『沖縄両論』を上梓した思い

「両論」に通底するもの

 

 

 9月上旬に「沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題」(春吉書房)を上梓した。取材開始から2年をかけてインタビュー、取材したものをまとめたものだが、タイトルは最後の最後でようやく決まった。企画の段階では、基地反対の理論、思いを訊くというものだった。それまで沖縄の基地問題については全く取材したことがない当方としては、とにかく反対する声を拾うことから始めることにしたのだ。若手記者を先行させて始めると、若手のエネルギッシュである意味怖いもの知らずの突撃取材で、このままでは「両論」を編集方針としたい小誌のアイデンティティーが大きく損なわれる恐れが出てきた。押っ取り刀で思い腰を上げたが、容認・賛成派の声は容易に拾えない。焦るが、少ない手づるをつたって取材を進めた。納得するまで取材すべきだとは思ったが、この企画には締め切りがある。私としては、断腸の思いで手仕舞いした。その結果は、本書を手にとって読んでもらうと分かるが、概ね反対7対賛成(容認)3の割合になってしまった。俗に言う「オール沖縄」に関する世論調査の結果と、奇しくも同じ様な構成になった。

 内心、忸怩たる思いを載せて発行すると、読んだ人から「両論になっていない」と指摘を受けた。想定していたが、耳に痛い。強がっているわけではないが、「これが『現実』」と説明している。つまり、反対派の理論武装に容認(賛成)派のそれが追いついていないのが、基地問題議論の現実なのだ。基地を巡る翁長知事と国の対立、一部に偏向報道と批判されるいわゆる沖縄2紙の反基地の世論形勢、辺野古、高江で起きている反対派と機動隊のもみ合いに象徴される一連の騒動の要因のひとつは、いわゆる本土側が「沖縄に米軍基地が偏在する」必然性を「日本の防衛のために必要」という理由だけで済ませてきたつけではないだろうか。

 そこで、本書を世に問うならば、容認(賛成)派は反対派の意見に耳を傾け、反対派はその逆の意見に耳を傾けてもらおうと願いを込めてタイトルを考えた。私のその願いが世に届くことを願うばかりだ。

 両論併記は、一見公平な立場から話を訊いていると思われがちだが、そうとは限らない。反対派担当の若手は容認(賛成)派とは一切接触していないし、私も、反対派とは一部を除いて殆んど接触していない。互いに取材相手の話に正面から耳を傾けた。それぞれの意見を吸収してその疑問点を編集会議でぶつけ合う。たまには激論になったこともある。

本が出ておよそ1ヵ月後に沖縄の米軍基地問題の反対派リーダー、山城博治さんが逮捕された。沖縄県東村高江の米軍北部練習場内に侵入して有刺鉄線を切断した疑いだそうだ。前回、沖縄入りした時に話したばかりだが、逮捕はあり得ただろう。安倍首相が国会の冒頭で「高江のヘリパッド問題は年内に解決する」と異例の発言をしていたから、遠からずその日が来ると漠然と思っていた。確かに事実であれば犯罪は犯罪。法治国家では何らかの罰を受けるのは当たり前だと思うが、これで「左翼がやっと一掃される…」という声には現地で取材した身としては違和感がある。沖縄の真情が本当に理解されているのか。両論あろうが、彼がなぜ健康を害して体を張ってまで運動して居るのかに思いを馳せることも必要だと思う。ちなみに、山城さんには沖縄本の巻末に寄稿してもらっている。すると、今度は沖縄・高江での機動隊員の「暴言」問題が起きた。現地に行った者としては、「ついに堪忍袋の緒が切れた」のかというのが率直な感想。若い隊員にとって、面罵されることに耐性がなかったのだろう。しかし、「土人」「シナ人」はやはり暴言だろう。聞くところによると、隊員の精神的な苦痛を考慮してか入れ替わりが早いそうだ。吐いた隊員は、我慢ならなかったのだろうが、職務としては失格だと思う。耐えていかに反対派を傷つけずに「排除」するかが本来の職分だ。彼らの挑発に乗らない精神的な強靭さ、冷静さが求められる。若いから仕方が無いとも思うが…

反対派を排除して辺野古、高江の工事が終っても、沖縄と本土で同じ日本人というアイデンティティーが形成されない限り、「沖縄問題」は終結しないだろう。両論併記は、互いの意見の存在を認めながらも、丁寧に反論し修正を求めるという、前向きな議論が必要ではないだろうか。両派に通底すべきは、日本国としてのナショナル・アイデンティティーであることは論を俟たない。(月刊『フォーNET』編集長雑感)

 

書評『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三著、講談社文庫、1997年)

たまの息抜き。書評(未推敲)

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三著、講談社文庫、1997年)

 

 

 

45年という節目

 

 

今年5月15日、沖縄が本土に復帰して45年目という節目を迎えた。

しかし、依然として普天間飛行場辺野古移設を巡って政府と沖縄県の対立が続いている。なぜなのか。そうした素朴な疑問から取材を敢行し、昨年9月に「沖縄両論 誰も訊かなかった米軍基地問題」(春吉書房)を上梓した。取材前に読んだのが、この本だった。私にとって沖縄取材の原点と言ってもいい。

