害の両面を捉えるべきで、一面だけをみると真実を見落としてしまいます。

 私がこうした歴史の多面性を強調したいのには理由があります。「永遠の0」の著作で知られる作家の百田尚樹氏にみられるような特攻隊を美化する思想に違和感を覚えるからです。日本の保守層の論調は、わずか二十歳の若者が国を守るために鹿児島の知覧から特攻隊として出撃していった。彼らは、愛する人・家族を守るために死んでいった。この人たちを英霊と言わずして誰を英霊と言うのかーと主張します。

 私は、その気持ちが分からないではないのです。後世に生きる私たちが、特攻隊の青年の悲しさや苦しさを受けとめることは大事なことだと思います。しかし、違和感を覚えるのは、それが全てになってしまっていることです。

 日本の保守と言われる方たちは、これを否定することは絶対に許さないという立場でしょう。しかし、私は、特攻は人間のやることではないと思うし、そんなことを命じる国家は異常だと思います。わずか二十歳になるかならないかの若者たちを死に追いやった国家、一縷の望みもない特攻という作戦を組んだ国家の無謀さ・非道さを問わずに、国のために殉じた英霊として美化する考え方に疑問をもつのです。

 当時の若者たちの気持ちを省みず、そこまで追い詰めた政府や日本軍国主義の責任を追及しない百田氏のような発言には違和感を覚えます。私も、特攻機の本や映像をみると彼らの非業の死に対して涙します。しかし同時に、それを強要するような戦法をとった当時の軍部に対して限りない怒りを禁じえないのです。

米軍統治下の

沖縄社会に生きて

 七二年復帰までの米軍支配下の沖縄社会では、米軍は、本当にやりたい放題でした。あの空気を今でも覚えています。ここ沖縄市は、当時はコザ市と呼ばれていましたが、市街地中心部のコザ十字路は黒人街、ゴヤ十字路は白人街にわかれていて夜な夜な酔っぱらった米兵が街にあふれて坂の上のゴヤ十字路から坂の下にあるコザ十字路の間くらいで白人と黒人の殴りあいが始まるのです。MPや琉球政府の警察が駆けつけて仲裁に入るのですが、あの当時の沖縄の世相は戦後そのものでした。街には、経済と呼べるようなものはなく、米軍基地の中で働くか、米兵相手のバーやコーヒーシャープと呼ばれた食堂で働くくらいでした。島全体が米軍の色に染めぬかれていました。

 そういう中にA&Wというアメリカの外食産業が入ってきて、広い駐車場のあるお店にハンバーガーやコーラといった食べ物はキラキラと別世界のように輝いて見えました。私たちは、そうした光景をみて育ちました。こちらはというと、はだしで歩きまわり、毎日昼も夜も同じ半ズボンをはいているような時代だったので、まるで別世界でした。

 沖縄には、ある種の「ねじれ現象」があって、学校では、皆さんが想像されるような平和教育を教わってきたわけではありません。終戦後、沖縄は、再び日本の餌食にならないように、日本からの独立論がもっとあって然るべきだったのですが、やってきた米軍がもっと酷かったのです。米軍統治からの解放を願って日本復帰運動が始まるのですが、そこでは、沖縄戦の悲劇や日本軍の暴力などが完全に捨象されてしまいました。私自身も、中学・高校の頃、日本を批判することは一切なかったですし、沖縄社会全体が「祖国日本」ということで美化していたのです。

 しかし、残念ながらこれは、戦前と同じ構図です。沖縄戦までは、沖縄がやられてもいずれ「友軍」─当時の沖縄では日本軍を指して「友軍」と呼称していました─が助けに来てアメリカ軍を追い返してくれると信じられていました。友軍待望論があったのです。本土の捨て石にされ、その幻想が打ち砕かれた後もそうです。戦後になり進駐してきたアメリカ軍は、沖縄中を蹂躙し、婦女を暴行し、幾多の殺人事件も発生しました。金網で軍事基地を囲い、酷い世界が現れました。当時の沖縄には、人権もなく、ただ米国布令の中で生きていくだけでした。そうした社会情勢を背景として、祖国待望論や平和憲法待望論がでてきたのです。

 そうした米国の植民地的統治に対する不満が爆発したのがコザ騒動です。私は、高校生の頃の運動がたたって学校を退学させられたのですが、その後、労働・平和団体の事務所に出入りしていました。当時は街のあちこちで、全軍労を始め学生団体や労働団体が70年安保と沖縄返還反対を訴えてデモ行進をしていましたが、私は、全軍労の労働者を中心につくられた中部地区反戦青年委員会に出入りして、大人たちに交じって話を聞き議論をしたものでした。コザ騒動が起きたその日は、自宅に戻って翌朝目覚めると、ゴヤで大暴動が起きたと知って地団太を踏んだものです。チキショー、おれも大暴れしたかった(笑)と思って、慌ててゴヤに駆けつけると、焼け焦げた米兵車両を何十台も目にしました。

 しかし、一人の米兵も死者もけが人もでていません。騒動といっても、米兵を殺傷する目的ではないので、沖縄の人たちにとって、憂さ晴らしだったのでしょう。米兵の車両だけをひっくり返して火をつけたのですが、米兵の犯罪があちこちで起きていた時代に唯一起きた出来事でした。本来なら、文字どおりの暴動が起きてもおかしくないでしょうが、沖縄人が米兵を殺したことはただの一度もありません。

 普通はありそうだと思いませんか?民家に侵入して婦女子に暴行する事件が相次ぎ、由美子ちゃん事件という、わずか六歳の女の子を強姦して殺害後に基地のゴミ捨て場に死体を捨てるといった凄惨な事件も起きていました。あるいは、落下傘でジープが落ちてきて圧殺される事件もありましたし、中には、黙認耕作地に入って薬莢を拾って小銭を稼ぐ暮らしをしていたところを米兵が遊び半分に撃ち殺すといった事件もありました。こうした事件は枚挙にいとまがありません。しかし、一人の米兵も殺害することはなかったのですから、基本的には、物静かなやさしい県民性だと思います。

ケビン・メアとの因縁

 高校退学後は、大学受験資格検定試験(大検)を経て大学に進学しました。卒業後は、沖縄に戻って働いていましたが、二十七歳のときに再上京し、いろいろあったのですが、最終的には、一九八三年五月から沖縄県庁に勤めるようになりました。平和運動センターの事務局長は二〇〇四年から務めています。二〇〇二~二〇〇三年頃まで沖縄県職労副委員長を務めていましたが、私は、イラク戦争反対や選挙支援の街頭演説などを連日行っていました。それが、当時の沖縄平和運動センター議長の崎山嗣幸さん(現、沖縄県議)の目にとまって、平和センターに呼ばれて担当することになりました。

