「天皇陛下のメッセージ」

そこが聞きたい!インタビュー 

 

「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、

安定的に続いていくことをひとえに念じ」という天皇陛下

お言葉を矮小化させてはいけません

 

評論家 江崎道朗(えざきみちお)氏

 

 

8月8日に陛下自らが発された「お言葉」。我々国民は、陛下が何を国民に語られたのかをしっかりと受け止めるべきだ。しかし、その受け止め方こそに我々国民の側の問題が潜んでいる、と江崎氏は鋭く指摘する。(取材日平成28年8月29日)

 

 

 

 

皇室存続への強い危機感

 

 

 

―8月8日の「天皇陛下のお言葉」をどう受け止めていますか。

江崎 「生前退位」というテレビや新聞の印象操作の影響でしょうが、陛下のお言葉をきちんと読んでいる人があまりにも少ないと思いました。戦後、天皇皇后両陛下がご苦労をされて国家の安泰と国民の幸福を祈念される「皇室の伝統」を守ってこられたわけですが、そのようなご苦労に対する敬意を払うこともなく、自分の翩々(へんぺん)たる知識と翩々たる理解だけで陛下のお言葉を論評するという傲慢さには、驚き憤りさえ感じます。これでは両陛下はお辛いだろうなと忖度してしまいます。

―お言葉の中でもどこに注目すべきでしょうか。

江崎 我々は、お言葉の一言一句を理解しようと努めるべきなのは言うまでもありません。例えば、「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、天皇が国民に、天皇と云う象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」という箇所には、陛下が「国民に、天皇と云う象徴の立場への理解を求める」ために全国をご巡幸なさるなど、超人的な努力をされてこられたことを我々は深く受け止めるべきなのです。

こうしたご努力をされてきた陛下のお言葉の中に非常に深刻な一節があります。それが最後の「このたび我が国の長い天皇の歴史をあらためて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しました。国民の理解を得られることを、切に願っています」のところです。

 陛下ご自分が象徴天皇を含めた天皇のあり方を国民に理解してもらうために全国を懸命に回られ、そうしたご努力の上に戦後、皇室と国民の関係が成り立ってきたという側面があるわけです。逆に言えば、陛下がここまでやらないと、安定的に続いていかないと、陛下は深刻な危機感を抱いておられるということだと思います。

―陛下ご自身の体力に不安を感じられてのお言葉とも受け取る向きがありますが…

江崎 「国民に、天皇と云う象徴の立場への理解を求める」ために陛下は超人的な努力をされてこられたおかげで、皇室と国民との関係が維持されてきた。ところが、高齢のため、そうした超人的な努力をできなくなるかもしれない中で、今後果たして「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくこと」のかということを危惧されているのではないかと思うのです。単にご自身の体力に不安を覚えたという話ではないと思います。

宮中祭祀をはじめとした国事行為を続けることがご自身の高齢化で危惧されている、と受け止めたのですが…

江崎 本来でしたら、政府が「国民に、天皇と云う象徴の立場への理解を求める」ために学校教育なり、さまざまな行事を開催するべきなのですが、そうしたことをほとんどしてこなかった。そこで陛下は、全国を御巡幸なさるなど、自ら全国に出向いて、国民に皇室に対する理解を求めようとされてこられたわけです。そうした努力が、ご自身の高齢化でできなくなっていったとき、「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いて」いかなくなるかも知れないという危機感がおありだということだと思うのです。

今上天皇陛下は幼少の頃から深い覚悟を持ってらっしゃったようですね。

江崎 終戦の日の日誌に十一歳だった陛下は、「敵がどんなことを言ってくるか分からないが、明治天皇のように皆から仰がれるようになって、日本を導いていく」覚悟をされました。二十歳の時の立太子礼の際には「与えられた運命を逃避することなく、これからの困難な道を進みたい」と決意を述べられました。そうした悲壮な覚悟をされた背景には、皇室を支える仕組みがほとんど無くなってしまったことでした。まず、天皇を輔弼する人物が周囲に乏しかった。それでも高松宮殿下のように昭和の時代にはその任に堪えうる方がいらっしゃいました。

一番の問題は、やはり現行憲法です。憲法の制約に基づいて戦後、どんどん皇室の伝統が削がれていきました。皇室を支えてきた歴史と文化、伝統が消えていったのです。昭和50年頃には内閣法制局が現行憲法下では大嘗祭違憲だという馬鹿げた見解を示しました。そうした動きに対して、一部の民間が懸命に対応しようとしただけで、今でもそうですが、政府・自民党は何もしてこなかった。そうした何のサポートも無い中で、皇室としての立ち位置を現行憲法の中で確保しなければならない、そのご苦労のほどがいかばかりかについて思いをいたす国民がほとんどいないのが現状です。戦後、現行憲法と皇室、皇室の伝統についての理解が少ないのに、軽々に法整備を論じる姿は本当に見苦しいものです。

女系天皇論議も盛んになっていました。

江崎 男系天皇は皇室の大事な伝統であり、それを軽んじることは慎むべきです。ただ、その前提として国民・国家の安寧・幸せを祈る中で皇室がどうやって日本を支えてこられたかということを我々国民の側がしっかりと知っておく必要があると思います。陛下の超人的な努力によって支えられてきた象徴天皇の務めが、陛下の高齢化の中で「途切れることなく、安定的に続いていく」ことが困難になるかも知れないという事態に対して、そもそも陛下が超人的な努力をしなければならないほど、皇室をお支えする仕組み、皇室に対する国民の理解を深める仕組みが欠落している現状をどう立て直すのかが、政府に問われていることだと私は思うのです。

宮内庁は外務省と厚労省の役人達の出向で占められ、輔弼する役所にはなっていない。そもそも、天皇の務めに対する国民の理解を深める学校教育をやってこなかったことが大きいと思います。それどころか、学習指導要領から天皇に対する理解と敬愛の念を削ってしまいました。

皇室に対する国民の理解を深める仕組みが無いから、陛下自ら全国を回られて国民の声を聞かざる得ない状況になってしまっていることに対する痛苦な反省の念を、政府はまず持つべきです。政府も国民もなにもしなくても、皇室は続いていくという幻想にひたってしまって、皇室をお支えするという意味を理解できる人がほとんどいなくなってしまったことが最大の危機だと思います。

 

 

国民の側が深く忖度すべきこと

 

 

 

―そのためには大人が皇室の存在を再認識する必要がありますし、将来世代の子どもたちの教育も重要になりますね。どこから始めればいいでしょう?

江崎 そのためには、歴代天皇と国民の関係性についての歴史を学ぶべきです。伝統の継承者である天皇の、その皇室の伝統をしっかりとイメージできる今の日本に日本人がどれだけいるでしょうか。

陛下の「伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深い思いを致し」というお言葉について、深く思いを致している国民が果たしてどれだけいるでしょうか。我々は、「皇室の伝統について何も知らない」という痛苦な反省に基づいて謙虚に学ぶところから始めるべきだと思います。政府も、皇室制度についての審議会などを開く前に、皇室の伝統と、戦後の皇室に対する憲法解釈の間違いについて正確に理解する必要があります。左翼メディアは、現行憲法の枠組みの中に天皇を押し込めようとしていますし、内閣法制局も昭和50年代以降、宮沢憲法学といって、天皇はロボットに過ぎないという極めて偏った天皇観に立脚している。

こうした傾向に対して陛下は憲法だけではなく皇室の長い歴史と伝統も踏まえてらっしゃいます。政府は、憲法に規定されている天皇の条文だけで天皇を理解しようとしている傲慢さも改めるべきなのです。そもそも現行憲法の英文の原本では「エンペラー」になっていたのを、和訳する時に「国王」ではなく「天皇」としました。天皇という長い歴史と伝統をGHQも、現行憲法もそれを認めていることになります。それが正しい現行憲法の解釈だと思います。

その歴史と伝統は、歴代天皇の御製、詔勅などに現れていいます。歴代天皇が「国と国民の安寧」のために身を削る努力をされてこられたことを理解すべきです。さらに、戦後の現行憲法体制の中で象徴として国民を統合するために今上天皇陛下は様々な努力をされてこられました。そうしなければ国民がバラバラになるという危機感をお持ちだったのでしょう。そのご努力を我々国民が思いを致す必要があります。

―現行憲法にはGHQの「いずれ天皇制を廃止へ」という意図が盛り込まれているとされていますが。

江崎 確かに、皇室を解体しようという当時のGHQ、特にニューディーラー達の思惑がありました。

―その中で陛下は「開かれた皇室」を目指すと一部伝わっていますね。

江崎 それは朝日新聞が歪曲して使った言葉です。陛下は、あくまでも「国民と共にある皇室」と仰いました。そのお言葉を歪曲して、あたかも陛下が皇室の伝統を軽視しているようなイメージを振りまいたのです。朝日新聞らの印象操作に残念ながら、保守派と言われる人たちもそれに引っ掛かってしまっています。「開かれた皇室」とは一言も仰っていません。

―そもそも戦前と戦後で皇室は変質したのでしょうか?