本書は、主人公の太田實海軍中将の戦記でもあり、家族の歴史を綴った優れたノンフィクションだ。沖縄方面根拠地隊司令だった大田中将が自決直前に認めた電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ…」。1945年6月6日、米軍の激しい攻撃にさらされ孤立した沖縄戦司令部から本土参謀本部へ発信。ひたすら沖縄県民の献身と健闘を称えている。この太田中将の最後のメッセージを日本国民、特に我々本土の人間は忘れてはならない。その想いを秘めて取材を進めたことを思い出す。

人間、武人、家庭人としての太田中将の魅力が余すところ無く書き綴られているが、最終章「太田中将の遺産」で本土の沖縄への「配慮」が取上げられている。

初代沖縄開発庁長官を務めた山中貞則氏(鹿児島県選出の衆議院議員、1921-2004)その人だ。沖縄の本土復帰直前に起きたニクソンショックは、円とドルの固定相場制が廃止され、変動相場制に移行した。当時一ドル=に急転換させたニクソンショック。それまでの1ドル=360円から当時の為替相場で1ドル=305円の交換レートに変わった。本土復帰までドルが正式通貨だった沖縄にとって、急激な円高ドル安になり、このままでは沖縄経済に甚大な損害を蒙ることになる。山中氏は、当時の大蔵省、アメリカの猛反対を承知の上で、差額の補填政策を命じ、沖縄の日本人が所有するドルに限って1ドル360円レートで交換させた。その結果、5億6200万ドルに達した。

山中がここまで沖縄のために汗を流した背景には、出身地の鹿児島がかつて琉球王朝に侵攻した負い目があったという。もう一つ、山中氏の背中を強力に押したのが、太田中将の打電だった。山中氏はこの打電を昭和31年に初めて目にしたという。大田中将の沖縄県民に馳せた思いを引き継ぐべきだという信念で山中は選挙区でもない沖縄のために683本もの特例法を通した。

 

 

意外な人物

 

 

もう一人、中将の遺志を継いで復帰に汗を流した人物がいた。驚いたと同時に、ある「悔悟」を覚えた。それは、20年以上前にある人物にインタビューした時に「聞くべき」ことを聞かなかった後悔と、情けなさだった。1992年夏。当時、前職の地方経済情報誌編集長時代に新木文雄福岡銀行会長(当時、故人)に、「九州国際空港構想」をテーマに話を聞く機会を得た。当時、荒木さんは福岡経済同友会代表幹事だった。原稿の修正が終って印刷に回したところで、新木さんの突然の訃報に接して、呆然となったことを思い出す。

それから20数年経って、この本を読んで愕然とした。本書の筆者も取材してわずか2ヵ月後に急逝されたことに驚いたことを書いている。

山中氏が沖縄のために敢行した通貨交換の当事者が初代日本銀行那覇支店長だった新木さんだったのだ。新木さんは、海軍少尉時代に鹿屋の司令部通信室で大田中将の電報を受信した体験を持っている。「沖縄の本土復帰一年前、那覇支店開設準備室長を命じられた時、今こそ沖縄県民のためにやって上げねばならん、それが大田司令官の御遺志に報いる道だ、と思いました」(539P)と筆者のインタビューに答えている。日本銀行出身の新木さんの履歴に「日本銀行那覇支店長」という1行があったことは知っていたが、当時30代そこそこで沖縄戦に関心を持っていなかった私は、20数年経った今、新木さんに聞くべきことを聞かなかったことに強い悔悟を覚えたのだ。

戦争経験世代は、それだけ沖縄に心を寄せていた。それは同胞としての連帯感、同胞に対する情け以外何物でもない。

翻って、現代に生きる日本人はどうだろうか。

沖縄の人が「屈辱の日」としている4月28日に「主権回復の日」として祝う日本政府の無神経さ、「(沖縄の基地問題は)お金さえやっておけばいい」と嘯く本土の日本人…同胞である沖縄の問題は、我々日本の問題であることを、自覚すべきではないだろうか。沖縄を理解するには、外せない本である。

 (2017年6月号)

「失敗すればはりつけ」―五庄屋の覚悟(うきは市吉井町)

 

大人のための歴史読本 ①

~知られざる偉業に見る日本人の自己犠牲精神~

 

「失敗すればはりつけ」―五庄屋の覚悟(うきは市吉井町

 

 

語り手 五庄屋追(つい)遠(えん)会会長 梶村福男さん(七十三歳)※2015年6月当時

 

 

 

 

五庄屋の悲願

 

 

 

寛文四年(一六六四)に「大石・長野水道」が完成して来年で三百五十周年という節目の年を迎えます。現在、地元でイベントを企画していますが、これを機会にもう一度「五庄屋」の偉業を振り返り、この大事業を成し遂げたご先祖に感謝しその感謝の気持ちを子々孫々まで語り継ぐべきだと意を新たにしているところです。