 平和運動センター事務局長としての最初の取り組みは、二〇〇四年の与那国島への掃海艦寄港阻止闘争でした。乗組員が掃海艇のタラップから降りてくるのを止めるため、タラップ下に座り込んで七時間以上にわたって米兵の下船・上陸を阻止したことがあります。その時、漁港ヤードにケビン・メア米国総領事が立っていました。

 彼が近づいてきて「君は誰だ?」と尋ねるので、「答えてもいいけど、この国には人の名前を聞くには、まず自分から名乗るのが常識だ」と言ったところ、彼は、「ケビン・メアだ」と言うから、「よく知っているよ。君が、あの悪名高いケビン・メアか。ここは、あなたの来るような場所じゃないから帰りなさい。もし強行するようなら、座り込みを続けさせてもらう」と言って、後は、機動隊との激しいもみ合いになりました。そのときから私とケビン・メアとの関係が始まります。

 私は、最初から、日程調整や会議・会計などの事務方を務める事務局長ならば引き受けるつもりはありませんでした。先頭に立って運動を引っ張り、現場第一で組織を牽引したいと考えていました。そうした現場第一の運動としては、そのほかにも二〇〇九年四月、在日米海軍が掃海艦を石垣港に入港させるというので、港のゲート前に座り込んで車両の通過を阻止したことがありました。そのとき、先頭車両に乗車していたのがケビン・メアです。

 何時間もとめましたが、私は、そのとき警察に対して「ゲートは他にもある。遠回りして別のゲートから行くのであれば、我々としては、そこまで止めるつもりはない。ここでは、市民として抗議の意思表明をやるので、無理にここから出る必要はないでしょう」と伝えたのですが、メアは、意地でもここから行くといってきかない。すると、メアは、車から降りてきて座り込んでいる私たちの頭の上を跨いでいくのです。当然、怒号が飛び交った挙句、足を引っ張ったり、米兵に飛び乗って首に腕をかけたりの乱闘騒ぎになってしまいます。私たちとしては、非暴力でありつつも、実力行動を指針として運動を進める方針をとったわけです。

 ちなみに、こうしたメアとの確執には後日談があります。メアが沖縄を離れるとき、離任式に列席する東門沖縄市長(当時)に、「メア、あなたはとても頑固な男だけど、アメリカ人らしくわかりやすかった。アメリカの本性がよくわかった。そういう意味で敬意を表したい」といった伝言を頼んだのです。すると、メアから「山城は、いい男だけど、あいつは頑固だ」とのメッセージが返ってきました。彼の居室には、沖縄一頑固な男ということで、私の写真が飾ってあったそうです(笑)。

非暴力だが

無抵抗ではない

 辺野古での運動も非暴力で運動を進めるつもりですが、だからと言って無抵抗主義ではありません。非暴力の実力行動が私のスタンスです。キャンプ・シュワブゲート前に座り込んで阻止線を張ると、機動隊にごぼう抜きされるけど、それでもそうした意思表示を行動であらわさないといけない。

 大勢の沖縄県民がわざわざ遠い那覇市内から車で1時間以上の距離を辺野古まで駆けつけるのは何のためか。毎朝、ゲートには、工事車両が入っていきます。私たちは、その車両の基地内への進入を阻止して少しでも工事を遅らせたいのです。ゲート前を封鎖するのは、沖縄に牙をむいて襲いかかってくる政府や機動隊を前に、単に「反対」「抗議」といった声をあげるだけでは、残念ながら基地建設をとめることができないからです。そのための行動こそが大事なのです。私は、抗議行動を過激にしようとは思っていませんし、非暴力に徹するつもりですが、直接行動は今後も続けていきます。高齢のおじい・おばあたちもゲート前に寝そべったり、座り込んだりして工事車両の通行を阻止しようと頑張っています。

 与那国島掃海母艦のときもそうです。軍艦を寄港させることをとめることはさすがにできませんが、タラップの下に座り込んで兵士を下すことを阻止することはできます。私の運動のスタイルはいつもこうです。もっとも、私は、過激な暴力は大衆運動ではないと思っています。今でも、キャンプ・シュワブゲート前で座り込みを続けると、機動隊と激しいもみ合いになってしまいますが、基本的には、海上に出る車両など関係車両以外は止めるつもりはありません。

 また、抗議現場では、ときには怪我人や逮捕者を出すこともあります。そうした抗議行動で市民に逮捕者がでてしまうと、「過激派」というレッテルを貼られかねませんし、せっかくはるばる遠い那覇市内から辺野古まで来てくれた市民の足を遠のかせてしまうことにもなります。「逮捕覚悟」ということは威勢はいいですが、極力、逮捕者を出さないように運動を進めたいですし、逮捕者を仮に出してしまった場合は、全力で仲間を助けるために動く、これが鉄則です。

本土の皆さんへ

 本土の皆さんは、日本の安全保障や防衛抑止力について、沖縄が反発していることに対して懸念や疑問があると思います。しかし、私たち沖縄県民が訴えているのは、全国四十七都道府県の中で沖縄にだけこれだけの基地が集中している現状をどうみるのか。基地が集中していることは、同時に戦争の脅威が沖縄に集中していることを意味します。

 政府は、先の戦争のときと同じように、いざ有事の時に沖縄を犠牲にして切って捨てればいいと思っているのではないでしょうか。沖縄は、それが再現されようとしていることに対し、それだけは勘弁してくれと訴えているだけです。もしそんなに中国の脅威やそのための抑止力が必要だというのであれば、日本全体で、みなさんでそれを考えてくれ、一緒に考えてほしい、なぜ沖縄にだけ基地を集中させてそれで平然としていられるのか、私たちはそのことに対してNOと言っているのであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

 政府は、沖縄の過激派・左翼が反対しているような言い方をしますが、そうではありません。沖縄は、今や県知事から現場末端の人まで同じ気持ちで運動しています。その事実と沖縄の苦しみ・悲しみを理解してほしいと思います。

 二〇一五年十月十三日、翁長知事は、仲井眞前県政による公有水面埋め立て承認を取消しました。ゲート前は、歓喜の坩堝でわきにわきました。しかし、政府は早速茶番劇のように取消し処分に対する不服申し立てと執行停止の申し立てをしたので、早ければ来週には埋め立て本体工事に着工するおそれがあります。今後、ゲート前はますます激しいものになるでしょう。しかし、それでも私たちは、引き続き、翁長知事の決断を支える運動を進めていきます。

 

 

 

 

 

 

山城博治さん略歴

1952年沖縄県生まれ。法政大学社会学部卒業後、沖縄県庁に入庁。駐留軍従業員対策事業、不発弾対策事業、税務などを担当。沖縄県職員労働組合副委員長を経て自治労沖縄県本部副委員長。2004年から沖縄平和運動センター事務局長、2013年に同議長。東村高江のヘリパッド建設反対運動、米軍普天間基地へのオスプレイ配備反対運動、現在、辺野古新基地建設反対運動など反基地運動の先頭に立ち続けている。沖縄平和運動の象徴的存在。共著「琉球共和社会憲法の潜勢力」(未来社