江崎 戦前も一部の左翼・右翼勢力が天皇陛下のお言葉を勝手に自分の都合の言いように解釈して利用していました。統帥権干犯はその典型的な例です。戦前、学校教育で、教育勅語の意味やその背景を正確に理解し、それをどう実践していくのかこそが重要であったはずなのに、教育勅語を暗記することが皇室に対する忠義だといった形式主義に陥ったことも含め、皇室の大御心を仰ぐということが疎かにされてきました。

支那事変勃発後、昭和天皇が「早期解決を」と仰ったにもかかわらず、政府も軍部もそれを無視した。つまり、戦前も戦後も、天皇陛下の仰っていることを軽んじて、自分勝手な解釈をしている点は変わりが無いと思います。

―先のお言葉もしっかりと理解する必要がありますね。

江崎 何度も言いますが、皇室と国民が支え合おうとするところに日本の国柄があるわけで、その国柄のあり様を戦前も一部の為政者たちは見失っていたし、戦後はますますそれが分からなくなってしまいました。今回のお言葉だけが大きく扱われていますが、陛下は毎年年末と年始、そして歌会始に思いを込められた御製を発表されています。お誕生日の会見でも陛下は、多くのお言葉を示されています。普段から陛下のお気持ちに思いを致す機会はあるのに、今回のお言葉だけをクローズアップするのは、いかに日頃から両陛下がどういうことを思っていらっしゃるかに思いを致してきていないかの証左ではないでしょうか。

 

 

 

「典憲体制」復活こそ

 

 

 

―そういう危機感を我々国民が共有した後は、皇室の安定的な存続のためにどうあるべきかを考える必要がありますね。

江崎 旧皇室典範がきちんと整備されたのは、戦前の大日本帝国憲法が制定された18年後なのです。それくらい時間がかかったということは、皇室の歴史と伝統がそれほど重厚なものであり、明治の時代でさえ、皇室の制度を整えるのにそれぐらいの時間をかけたということです。まして皇室の伝統について理解する人もほとんどしない現代においては、まずは政府の中にしかるべき機関を設置して、皇室について徹底的な調査・研究を進めるべきです。

―どうも現状は皇室典範を一般の法律と同列に考えていますね。

江崎 その通りで、皇室典範が現行憲法の下の「法律」となっていること自体が実は問題なのです。

皇室のあり方は(政府要路が懸命にお支えすることを前提に最終的には)皇室にお決めいただくべきであり、政府は干渉すべきではない、これを法制度として考えた場合、皇室典範大日本帝国憲法という両立体制という意味で「典憲体制」と言いますが、こうした趣旨から皇室典範憲法は互いに独立して両立していました。こうすることで、皇室制度に対する政治の影響を抑えるようにし、皇室も政治にできるだけ関与しない体制が確立されました。皇室は政治の権力闘争から一線を画し、国家の安泰と国民の幸福を祈念するという仕組みが明治時代に出来上がったのです。

この先人の知恵を今に生かして、本来でしたら、皇室典範を現行憲法から切り離すべきなのです。終戦後、憲法を押し付けらた時に日本側は、この典憲体制を必死に守ろうとしました。それにもかかわらず、GHQのニューディーラーたちに押し切られてしまいました。この中心人物であるT・A・ビッソンは後に、ソ連のスパイだったことが判明します。皇室典範憲法のもとにおいて、政治家が皇室制度に関与できるようにしておくことで、将来、サヨク政権ができたとき、一気に皇室を廃止しようと考えていたわけです。

戦後、GHQ内部に入り込んだソ連のスパイたちによって「典憲体制」から「憲法の下の皇室典範」に改悪されて、現在に至っているわけです。

―この改悪によって、皇室制度が大きく歪められていきますね。

江崎 GHQの占領政策と現行憲法の解釈によってまず、国政についての陛下の発言権が奪われてしまいました。この典型的な例が、ご自身のことである皇室典範改訂議論が起きた平成18年には、陛下は一切発言されなかったことに現れています。

また、皇室を支えていた枢密院、相談相手であった華族制度が廃止されました。宮内府は宮内庁に格下げされました。皇室経費がすべて国会のコントロール下に置かれたことも問題です。GHQによって経済的特権を剥奪されたこともあって11宮家が臣籍降下をせざるを得なかったことが、現在の男系男子の皇位継承資格者の激減につながっています。

皇室典範等関係法令の大半が廃止されたために、皇族の葬儀や元号即位式に関する法的根拠がなくなってしまったことで、内閣法制局が皇室の儀式などにあれこれと容喙するようになったことも大きな問題です。さらに深刻だったのが、学校で「皇室排除」教育が横行したことです。その上、刑法の不敬罪が廃止されたので、皇室の誹謗記事が氾濫するようになりました。

にもかかわらず、現行憲法では「国民統合の象徴」と規定されて、ばらばらになっていく国民を統合、つまり、国民をまとめていく役割を陛下に担っていただいているわけです。国民をまとめていくということは極めて大変なことです。そして、シリアやウクライナ、ユーゴ、ボスニアなど国家が分裂して内戦になった国を見れば、国民統合がいかに重要なことなのか、よく分かると思います。

このように、極めて重要な国民を統合するという役割を、皇室に担っていただいているのに、その皇室を支える仕組みがGHQと現行憲法によって弱体化されてしまっている。その実情を放置したままでいいのか、ということです。

 なお、具体的な課題である今回の「生前退位」、正確に申し上げれば「譲位」については、陛下が「譲位」なされるとなると、陛下ご自身は「上皇」という御立場になるのではないかと思います。

問題は、その「上皇」になっていただくのを誰が決めるのか、ということです。「典憲体制」という伝統を踏まえれば、現行憲法体制下で可能なのは、皇族もメンバーとなっている皇室会議において、天皇陛下に「上皇」になっていただくことを決定するわけですが、重要なことは、そのことを事前に新帝陛下にご奉告申し上げ、「御勅許」を賜るという形で、あくまで皇室のことは、新帝陛下にお決めいただくということです。そこに政府が介入しないよう慎むべきだと思います。

 

ボールは国民の側に

 

 

 

―皇室は、わが国の国の形の中枢ですから、もっと深く理解すべきですね。皇室の「君臨すれども統治せず」という体制があればこそだと思います。

江崎 正確に言えば、「君臨すれども支配せず」ですね。その支配という意味には、「専制政治を敷かない」という意味が込められています。日本のアカデミズム、特に憲法学の世界は、ヨーロッパの君主制度と日本の皇室とを混同していますが、本来であるならば、ヨーロッパ的な君主制度の概念を日本に適用させていること自体が、おかしいと思います。

 イギリスの憲法の一部「マグナ・カルタ」は国王の専横をどう抑制するかという目的で制定されました。これが「立憲君主制」の始まりです。

他にも、国王の悪政を打倒してできたフランスの「共和制」や、行政、立法、司法がそれぞれ互いに悪さをしないように監視するアメリカの「大統領制プラス三権分立」や、中国にように歴代の王朝が暴政を敷く度に新しい王朝が勃興して現王朝を打倒し新しい王朝を創設することを繰り返す「易姓革命」など、権力者は必ず悪さをするという前提で政治の仕組みを作っています。

ところが、日本の十七条憲法大日本帝国憲法もその逆で、皇室の「大御心(おおみごころ)」というものを国民や政府要人がきちんと受け止めていく事が日本の政治を良くすることだという立法趣旨で作られています。つまり、「国王の意思に制限をかけることが国民の幸せになる」と考えるイギリスと、「天皇の意思を政治に反映させることが国民の幸せになる」と考える日本とは、法の定め方が全く逆なんですね。

―個人的な認識ですが、父とほぼ同世代だからなのかもしれませんが、今上天皇に父性を感じて仕方がありません。昭和天皇は祖父と同世代だったので、「おじいちゃん」という感覚を持ってしまいます。そう考えると、天皇は我々国民の父的な存在ではないかと思います。懐深く黙ってその後姿で国民を善導される無二の存在ではないかとつくづく思います。

江崎 そうした感覚は多くの国民が持っているはずです。問題は、天皇陛下の大御心を拝するのではなく、現行憲法やヨーロッパ流の国王制度を持ち出して、皇室をあれこれと縛ることが正しいと思っているメディアや政治家たちが多いということです。

―メディアや有識者は、むしろ、事の本質、つまり皇室が継承してきた歴史と文化、本来あるべき皇室と国民の関係などを共に考える運動を起こすべきですね。

江崎 陛下の懸命なご努力にお応えし、国民の側がお支えしようとしなければ皇室を戴く日本は成り立たないということを再認識すべきです。ボールは我々国民の側にあります。そのためにも、学校教育が重要になってきます。

―そのためには政府がしっかりしないといけません。

江崎 天皇は国民統合の象徴ですから、党派を超えて皇室を支えるためにどうすればいいかということを政府は知恵を絞るべきです。そのためにも、例えば、陛下が年末、年始に発表される御製について、総理大臣も見解を述べるなど政府の要人たちは両陛下が国・国民の安寧と幸福のために祈念されていることを常に意識し、その重要性を国民に伝えるよう努力すべきです。かつて、文芸評論家の江藤淳先生は「戦後も、大臣はすべからく天皇の大臣である」と述べました。それは、決して封建的な意味ではなく、国民統合の象徴である天皇の意を受けて、政治家は国民のためになる政治をやるべきだという意味なのです。繰り返しますが、そもそも今上陛下がなぜこれほどまでに超人的なご努力をされてこられたのか、それは、陛下に「国民統合」をお願いしながら、現行憲法体制の不備を放置するなど、政府、国民の側の努力が不足しているからです。今回の「お言葉」を契機に、皇室を支えるために政府、国民の側が、現行憲法体制の不備を改め、「国民統合」の役割を果されるに相応しい仕組みを整えるといった具体的な努力をすべきなのです。

 

 

 

 

「南京事件の虚構と真実」(下)

 

 

旧植民地帝国主義諸国の如何なる国も「南京大虐殺」などは問題としない (下)

「醒眼正論」(高橋雅雄 平成29年6月号)

 

 

 「首脳会談で習氏は<南京大虐殺>を持ち出し、日本を批判した。だが、トランプ氏は知識がないため話が噛み合わず、習氏は苛立った」(毎日新聞2017年4月27日付)と同6日に行われた米中首脳会談で、米国の北朝鮮への対応策に手詰まり感を感じた習氏は、対米協調を演じようとした中で述べたとある外交筋が明かした。

