大野城、水城、怡土城、元寇防塁、そして福岡城 ―日本の城作りの最先端地域だった福岡

そこが聞きたい!インタビュー

 

大野城、水城、怡土城元寇防塁、そして福岡城

―日本の城作りの最先端地域だった福岡

歴史紀行作家 中山良昭氏

 

 

 

福岡は日本の城作りの嚆矢だ―そう熱弁を振るう中山さん。古よりわが国の「国防最前線」・福岡には、防人のDNAが引き継がれていた。

 

 

大野城の意外な実体

 

 

 

 

―福岡という地域は日本のお城の歴史上、非常に重要な意味を持っているそうですね。

中山 まず、福岡は日本の古代城郭の出発点なのです。その代表的なものが、朝鮮式山城である「大野城」で、時代を下って「水城」、中国式山城「怡土城(いとじょう)、「元寇防塁」、そして「福岡城」と存在するわけですが、これらの城は日本の城郭史にとって重要なポイントです。

―朝鮮式山城「大野城」は、665年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷天智天皇が防衛のために築城しましたね。

中山 実は築城された年代は不詳なのです。朝鮮式山城と言うと、今のお城が山にあると思われがちですが、大野城カルデラ地形の大きなくぼみにあります。つまり、逃げ込むための城でした。女子供、老人などを城に隠すための施設だったと思います。一見すると普通の山にしか見えないので、くぼみに隠れているとは外からでは分かりません。しかも、かなり広いのでかなりの人数が収容できます。この朝鮮式山城は北部九州から瀬戸内海沿岸にかけてあります。

―築城したのは、朝鮮半島から亡命してきた百済人だとされていますね。

中山 確かに百済人の技術が採用された山城もあったと思いますが、それ以前にカルデラのような身を隠す場所を探して山城を作っていたと思います。そこでは宗教的な儀式も行われていたでしょうね。ですから、「朝鮮式」と定義していることも実は疑わしい。実際、朝鮮半島にこうした城があるかどうか不明ですからね。朝鮮式山城の定義は、カルデラのくぼみなど外からは見えない場所に逃げ込むための山城だと思います。

―と言うことは、大野城の築城は天智天皇によるものではない可能性もありますね。

中山 瀬戸内海沿岸の山城は天智天皇の時代に造られたものでしょうが、大野城は恐らく紀元1世紀とかなり古いものだと思います。大野城という、逃げ込むには絶好の山城があったから大宰府がそのふもとに置かれたのではないでしょうか。城という概念の嚆矢が、大野城だった可能性は高いと思いますね。

―次に白村江の戦いの翌年に水城が造られますね。

中山 本来は中国から伝わってきた当初、「城」は「き」と読まれていました。それが「水城」です。この「城(き)」は、日本人が考える城郭のことではなく城壁のことを指します。中国では町全体を城壁で囲みますから、「城」は城壁そのものでした。神奈川県に稲城という地名がありますが、藁と土をこねて作った土塀を城壁にしていた名残です。2度目の元寇弘安の役 1281)前に築かれた元寇防塁はこの水城をヒントにしています。と言うのも、1度目の元寇文永の役 1274年)の時には防衛の最終ラインは水城でした。それを今度は石組みで造ったのが防塁です。これが後に石垣の技術に繋がっていきます。日本初の石積みの城壁が防塁で、石垣の原点なんです。

 

 

戦国山城の嚆矢「怡土城

 

 

 

糸島市に残る中国式山城「怡土城」は、当時安禄山の乱が勃発して、朝鮮半島では新羅が日本の国使との会見を拒否するなど対外的な緊張が高まって九州の防備が急務になり、768年に遣唐使として留学した吉備真備が築城したと言われていますね。

中山 一般に「U字式」、「馬蹄型」と言われていますが、私はこれを「山懐(やまふところ)型」と呼んでいます。両脇に山すそがせり出してその合間に城が築かれていました。入り口を仕切って防衛し、山の尾根伝いに物見やぐらを造って敵の来襲を監視する構造になっています。城の中心は山の懐にあるので、あえて「山懐型」とした方がピッタリだと思います。この城が中世の戦国山城の主流になっていきます。カルデラ地形を使った朝鮮式山城は向いた地形はそんなに無いので広まりませんでしたが、この中国式山城の立地条件が山すそですから、日本国中に適地がかなりあります。この城の優れている点は、背後の山から見張りが出来て、普段の生活は山麓で生活できていざという時には山の上に逃げられる点です。

 その後の中世の山城は、14世紀の楠正成の千早城で一気に拡大していきます。要するに、それまで城というのはあくまで逃げ込む場所だったのが、篭城戦で戦略的に使えることが千早城で証明されて、戦国武将がそれに倣って山城を造っていきます。その後、鉄砲が使われるようになって山城の欠点が露呈してきます。それは、先込め式の鉄砲の弾が銃からずり落ちてしまうんです。逆に上に向けて撃つのは有利になりましたから、山城は篭城に向かなくなってきて廃れていきます。そこで登場したのが、丘の上に築城された「平山城」です。弾が落ちないし、下を狙うには有利な角度を確保でき、下からの弾が届かないからです。一部にはそれから築城のムーブメントは平地に移行した、という説がありますが、それは違います。平城は沼地や海を敵の障害として利用するものです。もちろん、駿府城や二条城のように、都市に城を築く必要があって、

築かれたものもありますが、日本の城郭の究極形は平山城です。

 

築城技術の粋を集めた「福岡城

 

 

 

 

―最後の福岡城はどういう位置づけになるのでしょうか?

