中村哲氏と「山田堰」(福岡県朝倉市) 追悼に代えて

ペシャワール会中村哲さんが凶弾に斃れた。ついぞご本人に取材する事はなかったが、間接的に記事を書いたことがある。哀悼の意を込めて、掲載する(長文なので時間がある時読んでください。未推敲)

 日本人の自己犠牲精神

二百年以上の時空を超えてアフガンの人々を救った山田堰(朝倉市

語り手 水土里ネット山田堰(朝倉郡山田堰土地改良区) 事務局長 徳永哲也さん

 

寛政二年(一七九〇)に度重なる旱魃に苦しみ、飢餓を克服するために朝倉の人々の勇気と苦闘によって築造された「山田堰」が、時空を超えてアフガニスタンの人々を救いました。

 

 

「傾斜堰床式石張堰」

 「現代の山田堰」を再現したのは、アフガニスタンパキスタンで活動している福岡市の非政府組織ペシャワール会の代表である中村哲医師でした。ペシャワール会は昭和五十九年(一九八四)から主にアフガニスタンで貧民層の診療に携わってきました。平成十二年(二〇〇〇)以降は清潔な水と食べ物を求めて井戸掘りに奔走し六年間で千六百ヵ所の水源を得ました。平成十五年(二〇〇三)からは食料生産の用水を得るために全長二十五・五キロのマルワリード用水路建設に着手しますが、取水技術の壁に突き当たり、アフガニスタンのどこでも誰でも多少の資金と工夫でできるものを探していました。
 解決の糸口は意外なところにありました。近世・中世日本の古い水利施設で当然全て自然の素材を使い、手作りで作られたものでした。それが山田堰だったのです。筑後川もクナール川も規模こそ違え、急流河川、水位差の極端な暴れ川という点で似ていました。山田堰の中核の技術である「傾斜堰床式石張堰」を調べれば調べるほど他にないと確信したそうです。中村代表は山田堰をモデルに二〇〇三年三月~二〇一〇年二月までの七年間を費やし、マルワリード用水路全長二十五・五キロが開通、広大な荒れ野三千haが農地となり、農民十五万人が生活するまでに復興、新開地の砂漠で田植えができるまでになったそうです。
 自給自足の農業国・アフガニスタンの水欠乏と貧困は、近年の地球温暖化による取水困難が深く関係しています。現在、「山田堰方式」を隣接地域に拡大し、荒れた村が次々と回復し、六十万人の農民、一万四千haの農地が恩恵を受けているそうです。

「堀川の恩人」古賀百工

 二百二十年もの時空を超えて日本から遠く離れたアフガニスタンの人々を救った「山田堰」とは、一体どんな施設なのでしょうか。
 山田堰の起こりは、寛文三年(一六六三)に初めて設置された堰で、川を斜めに半分ほど締め切った突堤でした。同時に水を水田に送るために掘削された農業用水路が「堀川用水」です。当時の全長は約八キロでした。最初の堰の完成から六十年後の享保七年(一七二二)により多くの水を取水するために、恵蘇(えそ)山塊が筑後川に突き出した大きな岩盤を貫く大工事を敢行します。これが現在に受け継がれている「切貫(きりぬき)水門」です。水門の上に建つ水神社は、この工事の安全と水難退除のために建立されたものです。宝暦九年(一七五九)、切貫水門の幅は一・五メートルから三メートルに二倍に切り広げられ、堀川用水にはより多くの水が導き入れられるようになりました。
 それでも残る広大な原野を水田に変えるために立ち上がったのが、下大庭村の庄屋、古賀百工(ひゃっこう)でした。後に「堀川の恩人」といわれるようになる百工は、宝暦十年(一七六〇)から明和元年(一七六四)まで五年の歳月をかけて、堀川用水を拡幅・延長した後、山田堰の大改修という悲願を達成します。
 百工は、筑後川からより多くの水を取水するために川幅全体に石を敷き詰めた堰を設計し、自ら工事の指揮を執ります。寛政二年(一七九〇)に行われた大工事には、旱魃に苦しんできた多くの人々が豊かな実りを夢見て、水量が多く流れも速い九州一の大河での難工事に身を投じました。その数は延べ六十二~六十四万人に達するといわれています。こうして総面積二万五千三百七十㎡の広さを誇る、全国で唯一の「傾斜堰床式石張堰」が誕生し、水田面積は四百八十八haに拡大しました。
 筑後川の水圧と激流に耐える精巧かつ堅牢な構造を持つ山田堰には、南舟(みなみふな)通し、中舟(なかふな)通し、土砂吐きの三つの水路が設けられています。川が運んでくる土砂は、切貫水門に流れ込む前に土砂吐きから排出されます。当時盛んだった舟運を妨げずに鯉や鮎などの魚が容易に移動できるように生態系にも配慮されています。
 山田堰は度重なる洪水によって崩壊や流失の被害に遭いましたがその度に修復され、現在に引き継がれています。巨石を敷き詰めた石積みは永く自然石を巧みに積み上げた「空石(からいし)積み」でしたが、昭和五十五年(一九八〇)に起きた水害の修復工事によって、石と石との間をセメントで固定する「練石(ねりいし)積み」に変わりました。
 山田堰から取水した水を農地に送る重要な役割を果たしている堀川用水は、より多くの水を得てより多くの水田を開くため、山田堰の改修とともに新田開発が進み、両者を結ぶために拡幅され延長されてきました。開削から百年後には、堀川用水を延長する工事が行われました。この大工事によって約八・五キロの新しい水路が完成し、水田面積は三百七十haに拡大しました。
 永い歳月の間に幾多の洪水が堀川用水を決壊させ、あるいは土砂で埋没させました。しかし、朝倉の先人たちはその度に力を合わせて修復工事に当たり、堀川用水を守り続けてきました。
 堀川用水の総延長は、本線四・六キロ、幹線六・二キロ、支線七十七・三キロを合わせて八十八キロに達します。三百五十年前の十一倍に延び、大地に張り巡らされた水路は、六百五十二haの水田を今も潤しています。平成十八年(二〇〇六)、堀川用水は「疎水百選」に認定されました。
 堀川用水の下流には日本最多を誇る農業用揚水水車が今も現役で稼動しています。揚水水車は、川面より高所の耕地に送水する灌漑装置です。菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車の三群七基で構成される水車群。水車に関する最古の記録は、二連水車を三連に増設したという寛政元年(一七八九)の古文書にさかのぼり、同時期に二連水車も建造されたと推測されています。
 七基の水車が汲み揚げる水は、サイフォンの原理を利用して、農道の下に埋設された土管を通って吹き出し、三十五haの水田を潤しています。歴代の水車大工によって改良されてきたこの水車群は、勇壮な意匠と精緻な構造、揚水能力と灌漑面積のすべてにおいて日本の水車技術の到達点といわれています。福岡県を代表する観光資源として多くの人々を魅了している水車群は、平成二年(一九九〇)に国の史跡に指定されました。七基の水車による温室効果ガスの削減量は年間約五十トンと試算されています。

先人たちの知恵に感謝

 筑後川阿蘇山麓にある熊本県小国町を水源として熊本県大分県、福岡県、佐賀県の四県を流れて、有明海に注ぎます。その水は生活用水、農業用水、工業用水として、流域に生きる百万人以上の人口を支えています。筑後川中流域に開かれた筑後平野に位置する朝倉も、その恩恵を受けてきました
  私ども朝倉郡山田堰土地改良区では、将来にわたって地域農業を守り続ける為に、未来を生きる子供たちが、朝倉の農業を支える水源林と農業用水の関係を学ぶ体験学習を支援しています。これに応えて、朝倉地区の小学校では四年生の子供たちが総合学習の授業で一年をかけて朝倉の農業や水源林の役割などを体系的に学ぶカリキュラムを組みました。子供たちは筑後川の源流である熊本県小国町を訪れ、小国の人々が林業に励むことによって水源林を守り続けてきたことを学びます。そして、朝倉の人々はその水源林が育む農業用水を大切に使い続けてきたことを学びます。
 この学習の成果は「朝倉地域文化祭」で地域住民にも披露されます。地域の誇りを懸命に伝える子供たちの発表を見入る人の中には、郷土愛を再認識し感動の涙を流す人も少なくありません。こうして、地域が一体となって、水源林と農業用水を守ろうという意識が醸成されています。
 また、山田堰の技術的価値を国内外に伝えようと、「世界農業遺産」登録への活動を行っています。ペシャワール会アフガニスタンに築いた農業用水路の取水口のモデルになった山田堰は郷土の先人たちの知恵の結晶で、登録でその技術力と勇気を称えることと同時に、途上国へその技術を伝えたいと願っています。 
 時空を超えて現代に山田堰を再現したペシャワール会の中村医師は山田堰の歴史的意義をこう強調しています。
「山田堰が時代と場所を超え、多くの人々に恵みをもたらした不思議。朝倉の先人に、ただ感謝です。技術的に優れているだけでなく、輝くのは、自然と同居する知恵です。昔の日本人は自然を畏怖しても、制御して征服すべきものとは考えなかった。治水にしても“元来人間が立ち入れない天の聖域がある。触れたら罰が当たるけれど、触れないと生きられない”という危うい矛盾を意識し、祈りを込めて建設に臨んだと思われます。その謙虚さの余韻を、“治水”という言葉が含んでいるような気がします」
「寛政二年、測量技術も重機もない時代に造られた山田堰は、自然と共存する紛れもない日本が誇れる歴史的農業遺産です。この堰が時を超え、現代の私たちに語りかけるものは小さくありません。国内外に広く知られ、輝き続けて欲しいと心から願っています」。

参考資料 朝倉郡山田堰土地改良区刊 「地域を潤し350年 歴史的農業遺産を守る」
(フォーNET 2015年7月号)

政談談論「韓国への経済制裁よりも竹島に自衛隊を派遣せよ」(太田誠一 2019年8月号)

韓国への経済制裁よりも竹島自衛隊を派遣すべきです

自国の領海・領土を自国で守る覚悟を内外に示すことが、

日韓、日中問題を根本的に解決できる唯一無二の方法です

 

果たして「よく決断した」のか?

