インタビュー「10歳までに徹底的にしつけなければ、人類は滅亡します」

 

そこが聞きたい!インタビュー

 

教育は生物学を基本したものであるべきです

十歳までに徹底的にしつけなければ、人類は滅亡します

 

 

 

井口潔氏(九州大学医学部名誉教授)

 

川崎市中一男子殺人事件―またも青少年による衝撃的な事件が起きてしまった。

教育の荒廃が叫ばれて久しいが、国が打ち出す教育政策は対処療法に過ぎず、根本的な改革が必要ではないだろうか。

 

 

「知性偏重教育」のツケ

 

 

 

―先日起きた川崎市の17,18歳の少年達による中1男子殺人事件は、日本の教育の荒廃が「ついにここまで来たか」という大変な衝撃を社会に与えました。

井口 私は、これまで各方面に教育は生物学的に考証すべきだと訴えてきました。今の教育の最大の問題は、教育を現実社会を土台にして考証され実施されている点です。その結果、こうした凄惨な事件が起きてしまいます。問題は、教育の目的が「社会に役立つ人間をいかに効率よく育てるか」になっていることです。つまり、「人間はいかにして生きるべきか」という道徳ではなく、いかに儲ける人間を育てるかという功利的な教育に偏っているのです。本当の教育を再構築するには、「人間とはどんな生き物なのか」を解明してそれを土台に検証し実践するしかありません。

―ずい分前から、いじめや不登校が問題になっていてそれが解消するどころかますまず深刻化しています。

井口 人間は700万年前にチンパンジーから分かれて誕生しました。チンパンジーの脳は500ミリリットルくらいですが、それが150万年かけて三倍になり人間が誕生したのです。脳が発達する以前は、全ての生き物は「自分」というものを意識しないで本能的に生きてきました。ところが、創造主は人間に脳を発達させて、「お前達の価値観、理性、知性で生きるようにせよ」と言われました。しかし、いざやってみると、争いが起こりなかなかうまくいかない。元々生き物は環境と調和しながら生きていました。ダーウィンの進化論で分かるように、環境と調和しない生き物は滅んでしまいます。つまり、生き物は必要以上に争わず、環境と調和して生きてきたから種を保存できたのです。例えば、犬同士が喧嘩すると、負けた方は腹を見せて降参の意思を表わすと、勝った犬はそれ以上攻撃しません。それ以上攻撃すれば相手は死に、それを繰り返せば種が絶滅することを本能的に認識しているのです。

 ところが、「お前の価値観、理性、知性で生きよ」と言われた人間は自我とわがままのために環境と調和することができず、一般の生き物にも劣る状態になっています。現在、地球上に150万種の生き物がいますが、人間はその上に君臨して地球を征服しようという間違った方向に進んでいます。環境破壊、絶滅危惧など人間のわがまま、自我が今、地球に災いしています。このままでは人類が滅んでしまう危機感から、紀元前500年頃に世界各地で賢人が現われました。ソクラテス、釈迦、孔子などが現われ、「自我の抑制」のために道徳を説き始めました。

―しかし、人類のその後の歴史を見ると争いは尽きません。現代社会も同じです。その中でも平和を謳っている日本では、凶悪な事件が後を絶ちません。

井口 日本がおかしくなった原因の一つには、戦前戦中の修身、道徳が戦後に「軍国主義を助長するもの」として全て否定されたことにあります。その結果、人間は思うまま、わがままに好きなことをやって生きていいということになってしまいました。

―自我がさらに肥大化していったのですね。

井口 自我を抑制できず肥大化していけば、人類は必ず滅びるということを、2500年前に賢人たちは警告していました。「そんなことは杞憂だ」と言う勿れ、です。その前兆が、川崎市の事件や佐世保市女子高生殺人、名古屋の女子大生による殺人事件なのです。私が一番ショックを受けたのが、神戸で起きた「酒鬼薔薇(さかきばら)事件」や佐世保の事件で殺人を犯した少年少女が平然として「人を殺してみたかった」と言っていることです。佐世保の女子高生は尋問の時に「人を殺してなぜ悪いんですか」と平然と答えています。人間は道徳、教育を疎かにすれば、こういう人間になるのです人間は、教育、道徳によって辛うじて人間性を保つことができる生き物なのです。

 赤ちゃんは、ホモサピエンスという動物として生まれてきます。これをそのまま放ったらかしにしていたら、「人間」になりません。赤ちゃんは狼に育てられたら狼になってしまうのです。つまり、人間は人間に育てられないと人間になれないのです。親が人間のあるべき姿の規範である道徳を教えないと、人類が滅びることに繋がりかねません。

―これから始まる道徳の教科化は効果はあるでしょうか?

井口 なかなか難しいでしょうね。問題は先生なのです。先生の大半が、子供達に知性を教えれば済むと思っています。しかし、本当に大切なことは、先生という「人間」が「道徳」を子供に教えているのです。道徳の「教科書」が教えているのではありません。知性偏重の教育が様々な弊害を生んでいます。また、問題行動を起こす子供の親は高学歴者が多く、子供を「いい大学に入れていい会社に就職させる」ことを教育だと勘違いして、人間教育を全くやっていません。人間教育とは、「感性」の子供が人間の信頼関係を築くことから始まります。その重要な役割を果すのが、母親です。赤ちゃんが生まれて最初に愛情を受けるのは母親からで、そこで母子の愛情関係が成立するはずなのですが、十分に愛情を受けなかった子供は思春期になって必ず問題を起こします。人を信頼できないのです。

 

 

「内なる神」との対話

 

 

 

 

―親の子供への愛情は、甘やかすということではありませんね。

井口 親は愛情があるからこそ、ある時は子供を厳しく躾けます。叱った後は必ず優しくして下さい。三歳までに「人間を信頼する」心が出来上がります。「三つ子の魂百まで」という日本のことわざは、大脳生理学で十分証明できます。赤ちゃんの脳は三歳までに大人の80%のニューロン回路(神経細胞の絡み合い)ができて、内部世界(心の基本)が作られます。

 四歳になると、外部環境からの刺激を受けるようになり、それまでに出来上った内部世界(心)が外部刺激に反応するようになります。親はそれを注意深く見守って、適不適を評価する。つまり、「善悪の躾」をするのです。例えば、自分の子供が発達障害の子供の真似をしているのを見た時に、親は「それが人間として最も恥ずかしいこと。二度とやったら承知せんぞ」と激しく怒ってみせるのです。そこで、子供が「どうして?」と不思議そうに訊いても、「問答無用。ダメなものはダメ」と返せば、子供は二度とそういう行動はしません。これは、知性でなく感性に働きかけることで、「人間として正しい道を歩く」ことをしつけることになります。十歳までは子供の感性を育てる教育が必要なのです。

―ご自身の理論では、人間の脳の「大脳辺縁系」という古い脳が感性を司るそうですね。

井口 赤ちゃんは生まれてくる時に、この古い脳しか持っていません。チンパンジーでは獣的で機能していますが、ヒトでは親から「真善美」の刺激を与えられるので、人間の古い脳は、獣的から人間的になって人格を形成します。分かりやすく言うと、古い脳は「人間として善く生きる」ことを考え、それに対して新しい脳は「うまく生きる」つまり、要領よく生きることを考えます。すなわち、古い脳は感性、新しい脳は知性を司ります。

例えば、新しい脳(知性脳)たくさんの物質的な知識を詰め込み(習得性)、それを現実に生かす(合理・論理)ことに心が働きます。そうすると、外向性が強くなって、現実的な思考が働き流行を追い求めるようになります。他者を利用することを考え、効率・要領を追い求めそれで立身出世を目指します。そのために戦略戦術を組み立てるという「社会性・処世術」に頼る心になります。それに対して、古い脳(感性脳)では人類が長年蓄積してきた「心の記憶」と言った方がいいかもしれませんが、感性を機能させます。感性は逞しく生きる力、人間力と言えます。直感的で非合理な心の働きです。

 大脳生理学の観点からは、今の教育は点数という数量だけの教育、つまり新しい脳の働き(知性)に偏って、真善美という感性教育を無視した教育です。その結果、とんでもない人間が育っているのです。

―脳と心の働き、精神の関係性はどうなっているのですか?

井口 心すなわち精神は、脳という臓器のニューロン回路で発生するものです。人間の脳は、「自分自身」という自意識を形成します。かつて、人間は神を外に置きました。原始時代の人間が台風や地震などの自然災害が起きると、外なる神に祈っていました。それが次第に自分自身の中に「内なる神」を持つようになりました。宗教や道徳がそれです。「こうしなくてはいけない」と諭す内なる神、自分自身を生身の自分より一段高い所に置き、常に対話することで

心の安定を得、さらに自分を高めることができます。ところが、現代は「知性だけでいい」という唯物的な考えが蔓延していますから、不安を抱える人が多くなりました。自分自身と向き合っていない人は自分に自信が持てず、不安になると、他者を攻撃するようになります。自分自身と向き合うことによって、自分を強くする。その柱になるのが、真善美を求める道徳なのです。

 心はほんの最近になって脳が巨大化した時にできたものなので、進化の過程で引き継がれたものではありません。善悪の概念に遺伝子的なものはないのです。つまり、「言わなくても分かる」という予断は、人間の心には通用しません。だから、小さい頃に「ダメなものはダメ」という躾をしっかりやる必要があるのです。

 

 

 

うなぎ屋のお父さんと、小野田さんのお母さん

 

 

 

 

 

 

―大人の中には「そんなことはわざわざ言わなくても…」という心理が働いている人が多いような気がします。

井口 確かに昔は親が注意しそこなっても、祖父母や地域社会がそれをカバーしていました。しかし、今やコミュニティーは崩壊し、核家族化していますから、善悪の区別を教えるのは、家庭と学校しかありません。

―子供に関る大人たちがしっかりと教える必要がありますね。

井口 ただし、それはあくまでも十歳までのことです。それ以後になると、新皮質、新しい脳が本格的に働きはじめます。新しい脳は、自己判断をするところなので青年期になっても幼年期の躾をやっていると、子供の脳は混乱してしまいます。

―思春期はなかなか難しいと言われます。

井口 思春期の子供が何か問題行動を起こした時に、頭ごなしに叱るのではなく「こういうことは控えた方がいいんじゃないかな。先生は何と仰るかな」とやんわりと投げ掛けるくらいにしておいて、「困ったことが起きたらいつでも父さんに相談しなさい」と、判断を本人に投げかけるようにします。十歳までにしつけをやり足りなかったと思っても、思春期以後に躾を強くやると逆効果です。実際、思春期にいきなりきつくしつけた結果、子供が自宅に放火した事件が奈良県で起きました。

 私がよく行っていた東京のうなぎ屋のおかみさんから、親のしつけについて自身の経験を聞いたことがあります。おかみさんのお父さんのしつけは料理屋なのでかなり厳しく、何か間違えると頭を叩かれていたそうです。おかみさんが思春期になった頃、またお父さんに叩かれそうになって、おかみさんは本能的にお父さんの手を払いのけました。すると、お父さんは「あぁそうか…俺の仕事は済んだのか」と呟いて、それから二度と手をあげなくなったそうです。