トランプ氏の外交知識は不十分だが、それだけに常識外れの行動に踏み切る可能性があり、北朝鮮を歴史的地政学的に「庇護」する戦略的立場の習氏も危機感を抱いていたからです。いずれにしても、不確かな「南京大虐殺」を事あるごとに相手構わず対日批判のカードとして切り捲る中国の外交マナー欠如には呆れるしかない。やはり、「嘘から出たまこと」「嘘も百回囁けば本当になる」ことを踏襲している中国ならではの執念からです。

習氏は、2014年3月のベルリン訪問でも講演中に突然、「南京大虐殺」に触れて、「日本軍国主義」の侵略戦争を糾弾し、南京で日本軍が30万人以上を虐殺したと執拗に批判した。

当時、ナチ党員で、シーメンス社(兵器メーカー)の中国駐在30年の武器商人ジョン・ラーベナチス南京支部幹部でもあったが、南京陥落後に日独伊三国同盟に反対していたとして、日本軍からドイツへ追放され、失意の中で書いたのが『ラーベの日記』です。日本軍による「30万人虐殺」を日記に書いたと習氏が明かした。しかし、ラーベ本人が直接見聞したのではなく、伝聞に基づいた記録でした。不確かな「オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)」を執拗に一国の首脳が引用して他国を誹謗するのは中国得意の情報戦の「常套手段」です。だから、蒋介石共産党軍との内戦に敗れるまでラーベの恩に報いるため少額年金を送り続けたという。ラーベが公平な歴史の観察者でないのは明らかです。

トランプ氏の米国はもとより、欧州の大国は旧植民地帝国主義国ばかりでしたから、習氏の日本批判はスルーされるだけです。まして、米国も原爆投下はもとより、1945年3月10日一夜の東京大空襲焼夷弾の絨毯爆撃によって市民10万人以上を殺戮したが、これも戦時国際法違反の戦争犯罪です。日本は敗戦国の故か対米抗議をしないし、米国も謝罪しない。仮に、「南京大虐殺」が真実だったとしても、かつての植民地帝国主義国はどの国も対日批判はしないだろう。「虐殺」自体、身に覚えがない国など歴史的に存在しないのです。そもそも「大虐殺」と「虐殺」を犠牲者数で比較するのはナンセンスです。

問題は、ナチスドイツの「ホロコ―スト」はなかったという「説」も「南京大虐殺」は「幻だ」という「説」と同じく無意味です。「ユダヤ人抹殺」と「南京虐殺」自体は否定できない史実だろうが、比較できない。真の「加害者と犠牲者」の検証・特定も難しい以上、数の問題ではないのです。大虐殺の根拠が曖昧のままでは、建設的議論などできない。

日本が、国際情報戦を戦えるだけの体制を持たない中で、ホテルチェーン「アパホテル」を率いる元谷外志雄代表が「南京大虐殺」を否定した自著を世界中のアパホテルの客室に置いていることから中韓が大騒ぎした「事件」があった。しかし、雑誌『新潮45』(2017年5月号)に元谷氏の「中国のアパホテル攻撃に私はいかに対処したか」と題した論文によると、この騒動で逆に客室稼働率が大幅に伸び、ある試算によれば一連の騒動で約1,000億円相当の宣伝効果をもたらしたというから、“災い転じて福となす”の典型です。元谷氏は「歴史というのは、真実の断片を集めて整合性が取れ、あり得る話かあり得ない話か、という観点から理詰めで検証していくべきだ」と毅然と対処したからです。元谷氏は、日本も3,000億円予算、3,000人規模の「情報省」を作るべきだと主張する。

因みに、『新潮45』の論文執筆中、見知らぬ医師から「南京大虐殺」がなかったことを証明する記録映画の存在を知らされた。東宝の戦線後方記録映画『南京』(1938年公開)で、「上海」「南京」「北京」3編の1本だった。「上海」戦後、南京に撮影機材を移動させ、南京陥落翌日に到着して4日間撮影した。このフィルムは全8巻あった。1945年3月の東京大空襲で焼失したが、1995年に北京で8巻中7巻が保管されていたのを中国軍関係者から仲介者を通じて買い取ったものです。解説文によれば、陥落前の南京では、蒋介石による“漢奸狩り”(親日派市民の虐殺)が大規模に行われていた。民間人の大量虐殺を隠蔽するために日本軍の仕業としたのです。映画には、陥落後の南京街は「平和」を維持し路上で爆竹を鳴らして遊ぶ子供たちや市民と日本軍兵士との友好的な交歓風景も撮られている。

 

「南京事件の虚構と真実」(中)

高橋雅雄の「醒眼正論」(平成29年5月号)

 

南京大虐殺」の裏付け取材なしの誤報の影響と「事件の実相」(中)

 

「なんということをお前たちはしてくれたのか!一部の兵の暴行によって皇軍の名を汚してしまった。今日からは、軍紀を厳正にして、絶対に無辜の民を虐げてはならない!」と隷下の全師団長や梨本宮(陸軍中将)たちを立たせたまま、松井石根上海派軍司令官(陸軍大将)は厳しく訓戒した。南京陥落5日後の1937年12月18日に南京入りした同盟通信上海支局長の松本重治が同日南京城内の故宮飛行場で行われた陸海軍合同慰霊祭を取材した時です。松本は、日本軍の略奪・暴行・残虐性が世界中に「過大」に伝えられているので、日本軍の名誉回復の一助にと、松井司令官の厳しい訓戒を世界中に打電した。松井は敗戦後、思いもよらぬ「南京虐殺」の責任を執らされてA級戦犯として処刑されたが、松井自身は軍紀に厳正で清廉潔白の立派な軍人でした。現役引退、予備役に編入されていたが、孫文蒋介石と懇意だったことから上海派遣軍司令官に抜擢された。しかし、隷下の師団・軍団の幹部たちは、松井司令官の訓戒に反感を抱いた者も多かったという。中でも第16師団長・中島今朝吾(陸軍中将)などは、日記に「捕虜は作らぬ方針」だと書き、軍中央から派遣された現地視察団の非難に対して「捕虜を殺してなぜ悪い!」「略奪、強姦は軍の常だ!」などと開き直り、松井の訓戒など無視されていたのも事実でした。

 問題は、日本軍の進撃が余りに速すぎたというより、国民政府軍が早々と雪崩を打ったように敗走するか捕虜になる兵士が続出したし、「虐殺」と言っても中国軍の督戦隊が逃げる自軍兵士に機関銃を浴びせて戦線離脱を阻止しょうとしたことも、中国兵の死者を増やしたのです。加えて、日本軍も進撃の速さに兵站線が追い付かず、先々の占領地での略奪行為を防げなかった憾みもあった。略奪が行われれば強姦、虐殺は避けられない。

 何しろ、第16師団の佐々木到一旅団長(陸軍少将)などは、1,000人規模の部隊にも拘らず、6.000人もの捕虜を抱えて持て余したという。中島師団長の「捕虜を作らない方針」に従って、捕虜としての取り扱いも食糧なども賄えない以上は、武装解除して解き放つか殺害するしかなかった。彼らが、軍服を脱いで市民服に着替えて、便衣兵というゲリラに変装した例も多かった。当然、正規兵ではないので非正規との区別ができず、スパイやゲリラと見做されて、多くが殺害されたという。

 また、南京陥落後の1938年6月の黄河決壊事件では、日本軍の進撃を止めるために黄河の幅30㍍の巨大堤防を決壊させて、11都市と4,000村を水没させ自国民100万人を水死させ、600万人が被害を受けた“焦土作戦”を日本軍の仕業だと世界に「喧伝」したというから中国も強かなものです。肝心の日本軍の被害は殆どなかったという。蒋介石は戦略家として極めて有能であったのは確かです。日本軍及び日本政府は、国民政府の首都である南京さえ落とせば蒋介石も降参すると思い込み、南京攻略に全力を挙げたが、中国人は日本及び世界の「常識」とは違っていた。蒋介石は、南京が落ちれば重慶があると、多くの兵士や市民を置き去りにして早々に脱出した。上海戦では徹底抗戦を続けたのに、南京戦ではあっさりと首都放棄して重慶に逃れたのは謎だった。基本的には、米英独ソの「援蒋工作」によって日本軍を広い国土で長期戦に引き摺り込むのが狙いだったという。中国には古来“夷を以て夷を制す”という戦略観がある。因みに、『蒋介石日記』は米スタンフォード大学フーバー研究所の秘蔵品ですが、06年から順次公開されている。これを精査したら1937年12月13日の「南京大虐殺」に関する記述は全くなかったという。

中国の歴史上、「真の南京大虐殺」は1864年7月の太平天国の乱で、清国の曽国藩が太平天国の首都・南京(天京と称していた)を攻略して10万人もの太平天国軍兵士を虐殺したという報告書を清国皇帝に提出している。そもそも、南京城に立て籠り、徹底抗戦を唱えて唐生智南京防衛司令官に命じていたのに、蒋介石は突然、南京を放棄して重慶へ政府移転を決め、直前までの徹底抗戦策を翻して重慶に脱出したが、指揮系統も乱れ脱出命令は行き届かず、南京城内は大混乱に陥ったことも「南京虐殺」に繋がったのだろう。

蒋介石日記』によれば、スペイン内戦を充分に研究した蒋はもし南京で徹底抗戦を行えば、都市を舞台にした長期市街戦となり、共産軍勢力を利する結果を招くと判断し、「南京が日本軍の手に落ちても、共産軍の手に落ちるよりも取り戻し易い」という認識に至ったというから、蓋し蒋介石は優れた危機下の酷薄な指導者としては傑物だったと言える。

 

「醒眼正論」「南京事件」の虚構と真実 (上)