 

政府は、韓国への輸出管理の運用を見直し、テレビやスマートフォン有機ELディスプレー部分に使われるフッ化ポリイミドや、半導体の製造過程で不可欠なレジストとエッチングガス(高純度フッ化水素)の計三品目の輸出規制を強化しました。いわゆる徴用工訴訟をめぐり、韓国側が関係改善に向けた具体的な対応を示さないことへの事実上の対抗措置です。同時に、先端材料などの輸出について、輸出許可の申請が免除されている外為法の優遇制度「ホワイト国」から韓国を除外します。除外後は個別の出荷ごとに国の輸出許可の取得を義務づけます。ホワイト国は安全保障上日本が友好国と認める米国や英国など計二十七カ国あり、韓国は平成十六年に指定されていました。いわゆる徴用工訴訟に関する韓国最高裁判決をめぐり、日本側は日韓請求権協定に基づく仲裁委員会の設置を求めましたが、韓国は問題解決に向けた対応策を示さないため、日本政府が事実上の対抗措置に踏み切りました。

二〇一七年に文在寅ムン・ジェイン)政権が誕生すると、二〇一八年に入り慰安婦問題日韓合意が破棄されたり、徴用工訴訟問題や日本の自衛隊機に向けて射撃レーダーが照射される韓国海軍レーダー照射問題が発生するなど日韓関係の悪化が深刻なものとなっています。また、日韓両国間には、日本と韓国が互いに領有権を主張している竹島領土問題もあります。一九〇五年島根県への編入以降は日本が領有していましたが、第二次世界大戦終戦後の一九五二年、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領の海洋主権宣言の翌年一九五三年に韓国の武装市民が武力制圧し、一九五六年には韓国政府に引き渡しました。以後、韓国武装警察が駐留している。日本政府はこれを不法占拠として非難しています。日本政府は一九五四年国際司法裁判所に裁定を求めましたが韓国政府はこれに応じず、警備隊を常駐させたり、五百トン級船舶が利用できる接岸施設を作るなどしています。

こうした韓国の対日政策に憤懣を溜めていた多くの日本国民にとって、今回の日本政府の措置に「よく決断した」と評価する声も多いようで、私も一瞬は溜飲を下げる思いをしました。しかし、よく考えてみると、子どものような幼稚な反日感情で動くような韓国という国に対して目くじらを立ててまともに対応する必要があるのでしょうか。かつて「日本国」だった韓国のいわれなき怨恨に付き合う必要はないではありませんか。しかし、それでも確かに最近の文政権の動きには不穏なものはあります。北朝鮮へのすり寄りは下手をすれば朝鮮半島北朝鮮化、ひいては中国の半島への影響力を増大させて、その結果、日本の喉元につき刺さる朝鮮半島全体が、敵国になってしまうという危険性をはらんでいます。

 

 

大儀なき制裁

 

 

これまでの韓国の内政に対する国民の不満の捌け口のための「反日」であれば、まだ可愛いものですが、わが国の安全保障を脅かす情勢であるならば、今回のような経済制裁ではなく、実力行使で竹島海上自衛隊を向わせるくらいのことをやるべきではありませんか。竹島への韓国の振る舞いは、日本国にとって明らかな「領土侵犯」なのですから、自衛権が発動されるべきなのです。今改正が俎上に載っている憲法九条のもとで許容される自衛の措置としての武力の行使の三要件は、「一.わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。二・これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと。三・必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に当てはまります。

自国の領土・領海を守るのは、国として当然のことなのに、これまでまったくと言っていいほど実行していません。恐らく、韓国は「自衛隊は戦えない」と舐めているのではありませんか。それは、尖閣諸島付近の日本の領海を度々侵犯している中国も同様です。自衛隊は日本の領土・領海を守るためには最低限の武力を行使できることを実証してみせるべきではありませんか。日本がその覚悟を行動で示せば、それが抑止力になって従軍慰安婦、元徴用工問題など見えすいた「言いがかり」もなくなるのではないでしょうか。

竹島への自衛隊出動の目的は、もちろん韓国と戦うためではありません。確かに一触即発の事態を招くかもしれませんが、それを恐れていては、自国は守れません。自衛隊出動の目的は、竹島に駐屯している韓国武装警察の撤退です。その代わりに日本側も自衛隊を駐屯させず、一種の非武装地帯にするべきです。今回のような経済政策では根本的な解決は、望めません。今回の経済制裁は、トランプ大統領の対中経済制裁の物まねにしか過ぎず、大義はありません。

つまり、自国を守るという目的、大義がないのです。この経済制裁を具申したのは、間違いなく経済産業省です。この経産省は今や「安倍親衛隊」を以て自認している省なのです。安倍首相もそれが分かっているから、官邸で優遇しています。安倍政権の政策の背後には経産省が控えていて、それだけ官邸にこの省が蔓延っているのです。今回の措置は、選挙を前にした国民受けをする政策に過ぎず、経産省が安倍首相に阿って具申したものに過ぎません。世耕弘成経産大臣は、典型的な安倍首相の追従者ですから、何をか言わんや、です。恐らく、この後韓国と何らかの妥協点を見出して収束すると思いますが、韓国によるわが国への侵犯行為はこれで止むはずがありません。

ところで、G20大阪サミット後にトランプ大統領日米安全保障条約同盟について「不公平だ」と発言し、物議を醸しました。恐らく、「日本が攻撃された時、我々は日本を守るために戦わなければならないが、我々が攻撃された時に彼らは戦う必要はない」という、「素朴なアメリカ人」の真意をその代弁者であるトランプ大統領が発言しただけのことです。仮に日中戦争が起きた時に、安保条約に基づいて米軍は前線に出て、肝心の日本の自衛隊は後方支援に回ってしまうのでは、というアメリカの疑念が根底にあるのです。つまり、日本人が血を流さないのになぜ自国の兵隊を犠牲にしなくてはならないのか、という素朴な疑問があるのです。自国を守るために自衛隊が出動しない今の状態では、アメリカが安保条約は片務的で見直すべきだと思っているのも無理はありません。

こうした「弱腰」姿勢を続けていれば、いずれはアメリカ側から安保条約を破棄しようという動きが本格化するかもしれません。もし、安保が無くなれば、日本国民も「自国は自国で守る」ことを否が応でも考えることになるでしょう。自国を自国で守ろうとしない姿勢を続けていれば、いずれはアメリカに愛想を尽かされ、中韓からは舐められっ放しの状態が続くでしょう。

過激に受け止められるかもしれませんが、まずは韓国に不法に占拠されている竹島に一発のミサイルを撃ち込むべきです。それはあくまでも人のいない地帯に、です。そうすると、韓国は急いで戦闘態勢を整え、こちら側もそれに応じ、その結果、初めて交渉のテーブルに就けばいいのです。それくらいの覚悟を国内外に示す必要があります。

 

中国で移植を受ければ、無実の人々の命が消されるという事実 「中国の臓器狩り」唯一の証言者が語る

そこが聞きたい!インタビュー

 

中国で移植を受ければ、無実の人々の命が消されるという事実

「中国の臓器狩り」唯一の証言者が語る

 

 

元外科医 エンヴァー・トフティ・ブグダ(Dr.EnverTohtiBughda)氏

 

 

「私は殺人者」。そう懺悔しながら、中国の臓器狩りについて証言を続けるトフティ氏は、イギリスに亡命して中国共産党政権による洗脳の呪縛から解き放たれたという。以後、勇気をもって、過去の自分の罪を告白して世界を廻る、唯一の証言者だ。(二〇一九年四月六日に福岡市で開かれた同氏来日セミナー=主催 「中国における臓器移植を考える会」で来日した際にインタビューした)

 

 

ターゲットは、共産主義者以外の「国家の敵」

 

―今回の来日の目的は?

トフティ 強制臓器収奪という中国の闇を日本の人々に知ってもらうためです。何度か証言しているのですが、あまりにも闇が深いために信じたくても信じられない人が多いのです。臓器移植に関して中国が発表していることにあまりにも嘘が多すぎるために、真実がその嘘に埋れて人々から見えなくなってしまっています。嘘は小さければ見抜くことはできます。このままでは良心の囚人の犠牲は無くなりません。それを否定し続ける中国の大きな嘘を知ってもらうために来日しました。

中国の嘘を暴露する一番いい方法は、囮として移植手術の話を持ちかけることです。正式なルートで臓器を入手するのは、非常に難しいのです。数年前にアメリカのディック・チェイニー副大統領が肝臓移植を受けたのですが、彼は二年半待ちました。ところが、中国の病院のウエブサイトでは二週間でできると公言しています。緊急の場合は何とわずか四時間で臓器を用意できるというのです。なぜ、わずか二週間で臓器を用意できるのか。それは、臓器を取り出すことができる人間を常に確保しているからです。移植する臓器は肉のように冷蔵庫に入れて保存することができません。死んだ臓器ではなく機能しているものでなければならないからです。摘出して恐らく十時間くらいしかもたないでしょう。新鮮な臓器を確保するために、中国は罪のない多くの人々を捕えていつでも摘出できるようにしています。強制的に収監された人々は定期的に血液の検査を受けます。

―そうした臓器提供者、ドナーはどのような人々ですか?

