中国で移植を受ければ、無実の人々の命が消されるという事実 「中国の臓器狩り」唯一の証言者が語る

そこが聞きたい!インタビュー

 

中国で移植を受ければ、無実の人々の命が消されるという事実

「中国の臓器狩り」唯一の証言者が語る

 

 

元外科医 エンヴァー・トフティ・ブグダ(Dr.EnverTohtiBughda)氏

 

 

「私は殺人者」。そう懺悔しながら、中国の臓器狩りについて証言を続けるトフティ氏は、イギリスに亡命して中国共産党政権による洗脳の呪縛から解き放たれたという。以後、勇気をもって、過去の自分の罪を告白して世界を廻る、唯一の証言者だ。(二〇一九年四月六日に福岡市で開かれた同氏来日セミナー=主催 「中国における臓器移植を考える会」で来日した際にインタビューした)

 

 

ターゲットは、共産主義者以外の「国家の敵」

 

―今回の来日の目的は?

トフティ 強制臓器収奪という中国の闇を日本の人々に知ってもらうためです。何度か証言しているのですが、あまりにも闇が深いために信じたくても信じられない人が多いのです。臓器移植に関して中国が発表していることにあまりにも嘘が多すぎるために、真実がその嘘に埋れて人々から見えなくなってしまっています。嘘は小さければ見抜くことはできます。このままでは良心の囚人の犠牲は無くなりません。それを否定し続ける中国の大きな嘘を知ってもらうために来日しました。

中国の嘘を暴露する一番いい方法は、囮として移植手術の話を持ちかけることです。正式なルートで臓器を入手するのは、非常に難しいのです。数年前にアメリカのディック・チェイニー副大統領が肝臓移植を受けたのですが、彼は二年半待ちました。ところが、中国の病院のウエブサイトでは二週間でできると公言しています。緊急の場合は何とわずか四時間で臓器を用意できるというのです。なぜ、わずか二週間で臓器を用意できるのか。それは、臓器を取り出すことができる人間を常に確保しているからです。移植する臓器は肉のように冷蔵庫に入れて保存することができません。死んだ臓器ではなく機能しているものでなければならないからです。摘出して恐らく十時間くらいしかもたないでしょう。新鮮な臓器を確保するために、中国は罪のない多くの人々を捕えていつでも摘出できるようにしています。強制的に収監された人々は定期的に血液の検査を受けます。

―そうした臓器提供者、ドナーはどのような人々ですか?

トフティ 中国で臓器を摘出されている人々は正確に言えば、自分の意思で提供するドナーとは言えませんが、便宜上ドナーという言葉を使います。中国のほとんどのドナーは、中国共産党を信じていない人々です。共産主義はそれ以外の思想、哲学、宗教を認めません。共産主義以外は「国家の敵」と見做すのです。収監されていない人々も健康診断という名目で血液を検査されていますが、いつ収監されて臓器を摘出されるか分かりません。少数民族、地下教会信者、法輪功の学習者は共産党支配下にあって従っていますが、信仰は捨てられませんから、彼らは潜在的な国家の敵と見做されています。政府は、血液検査の結果をデータベース化して臓器確保に備えているのです。

 二〇一六年六月から新疆ウイグル地区の人々に対して血液検査など身体検査を始めました。感染病などの理由ではなく、何の理由もなく突然身体検査を受けさせられました。二〇一七年夏に政府はDNAの検査だと言いくるめましたが、DNA検査で血液を採取するのはありえません。ウイグルの人々を潜在的なドナーとして調査しているのです。

私はかつて中国で医療に従事していたので、中国の医師の考えが分かります。文化大革命も見てきました。人間の尊厳が破壊されてきたことを目の前で見てきました。そして、中国では人命が軽んじられてきたことも目の当たりにしました。

―検査を受けた人の中で実際に臓器を摘出されたケースは?

トフティ ある日、突然いなくなった人々はいます。新疆ウイグルでは一九九五年から二〇〇七年の間に、十万人もの人が行方不明になっています。しかし、臓器を摘出された人は死んでいるので、証言者がいません。これは分かっているだけの数字で、現在は全く分かっていません。現在、二百万人のウイグル人が収容所に入れられています。アメリカの調査では、八十万人から二百万人という数字があります。この人たちが潜在的ドナーです。いつ臓器を摘出、殺されても不思議ではありません。ウイグル人の他にもチベット人法輪功、地下教会の信者も臓器収奪の対象になっています。

共産主義を心の底から信じている中国人はあまりいません。ですから、今収奪されている人々がいなくなったら、ほとんどの中国人が潜在的ドナーになるでしょう。私は調査しているわけではないので、実際に中国でどれだけの非人道的な臓器移植が行われているのか、私は知りません。しかし、一人の人間が移植を受けるために、一人の人間の命が奪われる、一つの事例だけで十分です。

 

原爆症告発から亡命へ

 

―この活動に入るきっかけになったのは?

トフティ 私がイギリスに亡命しなければならなかったきっかけは、中国の核実験による原爆症の存在を調査し、それを告発したことでした。私は新疆ウイグルに生まれ、首都のウルムチ市の医科大学を卒業後、腫瘍外科医として鉄道中央病院に勤務しました。一九六四年から四十六回にわたるロプノル地域での核実験がありました。ロプノルとは新疆ウイグルの南東部、タクラマカン砂漠の北東部に位置しています。この核実験は半分が地下、半分が地上で行われました。

病院でガンの治療にあたっていたとき、ウイグル人患者の比率が高いことを不思議に思い、調査を始めました。およそ二千人のガン患者の調査の結果、ウイグル人のガンの発症率は国家平均と比べて三五%高く、ウイグルに長く居住している漢人の発症率も高いことが判明しました。白血病、肺ガン、リンパ腫、甲状腺ガンの患者が圧倒的で高い放射線によるものです。

地元では皆、核実験のことは知っていましたが、私の調査は中国によるロプノルでの核実験を証明することになりました。その後、語学留学先のトルコで、新疆ウイグルの核実験被害の実態をルポしたいという英国のジャーナリストと出逢い、その二日後に彼が現地に入ってドキュメンタリーを作りたいから協力してくれと要請されました。医者としての良心から被害状況を広く公開したいと願っていたので応じて、ウイグルに入り取材クルーのガイド役を務め、私自身も登場しました。これで故郷には戻れなくなり、仕事も家族も全て失うという大きな決断でした。このドキュメンタリーは『死のシルクロード』(Death on the Silk Road)として一九九八年にイギリスの「channel4」で放映され、これで私は中国政府から「お尋ね者」になりました。このドキュメントは後に世界八十三カ局で上映され、現在は「you tube」でも視聴できます。日本語字幕もついています。

 トルコではイスタンブール大学チャパ医学部の外科医として働いていましたが、一九九八年十二月、トルコの首相が中国との「犯罪人引き渡し条約」に合意署名したことをアンカラの台湾人レポーターが伝えてくれました。一九九九年一月二十三日に英国に行き、ヒスロー空港でドキュメンタリーを見せて難民申請しました。一九九九年四月に中国の高官がトルコを来訪しているので、その時まで国内にいたら中国に強制送還されていたでしょう。イギリスに渡って一年十一ヵ月後に難民として認められ、現在はイギリスの国籍を取得しています。

―この原爆症患者を救う活動を始めたのですか?

トフティ 積極的に種々の国際会議や公的な討論の場に参加して、ロプノルの核実験の事実を広め、実験の犠牲者のために闘いました。実験に関わった8023部隊の兵士は補償されましたが、被害で苦しむ村の人々は無視されています。 新疆の人々の九〇%は農民で年間の平均収入は当時5千元でした。当時、一回の化学療法に一万五千元かかったため、ほとんどの人はガンの宣告を受けると治療は受けずに家に戻りました。問題を認識し、被害を受けた家族を補償し、無料で医療手当を受けるよう政府に要求しました。汚染された土地で苦しむ農民への補償も求めています。

被害はウイグル人に止まりません。一九七〇年代以来、中国人が移民していますが、長く居住すればするほど発癌率が高いのです。中国政府はこのプロジェクトの存在を認めておらず、コミュニケーションもとっていません。英国のビジネスマンが話してくれたのですが、代表者として中国を訪問した際、中国政府の役人が「エンヴァーという男は嘘を言っている」と否定したそうです。

 

 

民衆法廷

 

―中国の臓器狩りの実態を証言しますね。これはどういうきっかけで?