 

『沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題』(フォーNET取材班編著 春吉書房 2016年9月)

日米合意の「返還」の原点に戻るべき 「世界一危険な基地」普天間の叫び 佐喜眞淳氏 宜野湾市長(当時 2018年1月)

小誌『フォーNET』今年1月号で偶然ですが、今回の知事選に出馬する佐喜眞淳氏(当時は宜野湾市長)のインタビューを掲載しました。もし、県知事になれば立場は変り、発言も少しは変るかもしれませんが、これがこの人の本音だろうと思っています。

 

そこが聞きたい!インタビュー

日米合意の「返還」の原点に戻るべき

「世界一危険な基地」普天間の叫び

 

 

「世界一危険な基地」といわれる沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場。基地の周辺には学校などの公共施設、住宅がびっしりと貼りついている。基地返還を日米で合意してから二十年以上経過してもそのめどはまだ立っていない―

 

 

 

 

佐喜眞淳氏 宜野湾市

 

 

(取材日・平成三十年一月十九日)

 

 

 

宜野湾市民の不安感情

 

 

―米軍による事故について。昨年十二月に宜野湾市の保育園の屋根に米軍ヘリの部品が落下、それから間もなく普天間第二小学校の校庭に米軍ヘリの窓枠が落下しました。

佐喜眞 当然、事故はあってはならないことであって欲しくないのですが、万一起きたら、その原因が人的ミスなのか機体の故障によるものなのか。人為的であれば、単純ミスなのか要素が複雑に絡み合っているのか、その原因をしっかり究明して万全に再発防止に努めてもらいたいというのは、誰しも思うことです。最近、事故が多いのは、米軍の中の規律の問題なのか、機体の点検メンテナンスに問題があるのではないかと思わざるを得ません。

―米軍に対して事故究明は申し入れしていると思いますが。

佐喜眞 申し入れて人的ミスという答えは返ってきていますが、その詳細な中身についてはまだ回答されていません。窓のレバーが安全ワイヤーによって適切に固定されていなかったという報告は受け取りました。しかし、市が求めていた事故が頻発する構造的な原因究明の報告はまだありません。これが機械的なトラブルによる事故、事件であれば解明まで一年かかることもありますが、今回の事故は調べればすぐに分かることではないかと思います。ただ、これはアメリカ側の仕組みもあると思います。と言うのは、公表するにしても再発防止策を実行するにしても、しっかりと正確にやるというルールがあるのかもしれません。

―しかし、その原因が報告される前に訓練が再開されました。

佐喜眞 米軍はすぐに訓練を再開してしまいますね。たとえ原因が究明されても、再発防止が講じられても、詳細が発表されないままの飛行再開では、市民の不安感情は払拭されませんので、そこは残念でなりません。

―原因究明と再発防止策が出るまでは訓練を自粛してもらいたいと。

佐喜眞 それが望ましいですね。人によるかもしれませんが、これだけ事故、事件は頻発すると、夜間訓練のヘリの音一つでも敏感になります。その上、普段と違う音だと「墜ちてくるんじゃないか」という不安でそれがストレスになります。市民の反応が敏感になってしまっています。

―実際に二〇〇四年の沖縄国際大学へのヘリ墜落が市民の記憶に残っているでしょうから、事故が起きると過敏になってしまうのは仕方がありませんね。

佐喜眞 そこは米軍に徹底してもらわないと、未だに市民の安全が脅かされているのは厳然とした事実です。

―「世界一危険な飛行場」と言われている普天間飛行場ですが、二〇一四年に岩国基地が大型空中給油機「KC130」十五機を普天間飛行場から引き受けたので、騒音はずい分減ったようですね。

佐喜眞 固定翼機が移転したのは基地負担の軽減になったのは事実ですが騒音問題は完全に解消していません。特に懸念しているのが、夜間の騒音です。特に冬は夜六時くらいから暗くなります。暗くなると見えない中で音だけが聞こえます。

―6年前に普天間飛行場に強行配備されたオスプレイですが、実際に近くの高台から見学して思ったのは、通常のヘリに比べて音が小さいなと。

佐喜眞 オスプレイの重低音が不安を増すという声もよく聞きます。また、オスプレイがヘリモードで飛行すると気流や騒音が下に吐かれるので、窓を閉めていても部屋が振動します。重低音の特徴です。水平飛行になると少し軽減されますが、ヘリモードの時もありますね。

飛行音の酷さという点から言えば、ジェット機が離発着する嘉手納基地の方が大きいと思います。普天間飛行場の場合、夜間飛行に加えてタッチアンドゴーなどの旋回飛行をしますから、一回で終らずずっと音が続きます。しかも、訓練のスケジュールを決める運営権は米軍にありますから、不定期で予告なく実施されています。最近は普天間飛行場付近での訓練は減りました。その代わりに遠隔地で訓練やって帰還するのが夜10時を回ることも度々あります。訓練回数など負担が軽減されても基地がある限り、危険性は無くなりません。飛ぶなと言っても飛びますから。車等の事故と同様で事故が起こらないという保証はありません。

 

 

 

 

「基地の固定化」の不安

 

 

 

普天間飛行場の移設について。市長の公約である「普天間の固定化阻止」「早期の危険性除去」「五年以内の運用停止」など見通しはどうでしょうか。

佐喜眞 普天間飛行場の返還合意は、一九九五年に起きた米兵による少女暴行事件で在沖米軍の整理縮小に合意した九六年のSACO(日米特別行動委員会)合意が基本にあります。五年から七年での返還で合意したのですが、普天間飛行場の代替施設が必要だという条件が付きました。普天間飛行場の返還合意から今年で22年目となり、時間がかかっているのも事実です。

 我々が望んでいるのは、一日も早い返還です。返還するためには日米両政府で移設先を整備することになっています。これは我々がやるのではなく、あくまでも政府がやるべきことなんです。宜野湾市民が望んでいるのは、合意した普天間飛行場の全面返還という約束を守ってもらいたいということだけなんです。

―固定化阻止を訴えていますが、固定化される恐れがまだあると。

佐喜眞 私が市長に就任してから、「名護市辺野古のキャンプシュワブへの代替施設建設が、普天間飛行場の継続的な使用を回避するための唯一の解決策である」と日米両政府は公式に発表しております。代替施設が完成しなければ普天間飛行場の固定化もあり得るかもしれないという不安を持っているのは私だけでは無いと思います。つまり、普天間飛行場の代替施設の運用が可能になって初めて普天間飛行場が返還されるという論理で、代替施設運用がいつの間にか大前提になっているのです。

 合意は、あくまでも返還が大前提でした。それが、移転先の運用がなかなか進まなくなって、いつの間にか合意が破棄され固定化される不安は拭えません。「(普天間飛行場を)しばらく運用する」という文言が入るかもしれない。事実、民主党政権時代に普天間飛行場の返還期日が無くなったことがありました。日米の信頼関係が損なわれた結果、合意が見直されて2006年の在日米軍再編協議最終報告(日米ロードマップ)で改めて示された2014年までとする返還期日が