「醒眼正論」平成29年4月号

裏付け取材なしの「誤報」がもたらした「南京事件」の虚構と真実 (上)

 「(報道に接した者が)最初に抱いた印象を基準にして判断し、逆に公判廷で明らかにされた方が間違っているとの不信感を持つ者がいないとは限らない」とロス疑惑事件の三浦和義被告に無罪判決を言い渡したのは、1998年7月の東京地裁・秋山規雄裁判長でした。マスコミ報道先行型の特殊事件として犯罪報道の問題点を厳しく指摘したのです。

 要するに、裏付け取材を無視した間違った報道が与える報道被害については、後日、撤回されても原状回復は極めて難しい。一度、誤った報道で拡散、定着した報道被害は計り知れない。勿論、「裏付け取材なき誤報」と「意図的誤報」は結果として同じ結果を招くものです。その典型的誤報によって、国益を大いに損なった代表的事例が、韓国の「従軍慰安婦」と中国の「南京大虐殺」です。前者の場合は、1989年から94年まで、毎日新聞韓国特派員だった下川正晴氏(元論説委員)によれば、「朝日の植村隆氏の記事が出る前に、韓国の慰安婦支援団体から取材協力を依頼されたが、日韓間に揉め事を起こそうとする意図を感じて、断った。植村記者は特ダネが取れると思ったのではないか。証言テープを聴いただけで記事を書いたようだ。本当に慰安婦問題に関心があるなら、裏付け取材をするはず」と言う。植村氏の韓国人妻は、91年頃、取材協力記者探しが難航していた頃に、「太平洋戦争犠牲者遺族会」で働いていた女性だった。母親が同会の副会長をしていた。そして、結婚した91年の8月11日付の朝日新聞大阪版に“思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く”の見出しで書いたのが最初でした。

 後者の場合は、71年8月から12月まで朝日新聞本多勝一記者が40回も連載したルポ『中国の旅』が事の始まりだった。連載初回から、「南京大虐殺」のことを針小棒大に書いたので、読まされた日本人は驚愕した。旧日本軍は、そんな酷い「大虐殺」を中国の首都南京で働いたのかと贖罪意識を持ったのも無理はない。中国の目論見は大成功でした。中国の巧妙なお膳立てに乗って、ほんの数日間の南京滞在と4,5人の中国側が用意した証言者の言うままに、裏付け取材もなしに書いたのです。中国の得意技「ハニ―トラップ」に引っ掛かったのかどうか分からないが、後日、本多氏は抗議に対して「中国の視点を紹介するのが目的であり、その意味では<取材>でさえない」と無責任な弁解をしたという。

そもそも、『中国の旅』が出る前まで、毛沢東周恩来も「南京虐殺」自体を話題にしたこともなかった。71年と言えば、同年3月に名古屋で「世界卓球選手権大会」があり、中国からも選手団が来日した。終了後、米国選手団の訪中による“ピンポン外交”が話題になり、同年7月には、キッシンジャー大統領補佐官が密かに訪中、翌72年にニクソン大統領が電撃訪中したが、中ソ関係悪化という背景もあった。71年6月頃に、中国からの協力依頼が本多記者もしくは朝日新聞に持ち掛けられ、対日関係「改善」戦略の一環として「南京大虐殺」キャンペーンを企図したのだろう。その罠に嵌ったのがスター記者の本多氏であり、朝日新聞だった。その意味では、「意図的誤報」を演出させられた形です。

 確かに、昨年10月に薨去された三笠宮は、1943年1月から1年間、支那派遣軍総司令部に参謀として南京に駐留された経験があり、94年の雑誌インタビューで「南京大虐殺」のことを聞かれた。「最近の新聞などで議論されているのを見ると、何だか人数のことばかりが問題になっている気がする」が物事の本質を無視しているではないか、と不満気だった。

 因みに、戦前から戦後にかけて国際ジャーナリストとして大活躍した松本重治(当時、同盟通信上海支局長)が『昭和史への一証言』(1986年、毎日新聞社刊)の中で、「確かに、南京虐殺があったのは事実です…南京陥落直後に、南京に入った。占領5日目に入った時は既に平穏でした。支局の記者たちの話でも、何十万人という“大虐殺”はなかったと言っていた。私は、南京内外で虐殺された中国人は捕虜と一般市民たちを総計して3万人位と推測している」と語る。古来、中国流の“白髪三千丈”(李白)など誇張表現を好む民族性の所為かも知れない。つまり、本来は数が問題なのではなく如何なる戦争であれ、「虐殺」そのものは付き物だということです。これまでの中国側の「宣伝」戦術に対して、黙っていては国際的問題では不利になるのは当然であり、「吠えない犬は、何時までも叩かれる」のです。虐殺があったか、なかったかと矮小化されていい問題でもない。まして“沈黙は金なり”とは、国際間では通用しない日本的美意識に過ぎないことを思い知るべきです。

「天皇の存在」太田誠一氏コラムより

(2015年12月)

 

 

国民を想い身を削って捧げる祈り

天皇は世界でも稀有な元首です

あらためて天皇という存在を意識すべき時代です

 

 

内奏の思い出

 

 

 

私事で恐縮ですが、この秋に天皇陛下より旭日大綬章を親授されました。今まで人の叙勲に関わってきていたので、大体の予測はついていました。内心、そろそろかなと思っていた叙勲の数ヵ月前に内閣府の賞勲局から連絡が入ってきて「大綬章が親授される見通しです。ところで確認したいのは、まだ選挙に出られますか?」ということでした。実際には、十月二十七日の閣議で正式に決定します。親しい議員の中に叙勲を辞退した人がいます。理由は、一人は祝賀会などを開いてもらって、また頭を下げなければならないから面倒くさいということでした。もう一人は恐らく選挙に出ないけれども、まだ現役のつもりで活動しているのにそれがやりにくくなるということらしいのです。行政などから表彰されるのを辞退するのは構いませんが、天皇陛下からいただくものを辞退することなど、とんでもない失礼な話です。叙勲を辞退するなど日本国民として許されません。

予想はしていたものの、あらためて私が叙勲できたことを振り返ってみました。十一回の選挙戦で八回の当選、大臣を二回経験させていただいたのは、偏に支援者の方々のお蔭に他なりません。こうした支援者の方々の努力に比べて私は何もしなかったに等しいのです。たまに好き勝手なことを発言してマスコミからバッシングされても変わらず応援していただいたのですから、私が叙勲を受けるのではありません。感謝というよりも、本来はこの支援者の方々が叙勲を受けるべきだと申し訳なく思いました。陛下から親授される時、そうした支援者の方々を代表した気持ちで臨みました。

大臣時代に四回、直接陛下とお話しする機会をいただきました。一回目は行政改革担当大臣の時、宮内庁から陛下に内奏の要請が来ました。こちらはご進講役の心積もりで皇居に参内しました。行革担当大臣時代に二回ご進講させていただきましたが、在任中に一回も内奏されない閣僚が多い中これは稀なことでした。当然、事前に宮内庁から内奏の中身を口外しないように厳しく言い渡されました。最初に驚いたのは、陛下と私の二人だけでお話したことでした。誰か随伴者がいるかと思っていたのですが、普通の広さの応接室に陛下と二人きりです。正直、緊張しました。私の説明を聞かれるだけだと思っていると、私が話している間に「それはこうではないか」と指摘され、私がそれにお答えするとさらに鋭いご指摘を受けました。しかも、担当大臣の私よりも詳しくご存知でした。その知識の該博さに驚きました。かなり厳しい口調で的確なご質問でした。国会の質疑のレベルどころではありません。

その十年後に農水大臣に就任した私は、再び直接陛下とお話しする機会をいただきました。栃木県塩谷郡高根沢町御料牧場の隣の牧場でジャージー牛の飼育を天皇皇后両陛下が視察されるということで、担当大臣の私も同行しました。視察後、牧場の小屋で昼食を相伴することになりました。その席も余人を交えずお話しましたが、陛下の変化に少なからず驚きました。低姿勢になられていて、私に対して「大臣はどう思われますか」という丁寧語でお話になられるのです。十年前の行革担当大臣の時には一切敬語を使われないお話しぶりが大きく変化していました。その十年間の間には週刊誌などに度々、皇室批判のような記事が出ていて、ご心労を重ねられていたのではないかと想像します。大臣や大使は陛下が任命(認証)する「臣下」、部下なのです。その部下に対して丁寧語を使われる陛下にお気の毒な感じを受けました。「太田」と呼び捨てにしていただきたいと思ったことが記憶に残っています。

 

 

 

頭が下る想い

 

 

天皇皇后両陛下は,宮中の祭祀を大切に受け継がれ,常に国民の幸せを祈っておられ,年間約20件近くの祭儀が行われています。皇太子同妃両殿下をはじめ皇族方も宮中祭祀を大切になさっています。そのお姿を拝見する機会もありました。毎年十一月二十三日に、天皇五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる新嘗祭」に閣僚として参列しました。夜の十一時から始まり、真夜中の二時ごろに宮内庁から「お寒いでしょうからお帰りになっても結構です」と言われて、私たち閣僚は辞去するのですが、宮家の方々はそのままの姿勢で残られていましたから、恐らく朝まで行われているのでしょう。真冬の深更ですからかなり寒いのですが、国民の為に祈られる両陛下及び宮家の方々には本当に感謝の言葉もありません。また、宮中三殿賢所(かしこどころ)で両陛下の儀式を拝見しましたが、ご高齢にもかかわらず、かなり激しい動きで驚きました。このお祈りを年十数回こなされた上に、総理大臣、最高裁判所長官の任命、国会の招集など様々な国事行為の他に、園遊会、会見、外国からの賓客を迎えての晩餐会などのご公務をこなされるのですから、頭が下る思いです。