 もう一つ、象徴的な話があります。昨年亡くなった、作戦中止の命令に接しないとして、終戦後も29年間もフィリピンのルバング島に隠れていた小野田寛郎さんは、小学1年生の時に上級生に小刀でけがさせました。学校から連絡を受けていた母親は、帰宅した小野田少年に「なぜけがをさせたのか」厳しく詰問します。ところが、少年は何度も「正当防衛だった」と言い張り反省しません。母は息子に風呂に入るように命じ、風呂からあがると、裃が用意してありました。「どこかいい所に連れて行ってもらえるのかな」と思っていると、仏間に連れていかれました。母は息子に短刀を渡し、「お前は、人を殺めてはいけないと何度言っても言い訳ばかり。小野田家には物騒な血筋がある。このままではご先祖に申し訳ないので、腹を切りなさい。私も後を追います」。少年は驚いて、謝りました。

 小野田さんが長じて出征することになり、母と墓参りに行った時、母から短刀事件の当時の気持ちを初めて聞かされます。「あの時は一世一代の大芝居だった。あの時、お前が謝ってくれたからホッとした。お前もこうやって成長して出征することになって本当に有り難いことだ。ただ、これだけは言っておく。お前が無事に戦地から帰ってきて男の子を授かったら、あれくらいの迫力でしつけをしなければいかんぞ。元気で行ってきなさい」と激励されて戦地に赴きました。

 これが、明治の父親、母親の躾の姿です。この力強いしつけの迫力には驚きます。明治の人は、「善悪」はこれほどの迫力でやらないと子供は分からないということを伝統的に知っていたのです。

―「躾は幼年期では徹底的にやり、青年期になったら逆に抑える」ことが、肝要ですね。

井口 中高生の道徳教育のポイントは幼年期のそれとは少々違います。思春期を過ぎれば、自分の意思で意欲的にやりたいことをやりたがります。そこで、発揮する人間力は小学校時代に涵養されたものですから、あくまでも小学校の道徳教育が一番重要です。ただ、中高での道徳教育は、生徒に判断させる指導が望ましいでしょう。生徒自身に気づかせる授業であるべきで、教師は生徒の生き方のアドバイザーであり、生徒達のお手本になるべきです。

―小学生の道徳教育は「考えさせる」内容になっています。

井口 子供の脳は自分で考える能力がまだ不十分です。それを先生から「考えなさい」と言われても何を言われているかよく分からないのいです。しかし、子供は賢いので考えている振りをして、大人が騙されるケースが多い。小学生の道徳教育は「理屈抜き」で当たるべきですよ。

―今、「褒める」教育法が一部、支持されていますね。しかし、褒め過ぎると叱りにくくなると思うのですが。

井口 厳しいしつけと褒めることのバランスをうまく取ることでしょうね。親の心の中に「叱った後は十分に褒める」という気持ちがあればいいのです。あくまでも愛情が根底にないといけません。しつけを厳しくやり過ぎると、子供から薄情な親だと思われはしないかと心配するお母さんの声を聞きますが、しつけは子供のために絶対に必要で、叱った後はそれを上回る愛情表現をいつも用意していればいいのです。「叩いた手を子供から外したら最後。叩いた手でそのまま子供を抱きしめなさい」という言葉がありますが、その通りだと思います。(フォーNET 2015年10月号より)

 

 

 

大正十年久留米市生まれ 九州大学医学部卒 井口野間病院理事長 日本外科学会名誉会長 ヒトの教育の会会長 

水道事業民営化について

水道事業の民営化で導入されるPFI方式は

受託する企業がリスクを負いません

民営化には、公共に対する受託会社の説明責任をしっかり

果たせるべきなのです

 

 

パリは再公営化

 

 

 昨年の国会では廃案になりましたが、継続審議中の「改正水道法」は、水需要の減少や水道施設の老朽化など地方自治体が抱える問題を解決するために昨年三月に閣議決定された法案です。改正案は人口減少社会や水道施設の老朽化などの課題に対応するために水道事業の基盤強化を図るものです。具体的には、全国に約1400ある上水道事業の七割を給水人口5万人未満の中小事業者を占めているために、その経営効率化を図るために広域連携を進め、一方では官民連携を進め水道施設の運営権を民間事業者に設定(委託)できる仕組みを導入します。いわゆる、水道民営化です。

 小規模の水道事業では経営効率が悪く、広域連携で効率を高める意義は理解できます。問題は、民営化です。これまで水道事業の一部を民間に委託しているケースはありました。水質検査や浄水場管理、料金徴収など多くの自治体で実績があります。今回の改正案では水道事業の経営を含む全業務について包括的に民間に担わせる方式です。その手法として有力視されているのが、水道施設の所有権を自治体が持ち、運営権を民間に売却するいわゆる上下分離方式、「コンセッション」です。これはPFIの一類型で2011年にPFI法改正で導入されました。

 民間は基本的に営利が目的です。「市民に安全な水を安定的に供給する」という公共性が極めて高い事業を損してまでやるとは限りません。その結果、民間が利益を上げるために水道料金を引き上げたり、過剰な人員削減を進めるなどしてサービスが低下したりするリスクがあります。実際、かなり早く水道を民営化したフランス・パリ市は、民営化して水道料金が三倍に跳ね上がったために再公営化しています。他にも水道料金の値上げや水質の悪化などを理由に民営化から公営化に戻した都市は百以上もあるといいます。改正水道法案は、果たしてこうした失敗事例に学んでいるのでしょうか

 

 

 

 

 

「おんぶに抱っこ」方式

 

 

さて、改正水道法で導入されるコンセッション、PFIとは、プライベート・ファイナンス・イニシアティヴの略で、公共施設などの設計、建設、維持管理、運営に民間の資金とノウハウを活用しようという目的で、公共サービスの提供を民間主導で行うものです。しかしプライベートファイナンスという名称自体が嘘あるいは詐欺であることを知っておくべきでしょう。行政用語でいう「公設民営」です。本来であれば、BOT(ビルド・オペレート・トランスファ)方式であるべきなのです。つまり、手を挙げた民間事業者自ら資金を調達して施設の設計・建設・運営し、所有権は委託期間終了後に公共に戻すという仕組みです。つまり、リスクは民間が負うのです。公益事業というビッグビジネスを委託されるのですから、初期投資のリスクを民間が負うのは当然ではありませんか。しかし、日本のPFI及びコンセッション方式ではその資金を政府など公共が保証しているのでノーリスクです。要するにおんぶに抱っこの方式なのが実態です。プライベート・ファンドイニシアティブではないのです。独占的事業をやるという特権をノーリスクで一部の民間がやっているわけで、大きな顔をしてはならないのです。本来は特権を得る民間が自らリスクを負うBOTでやるべきなのです。

 にもかかわらず、おんぶに抱っこ方式で民間に委託させることの、いかがわしさ、怪しさ、危さをもう一度検証すべきではありませんか。「民から官へ」という掛声に流されてはいけません。公営事業の目的は、あくまでも市民、国民に対する公共サービスを安定的かつ安全に提供することです。それを民間の論理だけでやってはなりません。民間企業の目線の先にあるのは、株主でなければなりませんが委託を受けた民間企業は、株主と同時に国民や市民に対する、つまり国会や議会に対する忠誠も求められます。鵺(ぬえ)のような存在なのです。最近、雨後のタケノコのようにできている「特殊会社」は、あの悪名高き特殊法人が看板を替えただけの代物で、公と民間のグレーゾーンに位置する伏魔殿になっているのではないでしょうか。こうした組織こそしっかり監視する必要があります。

 つまり、公益という特権をリスクなしで受託して利益を上げるこうした事業者の姿は、共産党幹部による山分けによって生まれた中国の企業を彷彿とさせます。中国のことを笑えないではありませんか。日本のPFI方式は中国の局部版であり一部の民間企業が特権を横領しているという見方もできるかもしれません。

特権ビジネス

 

 

こうした公と民の間のグレーゾーンにいる代表的な存在が、JR各社です。民営化しついに株式を上場したJR東海は私たちは民間だと言い募ります。そして充分利益を上げていて10兆円ぐらいでできるリニア新幹線は独力でできますと言ってスタートしているのです。しかしJR各社が民営化する時に数十兆の借金を国が肩替りしていることを忘れては困ります。まずその10兆円を国民に返すべきでしょう。またJR東海元社長の言明に拘らずリニア新幹線の資金調達には国の債務負担があるのではないでしょうか。

 新幹線は鉄路の敷地買収や建設は国と地元自治体が負担しています。BOTのOつまりオペレーション=運営だけJRで、これは一種のPFI方式です。リスクを負わず特権ビジネスをやる先駆的事例なのです。鉄道事業は法律で参入を制限される公益事業です。地域住民のための足を安全にできるだけ利用しやすい料金で確保するべきなのです。あくまでも自分たちは民間企業だという建前を突張ろうとしますが法律によって特権を与えられている公益事業です。

 民営化という美名の下に、いったん民間企業になったらその後の運営について、公は関与させない。公益事業をやっているはずなのに、民間企業のような顔をして公共性を無視しています。経済効率化を図るための民営化ではありますが、そこに公共性という重要な要素をしっかりと担保しておくべきではありませんか。儲けだけを追求せず、踏み切り待ちや事故を防ぐために高架化などに投資すべきなのです。このように公共性と利益を同時に求めるものです。安全対策、利用しやすい料金体系など公共性に投資するのが公共性であれば、費用対効果を追求するのが民間企業です。この相反する事がらを両方共達成できる企業に委託するべきではありませんか。

特権ビジネスだからこそしっかりとしたガバナンスが必要なのです。公益事業の最終責任は国や自治体にあります。それを民間に委託するのならば、その範囲をしっかりと検証し、公益事業を受託した企業は、委託事業に関して株主だけでなく公共に対しても説明責任があるのです。つまり、株主だけではなく、国会や地方議会に対する説明責任があるのです。

 (フォーNET 2018年2月号 太田誠一の『政談談論』より)

韓国の徴用工問題。時代主義の韓国の歴史。

『俗戦国策』(杉山茂丸著、昭和4年

  • 決死の苦諫(※くかん)、伊藤公に自決を迫る(弐)

     

     

     

     伊藤約を破る

     

     伊藤統監が、庵主との約束を無視して、朝鮮を取らぬ事に腹を極(き)めて、世界に之を公布したからである。ドンナ事を公布したか?伊藤統監は赴任日ならずして、日韓条約を復興し、其(そ)の上韓国駐在の各国総領事を官邸に招集し、宴を開いて施設の演説をした。曰く、

    「本官は今回、朝命を蒙(こうむ)つて、日韓修好の大任に当る事となつたが、仰々(そもそも)日韓の国交は、双方の国祖以来、二千有余年、重厚の歴史を閲(※け)みして来て居るが、其(そ)の国家位置上の関係から云ふも唇歯輔車(※しんしはほしゃ)であつて、少しにても粗慢(※そまん)の情実が、其(そ)の間に介在しては、忽ちにして両国の不幸を醸成するのである。故に鴻(※こう)大(だい)慈(※じ)仁(じん)の日本 天皇陛下は、本官に命じて至大の大権を任命し給ひ、内外の政治に向つて、最善の注意を以て、永久に両国民の幸福を増進せしむべき施設を行はしめ給ふ。故に坊間(※ぼうかん)動(やや)もすれば唱道(※しょうどう)する、日露の戦果として、日本が此(こ)の国を領有するなぞの説は全くの虚妄の事にして、日本の 天皇陛下は韓国に対して、其(そ)の独立の光栄を尊重し給ひ、其(そ)の国民に対しては日本国と共栄の幸福を喜び給ふのである。云々、