延期になった上に、期限が無くなりました。安倍政権になり日米首脳会談、ツープラスツー会合を経て合意した沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画で、「二〇二二年度またはその後」という返還時期が改めて設定されました。このことに関しては、安倍政権を評価したいと思います。

 しかし、それでも当初の返還合意から二十年以上経っています。そして気になるのは「その後」という文言です。我々の不安を取り除いてもらいたいのですが、それを実行するのは日米両政府です。しかし、「キャンプシュワブへの代替施設建設が、普天間飛行場の継続的使用を避ける唯一の方策」という発言が平気で出ることに非常に不安を覚えます。

つまり、議論がいつの間にか普天間飛行場の返還が最優先では無くなってきている感じがするのです。最近のアジア情勢が変化する中で海兵隊が持つ機能、特に普天間飛行場のような特殊な機能を持った基地を手放すだろうかとも推測します。沖国大にヘリが墜落して県民があれだけ反対運動を起こした時ですら、普天間飛行場は返還されませんでした。

普天間以外で返還された基地もありますね。

佐喜眞 基地の整理統合計画では、普天間飛行場をはじめいくつかの基地が返還されて縮小される予定です。実際に返還された基地もあります。特に、県民の生活圏である都市部から米軍施設がなくなることは画期的なことだと思います。返還が始まるのは、復帰の一九七二年後からですが、総ての基地が沖縄から無くなる事にはならないと思います。あくまでも生活圏の危険性除去が目的で、事故という重大な事態が起きる危険性を除去することは、ひいては日米安保にも適うことだと思います。

―「五年以内の運用停止」は現段階ではなかなか難しいですね。

佐喜眞 仲井眞前沖縄県知事の時代、普天間飛行場がすぐには返還出来ないことを踏まえながら、危険性を早期に除去しようと政府、沖縄県宜野湾市による構成メンバーで検討した結果、「五年以内の運用停止」を目標に推進することになりました。その一環で、先ほどのKC130の岩国基地への先行移転です。本来の日米合意では代替施設が出来てからの移転でした。そういう意味では画期的なことでした。具体的に目に見える形で危険性除去をやるという日米間に素地は出来ています。ただ、移設先とその運用を決めるのはあくまでも日米両政府ですから、我々としては延び延びになっている返還をいち早く実現したいという目標を設定しているだけなのです。「いつか」では困ります。

―次の軽減策は?

佐喜眞 オスプレイの移転でしょう。現在二十四機ありますが、まずその半数を県外移転か訓練移転させるように働きかけています。

 

 

 

 

 

すり替わった「オール沖縄

 

 

 

―残念ながら、オスプレイの配置には本土では拒否感が一部にあります。

佐喜眞 衆議院の安保委員会に呼ばれると、「市長は、移設先は県外が希望しますか?それとも国外?」という質問を受けます。これは私がどうこうできることではなくあくまでも国政が決めることです。先日も窓が落ちた普天間第二小学校に与野党の安保委員会が視察にきたので、「去年の暮れに窓枠が落ちて、年が明けると早々に二回も不時着が起きました。それでも訓練は止めないのが現実です。国会で普天間飛行場の移転についてちゃんと議論してください」と伝えました。主義主張の問題ではありません。国民の生命財産を守る国政が第一に優先すべき問題なのです。

―沖縄の基地問題に対する関心は、本土と沖縄ではかなり温度差があります。

佐喜眞 自衛隊、在沖米軍の存在理由をもっと具体的に国民の間で理解すべきだと思います。米軍の中には、陸海空軍がありそれぞれに役割分担があり、それぞれに必要な装備があります。その運用は法治国家ですから法に則った運用であるべきです。日本の平和を維持するために何が必要なのかという基本的な議論から始めるしかありません。必ずしも最悪の事態ばかり想定する必要は無いと思いますが、アジアの情勢が極めて不安定な情勢の中で、抑止力を持つことは当たり前のことであり、そうしないと国民を危険にさらすことになります。しかし、国防に関して国民的コンセンサスが得られているかといえば総て得られているとは思えません。特に日米安保における在日、在沖米軍は必ずしも歓迎されていません。

―そうした議論で本土と沖縄の意識格差が縮まらないといけませんね。

佐喜眞 日本人が平和を尊ぶならば、そのために何が必要で何をなすべきか。理想と現実をしっかりわきまえて議論すべきでしょう。行き着くところは教育だと思います。

沖縄戦、米軍による統治、日本復帰、そして基地返還など沖縄の歴史を日本全体が共有できていないと思いますね。

佐喜眞 それに気が付かないようになってきています。戦争を知っている世代が少なくなったこともあるでしょうね。政治家だったら、初代沖縄開発庁長官だった山中貞則先生や、SACO合意の当時の首相だった橋本龍太郎先生など沖縄のために心を砕いていただいた政治家は、沖縄の地上戦での県民の悲惨な体験に配慮する方が多かったですね。その世代が代ってしまい、その歴史の記憶をしっかり継承すべきです。

―本土の日本人の中には「基地周辺の建物は基地が出来てからできたもので、住民の選択だった」という意見も散見されます。

佐喜眞 誤解されていますね。元々普天間飛行場の場所は戦前の宜野湾村の中心地でした。沖縄戦の時に上陸してきた米軍に日本本土への爆撃基地として強制的に土地を接収されて建設されたのが始まりです。一九七二年の本土復帰の頃までは今のような運用ではなく、補助飛行場としてパラシュート降下の訓練が行われていたのです。その後、嘉手納基地にP3Cが移駐され、その補助飛行場として滑走路が整備され、岩国基地から千人規模の第一海兵航空団が沖縄に移設するなど徐々に基地機能が強化されていきます。現在のような運用が始まったのは、一九七八年に北谷町のハンビー飛行場が返還されてその機能が普天間に移されてからです。

 宜野湾市は復帰前の一九六二年に市制が施行されて、一九七五年には人口は五万人を超えていて、基地の今のような運用が始まった時にはすでに基地周辺では市街地が形成されていました。

―本土の無知、無関心がそうした風評を生み出しているんですね。ところで、沖縄では「オール沖縄」という言葉が盛んに言われますが、これは沖縄県民の民意なのでしょうか?