両陛下自ら国民の為にお祈りされるお姿を拝見し、日本国民にとって天皇という存在はどういうものなのかを考えさせられます。五穀豊穣の神様に感謝する神事は、瑞穂の国・日本の精神的土台になるものです。身を削って神事を敢行なさる天皇という存在は、他国にはない「戦わない元首」の姿に他なりません。その意味を国民全体で共有すべきではありませんか。そうした天皇の真のお姿を伝えられていないのは、「政教分離」という宮内庁の深謀遠慮からきているのかもしれません。しかし、陛下が勤しまれる神事は「神道」で、宗教ではなく日本の文化であり生き方なのです。国民の為にお祈りされるのは、「政教一致」でも何でもありません「君臨すれど統治せず」国民の為に、ある意味自己犠牲を厭わずお祈りされる陛下に対して、国民が自然に崇敬の念を抱くことが、国家の精神的安寧に繋がるのです。

皇太子殿下のエピソードがあります。現・皇太子殿下が小学生時代、学校行事として学外の施設を見学に行かれた後、学友たちと銀座のデパートを訪れた時に、他のご学友がおもちゃを買っている中で皇太子は何も買われなかったそうです。どう見ても欲しいのに我慢している様子を見た学友が「殿下、買われたらいいではないですか」と誘うと「国民の税金で自分が好きなものを買ってはいけないんだ」と仰ったそうです。恐らく、天皇皇后両陛下がこうした教育をされていたのでしょう。「他の国の王室と皇室は違うんだ」自分自身を律していらっしゃるこの姿が、日本国民に伝わっているのです。「この崇敬すべきご一家を身を挺してお守りするのが宮内庁の仕事ではないか」週刊誌のバッシング記事が出ていた頃に、宮内庁長官に苦言を呈したことがあります。

新しい年。今年も色んなことが国内外で起きるでしょう。「決して戦わず、権力も持たず、その権威とお祈りで国民の平和と健康を願う」世界にも稀有な元首が、天皇という存在である事。この日本人の精神的支柱をもう一度再認識することが必要です。

インタビュー 前泊博盛氏 沖縄国際大学・大学院教授(元琉球新報論説委員長)

基地問題を根本から見つめなおしてほしい

もう、「沖縄問題」と言わない方がいい。

明らかに「日本問題」なのです。

 

前泊博盛氏 沖縄国際大学・大学院教授(元琉球新報論説委員長)

 

イデオロギーよりアイデンティティ」。沖縄の基地問題は「日本国全体の問題」として考えるべきだと主張する前泊氏。日米地位協定の密約をスクープした同氏の日米安保観と知事選の背景を聞いた。(2016年1月)

 

 

沖縄知事選の

背景にあるもの

 

―十一月十六日に投開票された沖縄知事選では、三選を目指した現職の仲井真弘多氏に十万票の大差をつけて、前那覇市長で米軍普天間基地辺野古への移設計画に反対を表明した翁長(おなが)雄志氏が初当選しましたね。

前泊 メディアではあまり報道されませんでしたが、裏側には経済界内の権力闘争もありました。沖縄経済界の新興企業の建設・小売の金秀グループ、ホテルのかりゆしグループが翁長氏支持に回った背景には、彼らが国場グループなど戦後沖縄経済を牽引してきた勢力に対する反旗がありました。

 つまり、仲井真氏が翁長氏に禅譲するだろうと期待していた新興勢力グループが、仲井真氏が三選に出るというのは「話が違う」というわけです。まだ正式な出馬を表明していなかった翁長さんの待望論が高まってくると、仲井真さんは副知事に元々知事待望論が高かった人物を据えました。

 この人物は、これまでの保守系沖縄県知事の政治哲学や理念のシナリオを書いてきた人です。これは翁長さんに対する一種の牽制球ではなかったかと見ています。ところが、ふたを開けてみると、本人が続投するということになった。仲井真さんの年齢もあったし健康不安説もあり本来ならば、世代交代するべきだったと思います。そのことも地滑り的な翁長さんの圧勝に繋がった一つの要因なのでしょう。

―仲井真さんの「辺野古移容認」も敗因では?

前泊 昨年は全員が「辺野古移設反対、県外移設」で動いたわけです。沖縄の自己決定権を確保しようという大きなうねりになっていました。つまり、“イデオロギーよりアイデンティティへ”という合言葉の下、沖縄が一つになろうとしていました。その中に当然、知事である仲井真さんも入っているとみんな思っていました。県民大会での発言もそうですし、県内四十一市町村全ての首長による建白書も上がったわけですから、当然と思われました。

 そのような中で、当時那覇市長だった翁長さんが中心になって、「新しい基地は要らない、オスプレイも撤去せよ。これは政府によるいじめだ、沖縄差別だ」と保革を問わず支持を得ていきました。その中でぽつんと取り残された感じになったのが、仲井真さんでした。

 仲井真さんは、一期目は辺野古容認だったのが、二期目は風を読んで「県外移設」を言及し知事選の争点をぼかした形で再選を果しました。実は仲井真さんは最初から「辺野古ありき」と「カジノ推進」でした。

 前々知事で県民には絶大の人気があった稲嶺恵一さんは、辺野古移設に消極的でカジノについては否定的でしたから、引き摺り下ろされました。

 この背景には、経済界の辺野古移設に伴う新たな建設需要や新興予算、インフラ整備など「辺野古移設」を飲めば、これらの要求が全て通るためにどうしても「辺野古移設」を実現したいという希望がありました。その後に擁立された仲井真さんの役割は、この二つを実現することだったのです。

 仲井真さんは二期目の知事選で、当時、民主党鳩山首相の「最低でも県外移設」という発言で寄り合い所帯の民主党が真っ二つに割れました。仲井真さんはこの時、民主党から「移設反対でもいいが、体を張った反対は止めてくれ。政府から強引に押し切られる形で受け入れる」という密約が、仲井真知事と民主党政権との間で結ばれたという話を聞きました。二期目の知事選挙時の話です。

 私は、仲井真知事は任期中に「辺野古受け入れ」を決めて、公約に反したから辞任する、というシナリオを想定していました。しかし、結果は受け入れを決めて辞めないどころか続投の意思を表明してしまいます。

 知事の辺野古受け入れ表明は、思いの外、県民からの反発が強く、県議会でも与党も含めて知事の辞任を求める不信任案が可決されました。自民党の中でも「やり過ぎだ」という声が上がったのです。

 知事の受け入れ表明の直前には、沖縄県選出・出身の自民党の国会議員五人が雁首そろえて石破幹事長(当時)から「県外移設を撤回して県内移設を容認にしろ」と選挙で有権者に約束した「県外移設」のマニフェストを、強制的に転換させられた。石破幹事長の横で跪いた沖縄の五人の国会議員の姿は、まさに沖縄県民にとって屈辱以外の何物でもありませんでした。これは沖縄における選挙民主主義の崩壊を意味していました。

 選挙で選んでも、選ばれても約束したマニフェストが中央の、自民党本部の政治的圧力で簡単に転換させられてしまう。公約が全く意味を持たないという現実を沖縄県民は目の当たりにしたわけです。

―今回の知事選には経済界の翁長支持は権力争いの図、現職知事落選の背景には政府与党の露骨な介入に対する沖縄県民の怒りがあったわけですね。

前泊 現在、集団的自衛権論議されています。日本国民に想像していただきたいのは、もし尖閣で紛争が起こったら、まず最初に犠牲になるのは百四十万の沖縄県民だということです。

 先日、台風が二日間沖縄に止まりました。その間、沖縄のスーパーから野菜が消えました。船便が止まって物流が停滞してしまったのです。もし、尖閣に有事が起きたら船が止まり、沖縄の物流は寸断されてしまう。台風の比ではありません。沖縄県民は有事の際にはどうやって食べていけるのか。安倍政権は、そういうことに全く無頓着で、想像力が欠如してます。沖縄戦で十分に犠牲になった沖縄は、もうこれ以上、軍の犠牲になりたくないと集団的自衛権に反対しています。

 

分断統治

―日本の米軍基地の七四%が沖縄に集中しているのは安保によるものですから、憲法九条を改正して自分の国は自分で守る体制にすべきだと思うのですが…

前泊 そもそも、日本では右翼、左翼の定義が不明確になっている。これは、アメリカが占領政策の一環で持込んだ「イデオロギーの対立の構図」が元凶です。

 アメリカのやり方は、例えば沖縄では銀行、損保、放送、新聞二紙といった具合に必ず競争関係を作って競合させます。それと同様に「保革」の対立を作り出して、占領国のアメリカに矛先が行かないようにコントロールしてきました。つまり、戦後は日本人同士が分断されてしまった。アメリカの「占領政策で唯一成功したケースが日本だ」と言われています。

 今回の知事選では、イデオロギーで争うのは止めようという一種のパラダイムシフトが起きました。誰のための対立だったのか。オスプレイの配備反対運動をしているのはウチナンチュー(沖縄人)、それを力づくで排除しているのもウチナンチューの警察官。

 当事者であるヤマトンチュー(日本の本土人)やアメリカ人はどこにも出てこない。日米両政府も日米両国民も沖縄人同士を争わせて、高みの見物を決め込んでいます。これが日米安保の現実です。

 安保問題に限らず、原発問題や産廃問題でも同じ構図が出来上がっています。地元民同士が対立し、ぶつかり合い、血を流す。その場に政府や官僚の姿は見えない。福島原発事故、日本各地の産廃処理場問題でも同じです。

 日米安保に関して、沖縄はよく「反米」だと誤解されます。実は沖縄の人々は、戦後、日本で最も長くアメリカと接していて、その影響ももっとも多く受けています。アメリカのロックミュージックや文化、ポーク缶詰など食べ物も大好きなんです。沖縄は「反米」ではなく、「反軍」なんです。

 アメリカの海兵隊はその素行の悪さが米本国でも嫌われています。ハワイの基地では海兵隊が帰ってくると、街が緊張感で包まれるとまで言っています。ワシントンのシンクタンクに取材した時に私が、「在沖米軍の兵士がもっと素行をよくしてくれれば、沖縄の人々の米軍に対する感情はよくなります」と言うと、「それは矛盾です。軍人がお利口さんになったら戦場で役に立たない。人を殺せと命令されたら、理由など問わず、忠実に実行するのが兵士です。人権を考える人は兵士にはなりません」と平気で答えました。

 基地の経済的な効果も、爆音や演習被害の恐ろしさも両方知っているのが、沖縄です。その上で、「基地は要らない」という人々が増えてきました。基地経済は不経済という事実に気づいてきたのです。

 返還後の基地の跡地利用では、雇用は二十倍、四十倍に増え、経済効果四十倍、五十倍と膨らんでいる。皮肉なことに米軍基地返還後の後利用で失敗している事例は一件もないのです。

 政府が沖縄に基地を集中させる重要性を説くのであれば、もっと丁寧に日米安保の必要性を説明すべきです。政府はいつも「時間がない」と逃げるのです。私は「そんなことはないはずだ。丁寧に説明すれば沖縄の人々は同じ国民ですから、理解しますよ」と何度言っても説明しません。実は政府は説明しないのではなくて、説明できないのです。

―それはなぜですか?