     と云ふやうな趣旨であつたと思ふ。

     此(こ)の演説に外国の総領事一同はビツクリ驚いたのである。ソコデ何でも白(ベ)耳(ル)義(ギー)の総領事が一番年長とかで、左の如き頌辞(※しょうじ)を述べたとの事である。曰く、

    「(前略)世界的に光輝ある歴史の発祥したる、日本 天皇陛下の鴻大慈仁なる叡旨を、親属の大任を奉持(ほうじ)たる、公爵伊藤統監の口より拝聴する、我々外国駐箚の使臣一同は、驚喜(きょうき)に耐へざる事で、是に因つて両国民の幸福は、世界人道の上に、一層の光彩を放つ事と信ずるのである。小官等は、詳(つまび)らかに此(こ)の深遠なる御趣旨を、本国政府に通報する事を、無上の光栄とするのである。云々」

     と云ふやうな事であつたらしい。此(こ)れ等の事が各新聞に掲載せられたので、庵主がクワツクワツと怒り出したのである。ナゼなれば、韓国を日本に取るやうにする約束で赴任した伊藤統監であるから、庵主等は一生懸命で内外の同志其(そ)の他へ、此(こ)の統監を屹度(きっと)助くべく伝道したのである。其(そ)の統監が行(いき)成(なり)に朝鮮は取らぬと露骨に公言しては、モウ永久に韓国は取られぬ事となるのである。

     韓国が取れねば、遠くは神功皇后以来、歴朝の難経歴や、太閤秀吉が文禄の役前後の犠牲、近くは江藤新平西郷隆盛板垣退助、大井憲太郎等の対韓の苦心や、日清戦役の犠牲、況(いわん)や今回の日露戦役の犠牲、軍費二十八億、死傷二十三万の如きも、全くの無駄事となるのである。夫(それ)が伊藤統監の根本より組織的に今回こそ韓国を領有すべき機密の大機軸を把握する大権を有しながら、日本無双の大権力、大光栄ある大官に任ぜられ、鶏林八(※けいりんはち)道(どう)に君臨する、李王家以上の優勢地位にある自己に酔うたる妄想の為に、斯(か)かる一大事を軽々敷(かるがるしく)公言するのみならず、間近く明治十七年以来、日夜の苦心を以て、親日主義を高唱し、身命を賭して、日本 天皇の御為に家資宝財までも抛(なげう)ち、全くの耐へ難き李朝政府の圧迫を凌いで、トウトウ日露戦役の終結まで漕付けた数百万に及ぶ親日主義の韓国志士を、一時に鏖殺(※おうさつ)するも顧みざるのみならず、前に云ふ日本二千年来、志士の犠牲を故意に無視したる、此(こ)の公言は、寸刻も見許(ばか)す事の出来ざる事であると思うたに相違ないのである。ソコデ庵主が熱した鉄(てつ)丸(がん)の飛ぶやうになつて、京城の統監官邸に転(ころが)り込んだのである。

     先ず後藤猛太郎伯と、後藤勝蔵を、釜山の大池と云ふ宿屋に泊らせ置き、庵主は即日夜汽車に乗込み、南大門に着くと其(そ)の儘(まま)、官邸に伺候し、伊藤公に面謁(めんえつ)したら、其(そ)の時、伊藤公は、韓国の陶器商を数人呼寄せ、其(そ)の陶器の選択に余念なかつたのである。庵主の来るを見て、

    「ヤア珍客が来たナア……君は陶器は買はぬかネ」

    「ハイ閣下はお買上げになりましたか」

    「ム(ござ)ウ此(こ)の花瓶と、此(こ)の水指と此(こ)の鉢を買うた。ドウぢや数千年を経た品としては無疵(むきず)ぢやでノウ」

    「夫(それ)ではモウ夫(それ)丈(だけ)でお仕舞ひでム(ござ)いますか」

    「ムウ買物はモウ仕舞ぢや」

     其(そ)処(こ)に三人許(ばか)りの陶器商が居て、此(こ)の品が百済でム(ござ)います……此(こ)の品が古高麗でム(ござ)います……と座敷一面に拡げて喋(しゃべ)舌(り)立てゝ居るから、庵主は、

    「アヽもう講釈には及ばぬ……其(そ)処(こ)に在る品を、全部俺が買ふから……直ぐに荷造をして俺の宿に持つて行け……早くせよ早くせよ」

    「お宿は何所(どちら)様で……」

    「夫(それ)は知らぬ。統監府の役人に聞けば。ドコにか宿が取つてある……早く行け早く行け」

    と急き立てると、伊藤公は、

    「君そんなに買ふのか……大変な金高(きんだか)ぞえ」

    「ナンボ高くても知れた物です……早く行け行け」

    「丸で藤田伝三郎が物を買ふやうぢやノウ」

     ヤツと陶器商を追払つた。ソコデ庵主は、徐に「ストーブ」の前の椅子に腰を下ろして、暫く頭を下げて、公の態度を見て居ると、公は右手にシガーを持ち、左手に「ブランデー」の「コツプ」を持ち、左(さ)も機嫌さうに、

    「思ひも寄らぬ君の来京には実に驚いたよ……電報も打たずに来たのは、何か急用でもあつてか……ドウして来たのぢや」

    「ハイ急用でもム(ござ)いませぬが……重大な事を心得ましたので、克(よ)く閣下に伺つて見たいと存じまして」

    「ハヽア何事かね」

    「事件は新聞紙で見た事でム(ござ)いますから……克(よ)く伺つて見ねばなりませぬが……閣下は御赴任後、各国総領事を官邸に召されて宴を賜ひ、其(そ)の席にて『韓国に対しては永久独立修交の政務を統監すべき任務を負ひ、世界的人道を基調として、両国民の共栄を謀り日韓両国の国交に就いては、従来の通りの保護政策の外には、何等の処置も取らぬ方針ぢや』と世界的に公布せられたやうな演説を遊ばしましたか」

    「ム(ござ)ウ其(そ)の通りぢや……其(そ)の通りの趣意で演説したよ……」

    「夫(それ)では、東京でお約束致しました通り、先ず統監制を拵(こしらえ)へ統監と成つて韓国に臨み、内外政治権の全部を総覧し、其(そ)の上にて日露の戦果に伴ふ、『日本の永久把握すべき大権を収得する』と云ふ、日韓併合の方針はお止めになつたのでム(ござ)いますか」

    「夫(それ)はソンナ事を、君等と約束したかも知れぬが……統監を拝命して調べて見ると、『韓国は絶対に取る事が出来ぬ』と云ふ厳重な条約に両国の元首が、御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)を鈐(きん)せられてある。即ち日韓協約と云ふ物がある。其(そ)の協約は君の親友の桂太郎がした条約である。夫(それ)には『絶対取る事ならぬ』と書いてある。先ず『韓国王室の隆盛を謀る事』『韓国富強の基(もとい)を開く事』『韓国が自己の力で屹度(きっと)独立し得るまでは、永久に保護をして助けて遣る』と書いてある。其(そ)の条約を締結する時は、君等も八ヶ間敷(やかましく)云うて、桂等をして此(こ)の条約をさせたのではないか。君等は其(そ)の協約は知らぬと云ふのか……夫(それ)を知つて居ながら、我輩に此(こ)の世界に公々然たる其(そ)の条約を無視し、蹂躙して、乱暴にも何でも可でも人の国を取れと云ふのか。日頃秩序を八(や)ヶ(か)間(ま)敷(しく)云ふ君にも似合はぬではないか。夫(それ)は君が無理である。ソンナ事は我輩は断じて為(せ)ぬよ……ソンナ馬鹿気た事を考へて態々(わざわざ)出て来るなどは、君もドウかして居るのではないかネーーー」

    「ハテ左様(そう)ですか……閣下は東京でアレ程堅いお約束を為されまして、私共を雀躍させて喜ばせて、是迄日韓両国の為に、長年艱難辛苦を致しました、両国多数の志士等に、一斉に新統監の施設を歓迎すべく通牒を発せしめられた上に於いて、俄然として其(そ)の約を無視し、終に私に向つて馬鹿呼ばわりを遊ばす様では又例に拠つて閣下のお心が狂始めたかと思ひます。能(よ)く御考慮を願上げます」

    「ナニ我輩が気狂ぢやと……夫(それ)だけは聞捨ならぬぞ……何を押へて左様な暴言を云ふのか……」

    「失言はお許を願ますが、此(こ)れは単なる閣下と、私の私事ではム(ござ)いませぬ。全く以て日本帝国の安危存亡に関する事であるのみならず、閣下の御一身に於かせられても、取返しの付かぬ一大事と存じ上げます」

     

    • 苦諫 言いにくいことをはっきり言って、目上の人をいさめること。
    • 閲み (閲みする)調べる。見て確かめる。あらためる。
    • 唇歯輔車 (「春秋左氏伝」僖公五年の「諺に所謂 (いはゆる) 、輔車相依り、唇 (くちびる) 亡ぶれば歯寒しとは」から)一方が滅べば他方も成り立たなくなるような密接不離の関係にあって、互いに支え助け合って存在していることのたとえ。
    • 粗慢 考え方ややり方などが、大ざっぱで、いいかげんなこと。
    • 鴻大 きわめて大きいこと。また、そのさま。
    • 慈仁 なさけ深いこと。
    • 坊間 市中、世間。
    • 唱道 ある思想や主張を人に先立って唱えること。
    • 頌辞 功績を褒めたたえる言葉。
    • 鶏林八道 朝鮮全土。
    • 鏖殺 皆殺しにすること。
    • 藤田伝三郎 (一八四一~一九一二)実業家。山口生まれ。明治維新後、陸軍用達業者となり、西南戦争で巨利を得て藤田組を創設。鉱業を主に多数の事業を行った。
    • 鈐す 印を捺す。
    •  

     

     

     伊藤公と一騎打

     

     

    「君、生意気な事を云ふな……国家の安危存亡は博文、君には習はぬぞ……博文は心身共に国家の為に捧げて、此(こ)の地に赴任して居るのである。下らない、咄(はなし)なら止め給へ」

    「外(ほか)の事なら何でも閣下のお叱りを受けますが、国事となつては、是非とも伺ふ丈(だけ)は伺はねば決して此(こ)の席は退(の)きませぬ……先ず落ち着いてお聞きなさいませ……閣下は日韓協約の事を統監拝命の以前から、私と共に飽迄(あくまで)お存じの唯一の御方でム(ござ)います。今回統監御赴任になつて、初めて此(こ)の協約の存在を御発見になつたのではム(ござ)りませぬ……其(そ)の協約があるから、韓国は併合する事が出来ぬと仰せられますが、夫(それ)は私に向つて仰せらるゝ事ではム(ござ)いませぬ……議員の観光団でも、参りましたら左様の事を仰せられて宜しうム(ござ)います。