筑後川の南側・浮羽地区は今でこそ、肥沃な農地が広がる豊かな地域ですが、三百五十年前は平野の大部分は藪や林に覆われ、その間を開墾してわずかな畑作を主とした農業が営まれている、貧しい地域でした。その原因はこの地区が川より高く水を引けないという、水利に非常に不便な地域だったためでした。

特に生(いく)葉(は)郡包(かん)末(すえ)村(現在のうきは市吉井町包(かん)末(すえ)区)から西にある江南(えなみ)校区(うきは市吉井町)、竹野郡の船越、水分、柴刈地区(久留米市田主丸町)の地域の農民の生活は、貧しく水不足で不作の年には食べるものが無く餓死者や、先祖から受け継いだ土地を見捨てて他に移り住む者がいました。久留米有馬藩二十一万石には生葉郡を含めて八つの郡がありましたが、それを見ても生葉郡の石高が著しく低いということを記された記録書があります。

この頃、生葉郡には夏梅村庄屋栗林次兵衛、清宗村庄屋本松平右衛門、高田村庄屋山下助左衛門、今竹村庄屋重富平左衛門、菅村庄屋猪山作之丞(いずれも現うきは市吉井町)の五人の庄屋がいました。彼らはこのひどい農民の有様に心を痛め、このままでは村が無くなるという危機感を募らせていました。目の前を雄大に流れる筑後川から何とか水をこの地に引くことはできないかと何度も話し合った結果、ここから十キロ上流の現・うきは市浮羽町長瀬の入り江の筑後川に水門を設けて溝を掘り、落差を利用して川水を引くという、遠大な計画でした。

文三年(一六六三)の夏は暑さが特に厳しく、日照り続きで作物が不作で五庄屋は計画を早く進める必要性をさらに感じました。この年の秋に郡奉行の高村権内に五庄屋が、苦しんでいる農民の有様を伝え、かねてから構想していた計画を説明し藩の許可が出るように直談判しました。奉行から、成功すれば藩の収入も豊かになるので可能性が高い、詳しく調べて設計書や見積書を作成して願い出るように励まされます。

早速、実地の測量を始めました。水を通す溝の場所、長さ、幅、深さ、溝を通すためにつぶれる土地の広さ、工事に要する人員など詳しい見積書や水路の図面の作成に手を着けます。車もない時代に水に取り入れ口までの片道十キロの道のりを何度も往復したことでしょうし、測量機械、計算機もない時代でしたら、大変な作業だったと思います。こうした苦労の末に出来上がった願い所を大庄屋を通じて藩に提出します。そこには「これらの工事について費やす費用は五人の庄屋が全部受け持ちますから、藩にはご迷惑おかけしません」と書いてありました。

この計画に自分たちも加えてもらいたいと近隣の六人の庄屋が申し出てきました。この時、五庄屋は「自分たちは死を覚悟してやっているので。他の人まで巻き込むことはできない」と断ります。しかし、六人の庄屋は「自分の村だけに水を引くことは勝手が良すぎる」と反発、五庄屋が藩に願い出ることを止めようとします。そこで二人の大庄屋が仲裁に入って、その結果十三カ村中一任の庄屋で藩に願い出ることになりました。

ところが思わぬところから反対の声が上がりました。溝の上流域にある村々の庄屋が、ひとたび大洪水になったら自分たちの村や田畑が大水で大変な損害を受ける恐れがあるというものでした。これに対して十一人の庄屋が「計画通り工事を進めても決して損害を及ぼさない。万が一損害を与えた際は、必ず責任をとり、どんな重い罰でも受ける」という決意を示し、郡奉行も反対する庄屋たちを強く説き伏せたためにおさまりました。

藩では今まで経験のない大事業なので何度も五庄屋を呼び出して詳しく尋ねたり、念を押したりします。その度に五庄屋たちは早く工事を許可してもらうように訴え続けました。ようやく藩は土木工事に詳しい普請奉行の丹羽頼母重次を実地調査に当たらせることになりました。重次は夜間にいくつものちょうちんを竹に下げて皇帝を測ったりするなど水路の実際を測量し、藩に対して藩の仕事として取り組むべきだという意見を具申しました。

 

 

 

 

「庄屋どんを殺すな」

 

 

文三年十二月、ついに念願の藩からの許しが出ました。「今度の水道工事の道筋に当たる木や竹を切り払ったり。田畑をつぶしたり、家を移動したりすることについて一切反対してはならない」という厳しい命令が出されました。郡奉行は十一人の庄屋を呼んで「万が一水が出てこない時はお前たちの責任は免れない。もし失敗した時は罪として磔の刑に処されるだろうが、不服はあるまいな」と念を押され、五庄屋が進み出て「もし失敗した時はどうぞ私どもを厳しく罰して皆の見せしめにしてください。よろこんでその刑を受けて、藩や世の人々にお詫びいたします」と覚悟のほどを申し述べたのです。費用については人夫こそ藩の夫役で賄いましたが、たくさんの人夫の食費や必要な道具や支払い代金はすべて願い出た庄屋が負担しました。