前泊 日米安保体制は、実は占領政策の延長に過ぎない。ところが、保守勢力は日米安保を堅持すべきだと信じ込まされている。この国の保守とは一体誰のための思想運動なのか。以前、米兵による少女乱暴事件の時、右翼の街宣車が取り囲んだのは、琉球新報沖縄タイムスの社屋でした。米兵犯罪を糾弾するメディアに矛先を向ける。「矛先が違う。向けるべきは日本の少女の人権を蹂躙した米軍ではないのか」と憤ったことがあります。

 また、沖縄は戦後一貫して保守の島で、復帰後も四十二年のうち二十八年間は保守県政です。国会議員もずっと保守・自民党過半数を占めてきた。

 本土の保守やメディアは、「左翼の島」「革新の島」だと決め付けていますが、事実を無視しています。単に無知なだけかもしれません。

―こちらに伝わってくるのは、沖縄の基地反対運動はいわゆるプロ市民といわれる活動家だと。

前泊 確かにプロ市民もいます。しかし、それはごく一部です。プロ市民だけで、今回の知事選の十万票の大差は生まれません。そもそもプロ市民だからダメという理屈もおかしい。

 政府・自民党は、丸腰の住民運動を機関銃や大砲を積んだ巡視船や軍艦(海上自衛隊掃海母艦)で脅し、制圧してくる。強権的な政治による住民運動の制圧という点では、中国共産党を批判できません。

 知事選挙が終わって、辺野古反対の知事が誕生した今、今後の沖縄の基地問題の核心は普天間問題にとどまらず、最大の争点として米空軍の嘉手納基地の軍民共用や返還問題も浮上してくると思います。

 嘉手納飛行場に比べれば、普天間飛行場など付随施設の一部にすぎません。ましてや、辺野古新基地など、嘉手納がなければ、何の意味も持たない。沖縄県民も、嘉手納飛行場の返還は困難だとずっと思ってきました。しかし、時代が変わって、基地を返還させて沖縄経済の発展の起爆剤に使おうという発想が、確実に広がってきています。

 今度誕生した翁長新知事も新基地には反対していますが、嘉手納など既存基地には反対していません。それも「保革の枠組みの限界」「保守・革新政治家の限界」ともいえます。これは、これまでの沖縄の政治家たちの思想的、発想的限界だとも言えます。

 名護市の稲嶺市長も「新しい基地はつくらせない」と言うけれども、既存の基地には全く言及していません。新しい基地の建設に反対だけでは本質的な解決は不可能です。既存の基地にも言及していかなければ、沖縄の基地問題の抜本的な解決は困難です。既存の基地の容認は、結果として沖縄に過重な基地負担を強いる現状の日米安保体制を追認することになるからです。

―既存の基地は施設が更新されていますね。

前泊 普天間基地を撤去する、返還すると言っておきながら、新しい施設がどんどんできています。米軍の司令官は、「辺野古ができても普天間は返還しない」などと平気で言いますよ。そういう本音を引き出す日本の政治家がいないのです。普天間問題に象徴される日米安保問題を解決しようという政治家は、日米には皆無だと言えます。

集団的自衛権

非現実味

―沖縄の施政権が日本に返されてもう四十年以上の歳月が過ぎています。

前泊 今、復帰前後の研究を進めています。沖縄の施政権返還を実現した佐藤栄作首相がなぜ沖縄返還に執着したのか。それは、前政権の池田勇人内閣が所得倍増計画で成功しているので経済政策では自分の名を残すことが出来ない。そこで目を着けたのが沖縄でした。ただ、それだけです。政治的功名心でしかなかった。

 沖縄返還を佐藤政権最後の年の一九七二年に目標年次を設定し、タイムリミットを設けたがために、アメリカに揺さぶられて、多くの密約を結ばされてしまいました。ちなみに、返還交渉を始める最初の会議で、佐藤首相は何と言ったか。「ところで、沖縄は英語を使っているのか」というものでした。その程度の認識しかもっていなかったのです。その意識が今も継続されていて、安倍政権はサンフランシスコ講和条約が発効した一九五二年四月二十八日を昨年、「主権回復の日」として政府主催の記念式典を開催しました。

 沖縄、奄美、小笠原が日本から切り捨てられた日を、よりによって「完全なる主権が回復した日」と明言したのですから、沖縄、奄美、小笠原は日本ではないと認めたのも同じです。さっそく、中国メディアは、「そろそろ沖縄の所属について本格的に論議を始める時期がきた」と立て続けに報じました。

 安倍政権の浅はかな歴史認識が、余計な波紋を中国に広げるきっかえになりました。慌てた安倍政権は「主権回復の日」をなかったことにして、今年から式典の開催をとりやめました。

歴史認識の甘さがありますね。

前泊 その甘さが、現状認識の甘さに繋がっているとしか思えません。安倍さんはこの主権回復の日を祝って何をやりたかったのか。一九五二年四月二十八日まで、敗戦で失ったために日本には主権がなかった。だから、その五年前の一九四七年に施行された現憲法は無効であるという、いわゆる廃憲論を持ち出したかったかもしれません。それはあまりにもやり過ぎです。

 そして今度は憲法を無視して、集団的自衛権閣議決定しました。中国、韓国に対して反発を買っているのは、こうした誤った歴史認識に基づく発言や政策によるものも大きいと思います。こうした安倍内閣の暴走に自民党内部からも反発する声が上がっています。

 先日、沖縄で自民党の重鎮である野中広務氏が、「安倍君はおかしい。集団的自衛権をやる前に中韓のトップと直接会いに行って、話すべきだ」と批判していました。

 集団的自衛権で「日本を守るために戦っている米軍を、日本が支援できないのはおかしい」との理屈を立てています。でも、いったいどこの国が米軍に手を出せるのか。現実的にはありえません。アメリカが日本人を助けるために米軍を出動させることはありえないし、米軍の軍艦が攻撃されるような事態もありえません。仮に米軍に手を出す国があったら、倍返しどころから百倍返しされますよ。

 また、この議論には経済的な視点が欠けています。例えば、中国の場合、尖閣で日本が国有化を言った途端に「愛国無罪」の大規模デモが起きて日系企業にどれだけの損害が出たか、記憶に新しいところです。

 経済的に中国との関係を無視して突っ走ったらどうなるか。中国との貿易額三十兆円、アメリカが二十兆円です。安倍さんは同盟国のアメリカを取るべきだと主張していますが、経済学や経済安保の観点から言えばアメリカも中国も両方とも取るべきなのです。二者択一の問題ではありません。どちらも取らないと日本の経済は成り立たない。それなのに、軍事安保しか頭にないと、経済安保をないがしろにする。

 福田康夫元首相は安倍さんの動きを危ないと感じて、懸命に水面下で中国にアクセスしてきました。村山富市元首相も両国の関係を心配して韓国を訪問しています。自民党政治はこれまでバランスがいい外交をやってきたのに、安倍政権ではそのバランスが崩れてしまっている。そのことに危機感を抱いた歴代首相や自民党要人らが動き始めている。一部には安倍政権の倒閣運動も始まっているようです。

―その同盟国のアメリカをどう見ますか?