     彼等貴衆両院の者共なら、国家の根本をも理解せぬ者共許(ばか)りでム(ござ)いますから、統監の御威光で晩餐でも賜つて、左様な御演説でもありましたら、随喜の涙を零して有り難くお聴きするでム(ござ)りませうが……私丈(だけ)には決して左様な乱暴を仰せられる事をお止め遊ばすが、閣下のお為でム(ござ)ります……能くお考へ遊ばしませ。其(そ)の桂総理大臣の締結致しました、日韓協約を挙げて韓国の国王及び政府が、日本 天皇多年の御仁恵と御保護と共に忘却し、無視し、其(そ)の上に夫(それ)を土足に掛けて蹂躙し、彼が方から破棄致しまして其(そ)の協約が無くなりましたから、茲(ここ)に初めて日露戦争が起つたのでム(ござ)います……元来日清戦争後に於いて、露清両国は、屡々(しばしば)秘密条約を致しますので、日本政府よりは数回警告を両国に発しましたが、夫(それ)を彼露清両国は、極端に刎(は)ね付けました。日本政府は其(そ)の権幕に恐怖して、只之を見て居ました処が、露西亜は屡々(しばしば)『バ(※)ルカン』に対する強行南下に失敗し、今度は西比(シベ)利(リ)亜(ア)鉄道施設首部なる物を起し、烈寒瘠土(※れつかんせきど)、三(※)千余英里の西比(シベ)利(リ)亜(ア)に鉄道を布設すべく、二億六千万留(ルーブル)の巨資を以て計画し、露国第一の政治家にして、経済家たる『ウ(※)ヰツテ』伯を擢(※ぬ)いて、此(こ)の施設首部の委員長に上げ、一(※)意勇往、浦塩(※うらじお)に達すべく、十六ヶ所より一斉に着手致しました。其(そ)の時私は閣下に御意見を伺ひましたら、(ナニ露西亜人の煩悶ぢや……日本は露西亜人の煩悶の相手にはなれぬ…『バイカル』の湖水は汽車を抱へて越すのか……ソンナ痴漢(こけ)威(おど)しで……露西亜自身が滅亡する丈(だけ)の外(ほか)何の興味もない事ぢや)と仰られました。夫(それ)から其(そ)の鉄道路線が『ハルビン』に達するか達せぬ頃、パツと露(※)清の秘密条約を発表し、『ハルビン』より『南マンチユリア』に『ブランチ』(支線)を起工し、奉天、遼陽、南山、大連、旅順、と五ヶ所より工事を始め、今迄蓄積した布設材料は、一斉に『バイカル』の湖水を『フヱレーボート』にて列車を其(その)儘(まま)船に積んで輸送し、一方は自国の船と、支那の招商局の残船にて、海路より輸送し来り、夫(それ)が悉(ことごと)く軍事的永久の設備を為すのでム(ござ)ります。アレヨアレヨと云ふ間に、露国は絶対無限の権力を持った、東洋総督たる『ア(※)レキシーフ』が、天津に往来を始めました。

     オヤオヤと云ふ間に、京城駐在の露国公使に命(めい)を伝へて、韓国の王室及び政府をグーツと押へ付けました。唯さへ自(※)強会と云ふ親露党を高唱する事(※)大主義の、李(※)完用内閣は、国王と共に日本より受けたる多年の煦育(くいく)保護の恩義を、瞬間にして放棄し、日韓協約をもズタズタに引裂いて、直ぐに馬(※ば)山浦(さんほ)を三方の上に載せて、露西亜公使の前に跪(ひざまず)き(東洋に於ける海陸連絡は、馬山浦が一番宜しうム(ござ)ります。対馬の租借もお望みならば、尻さへ押して下されば、韓国から日本に申込みます)と申出たのでム(ござ)ります。サア、日韓協約が此(かく)の如く蹂躙破棄され、多年の東洋の家庭に苦楽を共にせねばならぬ女房の韓国が、斯(か)くの如く白日公然露国公使と姦通をして、彼が懐に抱かれた上は、日本は忽ちにして、東洋家庭の破滅であるから、国家を焦土となすも、最後の一人となるも、刀の鞘を払うて戦はねばならぬ事になつたのでム(ござ)います。サア如何でム(ござ)います。此(こ)の日韓協約が韓国の不埒で、破棄されたればこそ、閣下は小村外務大臣と東京駐在の露国公使『バロン・ローゼン』と談判をさせねばならぬと云ふ事をお極(き)めになつたではム(ござ)りませぬか。此(こ)の小村外相に命ずる、日露談判の元價(もとね)、即ち是所(ここ)までは戦はずに我慢する、是(これ)以上はモウ国家を失ふも戦争をすると云ふ、談判の根本を極(き)めて、小村に命ぜねばならぬと云ふので、閣下は前代未聞の御謹慎で、伊勢大廟(だいびょう)に御参拝になつて、京都に待つて居られる、山縣公の別荘に御参集になる桂、小村の両相は、大阪の藤田の別荘で閣下をお待申して居る。

     児玉台湾総督と、私は呼ばれて、京都にお待ち申して居ます。ヤツと閣下が京都にお着きが、即ち明治三十六年の四月廿一日であつたと思ひます。夫(それ)から閣下と山縣さんと、桂総理大臣と、小村外務大臣との四人は、アノ山縣さんの内の西洋館の二階に、朝の十時頃から午後の四時頃まで、弁当まで二階に取寄せて、御評議になつたのは何事でム(ござ)いました。是が日本開闢以来、又なき無鄰(※むりん)庵(あん)会議と申す、全く国家を粉砕するか、取留めるかと云ふ天地も震動する程の会議でム(ござ)いましたぞ。私と児玉さんは、下の座敷で大欠伸して寝て居りましたが、晩方に二階から降りてお出になつた閣下方は、如何なる事を御評定になりました。

    (韓国を確実に日本の有とするなら、戦争は我慢しよう……若し夫(それ)を露国が承諾せず、一歩でも鴨(※おう)緑(りょく)江(こう)を超えて来たらば、日本は滅亡を期して飽くまでも戦争を仕よう)

    と云ふのでム(ござ)いました。私と児玉さんは、実に実に其(そ)の閣下方の御評議の安價に一驚(※いっきょう)を喫しましたが、皆々一通りならぬ緊張の時でム(ござ)いましたから、怏々として東京へ帰つて来ました。夫(それ)から同年の六月廿三日、天皇陛下の御前で其(そ)の条件を議題として、御前会議が開かれました。其(そ)の時、明治天皇は、

    (卿等が評議した通りで宜しい……遄(すみや)かに両国の談判を開始せしめよ)

     と仰出されましたので、此(こ)の無隣庵会議の決議は、直ぐに夫(それ)が国是となりました。夫(それ)から両国の談判日に非にして、トウトウ翌年の二月七日には、瓜(※)生、八(※)代の両将が、仁川に於いて露国の軍艦二隻を撃沈致しました。夫(それ)から旅順の海戦となり、延(ひ)いて海陸の大戦二年に亘りまして、非常の惨烈を極(き)めましたが、夫(それ)は国是の為に戦うたのでム(ござ)います。(其(そ)の国是は即ち韓国を確実に取るのでム(ござ)い升。モウ協約は疾(とう)の昔風邪に舞うて飛んで散つて仕舞うて、此(こ)の世には在りませぬ)即ち是丈(だけ)の事実は、一事として閣下が御自身に御関係ない事はム(ござ)いませぬ。幸いに、天皇の稜(み)威(いつ)と、閣下方の御苦心と、海陸兵士の忠勇とによつて天佑(※てんゆう)常に日本軍に厚うして、大捷(※たいしょう)を得ました。今日となりましては、最も当然の措置として、

    (1)先ず韓国の意思を叱責して、二度と此(かく)の如き不埒を為し得ぬ丈(だけ)の措置をする為に、統監制が出来ました。

    (2)国是として韓国を確実に取る為に、統監制が出来ました。

    (3)取るに就いては、既に其(そ)の代価は払い済みでム(ござ)います。即ち軍費二十八億円、死傷二十三万、是は韓国の代価としては、過当の高率である事を、世界に高唱して、深く韓国の上下を戒めて、此(こ)の国是の為に斃れた多くの者を弔うてお遣りなさねばなりませぬ。夫(それ)等の事を、公明正大に執行する為に、統監制が出来ました。

     然るに閣下は、既に破棄せられて、影も形もない日韓協約を、マダ現存するかのやうに拾い上げて、別に閣下の協約を拵(こしらえ)へて、其(そ)の疾(とう)の事前に締結した、桂公のみに其(そ)の責めを負はせて偶々(たまたま)得られた、此(こ)の権要の位置に恋々(れんれん)と遊ばして、此(こ)の国是に背き、全国民血誠の軍費に背き、海陸百万の忠誠に背き、二十三万の義勇死傷の神霊に背きて、斯(か)かる畏るべき公言を世界に向つて遊ばした上、永年間、人間の耐へ得ざる、苦痛惨憺を凌いで、日韓の為に赤誠を尽くしました、日韓両国の志士の誠忠に背き給ふ事は、仮染めにも血あり、誠ある人の為し難き事と存じます。其(そ)の上に私微力ながら、此(こ)の事を聞くと其(そ)の儘(まま)、御身辺の事をも気遣ひ、急煎(きゅうせん)の如く飛来して、親しく閣下にお諌(いさめ)を申上げるのに、馬鹿呼ばはりを遊ばすとは、全く御凶狂気でも遊ばしたと存ずる外(ほか)はム(ござ)りませぬ……ドウか思召を改め給うて、一意専心東洋の永久に、国家の面目が相立つやうのお考へに返らせらる事を、両国の為に昧死(まいし)頭を叩いてお願致しますのでム(ござ)います」

     と庵主は生まれて四十三年、幾度か遭遇した死生の刹那も、嘗(かつ)て無かりし程の切情に迫られ、声涙(せいるい)共に下りて、苦諫を為したのである。伊藤公は、全く沈黙に耽つて居られたが、ヤヽ暫くして、

    「杉山君……僕は君の誠意を感謝する……僕は生まれて六十四年君程の人を知らなかつた……夫(それ)では一体ドウしたら好いと云ふのか……」

     

     

     

陽明学「保護主義という治国」

保護主義という治国

 

 

 

 

保護主義の本当の意味

 

 

 メキシコとの国境に壁を作るとか、入国制限など就任して大統領令を次々に出して世界を驚かせているトランプ大統領ですが、マスコミ各社は彼の政策を「保護主義」と表しています。昨年から世界ではアメリカだけではなく、イギリスのEU離脱に見られるように保護主義の傾向が強まっています。保護主義の原点とは何でしょうか?保護主義の本来の目的は、自国民の生活を安定させて国力を再構築させることに重点を置くことだと思います。

かつて世界恐慌の影響で保護主義に走り、その後戦争というものがあるからなのか、保護主義という言葉に必要以上に嫌悪感を覚える人が多いと思いますが、日本が日本らしさを取り戻すために、保護主義を見直す必要があるのではないかと思います。日本は自国のもの、特に食糧の自給率の向上を考えるべきです。今の経済の状況は、一部の大企業、資産家に富が集中するような仕組みになっています。これが新自由主義が追及してきた産物なのです。いつの間にか、公益という名の個の利益ばかりを追求して、民の為にという真の公益は無視されている状態なのです。

 そもそも本来「国」は我々が言うところの「地域」でした。旧字体では「國」です。この字は地域を城壁で囲むという意味です。治国は地域を治めるということです。

現在の国は「修身斉家治国平天下」(『大学』)でいう天下を指します。トランプ大統領が目指しているのは、アメリカという地域、コミュニティを治めて整えることだと思います。それが私の思う保護主義の原点です。そこでは経済だけではなく、教育や治安などの見直しが始まることでしょう。それに対してこれまでアメリカの新自由主義が向いていたのは、「外」でした。そのため、内に向けるべき教育、治安が疎かになってしまい、社会が不安定になってしまい、その反動が大方の予想を裏切りトランプ大統領の誕生になったのです。アメリカはこれまで移民を受け入れ、安い人件費で国力をつけ、移民の夢に向かうアメリカンドリームというエネルギーに転化してきました。それは100年近い歳月を得て、いつの間にか、自国民を疲弊させる結果となりました。