トフティ これまで共産党政権下の教育を受けていましたが、西洋社会で目も心も開き、物を見る視点が完全に変わりました。そして自分の罪を認識し愕然としました。一九九五年夏に上司の命令で一度だけ、生きた処刑者から肝臓と腎臓を摘出させられました。処刑場で待機し、銃声が鳴ったら中に入れと言われました。摘出した人は囚人服ではなく私服で右胸を撃たれ、まだ生きていました。看護婦は逃げ出そうとし、私も手が震えました。でもその場では拒否する余地はありませんでした。言われた通りにする、そのような状況でした。当然、移植のためというのも分かっていません。

 当時、英語が分からない私が臓器狩りのことを知ったのは、ロンドンで香港、台湾で発行された中国語新聞で知りました。自分がやった摘出手術は臓器狩りだったと分かり、罪悪感が募りました。処刑者の名前も人種も宗教も分かりません。以来、モスク、寺院、教会などで機会があるごとに彼の冥福を祈っています。二〇一〇年、ずっとこの問題を追いかけていたジャーナリスト、イーサン・ガットマン氏の報告会がロンドンの国会議事堂内であり、その場で初めて自分は医療倫理に反する行為をしたと告白しました。一人で重苦しく抱えていたものをその時、初めて外に出すことができました。正直、最初に証言する時はかなりの勇気が要りました。「殺人者」である私を人々は受け入れてくれるのか、怖かったのです。

その後、欧州議会スコットランド議会など機会があるたびに証言者になっています。ガットマン氏は多くの迫害犠牲者から聞き込み調査し、実際に中国で起こっていることを『Slaughter(屠殺)』という著書にまとめ、二〇一四年に出版しました。臓器狩りを行った証言者として第一章に私の体験が紹介されています。二〇一五年十一月に米国でリリースされた『知られざる事実』(Hard to Believe)という映画でインタビューを受け、証言しています。これらの証言を通して、世界の人々の良心が目覚めることを願っています。初めての証言から十年経って、私を人々が受け入れてくれたと感じています。

―証言者はトフティさん一人ですか?

トフティ 以前はもう一人いたのですが、二〇〇一年に亡くなり、今は私だけが公に出て発表する証言者です。国のためにいいことをやっているという洗脳が解けた今、呼ばれれば積極的に証言したいと思います。私の叔父が検閲の仕事をやっていて自宅に検閲が通らなかった書物があって幼い頃から片っ端から読んでいたことも洗脳が解けた遠因かもしれません。また、ウイグルが政府に不当に差別されていたことに憤りを感じていましたから、元々反骨精神があったのかもしれませんね。また、証言することが懺悔になり、私が犯した罪が少しでも軽くなるかと。

アメリカでは議員に証言したそうですね。

トフティ 二〇一六年、臓器狩りのことを信じられない議員二十五人一人ひとりに面会して、証言しました。予定されていた公聴会がキャンセルされたので、それならばと渡米しました。彼らに情報としては耳に入っていましたが、完全に信じるまでにはなっていませんでしたが、実際に摘出した私の話を聞いて信じてくれたのでしょう。下院で中国の臓器狩りに対する懸念を表明した決議案が可決されました。

―昨年十二月にロンドンで開かれた、世界初の「中国での良心の囚人からの強制臓器収奪に関する民衆法廷」でも証言しましたね。

トフティ この民主法廷とは、国際法上問題がある行為が発生していると考えるNGOや市民等が、自主的に有識者を集めて構成する模擬法廷です。今回の法廷には三十人の専門家が証拠を提示するために出廷しました。私はその中で実際に臓器を摘出した元医師として参加しました。エリザベス女王から権威を授与された勅撰弁護士であるジェフリー卿が議長を務め、審理が進められています。法廷の中間報告で「本法廷は全員一致をもって、全く疑いの余地なく、中国でかなりの期間、極めて多くの犠牲者に関わり、強制臓器収奪が行われてきたことを確信する」と第一回の公聴会で発表した理由を、「今現在でも中国で犠牲になりつつある生命を一つでも救える可能性がないとは限らない」と述べています。

―こうした中国に対する国際的圧力は必要です。どうしたら止められるでしょうか?

トフティ 現実には移植するために中国に行く人は絶えないでしょう。お金があれば移植を受けたいというのが、人間です。政治を動かすには、世論しかありません。無実の人の命を奪ってまでも自分の命を永らえることがいかに残虐な行為なのかという世論を喚起するしかありません。あるいは、中国の現在の政権が瓦解するのを待つしかないかもしれません。

 

エンヴァー・トフティ・ブグダ (Dr. Enver Tohti Bughda)

 

アニワル・トフティとしても知られる。

 

1963年、東トルキスタン新疆ウイグル自治区)のハミ(クムル)市生まれ。ウイグル自治区の首都のウルムチ市で小学校、中学校の教育を受ける。シヘジ医科大学を卒業後、腫瘍外科医として鉄道中央病院で13年勤務。

1964年より46回にわたるロプノル地域の核実験を、不相応に高い悪性腫瘍の発生率から確認。ドキュメンタリー映画「Death on the Silk Road」(死のシルクロード)(1998年イギリスchannel 4)の制作協力により英国に政治亡命

積極的に種々の国際会議や公的な討論の場に参加して、ロプノル(Lopnor)の核実験の事実を広め、実験の犠牲者のために闘う。

英国では、世界ウイグル会議とは離れ、個別のウイグル擁護運動に取り組み続ける。シルクロード・ダイアローグというオンライン上のプラットホームを設定し、様々な利益集団が、礼儀あるやり方で意見交換や論争点の討議ができる場を提供している。

英国に在住することで、意識が変化し、1995年に上司の命令で一度だけ行った囚人からの臓器摘出に対する罪悪感に目覚める。以来、世界各地の公聴会や上映会に参加し、中国での臓器収奪の真実を訴える。

◯ アイルランドでの証言(2017年7月6日):http://bit.ly/2jKnsEI

「中国の元外科医、臓器狩りの証拠を提供―アイルランドの外務・通商・防衛共同委員会で 」(ビデオ付き。日本語字幕付き)(3分)

 

◯ 「中国での良心の囚人からの強制臓器収奪に関する民衆法廷

第一回公聴会の証言(2018年12月10日)

https://chinatribunal.com/the-hearings/

三日目の第一セッション 二人目の証言者(48:28より) (36分。英語のみ)

 

 

『奇跡の村』―その信仰の意義と歴史を語る 大刀洗町今地区に伝わる隠れキリシタン秘話

そこが聞きたい!インタビュー

 

『奇跡の村』―その信仰の意義と歴史を語る

大刀洗町今地区に伝わる隠れキリシタン秘話

 

今村信徒発見150周年記念誌『信仰の道程(みちのり)』

編集委員(海の星保育園 園長) 鳥羽清治氏

 

 

 

筑後平野の北部に位置する大刀洗町。緑豊かな田園が広がる中にひときわ目を引く建物がある。「今村カトリック教会」。赤煉瓦作りでヨーロッパ風の二つの塔を持つ、教会が秘めた隠れキリシタンの物語は、信仰の尊さを教えてくれる。

 

「奇跡の村」の所以

 

 

 

―百五十二年前の慶応三年(一八六七)、今村信徒が発見されますが、これはどういった経緯だったのでしょうか?

鳥羽 日本で初めてキリシタンを禁じたのは豊臣秀吉でしたが、その後の江戸幕府キリシタンを大追放しました。しかし、それでも秘密裏に布教活動は続いていました。ところが寛永十四年(一六三七)に起きた島原の乱に多くのキリシタンが加わったことから、キリシタンに対する弾圧がさらに厳しくなります。幕府は、踏み絵、五人組連座制度などでキリシタンを捜し出し、改宗させて、強制的に仏教徒として寺に登録させました。宣教師は、国外追放さもなくば殉教か転ぶ(キリスト教から仏教に改宗すること)かという厳しい選択を迫られ、キリシタンは徹底的に排除されました。

 そうした厳しい弾圧を逃れて、信仰を護り続けていたのが、隠れキリシタン潜伏キリシタンと呼ばれる信者たちです。彼らは長崎県西彼杵半島、平戸北部、五島列島生月島熊本県天草に約三万人が散在していたといわれています。このように隠れキリシタンのほとんどが僻地の山あいや小島、海岸に潜んでいたのです。

―ここ(今村)はそうした隠れキリシタンの里とは様相が全く違い、筑後平野の真ん中にありますね。よく隠れていたなと思います。

鳥羽 今村が「奇跡の村」と言われる所以です。幕府がキリシタン信徒を撲滅させる手段の一つに、寺請制度にして宗門人別帳を作らせて、キリシタンを必ずどこかの寺に属させてキリシタンでないことを証明させました。今村の信徒も表面上仏教に改宗しましたが、裏では密かにキリスト教の信仰を護り続けました。死者を葬る時には、いったん仏式で葬儀を行い、夜になってカトリックによる埋葬を行っていました。それまで大刀洗一帯に信徒がかなりいて、「邪宗門一件口書帳」に記されている大庄屋の申上覚えによると、八百六十八人の信徒のうち五百人が今村の信徒でした。つまり、ほとんど村全体がキリシタンでしたから、秘密を守ることができたのでしょう。

 もう一つ、今村で信仰が護り続けられたのは、大庄屋の存在です。右京、左京兄弟という熱心な信徒がいました。しかし、弟の左京は厳しい弾圧のために転んで、その代わりに大庄屋に取り立てられます。自分が魂を売って大庄屋になった左京は、建前では取締りながら、裏では大目に見てキリシタンを保護していたと伝わっています。また、村の殉教者といわれる「ジョアン又右衛門」の存在も大きいと思います。又右衛門は、島原の乱の落人など諸説ある人物ですが、熱心なキリシタンで村の人々の尊敬を集めていました。彼は強い信念で村人たちを教化指導していましたが、お上にそれが露見し、改宗を求められますが拒み続け、最後には磔刑に処されます。夜になって又右衛門の遺骸は村人たちに運ばれて埋葬されます。信徒は「ジョアン様のお墓」として、月命日にはお参りし祈りを捧げたと伝わっています。今村教会はそのお墓の上に建っています。

―平野の真ん中にあるという今村を取巻く環境では、下手をすると密告などで発覚する恐れがあったと思いますが、村人はどのようにして信仰を護り続けたのでしょうか?