寛文四年一月十一日、いよいよ工事が始まりました。藩の監督者が駐在する長野村に、「もし工事が成功しなかったら庄屋を磔の刑に処するぞ」という藩の脅しと励ましを態度として強く示すために立てられた十字形の磔の柱が立てられました。人夫たちは「庄屋どんを殺すな」と工事に必死に取り組みました。流し込んだ水が逆流したり、大きな岩に突き当たったりするなど幾多の困難がありましたが、多くの人々の懸命の働きによって、工事は意外なほどにはかどり、わずか六十日後の寛文四年三月中旬についに完成しました。

早速奉行の命令で忌まわしい磔の柱は下ろされ燃やされたそうです。工事に要した人夫は延べで四万人、この工事によって七十五町歩(約七十五ヘクタール)の田んぼに水が引かれました。この成功をきっかけに水田を広げようという気運が高まり、その後寛文五年(一六六五))から第二・三期工事が実施されました。拡張工事と共に水に需要が増していく中で計画されたのが大石堰で、延宝二年(一六七四)に築造され当初七十五ヘクタールだったかんがい面積は、貞享四年(一六八七)には千四百二十六ヘクタールに達しました。

三百五十年前の技術の高さも驚かされます。大石堰の長さは三百九十四メートルもの長さがあり、その間に仮船通し、本船通し、簗(魚道)を設け、普段堰面は全部露出しているものの、増水したときは堰面を超えて流れるなど大規模なものでした。また、筑後川から流れて出た水が北新川と南新川に分かれる分流点「角間天秤」には、水を測り分けるために川底に大きな石(沈み石)が置かれています。この分流点に差し掛かる手間では、川の流れを二ヵ所でクランク式(直角)に曲げ、水流を弱めて分流点に向かわせるなどの工夫が凝らされています。

 

 

 

三百五十年前の大恩

 

 

この偉業は明治四十年代に浮羽郡唱歌として制作され、その一部は江南小学校の校歌として子どもたちに歌い継がれています。この大事業のお陰でこの地域は米が取れて餓死者も出なくなったのですが、それが故に久留米藩の年貢の取立てが厳しくなっていきます。江戸の末期にはこの地域では農民一揆が激しくなり、五庄屋の偉業は人々から忘れ去れてしまったようです。

明治に入ってからようやく五庄屋が見直され始め、五人の御霊が祀られた長野水神社(五霊社)が創建されました。明治三十四年には五庄屋の地区の住民たちがそれぞれのお墓を作っています。九十五年前の大正七年(一九一八)五月二日に五五第一回五庄屋追遠会が開かれ、以後毎年五月二日に記念式典を開いてきています。「往時を偲び、五庄屋に感謝の誠を伝え、後進にこの偉業を伝えていく」ことを目的としています。

子どもたちにこの地の歴史を語り継いでもらおうという取り組みもずっと続いていて、江南小学校では四年生が毎年十一月には江南フェスタというイベントで五庄屋の演劇をやるようになっています。来年五月二日の追遠会は、三百五十周年を記念して大人と子どもの合作で五庄屋物語の演劇をやる予定です。再来年の「うきは市施行十周年」では、地元有志による五庄屋のミュージカルも企画しているところです。

五庄屋を題材にした小説「水神」の作者、帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんは小郡市の生まれだそうで、恐らく小さい頃から五庄屋のことを聞かされて育たれたのではないでしょうか。フィクションの部分もありますが、地名はそのままですし大筋は史実です。登場人物が筑後弁を使っているので物語にすっと入っていけましたね。読み進めると感動の連続であっという間に上下巻を読み終えていました。

気になるのは、農家が米では食べることができないので最近農業の形態が変わってきて、五庄屋の恩恵の念が薄れつつある感じがすることです。それは今だけを見るのではなく、遠く三百五十年前に思いを馳せてもらいたいのです。「五庄屋の命がけの大事業がなかったら、自分の祖先は存在しなかったかもしれない」と。

(参考文献 うきは市三堰ガイド「大石・長野・袋野水道」うきは市教育委員会刊)

「沖縄自由民権運動」の先駆者・謝花昇の生涯

 

 

埋れた歴史の語り部

「沖縄自由民権運動」の先駆者・謝花昇の生涯

 

浦崎栄徳氏 謝花昇を偲ぶ会理事

 

 

 

 

沖縄の近代史を語る時に欠かせない偉人・謝花昇(じゃはな・のぼる)。東京で学業を修め、故郷の民のために改革に敏腕を振うが、時の権力者と対立することになる。その人生は、まさに義の人そのものだった。

 

 

 

 

 

 

旧慣温存策の打破―「謝花民権」

 

 

ここで謝花を表現している「自由民権運動の父」というのは、本土で展開された自由民権運動とは違っていました。つまり、本土の運動が国会の開催、選挙権の獲得が目的だったのに対して、謝花が展開した運動はそれとは異なる面を持っていたのです。

謝花が十年間の留学生時代は、日本本土で自由民権が盛んになった時代でした。世代わりの息吹を東京で肌身に感じるわけです。明治二十四年(一八九一)に帝国大学農科大学(東京大学の前身)を卒業し、沖縄に帰ります。この年に帰県すると、謝花は沖縄県技師となり、留学時代に吸収した知識で色々な改革を試みます。