 トランプ大統領アメリカ史上初の政治経験も軍隊経験もない大統領だそうですが、長い間経営者として成功と失敗を繰り返したプロの経営者で、その経営手腕はスバ抜けたものがあると思います。

陽明学の言葉に「一了百当」という言葉があります。日本では「一を聞いて十を知る」という言葉で使われます。経営のプロは政治のプロでもあるということなのです。経営者の使命はまず自分の家族すなわち従業員を守ることです。

これは国家の立場からしたら保護主義なのです。だからといって家族のことだけを考えても会社は間違いなくつぶれるのです。社会の為、お客様の為というものが前提にないと従業員は守れないのです。今までのアメリカの経営者の多くは会社の価値を上げて、それを売買の対象にするといったものが主流で、日本株の売買も彼らを含め外国の投資家が多く関与しています。会社の社員を守るというよりも株価の変動の方に彼らの関心が行っているようです。しかし、そんな経営者の中でも異質な存在の経営者トランプは大統領にとなって守るべき第一のものが家族であるアメリカ国民そのものだというのです。そのように日本的経営者の感覚を持つトランプがアメリカだけの利益の為に動いているというのはおかしい話ですし、それはマスコミの悪意のある幻想であると思うのです。

また、そのようなトランプ大統領を選んだアメリカ国民の疲弊さは容易に想像できますし、今後展開するであろう日本の姿を見る思いがするのです。

 

 

 

横井小楠の国家観

 

 

 今後日本がそのアメリカとどう付き合うかも重要ですが、まずは世界の動きがそうであるように日本も自国の足元を見つめなおす時期が来ているのではないかと思います。

150年前の幕末の志士たちは、当初攘夷つまり開国を拒否していましたが、維新直前に一転して開国に傾きます。この動きに大きな役割を果たした人物に熊本の横井小楠がいました。彼の思想は時代を先取りし、保守派からも攘夷派からも多くの誤解を招き、その結果明治に入り暗殺されてしまいました。

彼は国家の精神の柱を「孔子」の精神におき、西洋の科学技術を習得していく、いわば「和魂洋才」を最初に唱えました。

とは中国古代の伝説上の帝王で、徳をもって理想的な仁政を行い、血筋ではなく人物の徳を持って政を行うという治世でした。

また小楠は新しい時代の日本はアメリカのような共和制が理想だと指摘しています。

また小楠は富国強兵を主張しましたが、これは戦争の為に外に出るということではなく、あくまでも自衛のため、西洋に侮られないためのものでした。小楠の「熊本実学党」は時代を先取り、日本の伝統と西洋的なものを融合させていく実利に優れていましたが、実学党に藩主・細川公の弟の長岡監物がいたためか、勢力争いに巻き込まれ保守派から批判され攻撃されることになります。

その後、彼が外遊で知り合った人の縁で福井藩主の松平春嶽に見出され「横井小楠」という存在が広く世に出る事になります。有名な坂本龍馬の『船中八策』や由利公正の『五箇条のご誓文』は小楠の『国是七条』を基に書かれています。ですから維新の本来の精神は小楠の思想が根底にあると言ってもいいでしょう。もし、小楠の「和魂洋才」が明治以後に継承されていれば、日本は本当の意味での「和の国」になれたのではないかと想像します。小楠の国家観は現在の日本にとって忘れている大切なものを思い起こさせるのに必要なものであると思います。

保護主義に話を戻しますが、コミュニティ(國)が治まらないと、家も整わない(斉家)、家が整わないと個人を確立(修身)できる場もできないということです。ですから本来の國を取り戻すために大切なことは人々の心を育てて立派な人にしていくことであり、それは家作り、地域づくりへと続いていくのです。まずは『大学』にあるように「正心・誠意・格物・致知」「修身・斎家・治國・平天下」と先人たちが継承してくれたものに従いやっていくことが正道なのです。

 

 

泰平の世に学ぶ

 

 

そうした世界の潮流の中で日本はどうすべきなのか。今までのようにアメリカに追随するだけではやっていけない時代になってくるでしょう。日本という国の真の自立を目指すべき時なのです。

戦後70年経っても自立できてない現状は日本という国の形を明確にしてこなかったことが原因にあると思うのです。まずは歴史を通して日本を知ることなのです。日本らしさとは何かを探すのに、未だ多くの歴史書が残っている江戸時代を研究してみることも一つの方法でしょう。

例えば江戸時代では他国に進出せず、侵略されなかったのは何故でしょうか。鎖国したからと言って、攻められないわけではありません。

実際、江戸時代初期にスペインは日本を虎視眈々と狙って、情報取集係りとしての役割を果たしたのが宣教師たちです。それに気づいた秀吉、家康はキリスト教を禁止し、日本を防衛したのでした。そのように情報が伝わり当然戦力的に自分たちが遥かに上であり、また彼らが欲していた金や銀、銅などの資源が豊富であった日本を攻めようと思えばできたはずですが、結果としてできませんでした。それはなぜでしょうか?いろいろな理由があるのでしょうが、一つに江戸に入り、戦乱の世の中で保持していた武器を棄てたことが大きいと思うのです。武士の刀は武器ではなく、魂を磨くための物です。例えば、目が見えない人は、健常者が持っていない別の感性が磨かれます。日本が武器に頼らなくなって得たものは、今の日本では想像できない人間力、交渉力ではなかったのでしょうか。当時の日本のリーダーたちが身に着けていた人間力が国家として最高の武力だったのではないでしょうか。

江戸時代265年は泰平の世でした。これは、紛れも無い史実です。世界の情報は長崎の出島を通じて入ってきていました。江戸幕府はそれを充分に読み取り分析し、事の本質を見抜く力を持っていました。日本の歴史の中で、日本人の能力を育ててきたのは「漢学」であり、その学問は事の本質を見抜くことを目的とし、これは幼少期に素読し、丸暗記するという学習方法を身に着けていたのです。明治になって海外に出かけた多くの日本人がスペイン語オランダ語、英語をわけなくマスター出来たのは、まさしくこのような訓練を積んでいたからなのです。

 現代の日本を見ると、あまりにも情報に頼り過ぎています。情報に振り回されないためには、感性すなわち「勘」を磨くしかありません。あまりにも膨大な情報は人を情報の奴隷にしてしまうのです。内に向かうことが大切なのです。世界において保護主義の台頭ということは、日本も内に向かえということなのです。何度も言うようですが、これは他を切り捨てて自分だけ生きようとするものではありません。

トランプ大統領の誕生は、日本が自国の歴史、経済、教育などを見つめ直し、本来日本人が持っていた人間力を取り戻す絶好の機会だと捉えてはどうでしょうか。明治から150年、言うべきははっきり言い、一方では相手の話を誠意を持って聞き受け止めていく本来の日本人を取り戻していくべき時なのです。

 

 

「陽明学講座」① 陽明学とは

 橘一徳の誰でも学べる「陽明学講座」①

陽明学とは

 

 

「できない」壁

 

 

陽明学とは儒教(学)の流れで言えば朱子学とともに新儒教(学)と言われていますが、一言で言うと、朱子学の「理学」に対して陽明学は「心学」という言葉で表され、内なる心に重きを置いた学問です。儒教(学)は「善は人とともにし、楽しみは人とともにする」(『論語』)が表しているように仁(愛)を中心とした考え方ですし、実は現在私たちが当たり前のように行っている生活様式の多くが儒教から来ているのです。

しかし現代において『論語』に対する誤解が元になっているのか、非常に戒律的で自由を縛るものといった観が強く、特に陽明学は幕末の尊皇攘夷の志士達の中心的思想だったこともあり、革命的な思想だと思う人もいるようですが、実際の陽明学は、革命的で対外的に動くことを強く主張しているのではなく、あくまでも中心は自分のうちに有り、外にある権威や物に振り回されない、しっかりした心を育て本来の自分を取り戻すための学問なのです。

 人は、思いはあっても実行できない心の弱さがあります。例えば、電車の中で、お年寄りに席を譲ろうという思いはあっても、いざやろうとすると出来ないことがあります。「思い」と「行動」が対立した状態が続くと自分の中に葛藤が生じ、自己矛盾に陥ることになるのです。その「できない」という壁をいかに乗り越えていくか。それは、現代に生きる我々だけではなく、江戸時代の幕末の志士たちや、何千年も前からの人々が思い悩む事の一つなのです。

 

心の問題に関する人々の悩みや葛藤は様々な文献を見る限り、時代は変わってもさほど変わっていません。

例えば江戸時代、特にインフラ整備がほぼ完了し経済的に豊かになってきた五代将軍綱吉の時代において、武士道を表した『葉隠』の中に伝統的精神と国の歴史を知らない役人たちが多くいて彼らは政治の道しるべをもっていないことを嘆く内容が書かれてありますし、そうした時代の流れの中にあって、江戸の末期になると人々の不安は、安定してきた経済とは裏腹に、黒船来航による情報の錯綜、またその前後にあった大飢饉、震災により、それまで安定した社会に依存していた自分たちの価値観の見直しを余儀なくされたようです。そうした、一見すると危機と思われた時代に、主に下級武士や商人町人のリーダー達の中に浸透していた陽明学がグローズアップされてきたのでした。つまり、彼らが真から学びたいものは、大きく変化するであろう時代にあって、外の変化や権威にとらわれない、自由な自分の心を取り戻し、本来の自分らしさを見出すための指針を見出すことの出来る学問でした。

 

ここで江戸時代の末期において多くの藩が「官学」の朱子学ではなく、大きく陽明学に傾いたのは、なぜでしょうか?

徳川家康は幕府を開くにあたり、それまで長く続いた戦国の世を治め、平和な国にするために「儒教(学)」を政の柱に置いた「徳治政治」を行ったのでした。

儒教(学)を徳川家康に侍講していた藤原惺窩は、朱子学陽明学の折衷のような儒学者で、どちらかと言えば陽明学に傾いていました。その後継に指名されたのが、のちに大学頭になる林羅山です。羅山は「朱子学」一辺倒でそれが幕府の「官学」になっていきます。朱子学が幕府や諸藩に起用されたのは、統治する側にとっては当時の社会情勢からすると当然のことでした。朱子学陽明学と較べて外の世界に活路を見出していく(窮理)という思想性が強く、長い戦乱の世を平和な世界にするためには規律(ルール)を明確にする必要があり、民をまとめていくために必要なものでした。しかし、それは、各藩によって体制という名のもとに人が本来持つ心の自由性・自立性を抑える度合いの違いがありますが、これは時とともに、人々の心の働きは覆い隠された囲いを破ろうと働くのです。

その時代の流れの中で個人の心に向き合う学問である陽明学が脚光を浴びたのは当然の事と思われます。陽明学の「万街の人皆聖人」という言葉が示すように、全ての人には聖人と同じ心が備わっており、特に江戸時代の商人たちは「人を見たら仏の化身と思え」と言われていたようで、実に陽明学の考え方が日本人にとってピンと来ていたのかもしれません。

 

資本主義と陽明学

 

さて、現代の日本は、科学万能で「知」が重視される時代になっています。しかしそこに「いかに生きるか」という「人間性・道徳性」が欠如していては、せっかくの知も必要悪になりかねませんし、事実、悪用されている例が沢山あります。現代の学問は主に「いかにうまく・上手に生きるか」を教えるものが多いのですが、日本人が柱にしてきた儒教(学)の中心は「いかに生きるか」を教えるいわば「人間学」なのです。