鳥羽 発覚せずに信仰を続けるには、外部との接触を極力避けるしかありません。また、建前は仏教徒として普通に生活していかなければならない上に、教化してくれる神父がいない中では、どうしても形が変化してしまいます。その結果、宗教上の儀式や祈りの形は崩れてしまいます。そこには先祖代々の信仰、しきたりを守るという日本人特有の気質、生き方があったのではないかと思います。それが異教徒とも摩擦もなく、潜伏できた理由の一つではないでしょうか。慣れ親しんできた神仏や先祖を否定し、カトリックの教義や祈りを二百五十年以上にわたって秘密裡に、口伝のみで伝えることは非常に困難なことでした。「これはカトリックの信仰ではない」といわれるほど宗教上の祭儀や祈りの形は崩れてしまっていたのです。しかし、信徒が再び本当の教えに接した時に、長崎まで何度も足を運び、迷わず洗礼を受けたということはまさに奇跡であり、教えの核心は確実に代々伝わっていたのだと思います。

 

「今村信徒」発見秘話

 

―今村のキリシタンの種は大友宗麟時代の永禄四年(一五六四)に蒔かれたとされていますね。

鳥羽 熱心なキリシタン大名だった宗麟は、日本にキリスト教を始めて伝来したフランシスコ・ザビエルが宗麟の領地である豊後に到着すると、手厚く迎えてキリスト教に深い興味を覚え、領内での布教を保護します。勢力をつけた宗麟は北部九州まで版図を広げます。その頃、古くから大刀洗町の上高橋・下高橋地区を中心に高橋家という名家がありました。その高橋家の嗣子が絶える危機に直面したことを知った宗麟が、後継者に家臣の一万田右馬助(いちまんだ・うまのすけ)を推薦し大庄屋になります。右馬助の家中にはキリスト教の信者もいたことが類推され、この地区の庄屋、村人にキリスト教が布教されたと考えられます。修道士アルメイダも1564年、大友宗麟を表敬訪問した後平戸へ向かう途中、3年ぶりに立ち寄った土地があり、それがこの今村、上高橋地区ではないかといわれています。ちなみに今村は当初田中村と称していましたが、慶長六年(一六〇一)、田中吉政筑後国主になった時に、領主と同じ名称では恐れ多いと今村に改められます。吉政もキリスト教に理解があったため、信仰は保護されました。

隠れキリシタン潜伏キリシタンという言葉がありますが、この違いは?

鳥羽 隠れキリシタンとは禁教時代に隠れて信仰していた者を指します。そして禁教が解かれて発見された隠れキリシタンたちは、二つの道に分かれます。それまでに変形してしまった教義を改め、正しいカトリックを受け入れて正式な洗礼を受けて、憚ることなくカトリック教徒として生きる道を選んだ人々を、潜伏キリシタンと呼びます。今村は潜伏キリシタンになります。一方、潜伏していた時の教えをそのまま引き継ぎ護り続けた人々が、隠れキリシタンとして残っています。隠れキリシタンが残っているのは、長崎・生月島などです。

―さて、いよいよ今村の信徒が発見されるのですが、先に長崎・浦上で発見されますね。

鳥羽 安政元年(一八五四)に開国した日本にフランスの宣教師たちが入国しました。まず横浜に最初の天主堂を建設した後に、長崎に初めての宣教師が来ました。その大きな目的は、激しい弾圧によって潜伏しているキリシタンを捜し出すことでした。元治二年(一八六五)、浦上地区に潜んでいた信徒が名乗り出てきました。これが日本で初めての隠れキリシタン発見でした。しかし、まだ禁教令は続いているので、神父は注意深く、その秘密を守りながら行動します。信徒たちは、浦上の山間や、長崎港内の島々、五島諸島などで信徒の仲間を捜し出します。

 今村の信徒が発見されたのはその二年後ですが、それは偶然の出来事でした。浦上城の越の紺屋が久留米地方に藍を仕入れに行ったところ、今村にもキリシタンがいることを聞きます。紺屋は早速そのことを神父に伝え、四人の信徒を今村に派遣しました。

 四人が今村近くの茶店で休んでいる時のことです。今村への道を訊くと、西目の今村か北目の今村か問われます。とりあえず西目の今村への道を教えてもらう道すがら、偶然、地元の人が西目の今村にキリシタンがいると話しているのが耳に入ります。四人は早速村に入って昼飯を食べるために小さなお店に入り、一晩泊めてほしいと頼みますが、店の主人に頑なに断れました。すると、村の一銭床屋のおシマという女の家に泊めてもらうことになります。おシマもキリシタンですがそんなことはおくびにも出さずに、浦上から来た四人の正体を探ろうとします。互いに相手がキリシタンであるかどうかの会話が続きました。

 夕食の時におタキが、「おかずは鶏にしますか?」と訊くと、「鶏は嫌いではないが、今は食べる時ではない」と答えます。「卵は?」とさらに訊くと「卵も食べる時期ではない」と答え、おシマは四人がキリシタンであることを確信します。これは、当時「悲しみ節(せつ)」という復活祭前四十日間のことです。キリスト死去前の苦難を思い、断食、苦行、祈りによって罪を悔い改め、償いながら復活を待つ時期で、この時期は鳥獣の肉をはじめ卵も摂らないのがしきたりでした。ようやく今村の人々がキリシタンであることを認めました。その後、四人はローマから宣教師が派遣されて浦上の天主堂に入ったこと、浦上のキリシタンたちが名乗り出て熱心に教理を学んで秘蹟を受けていることを告げました。

―しかし、長い間迫害に苦しめられていた村人たちは、俄かに信じることができたのでしょうか。

鳥羽 確かにすぐには信じられなかったようです。その事実を確かめるために今村から三人の信徒が長崎に行き、教会を見学したり浦上のキリシタンたちが大勢集って教えを学んでいるところを目の当たりにして驚きます。派遣された一人は今に捕まると恐れおののいて今村に帰ってしまいますが、一人は残って教理を学び正しい洗礼を授かって村に帰りました。その後九人の村人を連れて長崎を訪れます。

 ところが帰ってくると捕えられ牢に繋がれてしまいました。まだ禁教が続いていて密告があったからです。庄屋と大庄屋が仲に入って、今後は決してキリシタンを信奉させないと保証し、入獄者たちも改宗すると誓ったので全員が釈放されます。

 

 

 

教会建設への道

 

 

―それでも村人たちは信仰を止めなかったのですね。明治十二年(一八七九)、ついに神父が今村に入りますね。

鳥羽 教会がないという不自由な環境の中でコール神父は、旧信者の発見と信仰的教育、集団洗礼へ導きました、村人たちは土蔵で次々に洗礼を受けていきます。初代のコール神父時代の一年間で七百人近くの村人が洗礼を受けました。その後も年々洗礼を受けた信徒数は増え続けていきます。増えると土蔵では手狭になって、ついに明治十四年(一八八一)に藁葺き木造の教会が建てられました。

―その後も信徒が増え続け、ついに現在の教会が建設されることになりますね。

鳥羽 初代から四代目の神父まで大変な苦労をして布教活動をされました。そうして今の教会建設を進めたのが、五代目の本田保神父でした。本田神父は三十二年間という長きにわたって在任し、半生を今村に捧げた人です。本田神父が着任した時には信徒数はすでに千七百人を数え、教会は満杯でした。それから十年も経つと新しい改宗者や、自然増加で増え続けて二千人という大所帯になりました。

 本田神父は、自分が在任中に真摯な今村カトリック教徒にふさわしい聖堂を建設する夢を持っていましたが、信徒の急増で建設せずにはいられない窮地に追い込まれます。しかし、貧しい村人からの献金ではとても費用を捻出することができません。そこで本田神父はドイツの布教雑誌の編集者である神父に教会建設のための資金援助の手紙を書きます。その内容が掲載され、ドイツの多くの信徒を感動させ、多額の献金が今村に贈られました。この資金を元に教会建設は具体的に進められます。設計は、日本人技師で礼拝堂教会建設の第一人者である鉄川与助に依頼しました。