 当時の沖縄は、旧慣温存政策が布かれていました。これは、「琉球処分」で日本の社会制度にすぐに馴染めないため、明治政府が沖縄を徐々に同化させるために、琉球時代の制度をしばらく残して徐々に変えていく政策でした。その中でも幣害になっていたのが、土地制度でした。沖縄の農民総ては農地を持たない小作農で、一部の高級役人しか土地を所有することができないままでした。また、主要作物のサトウキビの植え付け制限が残っていて、農民の貧困は深刻でした。

その原因に「貢糖制度」と「買い上げ糖制度」がありました。

貢糖制度とは、沖縄が島津に納めていた租税米のうち三割三分にあたる租税米を砂糖で代納させていて、廃藩置県後は政府に納めさせていました。買い上げ糖制度とは、政府が相場より安い価格で砂糖を買い上げ、畑税として納める麦・大豆の石代金と相殺し、余剰金があれば人民に還元するという制度です。これらは旧藩時代の制度が温存されたままでした。東京で先端の農学を修めた謝花は、この二つの旧慣を廃止すべく運動を起こして、買い上げ糖制度は明治三十二年(一八九九)、貢糖制度は明治三十六年(一九〇三)にようやく廃止されます。つまり、謝花にとっての自由民権運動とは、本土のそれと同じように、藩閥政治打破や参政権獲得などを目的とする一方、旧慣温存されて困窮する沖縄の農民を解放する運動でもあったのです。それが「謝花民権」とも言われている所以です。

 

義人の原点

 

 

 

 

謝花は慶応元年(一八六五)に、東風平(こちんだ)間切(まぎり※琉球王国時代の行政区分。現在の沖縄県八重瀬町)東風平村の百姓の家の長男として誕生した謝花は、幼い頃から学問がよくできていました。そこで預けられたのが、義村按司あじ琉球諸島に存在した称号および位階の一つ。王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男がなった。按司家は国王家の分家にあたる)朝明でした。義村按司は、当時東風平間切の総地頭で間切が疲弊していたときに、自ら居を構えて間切を再建させた人物です。どのような逆境でも「まけじ魂」があれば道を切り開けると民に諭した人で、謝花はこの義村からまけじ魂を受け継いだと思います。義村の元で漢学を学んだ謝花は義村の影響を強く受けます。

義村は琉球処分の頃に「頑固党」の領袖でした。当時の沖縄では頑固党と「開化党」の二つに分かれて争っていました。明治政府は処分を断行するために、松田道之を処分官として派遣して、清国との冊封朝貢関係を廃止し中国との関係を一切断つことなどを言い渡します。頑固党の主張は、これまで中国の冊封を受けてきて経済や文化で恩恵を受けてきた中国との関係を維持すべきで、琉球処分案には断固反対するというものでした。開化党は琉球処分を受け入れて大和と一緒になろうという人たちです。結局、頑固党の主張は敗れ、義村は清に亡命し客死します。

謝花は、そうした義村の義を貫く生き方に影響されたのではないでしょうか。謝花は、義人という表現がぴったりの人物だったと思います。正義を貫く人でした。かと言って、決して度量が狭い人ではなかったようです。冗談で人を笑わすこともあったようです。

謝花は小学校、沖縄県師範学校に進みます。当時はまだ琉球国時代の階級意識が強く、高等教育を受けられるのは士族の子弟が殆んどでしたから、平民の出の謝花が入学できたのは非常に珍しいことでした。師範学校を卒業した謝花は、県費留学生として東京に遊学します。選抜された中で平民は謝花一人でした。

東京では学習院に入学しますが、ここでも上位の成績を残しています。その後、帝国大学農林大学に進み、林業と農業を精力的に研究します。その研究は優れていて大学の恩師からは「謝花は沖縄の謝花ではなく、日本の謝花である」と称賛して、東京に残って学界で飛躍することを薦めたくらいです。しかし、謝花は故郷・沖縄の現状を変えようと決心し、帰郷します。

 

 

奈良原知事との対立

 

 

 

 

ところが暫くして時の第四代沖縄県知事である奈良原繁※1834-1918 幕末―大正時代の武士、官僚。薩摩藩士。文久2年島津久光に命じられ京都寺田屋尊攘派をおそった(寺田屋事件)。静岡県令、工部大書記官、日本鉄道初代社長,元老院議官などを歴任。明治25年から沖縄県知事として開発を専制的にすすめ、琉球王とよばれる)と対立します。奈良原は欧米諸国に鉄道調査で派遣され、帰国後日本鉄道の社長に就任、貴族院議員となり、宮中顧問官を務めた実力者で、沖縄県知事に赴任したのは、時の総理大臣松方正義の推薦だったという大物知事です。