トフティ 中国で臓器を摘出されている人々は正確に言えば、自分の意思で提供するドナーとは言えませんが、便宜上ドナーという言葉を使います。中国のほとんどのドナーは、中国共産党を信じていない人々です。共産主義はそれ以外の思想、哲学、宗教を認めません。共産主義以外は「国家の敵」と見做すのです。収監されていない人々も健康診断という名目で血液を検査されていますが、いつ収監されて臓器を摘出されるか分かりません。少数民族、地下教会信者、法輪功の学習者は共産党支配下にあって従っていますが、信仰は捨てられませんから、彼らは潜在的な国家の敵と見做されています。政府は、血液検査の結果をデータベース化して臓器確保に備えているのです。

 二〇一六年六月から新疆ウイグル地区の人々に対して血液検査など身体検査を始めました。感染病などの理由ではなく、何の理由もなく突然身体検査を受けさせられました。二〇一七年夏に政府はDNAの検査だと言いくるめましたが、DNA検査で血液を採取するのはありえません。ウイグルの人々を潜在的なドナーとして調査しているのです。

私はかつて中国で医療に従事していたので、中国の医師の考えが分かります。文化大革命も見てきました。人間の尊厳が破壊されてきたことを目の前で見てきました。そして、中国では人命が軽んじられてきたことも目の当たりにしました。

―検査を受けた人の中で実際に臓器を摘出されたケースは?

トフティ ある日、突然いなくなった人々はいます。新疆ウイグルでは一九九五年から二〇〇七年の間に、十万人もの人が行方不明になっています。しかし、臓器を摘出された人は死んでいるので、証言者がいません。これは分かっているだけの数字で、現在は全く分かっていません。現在、二百万人のウイグル人が収容所に入れられています。アメリカの調査では、八十万人から二百万人という数字があります。この人たちが潜在的ドナーです。いつ臓器を摘出、殺されても不思議ではありません。ウイグル人の他にもチベット人法輪功、地下教会の信者も臓器収奪の対象になっています。

共産主義を心の底から信じている中国人はあまりいません。ですから、今収奪されている人々がいなくなったら、ほとんどの中国人が潜在的ドナーになるでしょう。私は調査しているわけではないので、実際に中国でどれだけの非人道的な臓器移植が行われているのか、私は知りません。しかし、一人の人間が移植を受けるために、一人の人間の命が奪われる、一つの事例だけで十分です。

 

原爆症告発から亡命へ

 

―この活動に入るきっかけになったのは?

トフティ 私がイギリスに亡命しなければならなかったきっかけは、中国の核実験による原爆症の存在を調査し、それを告発したことでした。私は新疆ウイグルに生まれ、首都のウルムチ市の医科大学を卒業後、腫瘍外科医として鉄道中央病院に勤務しました。一九六四年から四十六回にわたるロプノル地域での核実験がありました。ロプノルとは新疆ウイグルの南東部、タクラマカン砂漠の北東部に位置しています。この核実験は半分が地下、半分が地上で行われました。

病院でガンの治療にあたっていたとき、ウイグル人患者の比率が高いことを不思議に思い、調査を始めました。およそ二千人のガン患者の調査の結果、ウイグル人のガンの発症率は国家平均と比べて三五%高く、ウイグルに長く居住している漢人の発症率も高いことが判明しました。白血病、肺ガン、リンパ腫、甲状腺ガンの患者が圧倒的で高い放射線によるものです。

地元では皆、核実験のことは知っていましたが、私の調査は中国によるロプノルでの核実験を証明することになりました。その後、語学留学先のトルコで、新疆ウイグルの核実験被害の実態をルポしたいという英国のジャーナリストと出逢い、その二日後に彼が現地に入ってドキュメンタリーを作りたいから協力してくれと要請されました。医者としての良心から被害状況を広く公開したいと願っていたので応じて、ウイグルに入り取材クルーのガイド役を務め、私自身も登場しました。これで故郷には戻れなくなり、仕事も家族も全て失うという大きな決断でした。このドキュメンタリーは『死のシルクロード』(Death on the Silk Road)として一九九八年にイギリスの「channel4」で放映され、これで私は中国政府から「お尋ね者」になりました。このドキュメントは後に世界八十三カ局で上映され、現在は「you tube」でも視聴できます。日本語字幕もついています。

 トルコではイスタンブール大学チャパ医学部の外科医として働いていましたが、一九九八年十二月、トルコの首相が中国との「犯罪人引き渡し条約」に合意署名したことをアンカラの台湾人レポーターが伝えてくれました。一九九九年一月二十三日に英国に行き、ヒスロー空港でドキュメンタリーを見せて難民申請しました。一九九九年四月に中国の高官がトルコを来訪しているので、その時まで国内にいたら中国に強制送還されていたでしょう。イギリスに渡って一年十一ヵ月後に難民として認められ、現在はイギリスの国籍を取得しています。

―この原爆症患者を救う活動を始めたのですか?

トフティ 積極的に種々の国際会議や公的な討論の場に参加して、ロプノルの核実験の事実を広め、実験の犠牲者のために闘いました。実験に関わった8023部隊の兵士は補償されましたが、被害で苦しむ村の人々は無視されています。 新疆の人々の九〇%は農民で年間の平均収入は当時5千元でした。当時、一回の化学療法に一万五千元かかったため、ほとんどの人はガンの宣告を受けると治療は受けずに家に戻りました。問題を認識し、被害を受けた家族を補償し、無料で医療手当を受けるよう政府に要求しました。汚染された土地で苦しむ農民への補償も求めています。

被害はウイグル人に止まりません。一九七〇年代以来、中国人が移民していますが、長く居住すればするほど発癌率が高いのです。中国政府はこのプロジェクトの存在を認めておらず、コミュニケーションもとっていません。英国のビジネスマンが話してくれたのですが、代表者として中国を訪問した際、中国政府の役人が「エンヴァーという男は嘘を言っている」と否定したそうです。

 

 

民衆法廷

 

―中国の臓器狩りの実態を証言しますね。これはどういうきっかけで?

トフティ これまで共産党政権下の教育を受けていましたが、西洋社会で目も心も開き、物を見る視点が完全に変わりました。そして自分の罪を認識し愕然としました。一九九五年夏に上司の命令で一度だけ、生きた処刑者から肝臓と腎臓を摘出させられました。処刑場で待機し、銃声が鳴ったら中に入れと言われました。摘出した人は囚人服ではなく私服で右胸を撃たれ、まだ生きていました。看護婦は逃げ出そうとし、私も手が震えました。でもその場では拒否する余地はありませんでした。言われた通りにする、そのような状況でした。当然、移植のためというのも分かっていません。

 当時、英語が分からない私が臓器狩りのことを知ったのは、ロンドンで香港、台湾で発行された中国語新聞で知りました。自分がやった摘出手術は臓器狩りだったと分かり、罪悪感が募りました。処刑者の名前も人種も宗教も分かりません。以来、モスク、寺院、教会などで機会があるごとに彼の冥福を祈っています。二〇一〇年、ずっとこの問題を追いかけていたジャーナリスト、イーサン・ガットマン氏の報告会がロンドンの国会議事堂内であり、その場で初めて自分は医療倫理に反する行為をしたと告白しました。一人で重苦しく抱えていたものをその時、初めて外に出すことができました。正直、最初に証言する時はかなりの勇気が要りました。「殺人者」である私を人々は受け入れてくれるのか、怖かったのです。

その後、欧州議会スコットランド議会など機会があるたびに証言者になっています。ガットマン氏は多くの迫害犠牲者から聞き込み調査し、実際に中国で起こっていることを『Slaughter(屠殺)』という著書にまとめ、二〇一四年に出版しました。臓器狩りを行った証言者として第一章に私の体験が紹介されています。二〇一五年十一月に米国でリリースされた『知られざる事実』(Hard to Believe)という映画でインタビューを受け、証言しています。これらの証言を通して、世界の人々の良心が目覚めることを願っています。初めての証言から十年経って、私を人々が受け入れてくれたと感じています。

―証言者はトフティさん一人ですか?

トフティ 以前はもう一人いたのですが、二〇〇一年に亡くなり、今は私だけが公に出て発表する証言者です。国のためにいいことをやっているという洗脳が解けた今、呼ばれれば積極的に証言したいと思います。私の叔父が検閲の仕事をやっていて自宅に検閲が通らなかった書物があって幼い頃から片っ端から読んでいたことも洗脳が解けた遠因かもしれません。また、ウイグルが政府に不当に差別されていたことに憤りを感じていましたから、元々反骨精神があったのかもしれませんね。また、証言することが懺悔になり、私が犯した罪が少しでも軽くなるかと。

アメリカでは議員に証言したそうですね。

トフティ 二〇一六年、臓器狩りのことを信じられない議員二十五人一人ひとりに面会して、証言しました。予定されていた公聴会がキャンセルされたので、それならばと渡米しました。彼らに情報としては耳に入っていましたが、完全に信じるまでにはなっていませんでしたが、実際に摘出した私の話を聞いて信じてくれたのでしょう。下院で中国の臓器狩りに対する懸念を表明した決議案が可決されました。

―昨年十二月にロンドンで開かれた、世界初の「中国での良心の囚人からの強制臓器収奪に関する民衆法廷」でも証言しましたね。

トフティ この民主法廷とは、国際法上問題がある行為が発生していると考えるNGOや市民等が、自主的に有識者を集めて構成する模擬法廷です。今回の法廷には三十人の専門家が証拠を提示するために出廷しました。私はその中で実際に臓器を摘出した元医師として参加しました。エリザベス女王から権威を授与された勅撰弁護士であるジェフリー卿が議長を務め、審理が進められています。法廷の中間報告で「本法廷は全員一致をもって、全く疑いの余地なく、中国でかなりの期間、極めて多くの犠牲者に関わり、強制臓器収奪が行われてきたことを確信する」と第一回の公聴会で発表した理由を、「今現在でも中国で犠牲になりつつある生命を一つでも救える可能性がないとは限らない」と述べています。

―こうした中国に対する国際的圧力は必要です。どうしたら止められるでしょうか?