 工事は大正元年(一九一二)に始まります。鉄川が連れてきた職人十数人と今村信徒の勤労奉仕団が加わり大勢で取り掛かります。ところが思い掛けない難事にぶつかります。今村の地盤が予想外の軟弱地盤で掘れば掘るほど大量の水が湧いて出て度々工事が中断し、予想外の莫大な費用がかかりました。費用も底を尽きます。本田神父は再びドイツの布教雑誌に手紙を書きます。そしてドイツ人のキリスト教徒はまた願いを聞き入れ、献金を贈ります。信仰の力には感動しますね。この献金と他の善意の資金で工事を再開することができ、大正二年(一九一三)十二月に完成しました。以後、水害や幾多の台風の被害を受けましたが、その都度修理され、平成十八年(二〇〇六)に福岡県有形文化財、平成二十七年(二〇一五)には国の重要文化財に指定されました。

―今村教会は築百年以上の建物とは思えない美しさです。

鳥羽 「より高くより美しく」という信徒たちの一途な思いが結晶されて建設されましたから、今でもその美しさは色あせないのでしょう。二つの塔を持つロマネスク様式赤煉瓦造りで国内に残るレンガ造りの教会として貴重なものです。また、ステンドグラスと十字架の道行(キリスト受難の十四枚の聖絵)はフランス製、柱は高良山の杉、レンガは特注品で歴史的価値のある建造物でもあります。ただ、老朽化は進んでいて、現在、耐震調査中ですが、やはり傷みが進んでいて補修が必要です。耐震補強・補修工事には五、六億円では到底足りないという説明を受けました。国の重要文化財には指定されましたが、国と県と町で総額の四分の三までは補助されますが、残りの四分の一は福岡教区で賄う必要があります。仮に総額八億円かかるとすれば、二億円を集めないといけないので、とても厳しいというのが現状です。補修のために町がクラウドファンディングを立ち上げて、ありがたいことに現在約百万円集っています。

―ところで取材前に周囲を車で走らせたのですが、この地区の静けさに不思議なものを感じたのですが。

鳥羽 (笑)どこにでもある田舎の雰囲気だと思います。しかし、確かに周囲の集落とは少し違った感じはあるかもしれませんね。周囲も何となく認めてきたという感じではないでしょうか。禁教時代には、お寺も神社も必要以上に関わらず見知らぬふりをしてきたのだと思います。外部から来られた方がそう感じられたのは、そのような歴史が背景にあるのかもしれません。

―現在も今村地区の信徒は多いのですか?

鳥羽 詳しくわかりませんが7割くらいでしょうか。この地区に嫁いで洗礼を受けていない人やアパートが建ってそこに越してきた人など徐々に増えてきています。やはり、高齢化が進み若い人は区外に出て行っていて、今後信徒はかなり減ると思います。

世界文化遺産潜伏キリシタン関連遺産が登録されましたが、今村は登録されませんでしたね。

鳥羽 一時は候補に挙がっていたようですが、絞り込まれる中で外れたということだと思います。現在、国の重要文化財に指定され、巡礼団や見学者はとても増えました。これまでの自分たちだけの教会、閉ざされた教会ではなく、もっと開かれた教会として多くの人に開放され、情報を発信し、福音宣教につながることを期待しています。そしてそのような活動が少しずつ実を結んでいるのも事実です。しかし、ややもすると、過去の遺産、先祖の残してくれたものだけに頼りすぎる説明、自慢話に陥る危険もあります。大切なのは、それを受け継いだ私たちがどのような希望を持って毎日を過ごし、その信仰の喜びをどれだけ伝えきれているかということです。信徒の数は減っても、信仰の灯は姿や形を変え、これからも消えることはないのだと思います。福音宣教とは、難しく教義を教えることでも祈りを教えることでもなく、生活の中で喜びのうちに素朴に信仰を生きること、そういう人がいる限り、今村の地は奇跡の村としてこれからも生き続けるのだと信じています。

 

鳥羽氏プロフィール 長崎県平戸市出身。昭和28年生まれ。関西外語大学中退。昭和五十一年に今村にあった老人ホームの生活相談員として就職。平成17年から現職。

 

参考文献:『隠れキリシタンの里・今村 奇跡の村』(佐藤早苗 河出書房 二〇〇二年)、『守教 上・下』(箒木蓬生 新潮社 二〇一七年)、今村信徒発見150周年記念誌『信仰の道程(みちのり)』

 

 

山崩れ、花粉症の蔓延、水産資源の減少… 荒れた人工林問題 「壊れた山」の再生を

  

 

そこが聞きたい!インタビュー

 

山崩れ、花粉症の蔓延、水産資源の減少…

荒れた人工林問題 「壊れた山」の再生を

 

遠賀川源流を守る会 会長青木宣人氏

 

 

国土の七割を山林で占めるわが国。一見、緑豊かに映る山々だが、実は壊れているという。その結果、山崩れなどの災害や花粉症の健康被害、水産資源の減少につながっている。山の再生は愁眉の急なのだが…

 

 

人工林が放置された背景

 

 

 

―日本の山林の現状をどう見ていますか。

青木 昭和二十五年から始まった国の拡大造林事業の過ちが今の日本の山林が荒れている原因です。広葉樹などの雑木を全部切って杉、桧に植え替えさせました。戦後焼け野原になって、その復興のために木材需要が急増したからです。また、公共事業という側面もありました。つまり、戦後復興のために日本全土に均等にお金を落とすという意味もありました。この拡大造林ではお金が出ますから、こぞって雑木、つまり広葉樹を伐採して、杉、桧の苗木を植林していきました。この主力は三から十haの狭い山の所有者たちでした。こうした人たちは山林でご飯を食べていたわけではないのですが、補助金が出るということでこぞって造林していきます。一方、二百haから四百haという広大な森林を所有する林業家は、百年という長いスパンできちんと計画を立てて育てています。国有林も人工造林されて、人工林一千万haのうち約四割の四百万haが造林され、日本の森林面積は国土の約七割の二千五百十万haですが、わずか二十年間で実にその四割が人工林になっています。

―その人工林が放置されていますね。

青木 外材の輸入制限が緩和されたことと、変動相場制に移行して円高が進み国内材が外材に価格競争で勝てなくなったことがあります。また、国は当初、植えて十五年経過して出た間伐材は建設現場の足場の丸太として使え、二十年経過すると九センチ角の木材をバラックなどの簡易建物の材料に使えると奨励しました。そして、四十五年から五十年経過すれば全部主伐(しゅばつ)して建築材として売れるという謳い文句で、銀行に預金するよりも植林した方がいいと奨励されたのです。

 ところが十五年経った頃には建設現場で足場材は丸太から鋼管に変ってしまい、需要がなくなりました。住宅工法もそれまで曲った木材を組み合わせた伝統工法からツーバイフォー工法に変わって真っ直ぐな木材を使うようになり、外材が使われるようになりました。施主からも工期を短縮する要望が強くなっていましたからね。売れない木の面倒を見てもお金にならないので、所有者たちは日雇い仕事などでお金を稼いだ方がいいとなって山に背を向けて、その結果放置されていくことになります。

 

 

 

「緑の砂漠」

 

 

―放置された山林はどうなっているんでしょう?

青木 植えて十五年間は除伐、間伐、枝打ちをやれば、日光が当って光合成で下草は豊かに生えます。これをやらないと、細くひょろっとした木になります。そして上部には葉が茂りますから、日光が下に届きませんから光合成が起きません。すると、地表が瘠せてしまいます。山にとって大事なのは木より地表なんです。山の表土に光合成によって下草や苔が密集して、そこに落葉が堆積して腐葉土になります。その表土がスポンジ役になって降った雨を吸収して何年もかけて地下深くに浸み込んでその水が谷川に流れ、川が潤うというサイクルを作り出します。それが放置林になって地表がやせ衰えてしまっています。表土が固くなっているので、雨が降ると地下に浸み込まず、表土をそのまま流れてしまいます。保水力が落ちるわけです。そうなると、木は根が張れず風が吹くと木の上部だけではなく地表も揺れて亀裂ができます。そこに水が入り込んで一気に倒れる、山崩れが起きます。

―昨年起きた広島の大水害の様子を見ると、流れ着いた大木の根が小さかったのが印象に残りました。

青木 根張りが小さいから大雨が降ると山崩れを起こします。これは放置されたこともありますが、植林の時にも原因があります。挿し木で植えているから、木の支えになる直根が生えていないんです。実生(みしょう)で植えたら直根が生えて横に根が張っていきます。しかし、実生は発着率が悪く植えにくいために簡易な挿し木を植えました。根が張っていない木が育ち、山崩れしやすい遠因になりました。

また、春先になると多くの人が悩まされる花粉症も人口造林が原因です。造林が始まった頃に、無花粉の木が発見されていました。繁殖させるための造林ではありませんから花粉は無くてもいいし、育ちやすいという利点があります。当時、今のように花粉症が流行るとは判ってはいなかったと思いますが、林学者の中にはこのままでは将来、膨大な花粉が山から飛んできてとんでもない事態になると予想し、この木を使うように勧めました。また、山崩れの危険性も指摘していました。しかし、価格が高いという理由で誰も使いませんでした。間伐がしやすいようにまだら間伐と筋状間伐という手法を発表した学者もいます。つまり、針葉樹と広葉樹をまだら模様あるいは筋状に交互に植える植林法です。まだら間伐を実施した数少ない地域で成功したのは、宮崎県諸塚村です。