 最初の対立は、杣山(そまやま)開墾がきっかけでした。廃藩置県によって旧藩時代の藩士が職を失い生活が困窮していて、この貧困士族の救済と人口に対して耕地が絶対的に不足していたため、開墾の必要性がありました。奈良原知事は大規模な開墾計画を打ち出し、謝花は開墾主任に命ぜられます。ところが、勝手に開墾して山林が乱伐されていたり、開墾許可の手続で賄賂や不正が行われていました。また、奈良原知事一派の開墾志願者に許可される暴挙に謝花は敢然と立ち向かい、不正な開墾願いをことごとく不許可にします。謝花はついに開墾反対の運動を始めます。しかし、公然と反対運動を起こしたことを口実に開墾主任を解任されてしまいます。これが「謝花民権」の始まりです。

 奈良原知事との対立はその後も深刻化していきます。決定的だったのは、農工銀行の設立でした。謝花は農業振興のために設立された農工銀行の常務に就任しました。真の県民のための銀行として運用されるべく公平な機関にしようと動きますが、奈良原知事はこの銀行経営にも干渉し始めて、ついに謝花を役員から追放します。

 こうした奈良原知事の悪政から県民を守るには、追放するしかないと決意した謝花は、明治三十一年(一八九八)夏に上京し、板垣退助内相に面会し知事更迭を求め、板垣もこれを約束しました。ところがわずか四ヶ月で内閣が解散してしまい、実現しませんでした。

ついに謝花は県庁を辞職して野に下り、県民と手を組んで闘い世論を興し、追放するしかないと「沖縄倶楽部」を結成し運動を始めます。その一つが、沖縄の参政権運動でした。知事の横暴に歯止めをかけられないのは、沖縄に選挙権がなく県議会もないためだと、参政権運動を始めました。政府の説明では、沖縄はまだ土地整理、税制整理が不備でそのため個人の租税が把握できていないから選挙権を与えるのは困難というものでした。謝花はこの政府の説明は建前で、沖縄に選挙権を与えないのは、専制的支配を続けさせるものだと参政権運動に転換、展開します。県人口四十万人に達していて議席がないのはおかしいし、帝国議会が発足してすでに七年も経っていましたからね。

 謝花は山林学校の恩師・中村弥六氏※1855-1929 明治・大正期の林業学者、政治家 衆院議員。長野県生まれ。大学南校卒。林学博士。ドイツに留学。独逸語学校教員、大阪師範学校教師兼監事、大蔵省御用掛、農商務省権少書記官、東京山林学校教授、東京農林学校教授、林務官、農商務技師、司法次官を歴任明治23年長野郡部より衆院議員に当選。8期。臨時政務調査委員、司法事務に関する法令審査委員長となる)を紹介議員に立てて請願書を提出します。高木正年(※1856―1934政治家。全盲の代議士。弱者の立場に立った活動を一貫。明治・昭和期の政治家。江戸品川生れ。1881年(明治14)に東京府会議員となった。1890年第1回帝国議会に民生党から立候補して当選。政府の軍備増強に反対したため、弾圧を受ける。品川漁民問題で奔走するうち眼病を患い失明。以後盲人運動にも取り組み、1920年(大正9)点字による選挙投票の公認の請願を提出。また、婦人公民権、植民地の人権問題など、大正デモクラシーを背景に庶民の視点から誠実な政治活動を展開した)、星亨(※1850―1901 政治家。江戸の生まれ。自由党に入党。官吏侮辱罪や出版条例違反などの罪で入獄。衆議院議長となったが、反対派の策動で除名。のち、立憲政友会の結成に参加し、第四次伊藤内閣の逓相。東京市会議長在職中に暗殺された)、尾崎行雄(※1858―1954 政治家。神奈川生まれ。堂(がくどう)。立憲改進党の創立に参加。第1回総選挙以来、連続25回当選、代議士生活63年。東京市長・文相・法相を歴任。大正2年第一次護憲運動では先頭に立って活躍。憲政の神様と称された)などの国会議員を中心に沖縄県参政権運動に協力を得ます。その結果、沖縄県二人の議席案が通過しました。謝花は四、五人を考えていましたので納得はしませんでしたが、ともかく沖縄にとっては第一歩の大きな前進でした。

 

 

 

受難の末の末路

 

 

 謝花は胆力もあって、県の権力を握る知事に正面から戦いました。運動資金には私財を全部投げ打ち、さらに稼ぐために肥料、文房具を扱う商社「南陽社」を立ち上げる一方で、機関紙「沖縄時論」を発行し奈良原県政を痛烈に批判します。教師、役人などを辞めて同志となった優秀な人たちが約二十名集ります。創刊当初は東京・神田で印刷されました。その後印刷機を買って四号からは沖縄で印刷しました。残念ながら二十七号しか収集できていなかったのですが、最近、幻の創刊号が見つかりました。通巻五十号まで発刊されたと言われています。ライバル紙の「琉球新報」(現在の琉球新報は戦後「うるま新報」を復元改題したもの)は、体制側の論陣を張って謝花と対立していました。

そんな時に起きたのが、「共有金問題」です。共有金とは貢糖制度で沖縄に課せられた現物税の砂糖が大阪市場で換金されて政府に送られていて、砂糖の売上代金と租税額の差額を還付するために積み立てていたものです。共有金には他に航路補助金の一部、飢餓などに備えた救助米を換金したものも含まれていて、莫大な金額になっていました。しかし、その共有金の存在は県民に隠されていた上に、東京の銀行に預けられていました。謝花たちはこの共有金を知事たちが私物化していることを突き止め、東京の新聞「万朝報」に暴露させ、沖縄時論でも報じました。沖縄時論のあまりの追及の鋭さに奈良原知事は、暴力団を使って謝花を襲わせますが、何とか難を逃れます。