佐喜眞 当時の「オール沖縄」と現在の「オール沖縄」が何に依拠しているのかを考える必要があります。オール沖縄という言葉が初めて使われたのは、私たちがオスプレイ配備に反対する市民大会を開いた時でした。当初は、オスプレイが配備されるから早く普天間飛行場を返還しようというのが県民の民意で、それはオール沖縄という言葉に凝縮されたのです。それがいつの間にか「辺野古反対」に取って代わられているのが現状です。普天間飛行場をいち早く取り戻そうというのが、オール沖縄の原点なのです。これが沖縄の民意だと言ってもいいでしょう。今のオール沖縄はその原点がすり替わってしまい、政治闘争の具として使われています。普天間飛行場の危険性除去という本来の目的のために建設的な議論をすべきです。

 オール沖縄の目的が変わったのにもかかわらず、民意だというのはおかしな話です。本当の沖縄の民意には基地は無い方がいいというものが多いと思いますが、だからと言って今の反対運動にように法律を破っていいということにはなりません。

 

 

佐喜眞氏プロフィール

昭和39年(1964)、沖縄県宜野湾市出身。千葉商科大学経済学卒。沖縄県議会議員(2期)、宜野湾市議会議員(2期)を務め、2012年宜野湾市長選で初当選。現在2期目。

 

月刊「フォーNET]2018年2月号

日米普天間返還合意の当事者が語る 「沖縄問題の本質」

翁長知事死去に伴う沖縄県知事選。米軍基地問題辺野古問題を中心に争われるものと思われます。この問題の本質とは何か。

拙著『沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題』(フォーNET取材班著 春吉書房 2016年9月)の中から抜粋して掲載します。

 

そこが聞きたい!インタビュー

日米普天間返還合意の当事者が語る

「沖縄問題の本質」

 

軍事アナリスト 小川和久氏

 

法廷闘争、機動隊投入…こじれにこじれた普天間基地辺野古移設。その原点は、普天間基地の危険除去だが、日米で返還合意からすでに19年を経過している。沖縄問題の本質を、当事者が直言する。

 

 

 

 

辺野古案には、軍事的・経済合理性がない

 

 

 

辺野古移設で政府と沖縄県の交渉が平行線を辿り、ついに司法の場に持ち出されました。また、キャンプシュワブ前にはついに機動隊が投入さされる事態になり、現場の緊張感は一層高まっています。まず、この状況をどう見ていますか。

小川 1996年(平成8)4月、日米首脳会談で普天間飛行場の返還が合意された前後から今日まで、そして、これからも当事者として関わっていく者としては、最悪の事態です。答案は一つしかありません。それを政府が出せないとなると、国内問題に対する統治能力がないと、国際社会でみなされる危険性があります。アメリカの基地の問題ですが、本質は日本の国内問題なのです。それなのに、これまで賛成派も反対派も生半可な知識で論争したり、お金が絡んで迷走してきましたし、今の状態ではこれからも迷走しそうですね。結論から言いますが、辺野古移設計画は非現実的なプランです。それなのに莫大な費用を掛けようとしています。本来なら、辺野古に移さなくても解決できるのに、工事が進められようとしています。 万一、辺野古移設が白紙に戻っても、ベターの解答はあります。私が96年6月以来、ずっと提案している案は、移設先の飛行場は基本工事が一年半と仕上げの工期半年間を加えて二年ほどで完成します。今の辺野古の工期五年間は根拠がありません。

―総工費は埋め立ても含めて約3500億円と言われていますが…

小川 この十年間に国内に造られた国内の空港と比べると、特別な広報を必要としないのに相当に高い。しかも、どんどん膨らむ可能性が大きく、5、6000億、下手をすれば1兆円にもなる可能性があります。これは静岡空港が20個できる額ですよ。静岡は用地買収を含めて1900億円かかっていますが、空港自体は540億円ですからね。私が、工期を1年半から2年と言うのは、アメリカのゼネコンがインドで2700メートルの滑走路の軍用飛行場を一年半で完成させた実例を踏まえてのことです。鳩山政権の末期、実際に私が提案してきた普天間の移設案をアメリカ当局といったんは合意していたのです。

―それが「キャンプ・ハンセン」案なのですね。

小川 一貫してこの案を提案しています。日米の役人は演習場内の空き地に飛行場を作るものだと誤解していて、「そんな所に滑走路を造られたら訓練ができなくなる」と反対していましたが、そうではありません。キャンプ・ハンセンの南端に米軍が終戦間際に10日間で建設したチム飛行場の跡地があって、現在はその上に海兵隊の建物が建っています。この下に1600メートルの滑走路があるので建物を移して滑走路を2500メートル前後まで延長するだけで済みます。訓練場に手を加える必要は一切ありません。そうすれば山にも、住宅にも引っ掛かりませんから、安全を確保できます。それから、キャンプ・ハンセンは海抜50メートルありますから、南海トラフなどの大地震による津波、高波の影響を受けません。辺野古は海抜ゼロメートルですから、非常にリスクが大きいのです。

小川 先日、全省庁の課長補佐94人の研修で講義をしました。その時、「辺野古案を軍事的合理性から評価せよ」という設問を出したところ、全員が否定的な答えを出してきました。

―官僚は分かっているんですね。

小川 彼らは優秀ですから、私の著作などを徹夜で研究してきて、ちゃんと正解を導き出せるのです。彼らは言われると分かるのですが、企画力や構想力、つまり真っ白な紙に絵を書く能力が欠如しているだけなのです。

―現在、粛々と進められている辺野古移設計画は、軍事的にも経済的に合理性がないわけですね。

小川 アメリカ側の実務担当者で一番抵抗していたのが、当時のケビン・メア東アジア・太平洋局日本部部長でした。彼が「辺野古案がベストだ」と主張して止まないので、私はそれがベストではない、つまり、海兵隊にとって辺野古は平時、有事にかかわらず使えないことを証明しました。まず、キャパシティですが、普天間の38%しかないし、滑走路も短い。輸送機が使えませんから、海兵隊の主任務である海外への災害派遣ができません。普天間では「アントノフ124」という巨大輸送機をチャーターしていますが、2500メートルの滑走路が必要です。辺野古案はオーバーラン分を含めて1800メートルしかありません。また、有事の際には第1海兵航空団が保有する456機のうち約300機が沖縄に集まります。地上部隊の4万から5万人の兵士も受け入れなければならない。物資を集積する問題もある。辺野古案は話ならないと、メア氏に指摘すると、彼はあっさりと認めました。私が国防総省と認識を共有していることを知っているから抵抗はそこまででした。それでも政権交代直前の段階で軍事的合理性のない辺野古移設案に着地させたのは、中国に日米同盟が安定的に維持されていることをアピールすることが最優先したと認めたのです。海兵隊に「泣いてもらった」というのです。外交交渉は、そういう点を認めさせるところまでやるべきなのです。当時、海兵隊の中将は自衛隊の方面総監に対して「ワシントンの頭の良い連中が書いた計画だからどうしようもないものができた」とこぼしていました。

―中国に対する強力な抑止力になっている海兵隊の存在ですが、辺野古では「張子の虎」になりかねませんね。

小川 そのため米国側は、有事の際には膨れあがった海兵隊機に那覇空港を使わせようと考えているようです。また、メア氏に対しては、工期5年という数字は2005年に守屋武昌防衛事務次官と私で一つの目安として決めた数字が一人歩きしたもので、何の根拠もない数字だと伝えました。つまり、今の計画は全て根拠の無い数字で進んでいるものです。こんなことで、もし、今の騒動で血が流れることになれば本当に悲しいことです。