―一見、緑豊かに見える山林の中で大変なことが起きているんですね。

青木 遠目には緑に覆われているのですが、実態は「緑の砂漠」と言った方がいいでしょうね。

―よく山に登るのですが、広葉樹林帯を歩いていると鳥のさえずりが聴こえているのに、針葉樹林帯に入るとピタッと聞こえなくなります。

青木 針葉樹の樹液にはヒノキチオールなどの毒性の強いアルカロイドが含まれるため虫の種類が極端に少ないため鳥が寄り付きません。また、針葉樹の葉は小さいので虫が食べにくいこともあります。人工林は限られた木しかありませんから、落葉に含まれる養分も限られてしまい、生息する土中昆虫、微生物も限られてしまいます。つまり、生物の多様性が大きく損なわれているのです。これはある種の環境破壊だと思います。本来、山林は色んな樹木があって色んな落葉があるから、生物の多様性が保たれているはずなんです。それが水の養分も乏しくさせているのではないかと見ています。山が壊れているのが実態です。

 以前から林学者たちの間では、理想の山林のあり方は、針葉樹と広葉樹の「針広混交林」だと言われていました。杉は日本在来の樹木です。これは守るべきです。五十年くらいで主伐していますが、これは人間で言えば小学生クラスです。杉は屋久杉のように千年の樹齢のものがあるわけですからね。社寺仏閣の建材になるには、百年、二百年のものを使うべきなんです。また、木材の自給率を向上させるためには、針葉樹もある程度必要です。と言うのも、東南アジアの南洋材は資源の枯渇と自然保護で伐採が禁止になって輸入が激減しています。また、北米材も規制が厳しくなって供給が減ってきています。ロシア・シベリヤの北洋材も資源が減少していて、今後輸入に依存するのは難しくなるでしょう。国産材の供給力を高めないといけません。そういう意味でも、日本の山をバランスのとれた針広混交林化する必要があります。

 

 

 

「漁民の森」

 

 

 

―山崩れなどの災害を防ぎ、川の水質を守るためにも山を復活させないといけません。

青木 針広混交林に変えるには、個人の力では到底無理ですから、林野行政として取り組むべきです。九州の人工林の八割は個人所有ですから、国が取り組まないとできません。

遠賀川の源流の森を守る活動を続けていますね。

青木 二十年間、ボランティアで源流の森づくりのアドバイザーをやっています。しかし、個人所有の山ですから、伐採するように言えません。それでも理解していただいた所有者には私有林を伐採させてもらって、広葉樹を植林しています。植えている樹木は適地適木という手法で高度や周囲の植生を考慮して植林しています。主木は、カシ、シイ、タブノキです。この中に山桜、紅葉、アオダモを入れます。しかし、なかなか思うように進んでいません。別に源流地域にこだわる必要はありません。中流域、下流域の山からも遠賀川に水が流れ込んでいるのですから、各地域でやってもらえればと思っています。杉は水分を好む樹木ですからできるだけ谷側に植えて、ヒノキは水分をそこまで必要としないので中層に、それ以上は広葉樹を植えるのが適地適木の理想なのですが、拡大造林で山全てに針葉樹を植えてしまったのです。

―広葉樹はやはり根が強く張るのですか?

青木 日本の森林はほとんどが山の傾斜に植生しています。日本人にとって当たり前と思われるかもしれませんが、外国、例えばドイツ、デンマークの森林はほとんど平地にあり、森なのです。そういう意味では、日本の場合森づくりイコール山づくりなんです。木には腹と背があります。針葉樹は、谷側が腹で上方向が背です。木は背から成長しますから、根張りが弱くなります。広葉樹は逆で谷側から成長しますから、谷側から根を張っていきます。広葉樹は根張りが強いんです。それから、樹木には直根深根性と浅根性があります。広葉樹は深根性で針葉樹は浅根性ですから、根張りの強さは全く違います。広葉樹は岩を割ってでも根を張ります。

―山の荒廃の根本には日本人の変質があるように思えます。

青木 林業は子孫のためにやるものです。百年先の子孫の繁栄と安心のために木を植え、育てるのが林業のあるべき姿なのですが、今は自分たちの代のことしか考えていません。これでは子孫につけを回すだけなのです。この背景には、日本人が拝金主義になってしまったことがあるでしょう。また、行過ぎた個人主義もあります。かつて日本人には結(ゆい)という共同作業制度がありました。互いに助け合って生きていく。そういう意識がなくなりつつあるのが、山の荒廃という現象に現われています。

 古来日本人は山の恵みを受けて生きてきました。山の木を椀、お盆、櫃(ひつ)に加工したり、薪や炭を作って売るなど山の恵みで生きてきました。山から流れる川の水は魚を育て、田畑を潤します。広葉樹の落葉でできた豊富なプランクトンが川を伝って海に注がれ、それを求めて魚が集り漁をして海の恵みを得ています。また、沿岸の魚を沖の魚が食べてそれをまた大きな魚が食べるという食物連鎖の起点が山なのです。山を守ることが水産資源を守ることに直結しているんです。そのことに気付いた漁民で、山の保護のために「漁民の森」という活動を始めています。さきがけは、北海道稚内の手塩川です。天然ホタテ貝漁が減少していることに危機感を持って、漁村の婦人部が漁民の森を始めました。九州では熊本県の緑川源流に漁民の森があります。

しかし、まだまだ山林を再生する動きは本格的に始まっていません。日本人の生活は山に始まっているのです。その山に背を向けてしまっては、生活を営むことができません。また、災害も防げません。山崩れ、花粉症の蔓延、水産資源の枯渇などは、人災であるという共有認識を持って、どうすれば山が再生できるかを国と国民が一体となって取り組めば、出来ないことはありません。

 

 

青木氏プロフィール

 

昭和15年(1940)、熊本県大津町生まれ。北海道大学農学部で林学を学ぶ。卒業後、森林環境学を学ぶためにフランスに留学するが、ヨーロッパ、中東を放浪しインドへ。帰国後北大の研究室に戻り、アラスカ、カナダで北方材を調査する。その後、フィリピン、パプアニューギニアパラオ、アフリカ、アマゾンの上流…世界中の植生を調査した。その活動で冒険家としてテレイビ出演、講演会などで活躍する。砂漠の緑化にも取り組み、サハラ砂漠、オーストラリア、アメリカ、中国など砂漠化が進んでいる地域を次々と調査し、砂漠の緑化に取り組む。その後、福岡に移住して「西日本アウトドア協会」を設立、アウトドアの魅力を伝えた。平成23年(2013)嘉麻市うどん屋「千年屋」を開く。現在、サケを遠賀川源流で孵化させて放流し成長したサケを川に戻ってこさせる「遠賀川源流サケの会」会長を務め、源流の森を守るために活動している。

大野城、水城、怡土城、元寇防塁、そして福岡城 ―日本の城作りの最先端地域だった福岡

そこが聞きたい!インタビュー

 

大野城、水城、怡土城元寇防塁、そして福岡城

―日本の城作りの最先端地域だった福岡

歴史紀行作家 中山良昭氏

 

 

 

福岡は日本の城作りの嚆矢だ―そう熱弁を振るう中山さん。古よりわが国の「国防最前線」・福岡には、防人のDNAが引き継がれていた。

 

 

大野城の意外な実体

 

 

 

 

―福岡という地域は日本のお城の歴史上、非常に重要な意味を持っているそうですね。

中山 まず、福岡は日本の古代城郭の出発点なのです。その代表的なものが、朝鮮式山城である「大野城」で、時代を下って「水城」、中国式山城「怡土城(いとじょう)、「元寇防塁」、そして「福岡城」と存在するわけですが、これらの城は日本の城郭史にとって重要なポイントです。

―朝鮮式山城「大野城」は、665年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷天智天皇が防衛のために築城しましたね。

中山 実は築城された年代は不詳なのです。朝鮮式山城と言うと、今のお城が山にあると思われがちですが、大野城カルデラ地形の大きなくぼみにあります。つまり、逃げ込むための城でした。女子供、老人などを城に隠すための施設だったと思います。一見すると普通の山にしか見えないので、くぼみに隠れているとは外からでは分かりません。しかも、かなり広いのでかなりの人数が収容できます。この朝鮮式山城は北部九州から瀬戸内海沿岸にかけてあります。

―築城したのは、朝鮮半島から亡命してきた百済人だとされていますね。

中山 確かに百済人の技術が採用された山城もあったと思いますが、それ以前にカルデラのような身を隠す場所を探して山城を作っていたと思います。そこでは宗教的な儀式も行われていたでしょうね。ですから、「朝鮮式」と定義していることも実は疑わしい。実際、朝鮮半島にこうした城があるかどうか不明ですからね。朝鮮式山城の定義は、カルデラのくぼみなど外からは見えない場所に逃げ込むための山城だと思います。

―と言うことは、大野城の築城は天智天皇によるものではない可能性もありますね。

中山 瀬戸内海沿岸の山城は天智天皇の時代に造られたものでしょうが、大野城は恐らく紀元1世紀とかなり古いものだと思います。大野城という、逃げ込むには絶好の山城があったから大宰府がそのふもとに置かれたのではないでしょうか。城という概念の嚆矢が、大野城だった可能性は高いと思いますね。