その後も知事からの弾圧が続きますが、謝花は挫けず筆鋒をますます鋭くしていきます。しかし、今度は兵糧攻めに遭います。南陽社の取り引き先に圧力がかけられました。同志達は就職を妨害され、収入の道を閉ざされ、活動もできなくなっていきます。謝花自身も参政権運動で全財産を投じていましたから、働き口を探しますが妨害されてなかなか働けません。ついに沖縄倶楽部を解散します。

解散した後、謝花は職を山口県に得ます。山口に向う途中の神戸駅で精神衰弱になって、倒れてしまいます。駅員が倒れた謝花を病院に入院させますが、身元が不明でした。謝花が所持していた下国良之助という名刺を見つけて照会します。下国は沖縄で教鞭を執っていた人で、当時大阪で商売をしていた人物です。しばらく世話するのですが、快方に向かわないので、家族に連絡して沖縄に帰すことになります。沖縄に帰って、手厚い看病を受けて療養生活を送りますが、四年後の明治四十一年(一九〇八)についに亡くなります。四十四歳の若さでした。

 

 

 

語り継ぐために―

 

 

 平成二十九年四月に「謝花昇を偲ぶ会」を結成しました。謝花の遺徳を偲び、その業績と功労を検証して未来永劫継承していこうというのが、設立の目的です。具体的には謝花昇資料館の建設を推進します。散逸しかねない資料を収集し、学びの場として資料館は必要不可欠です。昭和10年(一九三五)には、旧謝花昇銅像とともに建設されましたが、取り壊されたままで現在は町の歴史民俗資料館に間借りした形で一部の資料を展示しています。私は個人的に謝花の資料を収集して段ボール箱の中に入れていました。ところが、東京の大学生から「沖縄の近代史を調べるには謝花を調査すべきだと言われて」と私の元にやってくるようになり、その度ごとにダンボールをひっくり返して説明していました。これでは大変だし、もっと謝花のことを知ってもらいたいと町に掛け合って、今の資料館に常設してもらうようになったのです。

この他にも膨大な資料がありますので、専用の資料館を建設して謝花の功績を後世に伝えたいと思います。今の沖縄の状況は、謝花が民権運動をやっていた時代と似てはいないか。沖縄の人々の民権が踏みにじられてはいないだろうか。謝花の生き方を知ることで、子どもたちには向学心を、大人には沖縄の人々の中にある「まけじ魂」を呼び覚ましてもらいたいと思います。

 

浦崎氏プロフィール

昭和22年生まれ(70歳)八重瀬町出身。

 

参考文献:『自由民権の父 義人・謝花昇 略伝』(2005年初版 2011年再版 八重瀬町刊)

 (月刊フォーNET2018年4月号 未校正)

 

 

人類史上最悪の「悪魔の所業」 中国の臓器狩りの実態を語る

そこが聞きたい!インタビュー

 

 

人類史上最悪の「悪魔の所業」

中国の臓器狩りの実態を語る

 

 デービッド・マタス氏 中国の臓器移植問題を調査している国際弁護士(カナダ)

 

 

本来、医療技術の発達は、人類の幸福のために研究されているものであるべきで、またそうであるべきだ―しかし、その人類の叡智を悪用し、中国では現在、年間6万から10万件の移植手術のために、「良心の囚人」の臓器が収奪されている、というショッキングな事実を我々はどう受け止めればいいのか。(平成三十年六月七日に福岡市で開かれた『ヒューマン・ハーベスト 中国の違法臓器収奪の実態』 主催・SNGネットワーク 上映会・報告会で来日したマタス氏にインタビューした)

 

「アニーの告発」

 

 

 

―今回の来日の目的から聞かせてください。

マタス 「アジア研究」をテーマとした神戸市の国際学会IAFOR(インターナショナル・アカデミック・フォーラム)に参加するために来日しました。その学会では『法輪功への迫害における民族主義的な側面』について発表しました。この機会を利用して、私たちが調査発表している中国の臓器移植についてドキュメンタリーの上映会、報告会にも参加しています。私たちは現在、中国のこの非道な行為を止めたいと思います。そのためには、日本の国民にこの事実を広く知ってもらい、日本が中国に加担しないように働きかけてもらいたいと思います。

―私は、人権意識が全くない中国で違法で非道な臓器移植が行われているようだという認識は持っていました。しかし、日本ではこのことはほとんど報道されていませんし、国会でも取上げられないので、ほとんどの日本国民は実態を知りません。

マタス 問題はかなりの日本人が臓器移植のために中国に渡航していることです。二〇〇六年に私たちが調査を発表して以来、中国当局は外国からの渡航者の数を発表することを止めました。また、日本では臓器移植のために海外に渡航した患者を国に告知する義務がないために、実際の患者数は把握できていません。しかし、調査の過程で、実際に移植で中国を訪れた他国の患者から「日本人の患者に会った」という証言を幾つも得ています。

―2006年から、カナダの元国務大臣デービッド・キルガー氏と共に、中国の「良心の囚人」(無実の人々)を対象に臓器収奪が行われている問題についての調査発表を続けていますが、この活動を始めるきっかけは?