前泊 問題になっている「イスラム国」を今、世界中の若者が支援し始めました。アメリカ国内でもそういう動きが出てきて、今後国内でテロが頻発する危険性が出てきました。

 親を殺された子の怨みはずっと消えません。そうした怨恨の連鎖の種をアメリカは撒き散らしてきた、こうしたアメリカの軍事安保はもう限界に来ています。同時にアメリカの経済力にも限界が来ています。いい加減にこの連鎖を断ち切らなければ、悲劇は起こります。

―それを象徴しているのが、沖縄問題ですね。

前泊 もう、「沖縄問題」と言わない方がいいですね。問題の根元を沖縄に封じ込めて矮小化しています。米軍基地問題は、沖縄問題ではなく、日米安保、日米同盟の問題であり、日本の外交力の問題であり、明らかに「日本問題」なのです。

「受益と被害の分離」

―とは言っても、沖縄の人々の中にも「基地はあってほしい」と思っている人はいると思うのですが。

前泊 例えば、軍用地地主の借地料は年間平均二百万円、高い人で二十六億円とも言われています。地主の数はかつて二万五千人だったのが、今では相続などで四万四千人までに増えています。借地料は米軍分が八百億円、それに自衛隊分の百億円がありますから借地料の総額は九百億円になります。

 この地主の家族を入れると地主有の有権者はざっと二十万人、沖縄知事選の当選者の獲得票数が三十万から三十八万票ですから、この地主の基礎票はかなり大きいですね。それから建設業界の就業者数七万人とその家族票が加算されますからね。基地に依存している人たちはまだ多いのも事実です。

 これは、一種の「受益と被害の分離」策だと言ってもいいでしょう。今の軍用地主たちはかつて農地を強制的に収用された被害者でしたが、今は受益者になって基地から離れた所に住んでいます。一方で、フェンス一枚隔てて土地を持っている人たちは、基地被害もあり、土地も売るに売れず、基地周辺から住宅も移るに移れず、爆音などの被害者になっています。

 戦前の沖縄は、七五%の人が農業に従事していました。それが、捕虜収容所に収容されている間に、農地の大半を基地に奪われてしまった。生産、生活の場を失った農民たちは、農地の後につくられた米軍基地に依存するしか生きる道はなかった。沖縄の基地依存経済は、そこから始まっています。

 基地に依存させて、基地依存経済という麻薬漬けにしたあとで、振興策は要らないのか、基地は要らないのか、と県民を揺さぶる。あまりにひどい仕打ちに、目を覆いたくなります。これが、日本の保守本流の政治手法です。恥ずべき行為です。

―基地は無い方に越したことはないが、その後はどうするのかという切実な問題を抱えていますね。

前泊 基地に依存せざる得ない経済をつくっておいて、基地を無くす、無くさないという議論がずっと続いています。これもある意味、罠にはまってしまった感があります。普天間問題に縛られて、本丸である安全保障問題、その最大の争点になるべき嘉手納問題が二十年間、蚊帳の外に追いやられました。

 普天間にこだわっている限り、沖縄、日本の問題は解決しません。基地を縮小するようなレトリックに、皆が踊らされています。普天間辺野古もどちらも要らないのにいつのまにか「移設か、危険の継続か」という二律背反の選択を迫られている。論理のすり替えです。

 沖縄にとっては、残しても移設してもどちらも苦しみが生じます。そんな究極の二者択一の選択を、迫る政府の姿勢に、沖縄県民が辟易している。そんな政府や政策を選んでいる本土国民に反発しているのです。

―基地経済から脱却して自立した経済を目指すべきだと思うのですが、失業率は依然高いですね。

前泊 沖縄の失業率は日本の平均の倍の数値で推移しています。しかし、復帰前は実は日本平均の半分にしか過ぎなかったんです。つまり、沖縄の今の失業率の高さは、政府の沖縄返還・復帰プログラムの失敗によるものなのです。基地を維持するために基地従業員を大量解雇されたことと、ドルから円に切り替える時に円高に誘導されたために経営者たちが先行き不安を感じ採用を抑制してしまいました。

―日本の国防という観点から言えば、国境であり中国の脅威がある沖縄は重要な地域だと思うのですが。

前泊 そこが、日本人が世界の動きに疎い点だと思います。例えば、冷戦終結EUは冷戦時の半分まで軍事費を削減してきました。これはEU圏内で集団安全保障体制を構築してきたからなんです。それをなぜアジアはやれないのか。それはそれを妨害する動きがあるからです。イギリスの首相は「アジアの民度は低いから武器が売れる」と平気で発言しているくらいです。

―いずれにしても、沖縄の問題は日本の問題であると日本人全体が思いを馳せるようになることも必要だと思います。

前泊 やはり、これまでの「左翼・右翼」「保守・革新」のイデオロギー闘争からいい加減に脱却して、もう一度、歴史や事実、現実を検証し直す時期ではないでしょうか。

 今回の沖縄県知事選は、イデオロギーよりアイデンティティへの回帰を呼びかけた結果ですが、日本全体もやるべきだと思いますね。それなのに、「沖縄問題は普天間問題」と矮小化してしまう。これは、今の日本人の限界なのかもしれません。

 普天間問題は日本の自衛隊ではなくアメリカの基地の問題です。アメリカの基地をつくるのに、日本国民が莫大な税金をむしり取られた上に、建設の是非を巡って長年対立し、やがて戦艦まで投入して国民に大砲や銃を突き付けて建設を強行し、日本人同士が血を流し合わなければならない事態まで生まれようとしている。どうしますか? アメリカはカネも出さない、人も出さないのに、日本人同士が衝突しあっている。アメリカが本当は必要ともしない新基地のためにです。この現実を日本人全体で真剣に論議してほしい。

 

 

 

 

前泊氏プロフィール

1960年生まれ。「琉球新報論説委員長を経て、沖縄国際大学大学院教授。2004年、地位協定取材班キャップとして日本ジャーナリスト会議(JCJ)大賞、石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に「沖縄と米軍基地」(角川書店)、「もっと知りたい!本当の沖縄」(岩波書店)、「本当は憲法より大切な『日米地位協定入門』(創元社 編著)などがある。

 

 

 

インタビュー「10歳までに徹底的にしつけなければ、人類は滅亡します」

 

そこが聞きたい!インタビュー

 

教育は生物学を基本したものであるべきです

十歳までに徹底的にしつけなければ、人類は滅亡します

 

 

 

井口潔氏(九州大学医学部名誉教授)

 

川崎市中一男子殺人事件―またも青少年による衝撃的な事件が起きてしまった。

教育の荒廃が叫ばれて久しいが、国が打ち出す教育政策は対処療法に過ぎず、根本的な改革が必要ではないだろうか。

 

 

「知性偏重教育」のツケ

 

 

 

―先日起きた川崎市の17,18歳の少年達による中1男子殺人事件は、日本の教育の荒廃が「ついにここまで来たか」という大変な衝撃を社会に与えました。

井口 私は、これまで各方面に教育は生物学的に考証すべきだと訴えてきました。今の教育の最大の問題は、教育を現実社会を土台にして考証され実施されている点です。その結果、こうした凄惨な事件が起きてしまいます。問題は、教育の目的が「社会に役立つ人間をいかに効率よく育てるか」になっていることです。つまり、「人間はいかにして生きるべきか」という道徳ではなく、いかに儲ける人間を育てるかという功利的な教育に偏っているのです。本当の教育を再構築するには、「人間とはどんな生き物なのか」を解明してそれを土台に検証し実践するしかありません。

―ずい分前から、いじめや不登校が問題になっていてそれが解消するどころかますまず深刻化しています。

井口 人間は700万年前にチンパンジーから分かれて誕生しました。チンパンジーの脳は500ミリリットルくらいですが、それが150万年かけて三倍になり人間が誕生したのです。脳が発達する以前は、全ての生き物は「自分」というものを意識しないで本能的に生きてきました。ところが、創造主は人間に脳を発達させて、「お前達の価値観、理性、知性で生きるようにせよ」と言われました。しかし、いざやってみると、争いが起こりなかなかうまくいかない。元々生き物は環境と調和しながら生きていました。ダーウィンの進化論で分かるように、環境と調和しない生き物は滅んでしまいます。つまり、生き物は必要以上に争わず、環境と調和して生きてきたから種を保存できたのです。例えば、犬同士が喧嘩すると、負けた方は腹を見せて降参の意思を表わすと、勝った犬はそれ以上攻撃しません。それ以上攻撃すれば相手は死に、それを繰り返せば種が絶滅することを本能的に認識しているのです。

 ところが、「お前の価値観、理性、知性で生きよ」と言われた人間は自我とわがままのために環境と調和することができず、一般の生き物にも劣る状態になっています。現在、地球上に150万種の生き物がいますが、人間はその上に君臨して地球を征服しようという間違った方向に進んでいます。環境破壊、絶滅危惧など人間のわがまま、自我が今、地球に災いしています。このままでは人類が滅んでしまう危機感から、紀元前500年頃に世界各地で賢人が現われました。ソクラテス、釈迦、孔子などが現われ、「自我の抑制」のために道徳を説き始めました。

―しかし、人類のその後の歴史を見ると争いは尽きません。現代社会も同じです。その中でも平和を謳っている日本では、凶悪な事件が後を絶ちません。

井口 日本がおかしくなった原因の一つには、戦前戦中の修身、道徳が戦後に「軍国主義を助長するもの」として全て否定されたことにあります。その結果、人間は思うまま、わがままに好きなことをやって生きていいということになってしまいました。

―自我がさらに肥大化していったのですね。

井口 自我を抑制できず肥大化していけば、人類は必ず滅びるということを、2500年前に賢人たちは警告していました。「そんなことは杞憂だ」と言う勿れ、です。その前兆が、川崎市の事件や佐世保市女子高生殺人、名古屋の女子大生による殺人事件なのです。私が一番ショックを受けたのが、神戸で起きた「酒鬼薔薇(さかきばら)事件」や佐世保の事件で殺人を犯した少年少女が平然として「人を殺してみたかった」と言っていることです。佐世保の女子高生は尋問の時に「人を殺してなぜ悪いんですか」と平然と答えています。人間は道徳、教育を疎かにすれば、こういう人間になるのです人間は、教育、道徳によって辛うじて人間性を保つことができる生き物なのです。

 赤ちゃんは、ホモサピエンスという動物として生まれてきます。これをそのまま放ったらかしにしていたら、「人間」になりません。赤ちゃんは狼に育てられたら狼になってしまうのです。つまり、人間は人間に育てられないと人間になれないのです。親が人間のあるべき姿の規範である道徳を教えないと、人類が滅びることに繋がりかねません。

―これから始まる道徳の教科化は効果はあるでしょうか?