トフティ 現実には移植するために中国に行く人は絶えないでしょう。お金があれば移植を受けたいというのが、人間です。政治を動かすには、世論しかありません。無実の人の命を奪ってまでも自分の命を永らえることがいかに残虐な行為なのかという世論を喚起するしかありません。あるいは、中国の現在の政権が瓦解するのを待つしかないかもしれません。

 

エンヴァー・トフティ・ブグダ (Dr. Enver Tohti Bughda)

 

アニワル・トフティとしても知られる。

 

1963年、東トルキスタン新疆ウイグル自治区)のハミ(クムル)市生まれ。ウイグル自治区の首都のウルムチ市で小学校、中学校の教育を受ける。シヘジ医科大学を卒業後、腫瘍外科医として鉄道中央病院で13年勤務。

1964年より46回にわたるロプノル地域の核実験を、不相応に高い悪性腫瘍の発生率から確認。ドキュメンタリー映画「Death on the Silk Road」(死のシルクロード)(1998年イギリスchannel 4)の制作協力により英国に政治亡命

積極的に種々の国際会議や公的な討論の場に参加して、ロプノル(Lopnor)の核実験の事実を広め、実験の犠牲者のために闘う。

英国では、世界ウイグル会議とは離れ、個別のウイグル擁護運動に取り組み続ける。シルクロード・ダイアローグというオンライン上のプラットホームを設定し、様々な利益集団が、礼儀あるやり方で意見交換や論争点の討議ができる場を提供している。

英国に在住することで、意識が変化し、1995年に上司の命令で一度だけ行った囚人からの臓器摘出に対する罪悪感に目覚める。以来、世界各地の公聴会や上映会に参加し、中国での臓器収奪の真実を訴える。

◯ アイルランドでの証言(2017年7月6日):http://bit.ly/2jKnsEI

「中国の元外科医、臓器狩りの証拠を提供―アイルランドの外務・通商・防衛共同委員会で 」(ビデオ付き。日本語字幕付き)(3分)

 

◯ 「中国での良心の囚人からの強制臓器収奪に関する民衆法廷

第一回公聴会の証言(2018年12月10日)

https://chinatribunal.com/the-hearings/

三日目の第一セッション 二人目の証言者(48:28より) (36分。英語のみ)

 

 

『奇跡の村』―その信仰の意義と歴史を語る 大刀洗町今地区に伝わる隠れキリシタン秘話

そこが聞きたい!インタビュー

 

『奇跡の村』―その信仰の意義と歴史を語る

大刀洗町今地区に伝わる隠れキリシタン秘話

 

今村信徒発見150周年記念誌『信仰の道程(みちのり)』

編集委員(海の星保育園 園長) 鳥羽清治氏

 

 

 

筑後平野の北部に位置する大刀洗町。緑豊かな田園が広がる中にひときわ目を引く建物がある。「今村カトリック教会」。赤煉瓦作りでヨーロッパ風の二つの塔を持つ、教会が秘めた隠れキリシタンの物語は、信仰の尊さを教えてくれる。

 

「奇跡の村」の所以

 

 

 

―百五十二年前の慶応三年(一八六七)、今村信徒が発見されますが、これはどういった経緯だったのでしょうか?

鳥羽 日本で初めてキリシタンを禁じたのは豊臣秀吉でしたが、その後の江戸幕府キリシタンを大追放しました。しかし、それでも秘密裏に布教活動は続いていました。ところが寛永十四年(一六三七)に起きた島原の乱に多くのキリシタンが加わったことから、キリシタンに対する弾圧がさらに厳しくなります。幕府は、踏み絵、五人組連座制度などでキリシタンを捜し出し、改宗させて、強制的に仏教徒として寺に登録させました。宣教師は、国外追放さもなくば殉教か転ぶ(キリスト教から仏教に改宗すること)かという厳しい選択を迫られ、キリシタンは徹底的に排除されました。

 そうした厳しい弾圧を逃れて、信仰を護り続けていたのが、隠れキリシタン潜伏キリシタンと呼ばれる信者たちです。彼らは長崎県西彼杵半島、平戸北部、五島列島生月島熊本県天草に約三万人が散在していたといわれています。このように隠れキリシタンのほとんどが僻地の山あいや小島、海岸に潜んでいたのです。

―ここ(今村)はそうした隠れキリシタンの里とは様相が全く違い、筑後平野の真ん中にありますね。よく隠れていたなと思います。

鳥羽 今村が「奇跡の村」と言われる所以です。幕府がキリシタン信徒を撲滅させる手段の一つに、寺請制度にして宗門人別帳を作らせて、キリシタンを必ずどこかの寺に属させてキリシタンでないことを証明させました。今村の信徒も表面上仏教に改宗しましたが、裏では密かにキリスト教の信仰を護り続けました。死者を葬る時には、いったん仏式で葬儀を行い、夜になってカトリックによる埋葬を行っていました。それまで大刀洗一帯に信徒がかなりいて、「邪宗門一件口書帳」に記されている大庄屋の申上覚えによると、八百六十八人の信徒のうち五百人が今村の信徒でした。つまり、ほとんど村全体がキリシタンでしたから、秘密を守ることができたのでしょう。

 もう一つ、今村で信仰が護り続けられたのは、大庄屋の存在です。右京、左京兄弟という熱心な信徒がいました。しかし、弟の左京は厳しい弾圧のために転んで、その代わりに大庄屋に取り立てられます。自分が魂を売って大庄屋になった左京は、建前では取締りながら、裏では大目に見てキリシタンを保護していたと伝わっています。また、村の殉教者といわれる「ジョアン又右衛門」の存在も大きいと思います。又右衛門は、島原の乱の落人など諸説ある人物ですが、熱心なキリシタンで村の人々の尊敬を集めていました。彼は強い信念で村人たちを教化指導していましたが、お上にそれが露見し、改宗を求められますが拒み続け、最後には磔刑に処されます。夜になって又右衛門の遺骸は村人たちに運ばれて埋葬されます。信徒は「ジョアン様のお墓」として、月命日にはお参りし祈りを捧げたと伝わっています。今村教会はそのお墓の上に建っています。

―平野の真ん中にあるという今村を取巻く環境では、下手をすると密告などで発覚する恐れがあったと思いますが、村人はどのようにして信仰を護り続けたのでしょうか?

鳥羽 発覚せずに信仰を続けるには、外部との接触を極力避けるしかありません。また、建前は仏教徒として普通に生活していかなければならない上に、教化してくれる神父がいない中では、どうしても形が変化してしまいます。その結果、宗教上の儀式や祈りの形は崩れてしまいます。そこには先祖代々の信仰、しきたりを守るという日本人特有の気質、生き方があったのではないかと思います。それが異教徒とも摩擦もなく、潜伏できた理由の一つではないでしょうか。慣れ親しんできた神仏や先祖を否定し、カトリックの教義や祈りを二百五十年以上にわたって秘密裡に、口伝のみで伝えることは非常に困難なことでした。「これはカトリックの信仰ではない」といわれるほど宗教上の祭儀や祈りの形は崩れてしまっていたのです。しかし、信徒が再び本当の教えに接した時に、長崎まで何度も足を運び、迷わず洗礼を受けたということはまさに奇跡であり、教えの核心は確実に代々伝わっていたのだと思います。

 

「今村信徒」発見秘話

 

―今村のキリシタンの種は大友宗麟時代の永禄四年(一五六四)に蒔かれたとされていますね。

鳥羽 熱心なキリシタン大名だった宗麟は、日本にキリスト教を始めて伝来したフランシスコ・ザビエルが宗麟の領地である豊後に到着すると、手厚く迎えてキリスト教に深い興味を覚え、領内での布教を保護します。勢力をつけた宗麟は北部九州まで版図を広げます。その頃、古くから大刀洗町の上高橋・下高橋地区を中心に高橋家という名家がありました。その高橋家の嗣子が絶える危機に直面したことを知った宗麟が、後継者に家臣の一万田右馬助(いちまんだ・うまのすけ)を推薦し大庄屋になります。右馬助の家中にはキリスト教の信者もいたことが類推され、この地区の庄屋、村人にキリスト教が布教されたと考えられます。修道士アルメイダも1564年、大友宗麟を表敬訪問した後平戸へ向かう途中、3年ぶりに立ち寄った土地があり、それがこの今村、上高橋地区ではないかといわれています。ちなみに今村は当初田中村と称していましたが、慶長六年(一六〇一)、田中吉政筑後国主になった時に、領主と同じ名称では恐れ多いと今村に改められます。吉政もキリスト教に理解があったため、信仰は保護されました。

隠れキリシタン潜伏キリシタンという言葉がありますが、この違いは?