私は現在、陽明学を柱に講演し、講座を開いています。なぜ、陽明学を現代に蘇らせようとしているのか。それは、今までお話してきた内容からご理解して頂けると思いますが、複雑多岐にわたった現代社会にあって、私も含め多くの人々が心の空虚感を抑えられず、自分を見失っている中で、歴史を越えて、真の心の自由を勝ち得てきた証が数多く陽明学の中にあると感じているからなのです。

現代ではフェイスブック、LineなどのSNS(ソーシャルネットワークシステム)などネット社会が発達して、人の意識は外へ、外へ向かっています。情報に振り回され、情報の多さに自分で情報を選択することすら困難な状況です。その情報の渦は便利さというものの反動で、多くの弊害を生み出しています。つまり、「自分自身を見失う」人々が増えてきているのです。選挙の投票活動を見ていても、自分の考えはなくて流れに流されて投票している傾向が強くなり、ポピュリズムによる衆愚政治の様相を呈しています。フェイスブックに「いいね!」が付かないと疎外感を強くしてより外に向かう。それを繰り返していると、いつの間にか自分の中が空虚になってしまい、振り回されるという悪循環に陥ります。現代とは違い、江戸時代における江戸城下の町衆たちの考え方は「人は十人十色、違っていて当たり前」で、100人いたら100人の江戸があると、多様な社会のあり方が本来の日本人の良さでした。それが、明治維新後に西洋化が急速に進み画一化が進み、戦後さらにその傾向が強まったようです。

 また、資本主義の限界、悪弊も見えてきました。文明を追求する資本主義では、次第に人間が不在、不要になってくるからです。現代の社会を見ると、機械化、IT化が進んで、機会やコンピューターに人が働く場所を奪われているという、本末転倒の状況になりつつあります。

陽明学では、「万物一体の仁」という、自然と人間は一体である一元的な考え方をしています。西洋的な考え方は人間が自然をコントロールすると言った考え方で、人を含めて二元的、対立的な考え方が中心になっています。ですから西洋的な考え方が浸透している現代は物事を対立的に考えてしまいやすく、猛烈な疎外感を覚える時代だとも言えます。本来、人は他人と自分を同じあると感じる心があり、それを「同心一体」と言います。

また陽明学の考え方の中に、「知行合一」という言葉があります。本来ならば、知と行は同じで、どちらが先でもいいという考え方で、その対極にあるのが、西洋の「唯物主義」で、例えば欧米の成功哲学は、何かやろうとする時に、計画してモチベーションを上げていき、実行して失敗を修正して最後はゴールテープを切るという、いわゆる、プランドゥシーです。しかし、陽明学は先に考えるのもよし、先に行動していく中でそこで考えるのもよしと教えています。行動していれば、何か頭に浮かぶものがあるはずだと。それが、昔の日本人の行動・思考パターンでした。皆さんも身近に知行合一を体験し実践されていると思いますが、実は車の運転などもそうなんですね。

知(思い)と行(行動)が一つになっている(知行合一)人は自然な人です。

武道や書道など「道」の達人は実に自然な動きをされます。これこそ「知行合一」をなしている状態だといえます。

四書五経の『中庸』で「天の命これを性といい 性に従うこれを道といい 道を修むる これを教えという」というのがあります。先達の生き方には、必ず道がありました。古典の中には多くの生きた証があります。それがすなわち道なのです。分かりやすく言えば、道を学び、それを自分が実践し習得することで、豊かな心を育成してきました。

もう一つ陽明学の特徴は「老荘」「仏教」「儒教」の考え方が融合されている点です。ですから、陽明学は武士道に通じるものがあり、日本人が歴史を通して様々なものを結び融合してきた「日本人の心」を現代に繋げる役割があるという点です。

 人が豊かな心を育て、個性を花開かせながら、人として生きる道しるべを、陽明学に見い出すことができます。これから、このコーナーでは、心豊かに人生を過ごしてもらえるように、陽明学を分かりやすく解説していきたいと思います。

 

 

 

学生時代に作家故山本七平に師事(山本七平:山本書店店主、文部科学省教育審議会会長、『論語の読み方』『聖書の常識』『徳川家康』など著者多数)に西洋・東洋思想のイロハを学ぶ。その後独自に中国哲学・日本の思想・歴史を研究し、現代の社会において実践、活用する。現在、陽明学を中心に『論語』などの講演会、講座を数多く手がける。

たちばな教育総合研究所・代表

 

 

 

 

 

弾圧、強制収用…ウイグル人への迫害の実態 日本ウイグル連盟代表 トゥール・ムハメット氏

そこが聞きたい!インタビュー

 

弾圧、強制収用…ウイグル人への迫害の実態

中国による重大な人権侵害を許してはならない

 

日本ウイグル連盟代表 トゥール・ムハメット氏

 

 

 

中央アジア東トルキスタン。元々ウイグル民族の領土だったが、周辺の大国から侵略、支配された歴史を持つ。中国共産党政権樹立以来、自治区として支配されてきたが、96年から民族浄化政策が進み、激しい弾圧が続いている。このままでは民族が消滅する―その現状と声を聞いた。

(※編集部註:中国による正式な呼称は「新疆ウイグル自治区」だが、実態と乖離していることからこの記事では「東トルキスタン」と表記を統一する)

 

 

 

 

第七号文書「中央政治局新疆工作会議紀要」

 

 

 

―まず、日本に来られた経緯から聞かせてください。

トゥール 九四年に留学生として九州大学大学院の農学研究員として来日、九九年に博士号を取得しました。その間の九七年、修士課程を修了し博士課程一年目の時に東トルキスタンのグルジャ市で中国政府による宗教弾圧が起き、これに抗議したウイグル人を武力弾圧しました。この事件は、八九年の天安門事件、九〇年の南部のバレン郷の大規模な農民蜂起に対する弾圧に次ぐ大規模な弾圧でこの時、四、五百人の人々が射殺されました。日本では大きく報道されませんでしたが、欧米のメディアには大々的に取上げられました。トルコではトップニュースでした。天安門事件まで中国で起きていることに関して、国際社会はそんなに注目していませんでした。天安門事件が起きた時、中国の人権問題に国際社会が注目し始めて、その背景があってグルジアの虐殺では国際社会が大々的に報道しました。

 しかし、日本ではあまり報道されず、NHKにいたっては全く報道しませんでした。日本にいる私としてはおかしいと思っていました。当時、たまたま九七年四月にロータリー米山記念奨学金をいただくことになって、それを機会に奨学生として東福岡ロータリークラブに所属することになりました。そこで東トルキスタンで何が起きているのかを私の知りうる限りを話すことになりました。

ところで東トルキスタンに対する弾圧の背景には、九六年三月十九日に北京の中国共産党の秘密会議で二、三十年の間にウイグル人を同化させるという、機密文書である第七号文書「中央政治局新疆工作会議紀要」が決まりまったことがあります。それが初めて実行されたのが、グルジャ事件です。それまではウイグル人を他の民族と同等に扱うという建前があったのですが、この文書が通達されてからははっきりとウイグル人は中国の敵であるとされたのです。

―この政策転換の理由は?

トゥール 九一年のソ連崩壊があります。帝政を打破して共産党政権が二百年近く続いたのに、ソ連共産党が解散した途端にバルト三国ウクライナカザフスタンウズベキスタンベラルーシーなどが次々と独立してしまったのを目の当たりにして民族主義や宗教に中共が脅威を感じたからです。中国国内にあるウイグル、モンゴル、チベットなどの他民族が次々と独立することを恐れた中共がそれを防ぐためには、ウイグルチベットの独立意識を根絶やしにする同化政策をやるしかないと考えたのです。それはすなわち、ウイグル人から自治権を奪い取ることを始めたのです。しかし、それを明文化すると国内でも反発がありますから、表向きは自治区という体裁を保ちながら実態は同化政策を進めているのが実態です。この文書の概要だけは省長以上の役職者にしか伝達されず、それ以下の省職員には知られていませでした。その後、県レベルまで伝達されます。

自治区政府の中にはウイグル人もいますよね。

トゥール いますが、彼らはもう魂は中共そのものになってしまっています。仲間を討っているのです。いったん政府に取り込まれれば、漢民族は当然ですが、政府に入ったウイグル人でも中共の決定から独立した意思を持つことはできません。ただ、ウイグル人漢民族と違って決定権は持っていません。自治区主席のウイグル人もただの傀儡で、実権はありません。

―そうした事実を日本で講演されたそうですが、反応はどうでしたか?

トゥール 初めて話したのはロータリークラブで依頼されたものでした。ロータリークラブは政治的な活動は一切やらず、地域社会への奉仕活動が目的です。ですから、私の話はそぐわないものでした。しかし、当時の会長がウイグルの実態は会員にも知ってもらいたいからと勧められました。当時の私には、どこまで話していいのかという判断基準が無かったので、自分が知りえた事実を話すことにしました。

ウイグル自治区の欺瞞性、中国共産党の統治システムが日本の自由民主義体制と相容れないことや、言論の自由が無く、生命がまったく尊重されない中国とビジネスをやることは、中国を富ませそして軍事力を強めることになるだろう。中国は決して日本を友好的に見ておらず、むしろ敵対的行為を繰り返すだろうと話しました。また、ウイグルでの弾圧の状況を説明しました。すると、中には中国とビジネスをやっている人からは私の話を好ましく思われなかったようです。特に、私が「中国に投資してはいけない。この投資が中国を富ませる。それがひいては日本にとって脅威になって利敵行為になる」と言うと、「それは違う。中国はそこまで悪い国ではない。ウイグル人にも問題があるだろう」と反論されました。

―当時は多くの日本人の中国に対する認識が甘かったようですね。

トゥール そういう人は少数派で、私の卓話の後にそのクラブの卓話委員会で政治的テーマは止めようという意見が出たそうです。ありがたかったのは、気にしなくてもいいと言われました。多くの方が私の話に理解を示してくれ、ウイグル人に同情してくれたのです。実は、この時に「私は日本で博士号を取得して中国に帰って知識を活かしたいので、中国当局にマークされたくないのでこの話は内密にしてください」と頼みました。すると、数ヵ月後には違う北九州市のクラブから講演の依頼が来ました。少し悩みましたが引受ける事にしました。これで中国には帰れない、自分は日本で活動するしかないと腹を括りました。それ以来、帰国していません。帰れば刑務所に入れられるのは間違いありません。また、親族にも累を及ぼしますから、祖国の家族とも一切連絡していません。それならば、苦労してでも日本でウイグル人の状況を日本人に訴えるべきだと活動を始めました。

 

 

「抵抗と弾圧」の歴史

 

 

 

 

―家族の反対はなかったのですか?

トゥール ありました。「迷惑をかけるな」と。しかし、何とか説得してようやく表に出て発言、活動することができるようになりました。それが、評論家の宮崎正弘先生と座談会です。特に宮崎先生との座談会は二〇〇八年に『週刊朝日』に掲載され、日本で初めてウイグル人の声が週刊誌に掲載されました。その座談会には匿名で出て、ウイグル人の私の他にモンゴル人、チベット人満州人、回族の中国の異民族が出席しました。その後、宮崎先生から櫻井よしこ先生を紹介していただいて座談会が実現しました。これは『週刊新潮』に掲載され、これをきっかけに日本のメディアが取り上げるようになりました。この時も匿名で出ました。

―表に出るようになったのは?