井口 なかなか難しいでしょうね。問題は先生なのです。先生の大半が、子供達に知性を教えれば済むと思っています。しかし、本当に大切なことは、先生という「人間」が「道徳」を子供に教えているのです。道徳の「教科書」が教えているのではありません。知性偏重の教育が様々な弊害を生んでいます。また、問題行動を起こす子供の親は高学歴者が多く、子供を「いい大学に入れていい会社に就職させる」ことを教育だと勘違いして、人間教育を全くやっていません。人間教育とは、「感性」の子供が人間の信頼関係を築くことから始まります。その重要な役割を果すのが、母親です。赤ちゃんが生まれて最初に愛情を受けるのは母親からで、そこで母子の愛情関係が成立するはずなのですが、十分に愛情を受けなかった子供は思春期になって必ず問題を起こします。人を信頼できないのです。

 

 

「内なる神」との対話

 

 

 

 

―親の子供への愛情は、甘やかすということではありませんね。

井口 親は愛情があるからこそ、ある時は子供を厳しく躾けます。叱った後は必ず優しくして下さい。三歳までに「人間を信頼する」心が出来上がります。「三つ子の魂百まで」という日本のことわざは、大脳生理学で十分証明できます。赤ちゃんの脳は三歳までに大人の80%のニューロン回路(神経細胞の絡み合い)ができて、内部世界(心の基本)が作られます。

 四歳になると、外部環境からの刺激を受けるようになり、それまでに出来上った内部世界(心)が外部刺激に反応するようになります。親はそれを注意深く見守って、適不適を評価する。つまり、「善悪の躾」をするのです。例えば、自分の子供が発達障害の子供の真似をしているのを見た時に、親は「それが人間として最も恥ずかしいこと。二度とやったら承知せんぞ」と激しく怒ってみせるのです。そこで、子供が「どうして?」と不思議そうに訊いても、「問答無用。ダメなものはダメ」と返せば、子供は二度とそういう行動はしません。これは、知性でなく感性に働きかけることで、「人間として正しい道を歩く」ことをしつけることになります。十歳までは子供の感性を育てる教育が必要なのです。

―ご自身の理論では、人間の脳の「大脳辺縁系」という古い脳が感性を司るそうですね。

井口 赤ちゃんは生まれてくる時に、この古い脳しか持っていません。チンパンジーでは獣的で機能していますが、ヒトでは親から「真善美」の刺激を与えられるので、人間の古い脳は、獣的から人間的になって人格を形成します。分かりやすく言うと、古い脳は「人間として善く生きる」ことを考え、それに対して新しい脳は「うまく生きる」つまり、要領よく生きることを考えます。すなわち、古い脳は感性、新しい脳は知性を司ります。

例えば、新しい脳(知性脳)たくさんの物質的な知識を詰め込み(習得性)、それを現実に生かす(合理・論理)ことに心が働きます。そうすると、外向性が強くなって、現実的な思考が働き流行を追い求めるようになります。他者を利用することを考え、効率・要領を追い求めそれで立身出世を目指します。そのために戦略戦術を組み立てるという「社会性・処世術」に頼る心になります。それに対して、古い脳(感性脳)では人類が長年蓄積してきた「心の記憶」と言った方がいいかもしれませんが、感性を機能させます。感性は逞しく生きる力、人間力と言えます。直感的で非合理な心の働きです。

 大脳生理学の観点からは、今の教育は点数という数量だけの教育、つまり新しい脳の働き(知性)に偏って、真善美という感性教育を無視した教育です。その結果、とんでもない人間が育っているのです。

―脳と心の働き、精神の関係性はどうなっているのですか?

井口 心すなわち精神は、脳という臓器のニューロン回路で発生するものです。人間の脳は、「自分自身」という自意識を形成します。かつて、人間は神を外に置きました。原始時代の人間が台風や地震などの自然災害が起きると、外なる神に祈っていました。それが次第に自分自身の中に「内なる神」を持つようになりました。宗教や道徳がそれです。「こうしなくてはいけない」と諭す内なる神、自分自身を生身の自分より一段高い所に置き、常に対話することで

心の安定を得、さらに自分を高めることができます。ところが、現代は「知性だけでいい」という唯物的な考えが蔓延していますから、不安を抱える人が多くなりました。自分自身と向き合っていない人は自分に自信が持てず、不安になると、他者を攻撃するようになります。自分自身と向き合うことによって、自分を強くする。その柱になるのが、真善美を求める道徳なのです。

 心はほんの最近になって脳が巨大化した時にできたものなので、進化の過程で引き継がれたものではありません。善悪の概念に遺伝子的なものはないのです。つまり、「言わなくても分かる」という予断は、人間の心には通用しません。だから、小さい頃に「ダメなものはダメ」という躾をしっかりやる必要があるのです。

 

 

 

うなぎ屋のお父さんと、小野田さんのお母さん

 

 

 

 

 

 

―大人の中には「そんなことはわざわざ言わなくても…」という心理が働いている人が多いような気がします。

井口 確かに昔は親が注意しそこなっても、祖父母や地域社会がそれをカバーしていました。しかし、今やコミュニティーは崩壊し、核家族化していますから、善悪の区別を教えるのは、家庭と学校しかありません。

―子供に関る大人たちがしっかりと教える必要がありますね。

井口 ただし、それはあくまでも十歳までのことです。それ以後になると、新皮質、新しい脳が本格的に働きはじめます。新しい脳は、自己判断をするところなので青年期になっても幼年期の躾をやっていると、子供の脳は混乱してしまいます。

―思春期はなかなか難しいと言われます。

井口 思春期の子供が何か問題行動を起こした時に、頭ごなしに叱るのではなく「こういうことは控えた方がいいんじゃないかな。先生は何と仰るかな」とやんわりと投げ掛けるくらいにしておいて、「困ったことが起きたらいつでも父さんに相談しなさい」と、判断を本人に投げかけるようにします。十歳までにしつけをやり足りなかったと思っても、思春期以後に躾を強くやると逆効果です。実際、思春期にいきなりきつくしつけた結果、子供が自宅に放火した事件が奈良県で起きました。

 私がよく行っていた東京のうなぎ屋のおかみさんから、親のしつけについて自身の経験を聞いたことがあります。おかみさんのお父さんのしつけは料理屋なのでかなり厳しく、何か間違えると頭を叩かれていたそうです。おかみさんが思春期になった頃、またお父さんに叩かれそうになって、おかみさんは本能的にお父さんの手を払いのけました。すると、お父さんは「あぁそうか…俺の仕事は済んだのか」と呟いて、それから二度と手をあげなくなったそうです。

 もう一つ、象徴的な話があります。昨年亡くなった、作戦中止の命令に接しないとして、終戦後も29年間もフィリピンのルバング島に隠れていた小野田寛郎さんは、小学1年生の時に上級生に小刀でけがさせました。学校から連絡を受けていた母親は、帰宅した小野田少年に「なぜけがをさせたのか」厳しく詰問します。ところが、少年は何度も「正当防衛だった」と言い張り反省しません。母は息子に風呂に入るように命じ、風呂からあがると、裃が用意してありました。「どこかいい所に連れて行ってもらえるのかな」と思っていると、仏間に連れていかれました。母は息子に短刀を渡し、「お前は、人を殺めてはいけないと何度言っても言い訳ばかり。小野田家には物騒な血筋がある。このままではご先祖に申し訳ないので、腹を切りなさい。私も後を追います」。少年は驚いて、謝りました。

 小野田さんが長じて出征することになり、母と墓参りに行った時、母から短刀事件の当時の気持ちを初めて聞かされます。「あの時は一世一代の大芝居だった。あの時、お前が謝ってくれたからホッとした。お前もこうやって成長して出征することになって本当に有り難いことだ。ただ、これだけは言っておく。お前が無事に戦地から帰ってきて男の子を授かったら、あれくらいの迫力でしつけをしなければいかんぞ。元気で行ってきなさい」と激励されて戦地に赴きました。

 これが、明治の父親、母親の躾の姿です。この力強いしつけの迫力には驚きます。明治の人は、「善悪」はこれほどの迫力でやらないと子供は分からないということを伝統的に知っていたのです。

―「躾は幼年期では徹底的にやり、青年期になったら逆に抑える」ことが、肝要ですね。

井口 中高生の道徳教育のポイントは幼年期のそれとは少々違います。思春期を過ぎれば、自分の意思で意欲的にやりたいことをやりたがります。そこで、発揮する人間力は小学校時代に涵養されたものですから、あくまでも小学校の道徳教育が一番重要です。ただ、中高での道徳教育は、生徒に判断させる指導が望ましいでしょう。生徒自身に気づかせる授業であるべきで、教師は生徒の生き方のアドバイザーであり、生徒達のお手本になるべきです。

―小学生の道徳教育は「考えさせる」内容になっています。

井口 子供の脳は自分で考える能力がまだ不十分です。それを先生から「考えなさい」と言われても何を言われているかよく分からないのいです。しかし、子供は賢いので考えている振りをして、大人が騙されるケースが多い。小学生の道徳教育は「理屈抜き」で当たるべきですよ。

―今、「褒める」教育法が一部、支持されていますね。しかし、褒め過ぎると叱りにくくなると思うのですが。

井口 厳しいしつけと褒めることのバランスをうまく取ることでしょうね。親の心の中に「叱った後は十分に褒める」という気持ちがあればいいのです。あくまでも愛情が根底にないといけません。しつけを厳しくやり過ぎると、子供から薄情な親だと思われはしないかと心配するお母さんの声を聞きますが、しつけは子供のために絶対に必要で、叱った後はそれを上回る愛情表現をいつも用意していればいいのです。「叩いた手を子供から外したら最後。叩いた手でそのまま子供を抱きしめなさい」という言葉がありますが、その通りだと思います。(フォーNET 2015年10月号より)

 

 

 

大正十年久留米市生まれ 九州大学医学部卒 井口野間病院理事長 日本外科学会名誉会長 ヒトの教育の会会長