中山 織田信長が築いた安土城豊臣秀吉大阪城を見ると、織豊政権は非常に土木技術に長けていて、近世城郭作りのマニュアルを作っていたようです。その代表例が、「枡形虎口」です。虎口とは出入り口のことです。城の曲輪に入る際に、まず最初の門をくぐると、正面と左右どちらかが封鎖されていて、先に進むには直角に曲がらなければならない構造です。これは、近世城郭のほとんどの城に採用されているものです。理想的には、三の丸、二の丸、本丸とこれを連結していくのですが、それは加藤清正朝鮮出兵の際に築いています。このような近世城郭の基本マニュアルを作ったのが、黒田官兵衛加藤清正藤堂高虎らだったと考えられます。この築城の名人だった加藤清正黒田官兵衛が渾身の力を振り絞って築いたのが、熊本城と福岡城なのです。

福岡城の特徴は・

中山 まず、城域が東を頂点にした三角形になっているという点です。これはどういうことかというと、福岡城の立地条件は、北は海で西は大濠ですし、大きな勢力もないので、敵が攻めてくるのは、東からしからありません。南からの敵も現在の鹿児島本線や国道3号線と同じく、いったん東に迂回しなければなりません。東側が尖っていますから、寄せ手は北と南に分散されます。しかし、北は海ですから、南に集中せざるを得ません。そこに、現存の南側の多聞櫓を築いています。高い石垣上に築かれた多聞櫓の防御力はかなりのもので、南側から寄せる敵に対して鉄壁の守りを固めていました。

その上、福岡城の二の丸、本丸の巧妙な設計は熊本城を遥かに凌駕しています。加藤清正福岡城の堅固さに舌を巻いたくらいです。しかも、万一、敵が本丸を攻め落としても天守閣まで登ることができません。天守閣に行くためにはもう1度外に出なければなりませんし、さらに天守閣にたどり着くには、櫓の下をくぐらなければならない。また、福岡城は三の丸が非常に広く、家老の屋敷も城内にありましたが、これは再度の朝鮮出兵や九州での反乱に備えて、10万規模の軍勢が駐留することを考えてのことでしょう。まさに戦略にあふれた名城―福岡城は近世城郭の集大成とも言うべきお城なんです。

 また吉塚に古いお寺が多いのは、寺は土壁に囲まれ、鐘楼や庫裏、本堂があって、いざという時には出城として使えるからです。それを東と南から来る敵に備えて配置したのが吉塚の寺町です。まさに、これも福岡城の一部なのです。

 安土桃山時代から大阪夏の陣までが築城ブームで日本の近世城郭の殆んどがこの時代に造られています。福岡城は関が原合戦後に築城されたのですが、築城ブームで蓄積された技術の粋がふんだんに使われたのが福岡城です。

―古くから防人という地政学的な条件が福岡が日本の城作りの嚆矢になった背景にあるのでしょうね。それにしてもそうした名城が跡形も無くなっているのは、残念です。

中山 福岡城が跡形もないなんて(笑)。私たちからすれば、石垣や堀などの土木的な構造こそが城であって、天守閣を含めた建物は付属物にすぎません。8割が土木で、2割が建築なんです。その意味では、福岡城は土木的構造がほとんど失われていないし、建造物もいくつか残っています。

ぜひ、石垣や堀、そしてその配置、それを縄張というのですが、これに注目して城を見てください。

規模では熊本城が大きいですが、戦略性の高さでは福岡城が日本一ではなかったかと思います。福岡の人たちが「地元にお城が無い」と思いこんでいるのが残念です。もっと誇ってもらいたいものです。

 

中山氏プロフィール

1953年福岡県生まれ、同志社大学文学部文化史学専攻卒業 歴史書編集者、歴史紀行作家。編集者として、『城郭と城下町』(全10巻)『日本の城下町』(全12巻)『人間昭和史』(全11巻)などを編集。著書に『江戸300藩殿様のその後』、『日本百名城』、など。近著に『天皇陵謎解き完全ガイド』『殿ご乱心でござる』。週刊ダイヤモンドなどにも寄稿。

 (フォーNET 2016年12月号)