―次に白村江の戦いの翌年に水城が造られますね。

中山 本来は中国から伝わってきた当初、「城」は「き」と読まれていました。それが「水城」です。この「城(き)」は、日本人が考える城郭のことではなく城壁のことを指します。中国では町全体を城壁で囲みますから、「城」は城壁そのものでした。神奈川県に稲城という地名がありますが、藁と土をこねて作った土塀を城壁にしていた名残です。2度目の元寇弘安の役 1281)前に築かれた元寇防塁はこの水城をヒントにしています。と言うのも、1度目の元寇文永の役 1274年)の時には防衛の最終ラインは水城でした。それを今度は石組みで造ったのが防塁です。これが後に石垣の技術に繋がっていきます。日本初の石積みの城壁が防塁で、石垣の原点なんです。

 

 

戦国山城の嚆矢「怡土城

 

 

 

糸島市に残る中国式山城「怡土城」は、当時安禄山の乱が勃発して、朝鮮半島では新羅が日本の国使との会見を拒否するなど対外的な緊張が高まって九州の防備が急務になり、768年に遣唐使として留学した吉備真備が築城したと言われていますね。

中山 一般に「U字式」、「馬蹄型」と言われていますが、私はこれを「山懐(やまふところ)型」と呼んでいます。両脇に山すそがせり出してその合間に城が築かれていました。入り口を仕切って防衛し、山の尾根伝いに物見やぐらを造って敵の来襲を監視する構造になっています。城の中心は山の懐にあるので、あえて「山懐型」とした方がピッタリだと思います。この城が中世の戦国山城の主流になっていきます。カルデラ地形を使った朝鮮式山城は向いた地形はそんなに無いので広まりませんでしたが、この中国式山城の立地条件が山すそですから、日本国中に適地がかなりあります。この城の優れている点は、背後の山から見張りが出来て、普段の生活は山麓で生活できていざという時には山の上に逃げられる点です。

 その後の中世の山城は、14世紀の楠正成の千早城で一気に拡大していきます。要するに、それまで城というのはあくまで逃げ込む場所だったのが、篭城戦で戦略的に使えることが千早城で証明されて、戦国武将がそれに倣って山城を造っていきます。その後、鉄砲が使われるようになって山城の欠点が露呈してきます。それは、先込め式の鉄砲の弾が銃からずり落ちてしまうんです。逆に上に向けて撃つのは有利になりましたから、山城は篭城に向かなくなってきて廃れていきます。そこで登場したのが、丘の上に築城された「平山城」です。弾が落ちないし、下を狙うには有利な角度を確保でき、下からの弾が届かないからです。一部にはそれから築城のムーブメントは平地に移行した、という説がありますが、それは違います。平城は沼地や海を敵の障害として利用するものです。もちろん、駿府城や二条城のように、都市に城を築く必要があって、

築かれたものもありますが、日本の城郭の究極形は平山城です。

 

築城技術の粋を集めた「福岡城

 

 

 

 

―最後の福岡城はどういう位置づけになるのでしょうか?

中山 織田信長が築いた安土城豊臣秀吉大阪城を見ると、織豊政権は非常に土木技術に長けていて、近世城郭作りのマニュアルを作っていたようです。その代表例が、「枡形虎口」です。虎口とは出入り口のことです。城の曲輪に入る際に、まず最初の門をくぐると、正面と左右どちらかが封鎖されていて、先に進むには直角に曲がらなければならない構造です。これは、近世城郭のほとんどの城に採用されているものです。理想的には、三の丸、二の丸、本丸とこれを連結していくのですが、それは加藤清正朝鮮出兵の際に築いています。このような近世城郭の基本マニュアルを作ったのが、黒田官兵衛加藤清正藤堂高虎らだったと考えられます。この築城の名人だった加藤清正黒田官兵衛が渾身の力を振り絞って築いたのが、熊本城と福岡城なのです。

福岡城の特徴は・

中山 まず、城域が東を頂点にした三角形になっているという点です。これはどういうことかというと、福岡城の立地条件は、北は海で西は大濠ですし、大きな勢力もないので、敵が攻めてくるのは、東からしからありません。南からの敵も現在の鹿児島本線や国道3号線と同じく、いったん東に迂回しなければなりません。東側が尖っていますから、寄せ手は北と南に分散されます。しかし、北は海ですから、南に集中せざるを得ません。そこに、現存の南側の多聞櫓を築いています。高い石垣上に築かれた多聞櫓の防御力はかなりのもので、南側から寄せる敵に対して鉄壁の守りを固めていました。

その上、福岡城の二の丸、本丸の巧妙な設計は熊本城を遥かに凌駕しています。加藤清正福岡城の堅固さに舌を巻いたくらいです。しかも、万一、敵が本丸を攻め落としても天守閣まで登ることができません。天守閣に行くためにはもう1度外に出なければなりませんし、さらに天守閣にたどり着くには、櫓の下をくぐらなければならない。また、福岡城は三の丸が非常に広く、家老の屋敷も城内にありましたが、これは再度の朝鮮出兵や九州での反乱に備えて、10万規模の軍勢が駐留することを考えてのことでしょう。まさに戦略にあふれた名城―福岡城は近世城郭の集大成とも言うべきお城なんです。

 また吉塚に古いお寺が多いのは、寺は土壁に囲まれ、鐘楼や庫裏、本堂があって、いざという時には出城として使えるからです。それを東と南から来る敵に備えて配置したのが吉塚の寺町です。まさに、これも福岡城の一部なのです。

 安土桃山時代から大阪夏の陣までが築城ブームで日本の近世城郭の殆んどがこの時代に造られています。福岡城は関が原合戦後に築城されたのですが、築城ブームで蓄積された技術の粋がふんだんに使われたのが福岡城です。

―古くから防人という地政学的な条件が福岡が日本の城作りの嚆矢になった背景にあるのでしょうね。それにしてもそうした名城が跡形も無くなっているのは、残念です。

中山 福岡城が跡形もないなんて(笑)。私たちからすれば、石垣や堀などの土木的な構造こそが城であって、天守閣を含めた建物は付属物にすぎません。8割が土木で、2割が建築なんです。その意味では、福岡城は土木的構造がほとんど失われていないし、建造物もいくつか残っています。

ぜひ、石垣や堀、そしてその配置、それを縄張というのですが、これに注目して城を見てください。

規模では熊本城が大きいですが、戦略性の高さでは福岡城が日本一ではなかったかと思います。福岡の人たちが「地元にお城が無い」と思いこんでいるのが残念です。もっと誇ってもらいたいものです。

 

中山氏プロフィール

1953年福岡県生まれ、同志社大学文学部文化史学専攻卒業 歴史書編集者、歴史紀行作家。編集者として、『城郭と城下町』(全10巻)『日本の城下町』(全12巻)『人間昭和史』(全11巻)などを編集。著書に『江戸300藩殿様のその後』、『日本百名城』、など。近著に『天皇陵謎解き完全ガイド』『殿ご乱心でござる』。週刊ダイヤモンドなどにも寄稿。

 (フォーNET 2016年12月号)

 

 

 

政談談論「緊張化する米中関係の中で」(太田誠一氏)

米中関係の緊張化を他人事してとらえてはいけません

全面戦争という非常時を常に想定しておくべきなのです

 

 

「素朴なアメリカ人」

 

 

北朝鮮問題を話し合うため北京入りしたポンペオ米国務長官との会談を習近平国家主席は見送りました。王毅国務委員兼外相などはポンペオ氏との会談で対米批判を展開し、ポンペオ氏も中国とは「根本的な不一致」があると応戦し、異例の険悪なやりとりが行われ、関係悪化に拍車が掛かりました。

 習氏はこれまで、訪中した米国務長官との会談に応じてきました。昨年訪中したティラーソン前長官に、習氏は「中米関係は安定的に発展している」と語り、笑顔でしたことを思えば、今回は一転、米中関係が一気に緊張しました。これは、米国がその後、知的財産権の侵害を理由に中国製品に巨額の関税を課し、中国も報復関税で応酬する「貿易戦争」に突入したからです。トランプ政権は最近、中国軍事部門への制裁指定や台湾への戦闘機部品の売却決定などを公表。トランプ大統領は習氏について「もはや友人ではないかもしれない」などと発言し、ペンス副大統領も講演で網羅的な対中批判を展開。中国も逐一反論し、非難合戦の様相を呈しています。王氏はポンペオ氏との会談で、北朝鮮問題をめぐる米中の協力の条件として、「健全で安定的な両国関係が必要だ」と警告し、米政権の対中姿勢を「中米関係の前途に暗い影を落とし、両国民の利益と全く合致しない」と糾弾しました。米国務省によると、ポンペオ氏は会談で南シナ海問題や中国の人権状況も取り上げ、中国側と平行線を辿ったようです。