 

 

「96年4月2日、自民党政調会

 

 

 

―沖縄の問題を解決する第一歩が、普天間の危険除去だったはずですが…

小川 1995年に日米両政府間で沖縄にある米軍基地の整理・統合・縮小などについて検討することになりました。この時、日本側から普天間の返還を要求しましたが、アメリカ側から拒否されました。96年4月2日夜に自民党本部で開かれた会合のテーマは、16日に予定されている日米首脳会談に向けてのメモ作成でした。外交・安全保障の専門家として呼ばれていた私は、当時の政調会長だった山崎拓さんに「この際、普天間を取り返しましょう」と提案したのですが、山崎さんは「一回アメリカに蹴られて、共同文章の中に“継続的に協議する”という文言を入れるのがせいぜいだ」と言います。そこで私が「取り返せるものを取り返さずにどうするのですか。第一ラウンドにダウンを喫したから試合終了じゃないのですよ。闘いはエンドレスです」と、米国側は軍事的能力が低下しない範囲なら受け入れることを説明すると、ジッと考え込んだあと「これから橋本(龍太郎)総理にこの話を持っていく」と答えました。この時、同席していた経済を担当する元大蔵省財務官で、当時は慶応義塾大学教授をしていた内海孚(まこと)さんが言いました。「官僚としての経験から言えば、政治的な決断をする時には、マスコミに漏れるから官僚をできるだけ少なくした方がいい」。これを受けて外務省の田中均さん(北米局参事官)だけが米国との交渉に当たり、「今後5~7年以内に、十分な代替施設が完成した後、普天間飛行場を返還する。施設の移設を通じて、同飛行場のきわめて重要な軍事上の機能及び能力は維持される」という合意に達したのです。

―一発逆転ですね。しかし、あの巨大な普天間飛行場の移設先を確保するのはそう簡単ではないように思いますが…

小川 返還合意の大前提が普天間の危険除去ですから、直ちに閉鎖すべきなのです。まず、キャンプシュワブの一角に仮の移駐先を作る。これは戦場の常識でやると、駐機場とヘリ発着スペースは二日間で出来ます。これに1500~1600メートルの滑走路を加えても、1ヵ月以内にできます。この工事をどうやるか。米軍基地内ですから日本の法律は適用を除外されます。日米共同訓練という枠組みで陸上自衛隊の施設科部隊を海上自衛隊輸送艦おおすみ」で運び、大型ホバークラフトLCACで土木機材を海から直接揚陸して、24時間の突貫工事でやればできます。

―なかなか想像できませんね。

小川 戦場では当たり前ことです。50機規模のヘリ基地を1、2日で移動させます。防衛省の役人が蔭で「戦場じゃないんだから」と言うのが聞こえたので、「あなた達、普天間周辺の住民が戦場と同じ状況である事を理解すべきだ」だと叱責しました。

―それが本土の沖縄に対する「無理解」「無関心」の象徴ですね。

小川 本土の国民は仕方がありません。直接関係無いことですからね。本土が理解していることを沖縄県民に示すのは、本来総理の役割ですよ。

―それができていない…

小川 安倍総理を好き嫌いで判断する傾向がありますが、外交などこれまでの総理の中ではかなりの仕事をやっていると思っています。ただ、この問題に関しては、菅官房長官に丸投げしてしまっています。それをさらに官僚に丸投げしてしまっていますから、ボタンの掛け違いが起きていると思いますね。この状況を打開にするには、まずは仮の移駐先を確保して普天間の危険を除去してみせる。そこで沖縄県民の信頼が戻ります。それを受けて総理自身が沖縄に乗り込んで、正面から説得すればば県民の姿勢は大きく変わりますよ。

―結局は、沖縄県民だけではなく日本全体が覚悟するしかない。

小川 アメリ海兵隊は軍事的能力が落ちなければ他の基地の整理・統合・縮小にも応じるのです。辺野古のように、狭い場所に押し込んだのでは他の基地に関する交渉には応じません。そういう戦略的な視点が官僚や政治家に無いのです。私が提案しているキャンプ・ハンセン案は安くて早く済みますから、鳩山政権時代の駐日大使は、「余ったお金は、海兵隊のグアム移転の費用に回してもらいたい」と言っていたくらいです。アメリカは沖縄県民の感情が悪くならず、早く、安く建設でき、かつ軍事力が維持できればいいと思っています。

 

 

 

迷走の始まり

 

 

 

 

―設問は明確なのに解答を出せない…

小川 結局、それを誰もやろうとしないから、返還合意から20年近くが経っています。やれるのにやれない、というよりは「やれる」ことを政治家、官僚、マスコミが全然理解していないのです。まずやるべきは、政府が沖縄県民に対して前提となる条件を確認する作業なのです。沖縄県民が米軍基地問題から解放される選択肢は理屈の上では三つあります。一つ目は日本から分離・独立する、二つ目はアメリカの一部つまりグアムのような準州になる。そうなると米軍基地は沖縄にとって自国の基地になります。三つ目は日本国の沖縄県として最高の答案を出す。一と二についてはリスクが大きいとして沖縄は選択しませんでした。当時の大田昌秀知事は私に「分離・独立と簡単に言うが、我々には血を流す覚悟がありませんでした」と言われました。そうなると、残る三番目、日本国の沖縄県としてベストの答案を政府に書かせるしかないわけです。

 もう一つの確認事項は防衛体制に関してです。一つは、日米同盟を活用して沖縄の負担を無くして安全を実現する。もう一つは日米同盟を解消して、武装中立するという、二つの選択肢についての確認です。二つ目の武装中立を実現すれば、もちろん米軍基地は全て無くなります。しかし、防衛を独力でやるとしたら現在の防衛費5兆円が年間23兆円規模に膨張します。コストの問題もさることながら、日本が自立した軍事力を持つと国際的孤立を招くリスクがあります。また、米軍の代わりに沖縄の島という島に「日本軍」が駐留することになります。スーパーパワーのアメリカの抑止力が効いているからこそ基地は現在の規模で収まっていますが、日本だけで守ろうとすると沖縄県の主要な島全てに基地を置かなければならなくなります。これを沖縄県民が選択するとは思えません。つまり、日米同盟を活用するしかないのです。事故の危険性や米兵の犯罪が懸念されるわけですが、それをゼロに近く抑え込んでいくのが政府の仕事なのです。

―よく「日米地位協定」を改正できないことが問題視されますね。見直せないから問題だと。

小川 これも、日本側に問題があります。協定の中身を変えないのは、日本側の問題なのです。アメリカが求めているのは、軍事的能力が維持されることと、沖縄県民の米軍に対する感情がより良くなること、この二点だけなのです。日本側が交渉力を持っていれば、いかようにもなります。協定を改定するとアメリカが展開している他国・地域もドミノ倒しのようになると危惧する声もありますが、それなら日米の二国間だけの特別協定を結べばいいだけの話です。それを不磨の大典のように変えることが出来ないのは、憲法改正が出来ないのと同じく日本の悪しき体質です。これからでも遅くはないので、政府は沖縄県民と、日本国の沖縄県としてベストの答案を描いていくことについての確認と、そのためには日米同盟を活用しながら沖縄県民の負担を軽減して平和を実現するという選択について確認すべきです。そう整理の中で、普天間の移設は県内ということに落ち着くのです。