鳥羽 隠れキリシタンとは禁教時代に隠れて信仰していた者を指します。そして禁教が解かれて発見された隠れキリシタンたちは、二つの道に分かれます。それまでに変形してしまった教義を改め、正しいカトリックを受け入れて正式な洗礼を受けて、憚ることなくカトリック教徒として生きる道を選んだ人々を、潜伏キリシタンと呼びます。今村は潜伏キリシタンになります。一方、潜伏していた時の教えをそのまま引き継ぎ護り続けた人々が、隠れキリシタンとして残っています。隠れキリシタンが残っているのは、長崎・生月島などです。

―さて、いよいよ今村の信徒が発見されるのですが、先に長崎・浦上で発見されますね。

鳥羽 安政元年(一八五四)に開国した日本にフランスの宣教師たちが入国しました。まず横浜に最初の天主堂を建設した後に、長崎に初めての宣教師が来ました。その大きな目的は、激しい弾圧によって潜伏しているキリシタンを捜し出すことでした。元治二年(一八六五)、浦上地区に潜んでいた信徒が名乗り出てきました。これが日本で初めての隠れキリシタン発見でした。しかし、まだ禁教令は続いているので、神父は注意深く、その秘密を守りながら行動します。信徒たちは、浦上の山間や、長崎港内の島々、五島諸島などで信徒の仲間を捜し出します。

 今村の信徒が発見されたのはその二年後ですが、それは偶然の出来事でした。浦上城の越の紺屋が久留米地方に藍を仕入れに行ったところ、今村にもキリシタンがいることを聞きます。紺屋は早速そのことを神父に伝え、四人の信徒を今村に派遣しました。

 四人が今村近くの茶店で休んでいる時のことです。今村への道を訊くと、西目の今村か北目の今村か問われます。とりあえず西目の今村への道を教えてもらう道すがら、偶然、地元の人が西目の今村にキリシタンがいると話しているのが耳に入ります。四人は早速村に入って昼飯を食べるために小さなお店に入り、一晩泊めてほしいと頼みますが、店の主人に頑なに断れました。すると、村の一銭床屋のおシマという女の家に泊めてもらうことになります。おシマもキリシタンですがそんなことはおくびにも出さずに、浦上から来た四人の正体を探ろうとします。互いに相手がキリシタンであるかどうかの会話が続きました。

 夕食の時におタキが、「おかずは鶏にしますか?」と訊くと、「鶏は嫌いではないが、今は食べる時ではない」と答えます。「卵は?」とさらに訊くと「卵も食べる時期ではない」と答え、おシマは四人がキリシタンであることを確信します。これは、当時「悲しみ節(せつ)」という復活祭前四十日間のことです。キリスト死去前の苦難を思い、断食、苦行、祈りによって罪を悔い改め、償いながら復活を待つ時期で、この時期は鳥獣の肉をはじめ卵も摂らないのがしきたりでした。ようやく今村の人々がキリシタンであることを認めました。その後、四人はローマから宣教師が派遣されて浦上の天主堂に入ったこと、浦上のキリシタンたちが名乗り出て熱心に教理を学んで秘蹟を受けていることを告げました。

―しかし、長い間迫害に苦しめられていた村人たちは、俄かに信じることができたのでしょうか。

鳥羽 確かにすぐには信じられなかったようです。その事実を確かめるために今村から三人の信徒が長崎に行き、教会を見学したり浦上のキリシタンたちが大勢集って教えを学んでいるところを目の当たりにして驚きます。派遣された一人は今に捕まると恐れおののいて今村に帰ってしまいますが、一人は残って教理を学び正しい洗礼を授かって村に帰りました。その後九人の村人を連れて長崎を訪れます。

 ところが帰ってくると捕えられ牢に繋がれてしまいました。まだ禁教が続いていて密告があったからです。庄屋と大庄屋が仲に入って、今後は決してキリシタンを信奉させないと保証し、入獄者たちも改宗すると誓ったので全員が釈放されます。

 

 

 

教会建設への道

 

 

―それでも村人たちは信仰を止めなかったのですね。明治十二年(一八七九)、ついに神父が今村に入りますね。

鳥羽 教会がないという不自由な環境の中でコール神父は、旧信者の発見と信仰的教育、集団洗礼へ導きました、村人たちは土蔵で次々に洗礼を受けていきます。初代のコール神父時代の一年間で七百人近くの村人が洗礼を受けました。その後も年々洗礼を受けた信徒数は増え続けていきます。増えると土蔵では手狭になって、ついに明治十四年(一八八一)に藁葺き木造の教会が建てられました。

―その後も信徒が増え続け、ついに現在の教会が建設されることになりますね。

鳥羽 初代から四代目の神父まで大変な苦労をして布教活動をされました。そうして今の教会建設を進めたのが、五代目の本田保神父でした。本田神父は三十二年間という長きにわたって在任し、半生を今村に捧げた人です。本田神父が着任した時には信徒数はすでに千七百人を数え、教会は満杯でした。それから十年も経つと新しい改宗者や、自然増加で増え続けて二千人という大所帯になりました。

 本田神父は、自分が在任中に真摯な今村カトリック教徒にふさわしい聖堂を建設する夢を持っていましたが、信徒の急増で建設せずにはいられない窮地に追い込まれます。しかし、貧しい村人からの献金ではとても費用を捻出することができません。そこで本田神父はドイツの布教雑誌の編集者である神父に教会建設のための資金援助の手紙を書きます。その内容が掲載され、ドイツの多くの信徒を感動させ、多額の献金が今村に贈られました。この資金を元に教会建設は具体的に進められます。設計は、日本人技師で礼拝堂教会建設の第一人者である鉄川与助に依頼しました。

 工事は大正元年(一九一二)に始まります。鉄川が連れてきた職人十数人と今村信徒の勤労奉仕団が加わり大勢で取り掛かります。ところが思い掛けない難事にぶつかります。今村の地盤が予想外の軟弱地盤で掘れば掘るほど大量の水が湧いて出て度々工事が中断し、予想外の莫大な費用がかかりました。費用も底を尽きます。本田神父は再びドイツの布教雑誌に手紙を書きます。そしてドイツ人のキリスト教徒はまた願いを聞き入れ、献金を贈ります。信仰の力には感動しますね。この献金と他の善意の資金で工事を再開することができ、大正二年(一九一三)十二月に完成しました。以後、水害や幾多の台風の被害を受けましたが、その都度修理され、平成十八年(二〇〇六)に福岡県有形文化財、平成二十七年(二〇一五)には国の重要文化財に指定されました。

―今村教会は築百年以上の建物とは思えない美しさです。

鳥羽 「より高くより美しく」という信徒たちの一途な思いが結晶されて建設されましたから、今でもその美しさは色あせないのでしょう。二つの塔を持つロマネスク様式赤煉瓦造りで国内に残るレンガ造りの教会として貴重なものです。また、ステンドグラスと十字架の道行(キリスト受難の十四枚の聖絵)はフランス製、柱は高良山の杉、レンガは特注品で歴史的価値のある建造物でもあります。ただ、老朽化は進んでいて、現在、耐震調査中ですが、やはり傷みが進んでいて補修が必要です。耐震補強・補修工事には五、六億円では到底足りないという説明を受けました。国の重要文化財には指定されましたが、国と県と町で総額の四分の三までは補助されますが、残りの四分の一は福岡教区で賄う必要があります。仮に総額八億円かかるとすれば、二億円を集めないといけないので、とても厳しいというのが現状です。補修のために町がクラウドファンディングを立ち上げて、ありがたいことに現在約百万円集っています。

―ところで取材前に周囲を車で走らせたのですが、この地区の静けさに不思議なものを感じたのですが。

鳥羽 (笑)どこにでもある田舎の雰囲気だと思います。しかし、確かに周囲の集落とは少し違った感じはあるかもしれませんね。周囲も何となく認めてきたという感じではないでしょうか。禁教時代には、お寺も神社も必要以上に関わらず見知らぬふりをしてきたのだと思います。外部から来られた方がそう感じられたのは、そのような歴史が背景にあるのかもしれません。

―現在も今村地区の信徒は多いのですか?

鳥羽 詳しくわかりませんが7割くらいでしょうか。この地区に嫁いで洗礼を受けていない人やアパートが建ってそこに越してきた人など徐々に増えてきています。やはり、高齢化が進み若い人は区外に出て行っていて、今後信徒はかなり減ると思います。

世界文化遺産潜伏キリシタン関連遺産が登録されましたが、今村は登録されませんでしたね。

鳥羽 一時は候補に挙がっていたようですが、絞り込まれる中で外れたということだと思います。現在、国の重要文化財に指定され、巡礼団や見学者はとても増えました。これまでの自分たちだけの教会、閉ざされた教会ではなく、もっと開かれた教会として多くの人に開放され、情報を発信し、福音宣教につながることを期待しています。そしてそのような活動が少しずつ実を結んでいるのも事実です。しかし、ややもすると、過去の遺産、先祖の残してくれたものだけに頼りすぎる説明、自慢話に陥る危険もあります。大切なのは、それを受け継いだ私たちがどのような希望を持って毎日を過ごし、その信仰の喜びをどれだけ伝えきれているかということです。信徒の数は減っても、信仰の灯は姿や形を変え、これからも消えることはないのだと思います。福音宣教とは、難しく教義を教えることでも祈りを教えることでもなく、生活の中で喜びのうちに素朴に信仰を生きること、そういう人がいる限り、今村の地は奇跡の村としてこれからも生き続けるのだと信じています。

 

鳥羽氏プロフィール 長崎県平戸市出身。昭和28年生まれ。関西外語大学中退。昭和五十一年に今村にあった老人ホームの生活相談員として就職。平成17年から現職。

 