 こうした米中関係のにわかな緊張の背景には、トランプ大統領が「素朴なアメリカ人」の本音を代弁、体現しようとしているに他なりません。つまり、中国のアンフェアな貿易を正そうとし、膨張主義的な軍事圧力に対して強烈なけん制を浴びせているのは、こうした素朴なアメリカ人の本音なのです。これまでのアメリカ政権は膨張する中国に対して及び腰でした。中国はそれをいいことに、台湾や南シナ海、日本近海に軍を出没させています。これは一種の「瀬踏み」で相手の反応を見ながらやっていることに過ぎませんが、気がつけばかなり侵食していたということにもなりかねません。そうした中国の危険な行動を見かねた素朴なアメリカがようやく腰を上げたと見ていいでしょう。ただし、現実的に軍事衝突が起きるかどうかは、不透明です。局地的な衝突は可能性があるかもしれませんが、全面戦争には互いに抑止が働くでしょうから、可能性はかなり低いでしょう。しかし、突発的なことが起きれば全面戦争の可能性はゼロとは言い切れません。

 「素朴なアメリカ人」とは、カウボーイ、西部開拓に象徴される、正義を守ろうと考える人々です。自分たちに正義があって、それに抵抗もしくはそのルールを破る者は、悪と決め付けて叩き潰そうとします。ある意味単純で、善か悪かの二元論的な考えで、インディアン、先の大戦における日本を悪と決め付けたのは、良いか悪いかは別として、素朴なアメリカ人の思考です。

 それはさておき、そうしたアメリカの積極姿勢に対して日本は「これで安心だ」と胸をなで下ろしている場合ではありません。

 対中国戦略は、他人事ではありません。アメリカが動いたらならば日本も対応しなければなりません。日米同盟対中国という形になるべきです。その中で日本は何をやるべきかを考え、行動しなければなりません。もし、日本が他人事のように傍観していれば、アメリカは日本に対して不信感を募らせて、最悪の場合、アメリカが日本を含むアジアから撤退することもあり得ます。そうなったら、日本だけで中国の侵略から守れるか。残念ながら、それは現実的に不可能です。

 

「想定外」に備えるべき

 

 

 問題は日本の姿勢です。米中が全面戦争になることは可能性は極めて低いのですが、しかしゼロではありません。国防とはその少しでも可能性があるリスクに備えるべきなのですが、防衛省にはそういう意識がないようです。防衛省は、中国を仮想敵国とすら見做さず、その結果最悪のシナリオに対するシミュレーションがありません。最近、やっと尻を叩かれているから仕方なく腰を上げているのが現状です。米中全面戦争はありえないと高を括っている姿は、大地震や大水害が起きた時に「想定外だった」と申し開きをすることと同じです。想定外の事態に対応することこそが、非常時に備えるべきではありませんか。中国からの侵攻という想定外に備えることを怠ってはいけません。万一同盟国のアメリカが中国と全面戦争になった非常時に常に備えをばんぜんにしておくべきなのです。

 日本にとって、米中関係が悪化している今こそ、非常時を想定してシミュレートするいい機会なのです。メディアは内心、中国に対する警戒感を持っているはずです。しかし、なかなか報道しない。もっと、そうした問題を提起すべきです。「中国と対峙すると危ない」と思っているから、書かないのでしょう。思っていても中国批判を書くことをタブーにしていてはいけません。それが、国民を思考停止にミスリードするのですから。

 ただし、米中関係のこれまでの歴史をよく振り返る必要があります。大戦中、アメリカは日本と対立していた当時の中国国民党に対して支援していました。いわゆる援蒋ルートでアメリカは英露と協力して蒋介石率いる中華民国を援助した歴史があります。また、戦後、しばらく対立していた両国が電撃的な国交正常化は当時の大統領の名を使ってニクソン・ショックと言われ、日本の頭越しに進められました。日本にとっては梯子を外された恰好になったのです。こうした歴史を見れば、日本は主体性をもって臨まないと、アメリカと中国がいきなり手を結ぶこともあり得るでしょう。

 なぜ、アメリカは時として中国と友好的になるのか。このアメリカの中国に対する感情は少し複雑なところもあります。開拓時代後半に中国人の労働者がアメリカで低賃金で働いて鉄道などのインフラが整備されました。当時のアメリカ人には弱少国の中国に対する同情心もあったようです。それもあって、中国人の子供を里親として養子にした家庭も多く、中国に対する憐みに近い同情心が根底にあると思います。そうした素朴なアメリカ人の感情に中国が巧みに浸け込めば、アメリカの世論が一変する恐れもあります。実際、中国は国を挙げて盛んにアメリカでのロビー活動をやっていますから、油断はできません。大国意識という間違った認識の習体制のロビー活動の拙さが幸いして、今のところ米中関係が緊張していますが、ロビー活動を軌道修正すれば、素朴なアメリカ人の潜在意識をくすぐり、関係改善に向う可能性は残っています。日本は相変らずロビー活動には消極的です。アメリカでの従軍慰安婦像問題を見れば明らかです。日本も国家的なロビー活動を積極的にやるべきでしょう。

 アメリカが中国を抑えてくれるという日本人の当事者意識の欠如をまず正すべきではありませんか。今の米中関係は、そうした現実が日本に突き付けられているということを、いい加減に日本は覚醒すべきなのです。

書評 『海軍主計大尉 小泉信吉』

『海軍主計大尉 小泉信吉』(小泉信三著 文春文庫 1975年)未推敲

 

 

著者の小泉信吉氏(一八八八~一九六六)は、大正、昭和時代の経済学者,教育者。英、独、仏に留学,帰国して母校慶応義塾大の教授になり、昭和八年塾長。イギリス古典派経済学研究とマルクス主義批判で知られ,戦後は皇太子明仁今上天皇)の教育と皇室の近代化につくした。本書は著者の長男で海軍中尉(戦死した後大尉に進級)の信吉の艦上や基地からの書簡を中心に家族とのやり取り、父の息子を見つめる目を綴っている。

元々三百部限定の「私家版」として綴られた。愛惜の思いで著者が綴ったのは「彼れの生前、私はろくに親らしいことがしてやれなかった。この一篇の文が、彼れに対する私の小さな贈り物である」(259頁)。息子を持つ父である評者が、若し息子のことを書けと言われても書く自信はない。あまりにも辛い作業だと容易に想像出来るからだ。しかし、著者は息子を亡くしてすぐに筆を取っている。記憶が薄れないうちに書き留めておこうという切なる思いが伝わってくるようだ。

とは言え、内容は悲惨さを全く感じさせない。海軍好きで笑い上戸の息子を温かい眼差しで見守っている姿が微笑ましい。淡々とした筆致の中で、あるいは客観的な描写の中で、幼い頃から海軍好きで笑い上戸の息子の人物像を描きながら、哀悼、鎮魂を込めている。子を見ること親にしかず。息子の性格、能力を誰よりも知っている父ならではの、息子の人物像が生き生きと綴られている。それがかえって、読む者の静かな動と深い余韻が残る。海軍に配属された息子が家族宛てに書いた何通もの手紙。そこでは軍隊生活の辛さには一切触れず、毎日がいかに充実しているか、家族を安心させる内容が綴られている。妹たちをからかったり、戦友との交流のエピソードを交えた冗談を綴っていて、息子の人間性が窺い知れる。この後戦死する運命が待っているとは一切思わせないのが、かえって悲しみを深くするのだが…

初版は一九六六年。世に出て五十年以上経つが未だに売れていて百万部を超えるロングセラーになっている。著者が高名な学者ということもあるだろうが、今でも売れている最大の理由は、信三と信吉という父子の間に流れる深い情愛と、息子の父に対する孝行、父の息子対する慈愛「父子の親」が全編に迸っていて、それに感動を覚えるからではないだろうか。

 

その父子の関係を象徴する一文を最後に紹介する。

 

君の出征に臨んで言って置く。

吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。僕は若し生れ替って妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽したいと思っているかもしれないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は既に享けた。オヤに対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。今日特にこのことを君に言って置く。(67頁)

 

 

 

 

 

 

政談談論(消費税の本筋)太田誠一氏

消費税引き上げは、政治の覚悟が必要不可欠です

世論に阿り、友党に配慮する今の内閣にはそれがありません

 

 

 

 

軽減税率の愚

 

 

 来年十月一日からの消費税引き上げの施行に向けて着実な実行が閣議決定され、今国会で審議されています。安倍晋三首相は閣議で消費増税実施を発表し、「経済に影響を及ぼさないよう特別の措置を講じる」と指示しました。補助金の拡充やポイント還元制度の創設などの軽減税率が検討されています。その目玉に掲げたのが「ポイント還元」です。中小の小売店で商品を購入した客に、税金を原資に価格の2%分のポイントをつけるというもので、ためたポイントは商店やネット販売の代金支払いや値引きに使える。だが、対象になるのはクレジットカードや電子マネーで購入した場合だけ。現金払いだと“戻し税”の恩恵を受けられない。また、消費税引き上げ分を子育て支援など全世代型に転換する財源を確保に充てるとしています。