―鳩山政権時代に鳩山元首相の「最低でも県外移設」の発言が、こじれた原因だと指摘する声も大きいですね。

小川 あの発言は選挙の時に言い出したもので、私が就任直後の鳩山さんに「リアリティのない県外移設案を撤回すべきだ」と指摘しました。その後、判断力のない鳩山さんは色んな専門家に意見を聞いて、その結果、私の提案に戻ってきました。そして私に「総理補佐官になってアメリカと交渉してくれ」と要請して、私は民間の専門家の立場から移設案の整理と策定作業に入りました。補佐官の辞令が出るとマスコミに追い回されますから、下交渉の段階では民間人として動くことにしたのです。アメリカ政府も日本政府の担当者が陪席することを条件に受け入れました。アメリカ側は私の提案を肯定的に受け入れ、日本政府に「小川案への一本化」を求めることになりましたが、私に同行していな民主党議員が総理に連絡しても応答が無くなってしまい、その結果、アメリカ側は辺野古案に戻してしまったのです。これは、ひとえに日本側の責任です。

 

 

海兵隊の抑止力とは

 

 

 

―沖縄の米軍基地を本土も受け入れるべきだという声も聞かれます。

小川 日本国全体で負担を分かち合うべきなのは当然ですが、軍事上沖縄に置かなければならない部隊があります。それを本土に移せるというのは、あまりにも実態を知らな過ぎます。よく、「目的地までの所要時間はそんなに変わらないから」という意見がありますが、わずか2時間でも有事では命取りになります。海兵隊の地上部隊は陸・海・空の三次元の訓練が出来る演習場と飛行場が近くに必要です。そうした訓練が出来るのは、ハンセン、シュワブしかありません。その訓練している所を見せることで抑止効果があるのです。沖縄に駐留している地上部隊は二つの抑止力を発揮しています。一つは朝鮮半島で2割から3割、もう一つの台湾海峡尖閣諸島を含む南西諸島が7〜8割です。

朝鮮半島には韓国軍に加えてアメリカの陸空軍もいますから、海兵隊の重要性はそこまで高くありませんが、最もウエートが高いのは、やはり台湾海峡です。中国が実行する可能性がある選択肢は一つしかなく、いわゆる「斬首戦」と言われるものです。これは、相手国の政治・経済・軍事の中心部をミサイルで叩き潰して文字通り「頭脳」部分を切り落とす、戦術の一つです。中国は福建省などに展開している約1600発の通常弾頭型弾道ミサイルで、ある日突然、台湾の政治・経済・軍事の中枢を叩いて、混乱状態の中で中国の傀儡政権を作ります。国連は中国が安保理常任理事国ですから動きません。国際社会が手を拱いている間に、台湾国内で親中派と独立派の内戦が起きて、中国が名目をつけて人をどんどん送り込んで、いつの間にか抑えてしまう。それが考えられる最悪のシナリオです。それに対する唯一の抑止力が、沖縄の海兵隊地上部隊です。最速で2時間で中国軍とぶつかります。1回に1千人しか投入できませんが、中国がその部隊と戦闘状態に入るということは、すなわちアメリカとの全面戦争を意味しますから、中国はためらいます。その「ためらわせる」ことこそが抑止力なのです。

―「たった1千人で?」という疑問の声も挙がっていますが…

小川 それは、戦争の意味を全く分かっていないからです。たとえ10人でも正規軍と戦えば、アメリカとの全面戦争になります。

―配置されている輸送機オスプレイは、従来配備されているものより巡航速度が速く航続距離も長いとされていますが、軽量化のために装甲と武器を最低限しか搭載しておらず、実際の戦闘では脆弱ではないかという批判もあります。

小川 それも戦争を全く理解していない意見ですね。オスプレイを叩けば、即全面戦争に突入して、最悪の場合は核戦争に発展しかねないのです。それに、最初に投入される1000人の後には海兵隊だけでなく巨大な陸軍部隊が続くことになります。海軍と空軍も投入される。中国は、そんな米軍と戦いたいはずがありません。

 ―「抑止力としてはアジア最大の空軍基地・嘉手納で十分対応可能。台湾有事を具体的に想定したときに、米空軍・海軍の出番はあっても、果たして海兵隊の役割は必要なのか」という見方もあります。小川 弾道ミサイル巡航ミサイルを撃ち込んでくる「斬首戦」には空軍戦力は対応できませんし、海軍は投入までに時間がかかりすぎます。傀儡政権を樹立した中国側と数時間で戦闘に入ることができる海兵隊地上部隊が抑止効果を持つのは、それも大きな理由です。 

 

 

 

 

 

 

 

日本列島「本社機能」論

 

 

 

―その抑止力としての在日米軍海兵隊としての役割の重要性に、日本国民が気づいていないような気がします。

小川 沖縄だけで考えては見えてきません。日本列島全体で考える必要があります。分かり易く言えば、日本列島はアメリカにとって「本社機能」なのです。他の韓国、イギリス、ドイツなど米軍が駐留している国は、「支店機能」に過ぎません。軍事の世界に「パワー・プロジェクション能力」という言葉があります。直訳すると「戦力投射能力」になりますが、より分かり易く表現すると、「多数の戦略核兵器によって敵国を壊滅することができる能力」または「数十万規模の陸軍を海を超えて上陸させ、敵国の主要部分を占領し、戦争目的を達成できるような構造を備えた陸海空軍の戦力」になります。アメリカは、このパワー・プロジェクション能力のうち核兵器を除いたものを日本列島に置いていることを認識してもらいたいですね。

―日本に常駐する米軍の兵力から考えると、疑問を抱く人もいそうですね。

小川 軍事力の規模は柔軟に変えられるものです。いま駐留している兵力をもとに考えるのは間違いです。アメリカ本土からくる大規模な部隊を受け入れることが可能な基地機能が維持されていることこそ重要なのです。

 燃料や弾薬にしても、アメリカ本土以外で最も大量に日本に備蓄しています。アメリカ本土なみの規模です。燃料貯蔵施設は国防総省管内で第2位の横浜市鶴見と第3位の長崎県佐世保が置かれています。それだけアメリカにとって日本列島は、重要な戦略的根拠地なのです。この日本列島を無くすとアメリカは世界のナンバーワンの地位から転がり落ちます。尖閣に中国が手を出すと米軍を投入するという警告を、穏やかな表現を使ってではありますが、習近平主席に対してこの3年間に2回言っています。仮に日米同盟が無くなると、日本が失うものも大きいのですが、アメリカのほうはもっと大きい。だから、日本人が錯覚してきたのとは逆に、アメリカのほうこそ日米同盟が解消されることを恐れているのです。こうしたデータ、資料は全て公表されているのに、官僚が知らずにきたのは本当に情けない限りです。