参考文献:『隠れキリシタンの里・今村 奇跡の村』(佐藤早苗 河出書房 二〇〇二年)、『守教 上・下』(箒木蓬生 新潮社 二〇一七年)、今村信徒発見150周年記念誌『信仰の道程(みちのり)』

 

 

山崩れ、花粉症の蔓延、水産資源の減少… 荒れた人工林問題 「壊れた山」の再生を

  

 

そこが聞きたい!インタビュー

 

山崩れ、花粉症の蔓延、水産資源の減少…

荒れた人工林問題 「壊れた山」の再生を

 

遠賀川源流を守る会 会長青木宣人氏

 

 

国土の七割を山林で占めるわが国。一見、緑豊かに映る山々だが、実は壊れているという。その結果、山崩れなどの災害や花粉症の健康被害、水産資源の減少につながっている。山の再生は愁眉の急なのだが…

 

 

人工林が放置された背景

 

 

 

―日本の山林の現状をどう見ていますか。

青木 昭和二十五年から始まった国の拡大造林事業の過ちが今の日本の山林が荒れている原因です。広葉樹などの雑木を全部切って杉、桧に植え替えさせました。戦後焼け野原になって、その復興のために木材需要が急増したからです。また、公共事業という側面もありました。つまり、戦後復興のために日本全土に均等にお金を落とすという意味もありました。この拡大造林ではお金が出ますから、こぞって雑木、つまり広葉樹を伐採して、杉、桧の苗木を植林していきました。この主力は三から十haの狭い山の所有者たちでした。こうした人たちは山林でご飯を食べていたわけではないのですが、補助金が出るということでこぞって造林していきます。一方、二百haから四百haという広大な森林を所有する林業家は、百年という長いスパンできちんと計画を立てて育てています。国有林も人工造林されて、人工林一千万haのうち約四割の四百万haが造林され、日本の森林面積は国土の約七割の二千五百十万haですが、わずか二十年間で実にその四割が人工林になっています。

―その人工林が放置されていますね。

青木 外材の輸入制限が緩和されたことと、変動相場制に移行して円高が進み国内材が外材に価格競争で勝てなくなったことがあります。また、国は当初、植えて十五年経過して出た間伐材は建設現場の足場の丸太として使え、二十年経過すると九センチ角の木材をバラックなどの簡易建物の材料に使えると奨励しました。そして、四十五年から五十年経過すれば全部主伐(しゅばつ)して建築材として売れるという謳い文句で、銀行に預金するよりも植林した方がいいと奨励されたのです。

 ところが十五年経った頃には建設現場で足場材は丸太から鋼管に変ってしまい、需要がなくなりました。住宅工法もそれまで曲った木材を組み合わせた伝統工法からツーバイフォー工法に変わって真っ直ぐな木材を使うようになり、外材が使われるようになりました。施主からも工期を短縮する要望が強くなっていましたからね。売れない木の面倒を見てもお金にならないので、所有者たちは日雇い仕事などでお金を稼いだ方がいいとなって山に背を向けて、その結果放置されていくことになります。

 

 

 

「緑の砂漠」

 

 

―放置された山林はどうなっているんでしょう?

青木 植えて十五年間は除伐、間伐、枝打ちをやれば、日光が当って光合成で下草は豊かに生えます。これをやらないと、細くひょろっとした木になります。そして上部には葉が茂りますから、日光が下に届きませんから光合成が起きません。すると、地表が瘠せてしまいます。山にとって大事なのは木より地表なんです。山の表土に光合成によって下草や苔が密集して、そこに落葉が堆積して腐葉土になります。その表土がスポンジ役になって降った雨を吸収して何年もかけて地下深くに浸み込んでその水が谷川に流れ、川が潤うというサイクルを作り出します。それが放置林になって地表がやせ衰えてしまっています。表土が固くなっているので、雨が降ると地下に浸み込まず、表土をそのまま流れてしまいます。保水力が落ちるわけです。そうなると、木は根が張れず風が吹くと木の上部だけではなく地表も揺れて亀裂ができます。そこに水が入り込んで一気に倒れる、山崩れが起きます。

―昨年起きた広島の大水害の様子を見ると、流れ着いた大木の根が小さかったのが印象に残りました。

青木 根張りが小さいから大雨が降ると山崩れを起こします。これは放置されたこともありますが、植林の時にも原因があります。挿し木で植えているから、木の支えになる直根が生えていないんです。実生(みしょう)で植えたら直根が生えて横に根が張っていきます。しかし、実生は発着率が悪く植えにくいために簡易な挿し木を植えました。根が張っていない木が育ち、山崩れしやすい遠因になりました。

また、春先になると多くの人が悩まされる花粉症も人口造林が原因です。造林が始まった頃に、無花粉の木が発見されていました。繁殖させるための造林ではありませんから花粉は無くてもいいし、育ちやすいという利点があります。当時、今のように花粉症が流行るとは判ってはいなかったと思いますが、林学者の中にはこのままでは将来、膨大な花粉が山から飛んできてとんでもない事態になると予想し、この木を使うように勧めました。また、山崩れの危険性も指摘していました。しかし、価格が高いという理由で誰も使いませんでした。間伐がしやすいようにまだら間伐と筋状間伐という手法を発表した学者もいます。つまり、針葉樹と広葉樹をまだら模様あるいは筋状に交互に植える植林法です。まだら間伐を実施した数少ない地域で成功したのは、宮崎県諸塚村です。

―一見、緑豊かに見える山林の中で大変なことが起きているんですね。

青木 遠目には緑に覆われているのですが、実態は「緑の砂漠」と言った方がいいでしょうね。

―よく山に登るのですが、広葉樹林帯を歩いていると鳥のさえずりが聴こえているのに、針葉樹林帯に入るとピタッと聞こえなくなります。

青木 針葉樹の樹液にはヒノキチオールなどの毒性の強いアルカロイドが含まれるため虫の種類が極端に少ないため鳥が寄り付きません。また、針葉樹の葉は小さいので虫が食べにくいこともあります。人工林は限られた木しかありませんから、落葉に含まれる養分も限られてしまい、生息する土中昆虫、微生物も限られてしまいます。つまり、生物の多様性が大きく損なわれているのです。これはある種の環境破壊だと思います。本来、山林は色んな樹木があって色んな落葉があるから、生物の多様性が保たれているはずなんです。それが水の養分も乏しくさせているのではないかと見ています。山が壊れているのが実態です。

 以前から林学者たちの間では、理想の山林のあり方は、針葉樹と広葉樹の「針広混交林」だと言われていました。杉は日本在来の樹木です。これは守るべきです。五十年くらいで主伐していますが、これは人間で言えば小学生クラスです。杉は屋久杉のように千年の樹齢のものがあるわけですからね。社寺仏閣の建材になるには、百年、二百年のものを使うべきなんです。また、木材の自給率を向上させるためには、針葉樹もある程度必要です。と言うのも、東南アジアの南洋材は資源の枯渇と自然保護で伐採が禁止になって輸入が激減しています。また、北米材も規制が厳しくなって供給が減ってきています。ロシア・シベリヤの北洋材も資源が減少していて、今後輸入に依存するのは難しくなるでしょう。国産材の供給力を高めないといけません。そういう意味でも、日本の山をバランスのとれた針広混交林化する必要があります。

 

 

 

「漁民の森」

 

 

 

―山崩れなどの災害を防ぎ、川の水質を守るためにも山を復活させないといけません。

青木 針広混交林に変えるには、個人の力では到底無理ですから、林野行政として取り組むべきです。九州の人工林の八割は個人所有ですから、国が取り組まないとできません。

遠賀川の源流の森を守る活動を続けていますね。

青木 二十年間、ボランティアで源流の森づくりのアドバイザーをやっています。しかし、個人所有の山ですから、伐採するように言えません。それでも理解していただいた所有者には私有林を伐採させてもらって、広葉樹を植林しています。植えている樹木は適地適木という手法で高度や周囲の植生を考慮して植林しています。主木は、カシ、シイ、タブノキです。この中に山桜、紅葉、アオダモを入れます。しかし、なかなか思うように進んでいません。別に源流地域にこだわる必要はありません。中流域、下流域の山からも遠賀川に水が流れ込んでいるのですから、各地域でやってもらえればと思っています。杉は水分を好む樹木ですからできるだけ谷側に植えて、ヒノキは水分をそこまで必要としないので中層に、それ以上は広葉樹を植えるのが適地適木の理想なのですが、拡大造林で山全てに針葉樹を植えてしまったのです。

―広葉樹はやはり根が強く張るのですか?