トゥール 妻からは私の活動に対してずっと反対されていました。その後別居状態になって彼女たちはアメリカに渡ってしまいます。それをきっかけに私は表に出るようになりました。すると、彼女がウルムチ市に帰ると言い出したので、危ないから反対したいのですが振り切って帰ってしまいました。しばらくして中国当局からの圧力が強くなってきて離婚を言い出すようになり、二人の子供の親権が問題になりました。娘は既に二十歳になっていて問題はなかったのですが、息子はまだ十二歳でしたので私が親権を取ってそのままアメリカに残したままでした。ところが、成人の娘が妻を追ってウルムチに帰ってしまいました。その結果、二人とも精神病院に入れられてしまいました。事実上の軟禁状態です。義父が政府の高官だったのでそれで済んでいますが、そうでなかったらキャンプに強制収用されていたでしょうね。

アメリカ副大統領が収容キャンプについて言及したり、日本でも漸く報道されていますが新疆ウイグルの実態はどうなっていますか?

トゥール ウイグルへの弾圧は一九四九年から始まっていて、徐々に進めてきました。厳しい弾圧で民族の浄化がある程度進んだと見ると緩めて、また厳しくするということを繰り返してきました。それは、世代が交代すると民族意識が薄れますが、次の世代で再び民族意識が高揚してくるとまた弾圧してそれを沈静化するためなのです。抵抗と弾圧、その繰返しです。その間、夥しい数の同胞が犠牲になってきました。しかし、九六年までの弾圧はウイグル人の中で共産党政権に抵抗する勢力が対象でした。しかし、先ほどの七号文書以降は、ウィグル民族全体が対象になってしまいました。つまり、ウイグル民族を地上から抹殺して、分離独立の芽を完全に摘み取ろうというものなのです。

 それまではウイグル語の教育などウイグル文化を認めていたのですが、九六年以降それすらも総て認めなくなりました。虐殺すれば早いのでしょうが、インターネットなどの情報手段が発達した現代でそうした残虐行為は国際社会に知れ渡り、反発を買うのでウィグル民族のアイデンティティを抹殺しようとしているのです。政治面では先ほど言いましたが、傀儡的な政府登用しかしなくなりました。経済面では、ウイグル民族の経済を発展させないために締め付け、規制をかけています。例えば、会社設立や融資など漢民族は優遇されますが、ウイグル人には厳しく規制されます。手かせ足かせが掛けられているのです。

 最近、弾圧は厳しくあからさまになってきています。中国共産党は二〇一七年春からの約一年間で、「再教育キャンプ」という名の強制収容所に約百万人のウイグル人を拘束しました。収容されたウイグル人は信仰心が厚く、民族的アイデンティティが強い人々です。

―この選別はどうやっているのですか?

トゥール あるアンケートを実施して数値化しています。その数値が低ければ低いほど危険人物だと判定されます。減点方式で、例えば、外国に行ったことがあるか、家にイスラム教の経書が置いてあるか、一日五回の礼拝をするかで「はい」と答えると減点されていきます。こうして次々と収容されていて場所が足りないので学校、政府庁舎などがキャンプとして使われていて、政府はまだキャンプを建設していていますから、これからも収容される人は増えていくことでしょう。

 

 

 

拷問、「屋根のない収容所」

 

 

 

 

―中でどんな扱いを受けているのでしょうか。

トゥール 収容されてもテストを受けさせられます。点数が低い人は、酷い拷問が日常的に行われています。刑務所では男女関係なく裸で訊問されます。訊問に答えなければ拷問されます。

拷問を受けているウイグル人もいます。経験者の体験を聞くと、殴られる、電気棒で拷問されます。また、違う方法もあります。黒いビニール袋を頭から被せられ首のところで縛られます。すると、当然息が出来なくなり窒息します。その寸前に隙間をつくられ、必死に息を吸おうとします。すると、また閉める。そうした拷問が繰り返されます。今度は息を吸い込んだお腹に針で刺します。刺した所が紫色に変色します。痛くて痛くて仕方が無いそうです。もう一つの拷問のやり方は、二人の警官で強制的に手を挙げられます。これも激痛で苦しむそうです。女性は集団で何度もレイプされます。拷問を受けた後、重傷を負っても放置されます。

 こうして口が堅い人を拷問で白状させた警官には一件あたり五万元、日本円で約八十万円の報奨金が出るそうです。だから警官はお金のために盛んにやっているのです。警官には一日の収容人数にもノルマが課せられています。これも奨励金が出ています。ですから、少しでも反抗的な態度を見せればすぐに逮捕されます。中国は賄賂社会ですから、警官に賄賂を渡せば逃れられる可能性もあります。

―筆舌に尽くしがたい拷問と異常な社会…

トゥール ある宗教指導者は、頭を棒で挟まれて白状しなければ頭が変形するまで締め付けられました。そして死んでしまいます。こうした実態は、まだなかなか知られていませんが、事実です。また、点数が高い人は月に一回外部の家族などと連絡を取る事が許されます。無事にキャンプを出ても、特別監視対象者として「屋根のないキャンプ」生活を送ることになります。

―こうした実態に国際社会は動き出しましたね。

トゥール 中国政府の弾圧は国外に逃れたウイグル人にも及んでいます。カンボジア、タイ、ウズベキスタン、などからウイグル人政治亡命者が中国に強制送還されたのです。この中には国連難民高等弁務官事務所から難民として認定された人も含まれています。国際法では、生命や自由が脅かされかねない人々を追放したり送還することを禁止する条項があるにもかかわらず、送還されたのは中国政府が亡命先の政府に強く圧力を掛けた結果で、送還された彼らはほぼ投獄され無期懲役か死刑になっていると思われます。そうした中で、全世界に情報網を張っているアメリカにはウイグルで何が起きているかという正確な情報が入ってきています。アメリカ政府は、この重大な人権問題に介入しようという動きが出てきました。これは心強いです。ただし、フランス、ドイツに関しては、残念ながら静観しています。これは中国とのビジネスを重要視しているからです。先日、ドイツに亡命を申請した若いウイグル人が、ドイツの移民局により中国に強制送還されてしまいました。ドイツは手続き上のミスだと釈明していますが、メリケル首相の訪中のためだと思われます。中国の重大な人権侵害より経済を優先させているのが実態です。ドイツだけではなく中東諸国などもこうした姿勢なのは問題です。

 

 

 

 

組織の課題

 

 

 

ウイグル独立運動の現状について聞かせてください。

トゥール ウイグル独立運動の歴史は古く、二十世紀初頭の清が倒れ建国された中華民国の時代に激しい独立運動が起きました。一九三三年イスラム教徒による東トルキスタン共和国建国が計られましたが、ソ連軍に制圧されます。ウイグル人は日本にも支援を要請しますが、上手くいきませんでした。その結果、ソ連の支援で一九四九年に再び共産党支配下の中国に統一され、五五年に自治区が設置されます。日本がウイグルを支援しなかった原因はよく分かりませんが、遠いウイグルで何が起きているのか当時の日本は知らなかったのでしょう。これは今もそうです。ウイグル支援をやっている日本人も、よく分かっていない面もあります。

―現在支援している日本人がよく分かっていないというのは、どの辺ですか。

トゥール 複数の支援団体がありますが、それぞれの団体の中味をよく分からないままに支援しています。戦前の日本のようにウイグルの実態をよく分かっていません。彼らに本当の情報を流しても本質が見えていないため支援に一貫性がないのが残念です。しかし、アメリカなどの支援運動は、しっかりした情報収集を下に活動しているので一貫性があります。

―確かに複数の団体のうちどれを支援すればいいのか分からない人もいますね。

トゥール まずはウイグルを理解してもらいたいです。それぞれの団体と代表がどういう人物でどういう活動をしているのかをしっかり見極めてもらいたい。そこから本当の支援が始まります。口だけの支援では意味がありません。私たちの団体が主流なのは間違いありませんが、色々な思惑が交錯して混乱している側面もありますが、いずれはこの問題は解消するでしょう。

―支援する側が本質を見極める、あるいは売名、示威などの私心を持って参加している一部の日本人がいるということですね。

トゥール 日本の保守団体もたくさんありますが、目的は一つなのになぜまとまらないのですか?それは「好き嫌い」という低次元のレベルで活動しているからではないでしょうか。こうした運動は、理念、理想、目標で判断すべきです。私たちはウイグル人を救い、独立を果すための支援を真剣に取り組んでいます。是非、そこは見極めていただきたいと思います。そこを見極めずに支援するとむしろ分断を助長することになりかねません。私たちも支援を申し出る日本人を見極めて手を組むようにしています。しっかり組み相手を選びたいと思っています。一方では日本のことを分からず付き合っている在日本のウイグル人もいます。極右団体や左翼、反社会の人間と知らずに付き合ってしまっているウイグル人もいます。分からない者同士が運動している面もあります。相互理解が重要です。そこから本当の信頼関係が築けるのです。そこを整理することが課題ですね。

―運動の目的は、やはり中国問題ですね。

トゥール そうです。自分たちがどこと闘っているのかという覚悟がまだ足りないように思います。中国という悪魔のような国と闘う覚悟が必要です。その悪魔は近代的な知識と武器を持っているのです。あの手この手で工作していることを認識すべきです。だからこそ、しっかり見極めて手を組む相手を見極めているのです。日本で本当のウイグル支援のネットワークを作りたいと思っています。そうして機会を見て全力で中国と闘える態勢を構築しておきたい。

 

 

 

日本に期待すること

 

 

 

―今後東トルキスタンの今後はどうあるべきでしょうか。

トゥール まず、中国側の問題があります。中国が今後どうなるか。私は楽観的でいずれ崩壊するだろうと見ています。しかし、ある日突然変ることは考えられません。崩壊までは時間を要するでしょう。崩壊してどのような政治形態になるのか。私が懸念しているのは、共産党支配の国家から民主的な国家に変ればいいのですが、中華ナショナリズムによるファシスト的な国家になる可能性です。こうなると、非常に安定します。なぜかと言えば、一人の指導者の下に強力な政党がついて国家社会主義で民族を支配するからです。ナチスドイツを崩壊させたのは、ドイツの侵略行為に対して国際社会が一致して立ち上がったからです。

 今、膨張主義に走っている中国ですが、日本が中国と手を組む事は、歴史的にも、現実的にもありえません。日本はアジアのリーダーとしての存在感を増すべきなのです。韓国、ロシア、中央アジア、東南アジア、インド、台湾などの国々としっかり連携して中国に対抗していくのが、日本の進むべき道ではないでしょうか。日本の技術力と資金力でできないことはありません。日本はロシアとの北方領土問題以外はこれらの国々との間に領土問題はありません。ほとんどが親日的ですから、日本がその気になればできるはずなのですが、今の日本外交は中途半端に映ります。安倍首相が習近平と握手するなど世界に間違ったメッセージを送っているくらいですから。そうした日本の曖昧な態度が中国の崩壊を遅らさせている一因になると思います。自由民主主義国家としてはっきりと中国に向かう姿勢をとれば、国際社会も判断を間違えません。欧米ははっきり言っていますよ。

東トルキスタンの今後については?