―沖縄問題の根底には「無知」も原因の一つに挙げられますね。

小川 やはり、「理詰め」が必要です。もともと日本は理詰めで動くことがなく、「小理屈」の世界なのです。理詰めとは目標を達成するために、最適な手順を踏んで論理的考えながら進んでいくことです。小理屈は、知識偏重型で行動が伴いません。しゃべり散らして終わり。沖縄に関する今の議論は、まさに小理屈の世界です。目的が明確ではありません。

―理詰めの目的は、日本の安全保障…

小川 それと、沖縄の平和と繁栄です。それなのに、その目的が全く見えていない。沖縄のメディアは私から逃げ回っています。挑発しても反発すらして来ない。偏向報道ばかりで小理屈の世界ですよ。これでは沖縄問題の本質は分からないし、理詰めにはなりません。実は、かつて沖縄の革新陣営も私の案については理解を示していたのです。「連合沖縄」は、提言集の中で「普天間は県外がベストだが、それがダメな時はある軍事アナリストが提案しているキャンプ・ハンセンの陸上案がベターだ」と記しています。

―今でも「キャンプ・ハンセン」案を?

小川 もう、自分から口を出す積りはありませんね。普天間返還合意にようやく漕ぎ着けて、その後三回総理補佐官になるように求められ、総理補佐官同様の立場で動いて解決しかけたのですが、その度に政治に妨害されてきました。私が政府の立場で普天間問題に関わったのは、小渕(恵三)内閣の時でした。総理補佐官になる前提でしたから、総理秘書官のFさんから「小川を迎えるように」という指示が出され、その時に出てきたのが、当時、自民党沖縄県連の幹事長だった翁長さんでした。

―沖縄は、「キャンプ・ハンセン」案を現実的な選択と理解しているのですね。

小川 あとは総理が決断すれば解決するのです。仮の移駐先を確保して、普天間の閉鎖をただちにやる。その後に本格的な移設先の整備を進めていくと総理が決断して実行に移せば、沖縄も国の本気度に理解を示すと思います。

―国の安全保障のためとは理解できても、「なぜ、沖縄だけが」という不満はくすぶり続けるのではないでしょうか。

小川 国民が等しく沖縄の負担を分かち合うためには、まずアメリカとの間で特別協定を結び、事故と犯罪の危険性をなくすことですね。そして、沖縄県民は無税とし、教育、医療、福祉も無料にする。さらに、沖縄と日本の未来を切り開くために、世界中の頭脳とお金が沖縄に集まるように、画期的な試みを実行できるような「一国二制度」も検討してみてはどうでしょうか。無税化については、官僚は出来ると言っていましたが、一国二制度については政治的判断しかありません。

 

 

 

主張できないニッポンの象徴

 

 

―本土の一部には「沖縄が反対するのは、お金が目的だから」という声もあります。

小川 お金を欲しがっているのは、本土の政治家と業者に関係のある沖縄の人たちです。関係ない沖縄県民は、お金を欲しいなんて思っていません。総理補佐官と同等の立場で沖縄を何度も訪れましたが、お金に関しては沖縄の人はきれでした。感心したのは、彼らは自腹を切って私を案内してくれました。私が「少しは予算を確保していますから、払わせてください」と言っても受け取りませんでしたね。「これは自分たちの問題だ」というプライドがあるからです。ところが、お金に関して沖縄に関わった中でよろしくない噂が立った人物もいました。沖縄の人たちに大変失礼ですよ。

―利権、認識不足が根底にありますね。

小川 できないことではないのに、やっていないという感じがしますね。地位協定にあたるものはいろんな国がアメリカと結んでいて、例えばドイツはずい分前から土日祭日には低空飛行訓練をやらせていませんし、イタリアは昼寝の時間は飛行させていません。日本が出来ない話ではないのです。米軍の軍事的能力が高く担保されていれば、基地の整理・統合・縮小に応じてくれるわけですから、むしろ米軍に対してもっと予算を回してもいいと思います。普天間移設問題では、目的と加かけ離れたところにお金が使われている印象です。

―日本の独立性についてですが、自主憲法制定などなかなか進まない感じがします。

小川 日本人は口先ばかりですから、真の独立は無理じゃないでしょうか?日本人については「NATO(ナトー)」という陰口がきかれます。北大西洋条約機構ではありませんよ。NoAction TalkOnly、口先ばかりで行動が伴わないという揶揄です。本当に独立を目指していたのなら、昭和30年代までに憲法を改正できたはずです。本気で独立を目指しているとは思えません。真の独立とはどういうことなのか。アメリカの属国みたいに見られているとか、自分たち自身が思っていること自体がおかしい話です。予算から眺めれば、アメリカにとって最も対等な同盟国は日本だということは明らかです。それを、調べもせずに「アメリカに逆らったら安保を切られる」と外務省、防衛省は言うのですが、アメリカは日本でナショナリズムが台頭すると安保を日本側から切られるとずっと危機感を持っているのです。自国の国益を主張できない国は、世界で軽蔑されることを知る必要があります。

―TPP加入も安保、つまりアメリカに守ってもらっているから、という卑屈さを感じますが。

小川 いや、あれでいいんですよ。もっと、主張してもいい。安全保障問題は、日本の国益を主張しながら進めるべきなのに、官僚がやれないのです。湾岸戦争の時のアメリカの国務長官ジェームス・ベーカーは回顧録でイギリスを最も高く評価しています。イギリスに参戦を求めて何度も足を運ばされた挙句に値切り倒されたのに、です。つまり、自国の国益を最優先にして交渉するイギリスの姿勢が高く評価されたのです。一方、日本の評価は最低でした。日本人は、戦力を出さずに金だけしか出さなかったことが低い評価となったと思い込んでいますが、そうではありません。日本が国益を主張しなかったからです。言われるままにお金を出さずに、値切るべきでした。アメリカは、自衛隊派遣を求めてはいなかったのです。四囲を海に囲まれた日本は、危機に直面した経験に乏しい。だから外交、安全保障、危機管理に関しては能力的にも低い。他の能力が高いから、その部分も高いと錯覚しているふしがありますね。世界に通用するレベルで主張できない日本の弱さの象徴が、普天間の問題です。

 

 

 小川氏プロフィール

昭和20年、熊本県生まれ。陸上自衛隊生徒教育隊・航空学校修了。同志社大学神学部中退。地方新聞記者、週刊誌帰社などを経て、日本初の軍事アナリストとして独立。外交・安全保障・危機管理の分野で政府の政策立案に関わる。現在、特定非営利活動法人国際変動研究所理事長静岡県立大学グローバル地域センター特任教授