青木 日本の森林はほとんどが山の傾斜に植生しています。日本人にとって当たり前と思われるかもしれませんが、外国、例えばドイツ、デンマークの森林はほとんど平地にあり、森なのです。そういう意味では、日本の場合森づくりイコール山づくりなんです。木には腹と背があります。針葉樹は、谷側が腹で上方向が背です。木は背から成長しますから、根張りが弱くなります。広葉樹は逆で谷側から成長しますから、谷側から根を張っていきます。広葉樹は根張りが強いんです。それから、樹木には直根深根性と浅根性があります。広葉樹は深根性で針葉樹は浅根性ですから、根張りの強さは全く違います。広葉樹は岩を割ってでも根を張ります。

―山の荒廃の根本には日本人の変質があるように思えます。

青木 林業は子孫のためにやるものです。百年先の子孫の繁栄と安心のために木を植え、育てるのが林業のあるべき姿なのですが、今は自分たちの代のことしか考えていません。これでは子孫につけを回すだけなのです。この背景には、日本人が拝金主義になってしまったことがあるでしょう。また、行過ぎた個人主義もあります。かつて日本人には結(ゆい)という共同作業制度がありました。互いに助け合って生きていく。そういう意識がなくなりつつあるのが、山の荒廃という現象に現われています。

 古来日本人は山の恵みを受けて生きてきました。山の木を椀、お盆、櫃(ひつ)に加工したり、薪や炭を作って売るなど山の恵みで生きてきました。山から流れる川の水は魚を育て、田畑を潤します。広葉樹の落葉でできた豊富なプランクトンが川を伝って海に注がれ、それを求めて魚が集り漁をして海の恵みを得ています。また、沿岸の魚を沖の魚が食べてそれをまた大きな魚が食べるという食物連鎖の起点が山なのです。山を守ることが水産資源を守ることに直結しているんです。そのことに気付いた漁民で、山の保護のために「漁民の森」という活動を始めています。さきがけは、北海道稚内の手塩川です。天然ホタテ貝漁が減少していることに危機感を持って、漁村の婦人部が漁民の森を始めました。九州では熊本県の緑川源流に漁民の森があります。

しかし、まだまだ山林を再生する動きは本格的に始まっていません。日本人の生活は山に始まっているのです。その山に背を向けてしまっては、生活を営むことができません。また、災害も防げません。山崩れ、花粉症の蔓延、水産資源の枯渇などは、人災であるという共有認識を持って、どうすれば山が再生できるかを国と国民が一体となって取り組めば、出来ないことはありません。

 

 

青木氏プロフィール

 

昭和15年(1940)、熊本県大津町生まれ。北海道大学農学部で林学を学ぶ。卒業後、森林環境学を学ぶためにフランスに留学するが、ヨーロッパ、中東を放浪しインドへ。帰国後北大の研究室に戻り、アラスカ、カナダで北方材を調査する。その後、フィリピン、パプアニューギニアパラオ、アフリカ、アマゾンの上流…世界中の植生を調査した。その活動で冒険家としてテレイビ出演、講演会などで活躍する。砂漠の緑化にも取り組み、サハラ砂漠、オーストラリア、アメリカ、中国など砂漠化が進んでいる地域を次々と調査し、砂漠の緑化に取り組む。その後、福岡に移住して「西日本アウトドア協会」を設立、アウトドアの魅力を伝えた。平成23年(2013)嘉麻市うどん屋「千年屋」を開く。現在、サケを遠賀川源流で孵化させて放流し成長したサケを川に戻ってこさせる「遠賀川源流サケの会」会長を務め、源流の森を守るために活動している。

大野城、水城、怡土城、元寇防塁、そして福岡城 ―日本の城作りの最先端地域だった福岡

そこが聞きたい!インタビュー

 

大野城、水城、怡土城元寇防塁、そして福岡城

―日本の城作りの最先端地域だった福岡

歴史紀行作家 中山良昭氏

 

 

 

福岡は日本の城作りの嚆矢だ―そう熱弁を振るう中山さん。古よりわが国の「国防最前線」・福岡には、防人のDNAが引き継がれていた。

 

 

大野城の意外な実体

 

 

 

 

―福岡という地域は日本のお城の歴史上、非常に重要な意味を持っているそうですね。

中山 まず、福岡は日本の古代城郭の出発点なのです。その代表的なものが、朝鮮式山城である「大野城」で、時代を下って「水城」、中国式山城「怡土城(いとじょう)、「元寇防塁」、そして「福岡城」と存在するわけですが、これらの城は日本の城郭史にとって重要なポイントです。

―朝鮮式山城「大野城」は、665年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷天智天皇が防衛のために築城しましたね。

中山 実は築城された年代は不詳なのです。朝鮮式山城と言うと、今のお城が山にあると思われがちですが、大野城カルデラ地形の大きなくぼみにあります。つまり、逃げ込むための城でした。女子供、老人などを城に隠すための施設だったと思います。一見すると普通の山にしか見えないので、くぼみに隠れているとは外からでは分かりません。しかも、かなり広いのでかなりの人数が収容できます。この朝鮮式山城は北部九州から瀬戸内海沿岸にかけてあります。

―築城したのは、朝鮮半島から亡命してきた百済人だとされていますね。

中山 確かに百済人の技術が採用された山城もあったと思いますが、それ以前にカルデラのような身を隠す場所を探して山城を作っていたと思います。そこでは宗教的な儀式も行われていたでしょうね。ですから、「朝鮮式」と定義していることも実は疑わしい。実際、朝鮮半島にこうした城があるかどうか不明ですからね。朝鮮式山城の定義は、カルデラのくぼみなど外からは見えない場所に逃げ込むための山城だと思います。

―と言うことは、大野城の築城は天智天皇によるものではない可能性もありますね。

中山 瀬戸内海沿岸の山城は天智天皇の時代に造られたものでしょうが、大野城は恐らく紀元1世紀とかなり古いものだと思います。大野城という、逃げ込むには絶好の山城があったから大宰府がそのふもとに置かれたのではないでしょうか。城という概念の嚆矢が、大野城だった可能性は高いと思いますね。

―次に白村江の戦いの翌年に水城が造られますね。

中山 本来は中国から伝わってきた当初、「城」は「き」と読まれていました。それが「水城」です。この「城(き)」は、日本人が考える城郭のことではなく城壁のことを指します。中国では町全体を城壁で囲みますから、「城」は城壁そのものでした。神奈川県に稲城という地名がありますが、藁と土をこねて作った土塀を城壁にしていた名残です。2度目の元寇弘安の役 1281)前に築かれた元寇防塁はこの水城をヒントにしています。と言うのも、1度目の元寇文永の役 1274年)の時には防衛の最終ラインは水城でした。それを今度は石組みで造ったのが防塁です。これが後に石垣の技術に繋がっていきます。日本初の石積みの城壁が防塁で、石垣の原点なんです。

 

 

戦国山城の嚆矢「怡土城

 

 

 

糸島市に残る中国式山城「怡土城」は、当時安禄山の乱が勃発して、朝鮮半島では新羅が日本の国使との会見を拒否するなど対外的な緊張が高まって九州の防備が急務になり、768年に遣唐使として留学した吉備真備が築城したと言われていますね。

中山 一般に「U字式」、「馬蹄型」と言われていますが、私はこれを「山懐(やまふところ)型」と呼んでいます。両脇に山すそがせり出してその合間に城が築かれていました。入り口を仕切って防衛し、山の尾根伝いに物見やぐらを造って敵の来襲を監視する構造になっています。城の中心は山の懐にあるので、あえて「山懐型」とした方がピッタリだと思います。この城が中世の戦国山城の主流になっていきます。カルデラ地形を使った朝鮮式山城は向いた地形はそんなに無いので広まりませんでしたが、この中国式山城の立地条件が山すそですから、日本国中に適地がかなりあります。この城の優れている点は、背後の山から見張りが出来て、普段の生活は山麓で生活できていざという時には山の上に逃げられる点です。

 その後の中世の山城は、14世紀の楠正成の千早城で一気に拡大していきます。要するに、それまで城というのはあくまで逃げ込む場所だったのが、篭城戦で戦略的に使えることが千早城で証明されて、戦国武将がそれに倣って山城を造っていきます。その後、鉄砲が使われるようになって山城の欠点が露呈してきます。それは、先込め式の鉄砲の弾が銃からずり落ちてしまうんです。逆に上に向けて撃つのは有利になりましたから、山城は篭城に向かなくなってきて廃れていきます。そこで登場したのが、丘の上に築城された「平山城」です。弾が落ちないし、下を狙うには有利な角度を確保でき、下からの弾が届かないからです。一部にはそれから築城のムーブメントは平地に移行した、という説がありますが、それは違います。平城は沼地や海を敵の障害として利用するものです。もちろん、駿府城や二条城のように、都市に城を築く必要があって、

築かれたものもありますが、日本の城郭の究極形は平山城です。

 

築城技術の粋を集めた「福岡城

 

 

 

 

―最後の福岡城はどういう位置づけになるのでしょうか?

中山 織田信長が築いた安土城豊臣秀吉大阪城を見ると、織豊政権は非常に土木技術に長けていて、近世城郭作りのマニュアルを作っていたようです。その代表例が、「枡形虎口」です。虎口とは出入り口のことです。城の曲輪に入る際に、まず最初の門をくぐると、正面と左右どちらかが封鎖されていて、先に進むには直角に曲がらなければならない構造です。これは、近世城郭のほとんどの城に採用されているものです。理想的には、三の丸、二の丸、本丸とこれを連結していくのですが、それは加藤清正朝鮮出兵の際に築いています。このような近世城郭の基本マニュアルを作ったのが、黒田官兵衛加藤清正藤堂高虎らだったと考えられます。この築城の名人だった加藤清正黒田官兵衛が渾身の力を振り絞って築いたのが、熊本城と福岡城なのです。

福岡城の特徴は・

中山 まず、城域が東を頂点にした三角形になっているという点です。これはどういうことかというと、福岡城の立地条件は、北は海で西は大濠ですし、大きな勢力もないので、敵が攻めてくるのは、東からしからありません。南からの敵も現在の鹿児島本線や国道3号線と同じく、いったん東に迂回しなければなりません。東側が尖っていますから、寄せ手は北と南に分散されます。しかし、北は海ですから、南に集中せざるを得ません。そこに、現存の南側の多聞櫓を築いています。高い石垣上に築かれた多聞櫓の防御力はかなりのもので、南側から寄せる敵に対して鉄壁の守りを固めていました。