トゥール 国外に幾つか組織がありますが、今バラバラで行動しているのが現状です。そろそろ一つのテーブルに集る時期に来ています。その話し合いを一人のリーダーが呼びかけてやるのではなく、慎重な計画と根回し、指導者同士の信頼関係構築などをやって初めて一つのテーブルに集まることができます。好き嫌いなどの感情、利害を超えた大同団結が必要な時期に来ているのです。

―日本に期待することは?

トゥール 先ほども言いましたように、幾つかの団体を支援することはありがたいのですが、違う組織を非難することは止めていただきたいと思います。組織の対立に口を出したり、干渉しないようにしてください。それから、中国の脅威を本当に認識していただきたいですね。

―反中、嫌中というムードが一部あります。

トゥール そうした感情的なものではなく、アジアで自由民主主義をどのように定着させるかという大きな視点で捉えていただきたいです。それから、一日も早く憲法を改正してもらいたい。今の日本では足かせが多く大きな期待は持てません。改正後の日本に期待しています。日本自ら主張するようになりますから。

 

 

 

トゥール ムハメットさんプロフィール

1963年東トルキスタン新疆ウイグル自治区)のボルタラ市に生まれる。1981年に北京農業大学(中国農業大学の前身)に入学。卒業後、1985年から1994年にかけて東トルキスタンの新疆農業大学で講師を務める。1994年に来日して九州大学に留学。農学博士を取得。日本留学時に天安門事件を知り、さらに、東トルキスタンのグルジャ市で抗議デモをしていたウイグル人たちを中国当局の警察が発砲して弾圧、数百人もの民衆が犠牲になったグルジア事件が発生。その実態を福岡県内のロータリークラブで講演して以来、人権活動家として活動を展開する。2015年10月18日、同日付で世界ウイグル会議への参加資格を失った日本ウイグル協会に代わり、世界ウイグル会議の新しい構成団体として日本ウイグル連盟が発足、ムハメットが会長に就任。現在、会社員をしながら、日本ウイグル連盟会長、任意団体中央アジア研究所代表などを務める。

 

 

 

二百年以上の時空を超えてアフガンの人々を救った 山田堰(朝倉市)

 日本人の自己犠牲精神

 

 

二百年以上の時空を超えてアフガンの人々を救った

山田堰(朝倉市

 

語り手 水土里ネット山田堰

朝倉郡山田堰土地改良区) 事務局長 徳永哲也さん

 

 

 

 

寛政二年(一七九〇)に度重なる旱魃に苦しみ、飢餓を克服するために朝倉の人々の勇気と苦闘によって築造された「山田堰」が、時空を超えてアフガニスタンの人々を救いました。

 

 

「傾斜堰床式石張堰」

 

 

 「現代の山田堰」を再現したのは、アフガニスタンパキスタンで活動している福岡市の非政府組織ペシャワール会の代表である中村哲医師でした。ペシャワール会は昭和五十九年(一九八四)から主にアフガニスタンで貧民層の診療に携わってきました。平成十二年(二〇〇〇)以降は清潔な水と食べ物を求めて井戸掘りに奔走し六年間で千六百ヵ所の水源を得ました。平成十五年(二〇〇三)からは食料生産の用水を得るために全長二十五・五キロのマルワリード用水路建設に着手しますが、取水技術の壁に突き当たり、アフガニスタンのどこでも誰でも多少の資金と工夫でできるものを探していました。

 解決の糸口は意外なところにありました。近世・中世日本の古い水利施設で当然全て自然の素材を使い、手作りで作られたものでした。それが山田堰だったのです。筑後川もクナール川も規模こそ違え、急流河川、水位差の極端な暴れ川という点で似ていました。山田堰の中核の技術である「傾斜堰床式石張堰」を調べれば調べるほど他にないと確信したそうです。中村代表は山田堰をモデルに二〇〇三年三月~二〇一〇年二月までの七年間を費やし、マルワリード用水路全長二十五・五キロが開通、広大な荒れ野三千haが農地となり、農民十五万人が生活するまでに復興、新開地の砂漠で田植えができるまでになったそうです。

 自給自足の農業国・アフガニスタンの水欠乏と貧困は、近年の地球温暖化による取水困難が深く関係しています。現在、「山田堰方式」を隣接地域に拡大し、荒れた村が次々と回復し、六十万人の農民、一万四千haの農地が恩恵を受けているそうです。

 

 

「堀川の恩人」古賀百工

 

 

 二百二十年もの時空を超えて日本から遠く離れたアフガニスタンの人々を救った「山田堰」とは、一体どんな施設なのでしょうか。

 山田堰の起こりは、寛文三年(一六六三)に初めて設置された堰で、川を斜めに半分ほど締め切った突堤でした。同時に水を水田に送るために掘削された農業用水路が「堀川用水」です。当時の全長は約八キロでした。最初の堰の完成から六十年後の享保七年(一七二二)により多くの水を取水するために、恵蘇(えそ)山塊が筑後川に突き出した大きな岩盤を貫く大工事を敢行します。これが現在に受け継がれている「切貫(きりぬき)水門」です。水門の上に建つ水神社は、この工事の安全と水難退除のために建立されたものです。宝暦九年(一七五九)、切貫水門の幅は一・五メートルから三メートルに二倍に切り広げられ、堀川用水にはより多くの水が導き入れられるようになりました。

 それでも残る広大な原野を水田に変えるために立ち上がったのが、下大庭村の庄屋、古賀百工(ひゃっこう)でした。後に「堀川の恩人」といわれるようになる百工は、宝暦十年(一七六〇)から明和元年(一七六四)まで五年の歳月をかけて、堀川用水を拡幅・延長した後、山田堰の大改修という悲願を達成します。

 百工は、筑後川からより多くの水を取水するために川幅全体に石を敷き詰めた堰を設計し、自ら工事の指揮を執ります。寛政二年(一七九〇)に行われた大工事には、旱魃に苦しんできた多くの人々が豊かな実りを夢見て、水量が多く流れも速い九州一の大河での難工事に身を投じました。その数は延べ六十二~六十四万人に達するといわれています。こうして総面積二万五千三百七十㎡の広さを誇る、全国で唯一の「傾斜堰床式石張堰」が誕生し、水田面積は四百八十八haに拡大しました。

 筑後川の水圧と激流に耐える精巧かつ堅牢な構造を持つ山田堰には、南舟(みなみふな)通し、中舟(なかふな)通し、土砂吐きの三つの水路が設けられています。川が運んでくる土砂は、切貫水門に流れ込む前に土砂吐きから排出されます。当時盛んだった舟運を妨げずに鯉や鮎などの魚が容易に移動できるように生態系にも配慮されています。

 山田堰は度重なる洪水によって崩壊や流失の被害に遭いましたがその度に修復され、現在に引き継がれています。巨石を敷き詰めた石積みは永く自然石を巧みに積み上げた「空石(からいし)積み」でしたが、昭和五十五年(一九八〇)に起きた水害の修復工事によって、石と石との間をセメントで固定する「練石(ねりいし)積み」に変わりました。

 山田堰から取水した水を農地に送る重要な役割を果たしている堀川用水は、より多くの水を得てより多くの水田を開くため、山田堰の改修とともに新田開発が進み、両者を結ぶために拡幅され延長されてきました。開削から百年後には、堀川用水を延長する工事が行われました。この大工事によって約八・五キロの新しい水路が完成し、水田面積は三百七十haに拡大しました。

 永い歳月の間に幾多の洪水が堀川用水を決壊させ、あるいは土砂で埋没させました。しかし、朝倉の先人たちはその度に力を合わせて修復工事に当たり、堀川用水を守り続けてきました。

 堀川用水の総延長は、本線四・六キロ、幹線六・二キロ、支線七十七・三キロを合わせて八十八キロに達します。三百五十年前の十一倍に延び、大地に張り巡らされた水路は、六百五十二haの水田を今も潤しています。平成十八年(二〇〇六)、堀川用水は「疎水百選」に認定されました。

 堀川用水の下流には日本最多を誇る農業用揚水水車が今も現役で稼動しています。揚水水車は、川面より高所の耕地に送水する灌漑装置です。菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車の三群七基で構成される水車群。水車に関する最古の記録は、二連水車を三連に増設したという寛政元年(一七八九)の古文書にさかのぼり、同時期に二連水車も建造されたと推測されています。

 七基の水車が汲み揚げる水は、サイフォンの原理を利用して、農道の下に埋設された土管を通って吹き出し、三十五haの水田を潤しています。歴代の水車大工によって改良されてきたこの水車群は、勇壮な意匠と精緻な構造、揚水能力と灌漑面積のすべてにおいて日本の水車技術の到達点といわれています。福岡県を代表する観光資源として多くの人々を魅了している水車群は、平成二年(一九九〇)に国の史跡に指定されました。七基の水車による温室効果ガスの削減量は年間約五十トンと試算されています。

 

先人たちの知恵に感謝

 

 

 筑後川阿蘇山麓にある熊本県小国町を水源として熊本県大分県、福岡県、佐賀県の四県を流れて、有明海に注ぎます。その水は生活用水、農業用水、工業用水として、流域に生きる百万人以上の人口を支えています。筑後川中流域に開かれた筑後平野に位置する朝倉も、その恩恵を受けてきました

  私ども朝倉郡山田堰土地改良区では、将来にわたって地域農業を守り続ける為に、未来を生きる子供たちが、朝倉の農業を支える水源林と農業用水の関係を学ぶ体験学習を支援しています。これに応えて、朝倉地区の小学校では四年生の子供たちが総合学習の授業で一年をかけて朝倉の農業や水源林の役割などを体系的に学ぶカリキュラムを組みました。子供たちは筑後川の源流である熊本県小国町を訪れ、小国の人々が林業に励むことによって水源林を守り続けてきたことを学びます。そして、朝倉の人々はその水源林が育む農業用水を大切に使い続けてきたことを学びます。

 この学習の成果は「朝倉地域文化祭」で地域住民にも披露されます。地域の誇りを懸命に伝える子供たちの発表を見入る人の中には、郷土愛を再認識し感動の涙を流す人も少なくありません。こうして、地域が一体となって、水源林と農業用水を守ろうという意識が醸成されています。

 また、山田堰の技術的価値を国内外に伝えようと、「世界農業遺産」登録への活動を行っています。ペシャワール会アフガニスタンに築いた農業用水路の取水口のモデルになった山田堰は郷土の先人たちの知恵の結晶で、登録でその技術力と勇気を称えることと同時に、途上国へその技術を伝えたいと願っています。 

 時空を超えて現代に山田堰を再現したペシャワール会の中村医師は山田堰の歴史的意義をこう強調しています。

「山田堰が時代と場所を超え、多くの人々に恵みをもたらした不思議。朝倉の先人に、ただ感謝です。技術的に優れているだけでなく、輝くのは、自然と同居する知恵です。昔の日本人は自然を畏怖しても、制御して征服すべきものとは考えなかった。治水にしても“元来人間が立ち入れない天の聖域がある。触れたら罰が当たるけれど、触れないと生きられない”という危うい矛盾を意識し、祈りを込めて建設に臨んだと思われます。その謙虚さの余韻を、“治水”という言葉が含んでいるような気がします」

「寛政二年、測量技術も重機もない時代に造られた山田堰は、自然と共存する紛れもない日本が誇れる歴史的農業遺産です。この堰が時を超え、現代の私たちに語りかけるものは小さくありません。国内外に広く知られ、輝き続けて欲しいと心から願っています」。

 

参考資料 朝倉郡山田堰土地改良区刊 「地域を潤し350年 歴史的農業遺産を守る」

(フォーNET 2015年7月)