 軽減税率の導入などという中途半端で、国民に分かりにくく不公平で、企業にとっては煩雑な事務処理とコストの負担を課すやり方は、連立のパートナーである公明党の提案を自民党が呑んだ結果です。一律の税率でいいではありませんか。また、本来の引上げの目的は国家財政の健全化であるはずなのに、世論に阿るあまりに新しい財源に充てるというのは、財政の健全化という本来の目的に反する愚行です。

 消費税引き上げのデメリットに、消費者の購買欲が減る、中小企業の負担が大きくなる、景気が悪化する、駆け込み需要の反動が起るなどが挙げられています。確かに過去の引き上げでは、反動減がありましたし、景気が多少悪くなったのかもしれません。しかし、国家財政はそんなことを言っていられる状況ではすでにないのです。

 読者の中には目をむく向きもあるかもしれませんが、私の持論は「消費税二五%」です。以前もこの稿に書きましたので、今回は特別に紙幅を増やして引用します。

 

 

世界の非常識

 

 

 

今時、八%だ一〇%だと騒いでいること自体が世界の非常識だと思います。消費税率は二五、いや三〇%に速やかに引き上げるべきだというのが、私の以前からの持論で、この稿でも主張したことがあります。他国、特にヨーロッパ諸国は消費税を大幅に引き上げています。そのために経済的負担がかかりGDPは引き上げ分だけ落ち込みました。これは至極当然のことで、日本が消費税を8%に引き上げればGDPはその分下がり、景気が悪くなるのは当たり前です。それを私はもっと上げて25%にすべきだというわけですから、読者皆様の中には反感を感じる方もおられるでしょう。

 私が消費税をいち早く大幅に上げるべきだと主張する第一の理由は、取りも直さずわが国の財政問題です。今や一千四〇〇兆円にも膨らんだ国の借金をこれ以上増やしてはなりません。今の国の財政状態は、個人に例えれば借金した(国債発行)お金を生活費(社会福祉費)にしている、サラ金の借り手の中でも最悪の部類と同じです。借金を重ねているばかりで返す気がない。すでに破綻しているけれど外からは見えない。日本という国はまさにそのようになっているのです。これは政府だけの問題ではなく、国民も含めた国全体の問題です。とにかくこの莫大な借金をいち早く返済する方向に舵を切るしかありません。そのためには消費税を引き上げて、一方では歳出の六割を占める社会福祉費を削減するしかありません。「入るを量りて出ずるを制す」を徹底するしかありません。

 これまで消費税を「福祉目的税」と称し国民を説得していましたが、これははっきり言ってまやかしです。なぜならば福祉目的税どころか、すでにこれまで、消費税収入をはるかに上回る福祉予算を使っているではありませんか。つまり、増税分を福祉に回すどころか、将来の増税分を先喰いして福祉を賄っているのです。

未だに景気が悪い時には消費税を上げるべきではないという声が多いのですが、消費税を二五%にしたところで誰も餓死するようなことはありません。日本はかなり恵まれているのです。確かに増税をきっかけに景気が下降することはあります。しかし、その目的はあくまでも財政再建ですから当然、歳出削減も同時にやるべきです。これまでわが国は借金でその財政を賄ってきた、つまり国民は身の丈に合わない生活をやってきたのです。それを身の丈に合わせるだけなのです。景気が悪くなった、景気が悪いから引き上げないという次元の話ではありません。引き上げれば景気が悪くなるでしょうが、それは致し方ないことです。それが身の丈なのですから。消費税二五%の時代に歯を食いしばって適応する以外にありません。

ヨーロッパの例では、最も賢明な方策は財政健全化規模を十とすれば、その内六が歳出削減、四が増税ということらしいのです。財政を再建するには増税分を上回る規模で歳出を削減しなければなりません。増税社会福祉の削減を同時にやればかなりの苦しみを国民に強いることになります。パニックになるかもしれません。しかし、こうした苦しみやパニックを経験しなければ健康体になりません。こうした苦しみを西欧諸国は歯を食いしばって乗り越えてきているのに日本だけが依然として借金を重ねているのは恥ずかしいことではないでしょうか。日本全体が五年くらいは苦しい思いをして、その先に財政健全化の展望が見えてくるはずです。それを一度もやらないままズルズルと借金を重ねている、この流れを思い切って断つべき時です。

 

 

「景気判断」というまやかし

 

 

消費税引き上げを先送りするため「景気判断」という逃げ道を辿ってきました。「景気が良くなったら消費税を上げる」というステートメントは、「(財政再建を)やらない」ということと同義語になっていました。十数年間5%のまま据え置かれてきた間、ずっと「景気が良くなれば上げる」と先送りしてきました。安倍政権でようやく三ポイント上げた理由も「景気判断」でした。それがここに来て景気を理由に躊躇しています。先述したように仮に消費税を据え置いたままでも実態の景気が良くなるはずがないわけです。それを「景気」を目安に判断すると公言するから、国民は勘違いして「今は景気が悪いのに」と反発するわけです。何のために消費税を引き上げるのかを正直に国民に説明してこなかった政治の怠慢のつけが回ってきています。民主党の野田政権時代に「税と社会保障の一体改革」を打ち上げました。この時、政府は消費税引き上げの理由に社会保障の現状維持を挙げましたが、それこそ誤った「目的税」論です。増税の本来の目的から逸れてしまいました。しかし、それは消費税引き上げの方便として仕方がなかった面もあります。安倍政権は衆議院解散の前提として当時の野田首相に消費税引き上げを約束させられて3%引き上げを実行しました。ところが、アベノミクスをぶち上げて景気浮揚を国民に期待させてしまいました。その結果、アベノミクスが失速しかけて景気が腰折れしたように思い込んだ安倍首相が増税に躊躇しているというのは、実に情けないことです。振り返れば、消費税を引き上げるチャンスは小泉政権の時でした。人気があった小泉首相も引き上げに躊躇したわけです。それは「消費税を上げると政権がもたない」という打算、自己保身ではありませんか。

これまでのように小出しで引き上げていては、いつまで経っても身の丈の生活がどんなものか実感できないし、また生活防衛の手段も分かりません。納税者である国民が非常事態であることをしっかり自覚するしかないのです。今までのように政治家の腰が引けているようでは、国民もどうでもいい問題だと錯覚したままです。いち早く本当の意味での「財政再建のための増税」の重要性を国民に訴え、実行に移すことです。

さて、国全体で身の丈の生活に戻すということは、人間の体で言えばダイエットと同様かなりの努力、我慢が要求されます。それも増税社会保障削減のダブルパンチに見舞われるのですから国民にすればかなりの痛みを伴います。悲観的に受け止められるかもしれませんが、前号で述べたように日本の人件費はまだ高過ぎます。不当な円高を是正して円安に誘導し、賃金の内外格差が縮小されれば国の雇用が増大します。賃金はドル表示で下がり、円安で輸入価格が高騰し一時的に国民生活に重大な影響を与えるかもしれません。そうなると、食糧など国内で生産するしかない、農業が復活し自給自足体制を再構築するしか道はなくなります。

そもそも我々日本人は平和で治安がよく、餓死することもないことにまず感謝すべきではないでしょうか。国民全体がそれ以上の贅沢を求めた結果が国の財政が破綻しそうになるまで悪化させた要因であることを身を以って知るべきです。衣料品はタンスの中に一杯で、住宅はバブルでどんどん建って空き室が増えている、グルメ番組の影響なのかレストランで高級料理を楽しむ人々…日本人の衣食住はすでに飽和状態なのです。一言で言えば、今の日本人は贅沢過ぎるのです。昭和三十年代の日本では、知恵と工夫を凝らし汗水流して働いて、国内でカネとモノが循環した社会で人々は貧しくとも幸福感があったに違いありません。足るを知る「知足」の精神を国民が大いに発露すれば、困難を乗り越えることはきっとできるはず、と信じています。(二〇一四年十一月号)

 

 

政治の勇気

 

 

日本人には元々「倹約精神」がありました。しかし、高度成長時代、バブル経済でその倹約能力、エネルギーが消耗した感もあります。国も個人もまだまだ無駄を削る余地はあるはずです。例えばドイツはしっかり倹約を実行してきました。当時のメルケル首相に対しドイツ国民は、財政危機に陥ったギリシャEUに救済を求めた時に、「私たちは“アリとキリギリス”のアリ。どうしてキリギリスのギリシャを救う義理があるのか」と批判しました。サミットで安倍首相がメルケル首相に「世界経済が落ち込んでいる中、日本も投資を積極的に増やすので、ドイツも一緒に世界経済の牽引車になろう」という呼びかけに対してメルケル首相は「日本はいずれギリシャのようになりますよ、そんな愚かな提案には乗れない」と一笑に付したそうです。

ドイツなど財政再建に成功した国は、国民に対して正面から消費税引き上げを呼びかけました。増税はどの国の国民もできれば避けたいから反対の声があがり、内閣がいくつも倒れました。それでも政治は引き上げを諦めず、ついに増税にこぎ着けました。これは、政治の勇気以外何物でもありません。政治が勇気を持って、国民に向き合うことが必要なのです。