その上、福岡城の二の丸、本丸の巧妙な設計は熊本城を遥かに凌駕しています。加藤清正福岡城の堅固さに舌を巻いたくらいです。しかも、万一、敵が本丸を攻め落としても天守閣まで登ることができません。天守閣に行くためにはもう1度外に出なければなりませんし、さらに天守閣にたどり着くには、櫓の下をくぐらなければならない。また、福岡城は三の丸が非常に広く、家老の屋敷も城内にありましたが、これは再度の朝鮮出兵や九州での反乱に備えて、10万規模の軍勢が駐留することを考えてのことでしょう。まさに戦略にあふれた名城―福岡城は近世城郭の集大成とも言うべきお城なんです。

 また吉塚に古いお寺が多いのは、寺は土壁に囲まれ、鐘楼や庫裏、本堂があって、いざという時には出城として使えるからです。それを東と南から来る敵に備えて配置したのが吉塚の寺町です。まさに、これも福岡城の一部なのです。

 安土桃山時代から大阪夏の陣までが築城ブームで日本の近世城郭の殆んどがこの時代に造られています。福岡城は関が原合戦後に築城されたのですが、築城ブームで蓄積された技術の粋がふんだんに使われたのが福岡城です。

―古くから防人という地政学的な条件が福岡が日本の城作りの嚆矢になった背景にあるのでしょうね。それにしてもそうした名城が跡形も無くなっているのは、残念です。

中山 福岡城が跡形もないなんて(笑)。私たちからすれば、石垣や堀などの土木的な構造こそが城であって、天守閣を含めた建物は付属物にすぎません。8割が土木で、2割が建築なんです。その意味では、福岡城は土木的構造がほとんど失われていないし、建造物もいくつか残っています。

ぜひ、石垣や堀、そしてその配置、それを縄張というのですが、これに注目して城を見てください。

規模では熊本城が大きいですが、戦略性の高さでは福岡城が日本一ではなかったかと思います。福岡の人たちが「地元にお城が無い」と思いこんでいるのが残念です。もっと誇ってもらいたいものです。

 

中山氏プロフィール

1953年福岡県生まれ、同志社大学文学部文化史学専攻卒業 歴史書編集者、歴史紀行作家。編集者として、『城郭と城下町』(全10巻)『日本の城下町』(全12巻)『人間昭和史』(全11巻)などを編集。著書に『江戸300藩殿様のその後』、『日本百名城』、など。近著に『天皇陵謎解き完全ガイド』『殿ご乱心でござる』。週刊ダイヤモンドなどにも寄稿。

 (フォーNET 2016年12月号)

 

 

 

政談談論「緊張化する米中関係の中で」(太田誠一氏)

米中関係の緊張化を他人事してとらえてはいけません

全面戦争という非常時を常に想定しておくべきなのです

 

 

「素朴なアメリカ人」

 

 

北朝鮮問題を話し合うため北京入りしたポンペオ米国務長官との会談を習近平国家主席は見送りました。王毅国務委員兼外相などはポンペオ氏との会談で対米批判を展開し、ポンペオ氏も中国とは「根本的な不一致」があると応戦し、異例の険悪なやりとりが行われ、関係悪化に拍車が掛かりました。

 習氏はこれまで、訪中した米国務長官との会談に応じてきました。昨年訪中したティラーソン前長官に、習氏は「中米関係は安定的に発展している」と語り、笑顔でしたことを思えば、今回は一転、米中関係が一気に緊張しました。これは、米国がその後、知的財産権の侵害を理由に中国製品に巨額の関税を課し、中国も報復関税で応酬する「貿易戦争」に突入したからです。トランプ政権は最近、中国軍事部門への制裁指定や台湾への戦闘機部品の売却決定などを公表。トランプ大統領は習氏について「もはや友人ではないかもしれない」などと発言し、ペンス副大統領も講演で網羅的な対中批判を展開。中国も逐一反論し、非難合戦の様相を呈しています。王氏はポンペオ氏との会談で、北朝鮮問題をめぐる米中の協力の条件として、「健全で安定的な両国関係が必要だ」と警告し、米政権の対中姿勢を「中米関係の前途に暗い影を落とし、両国民の利益と全く合致しない」と糾弾しました。米国務省によると、ポンペオ氏は会談で南シナ海問題や中国の人権状況も取り上げ、中国側と平行線を辿ったようです。

 こうした米中関係のにわかな緊張の背景には、トランプ大統領が「素朴なアメリカ人」の本音を代弁、体現しようとしているに他なりません。つまり、中国のアンフェアな貿易を正そうとし、膨張主義的な軍事圧力に対して強烈なけん制を浴びせているのは、こうした素朴なアメリカ人の本音なのです。これまでのアメリカ政権は膨張する中国に対して及び腰でした。中国はそれをいいことに、台湾や南シナ海、日本近海に軍を出没させています。これは一種の「瀬踏み」で相手の反応を見ながらやっていることに過ぎませんが、気がつけばかなり侵食していたということにもなりかねません。そうした中国の危険な行動を見かねた素朴なアメリカがようやく腰を上げたと見ていいでしょう。ただし、現実的に軍事衝突が起きるかどうかは、不透明です。局地的な衝突は可能性があるかもしれませんが、全面戦争には互いに抑止が働くでしょうから、可能性はかなり低いでしょう。しかし、突発的なことが起きれば全面戦争の可能性はゼロとは言い切れません。

 「素朴なアメリカ人」とは、カウボーイ、西部開拓に象徴される、正義を守ろうと考える人々です。自分たちに正義があって、それに抵抗もしくはそのルールを破る者は、悪と決め付けて叩き潰そうとします。ある意味単純で、善か悪かの二元論的な考えで、インディアン、先の大戦における日本を悪と決め付けたのは、良いか悪いかは別として、素朴なアメリカ人の思考です。

 それはさておき、そうしたアメリカの積極姿勢に対して日本は「これで安心だ」と胸をなで下ろしている場合ではありません。

 対中国戦略は、他人事ではありません。アメリカが動いたらならば日本も対応しなければなりません。日米同盟対中国という形になるべきです。その中で日本は何をやるべきかを考え、行動しなければなりません。もし、日本が他人事のように傍観していれば、アメリカは日本に対して不信感を募らせて、最悪の場合、アメリカが日本を含むアジアから撤退することもあり得ます。そうなったら、日本だけで中国の侵略から守れるか。残念ながら、それは現実的に不可能です。

 

「想定外」に備えるべき

 

 

 問題は日本の姿勢です。米中が全面戦争になることは可能性は極めて低いのですが、しかしゼロではありません。国防とはその少しでも可能性があるリスクに備えるべきなのですが、防衛省にはそういう意識がないようです。防衛省は、中国を仮想敵国とすら見做さず、その結果最悪のシナリオに対するシミュレーションがありません。最近、やっと尻を叩かれているから仕方なく腰を上げているのが現状です。米中全面戦争はありえないと高を括っている姿は、大地震や大水害が起きた時に「想定外だった」と申し開きをすることと同じです。想定外の事態に対応することこそが、非常時に備えるべきではありませんか。中国からの侵攻という想定外に備えることを怠ってはいけません。万一同盟国のアメリカが中国と全面戦争になった非常時に常に備えをばんぜんにしておくべきなのです。

 日本にとって、米中関係が悪化している今こそ、非常時を想定してシミュレートするいい機会なのです。メディアは内心、中国に対する警戒感を持っているはずです。しかし、なかなか報道しない。もっと、そうした問題を提起すべきです。「中国と対峙すると危ない」と思っているから、書かないのでしょう。思っていても中国批判を書くことをタブーにしていてはいけません。それが、国民を思考停止にミスリードするのですから。

 ただし、米中関係のこれまでの歴史をよく振り返る必要があります。大戦中、アメリカは日本と対立していた当時の中国国民党に対して支援していました。いわゆる援蒋ルートでアメリカは英露と協力して蒋介石率いる中華民国を援助した歴史があります。また、戦後、しばらく対立していた両国が電撃的な国交正常化は当時の大統領の名を使ってニクソン・ショックと言われ、日本の頭越しに進められました。日本にとっては梯子を外された恰好になったのです。こうした歴史を見れば、日本は主体性をもって臨まないと、アメリカと中国がいきなり手を結ぶこともあり得るでしょう。

 なぜ、アメリカは時として中国と友好的になるのか。このアメリカの中国に対する感情は少し複雑なところもあります。開拓時代後半に中国人の労働者がアメリカで低賃金で働いて鉄道などのインフラが整備されました。当時のアメリカ人には弱少国の中国に対する同情心もあったようです。それもあって、中国人の子供を里親として養子にした家庭も多く、中国に対する憐みに近い同情心が根底にあると思います。そうした素朴なアメリカ人の感情に中国が巧みに浸け込めば、アメリカの世論が一変する恐れもあります。実際、中国は国を挙げて盛んにアメリカでのロビー活動をやっていますから、油断はできません。大国意識という間違った認識の習体制のロビー活動の拙さが幸いして、今のところ米中関係が緊張していますが、ロビー活動を軌道修正すれば、素朴なアメリカ人の潜在意識をくすぐり、関係改善に向う可能性は残っています。日本は相変らずロビー活動には消極的です。アメリカでの従軍慰安婦像問題を見れば明らかです。日本も国家的なロビー活動を積極的にやるべきでしょう。

 アメリカが中国を抑えてくれるという日本人の当事者意識の欠如をまず正すべきではありませんか。今の米中関係は、そうした現実が日本に突き付けられているということを、いい加減に日本は覚醒すべきなのです。