マタス 元々私は国際弁護士として人権問題に取り組んでいて、当時は難民問題を扱っていました。そのような時に「NGO法輪功迫害調査追跡国際組織」から調査の依頼を受けたのが始まりです。私たちが調査に乗込んだきっかけは、中国の病院で夫が医師として働いていたという「アニー」と名乗った中国人女性が、ワシントンDCで衝撃的な証言を行ったことでした。彼女の夫は二年あまりのあいだに二千件ほどの角膜摘出手術を行い、そのたびに月給の何十倍もの現金が支給されていたといいます。角膜だけではありません。心臓、腎臓、肝臓、肺臓など目ぼしい臓器を抜かれて空洞同然となった法輪功学習者の遺体は、そのままボイラーに放り込まれてつぎつぎ焼却されていったと告発しました。彼女の告発を受けてNGOからアメリカの下院に働き掛けがあり、下院委員会できちんとした裏づけ調査がなければ動けないと言われ、私たちに依頼が来ました。

―調査の方法は?

マタス まずは中国で行われている違法な臓器移植が真実なのか、それとも嘘なのかを決定することでした。まず、それを実証する証拠を集めていきました。中国では臓器移植についての情報は厳重に秘匿されています。中国当局に収容され運よく国外に逃れられた法輪功の人々や中国に移植手術のために渡航した本人や家族、告発者にインタビューしました。この他、中国の統計、各病院のウェブサイトも参考にし、病床数、利用率、職員数、助成金・賞与金などの詳細な事項も調べました。もう一つの調査方法は、電話による抜き打ち取材です。約十ヵ月間にわたり、調査員が患者家族を装い、移植認可を受けた中国国内百六十九の病院に電話を掛け、病院の施設状況や手術内容を直接聞き出す方法です。

 こうした調査によって、それぞれの情報の真偽を確認したのですが、虚偽を裏付ける証拠は一つもありませんでした。その結果、中国での違法な臓器移植は真実であると結論付けたのです。

 

 

人類史上最悪の虐殺

 

 

―移植件数はどれくらいあるのですか?

マタス 私たちが調査を始めた二〇〇六年当時、中国当局は死刑囚の臓器を使った移植件数を年間一万人と発表していました。しかし、その数字と実態が大きく乖離していることが分かっています。一九九九年以前の中国の移植病院は百五十軒、二〇〇六年に中国衛生部は新たに移植病院の認可制度を導入、千軒の病院が申請し、そのうち百六十九軒が移植手術病院として認可を受けました。我々がその病床数、稼働率から割り出した年間の移植手術件数は最低でも六万五千件から十万件になります。移植設備のあるこれらの国家認定レベルの病院は、稼働率が軒並み百%を超え、患者一人あたり一ヵ月を入院期間と想定すると、例えば病床数五百の天津第一中心病院では年間約八千件の手術が行われていることになります。このようにして調査していったところ、中国における臓器移植の実態は、中国政府による公式発表の実に六倍から十倍なのです。

―移植手術を受けた日本人の数は把握しているのですか?

マタス 私たちの調査前までの中国の発表では、移植のための海外からの渡航者は全体の二〇%という数字を出していましたが、今は公表していません。また、私たちが「良心の囚人」と呼んでいる収容されて臓器を抜かれている法輪功学習者などの存在は認めていません。日本からの渡航者を把握するためには、医療関係者から国家への告知の義務化が必要です。

―中国の法輪功学習者が迫害を受けていることを中国の一般国民は知っていているのでしょうか?

マタス まず、なぜ法輪功なのかから説明します。法輪功は心身を向上させる中国の伝統的な修煉方法で、中国政府は一九九〇年末までに七千万人の中国国民が修煉していると発表しました。共産党員を上回る数となったため、当時の江沢民国家主席が、法輪功学習者の拡大に脅威を覚えて、迫害し始めたのです。また、中国国内では政府の「法輪功は邪教である」というデマが流されました。法輪功が臓器移植のために虐殺されていることは秘匿されています。私の報告書もインターネットがブロックされていますから、中国国民は知ることはできません。法輪功学習者は迫害されていることを知っていますが、それでも学習する人は絶えないそうです。

―国際社会が臓器移植に反対する動きに対する中国の反応は?

マタス 私たちの調査が出た時に、中国はほとんどの臓器は提供されたものであると回答しました。しかし、当時の中国には臓器提供、ドナーの制度はありませんでした。その後、中国は死刑囚の臓器を使っていると認めます。中国政府はその後、二〇一五年には死刑囚からの臓器は使わず、総て自主的提供者からのものだと発表しましたが、その数は移植手術数と大きく乖離しています。私たちの報告を中国は、単なる噂に過ぎないと否定しましたが、一つひとつ裏付け調査したもので口伝えのものは総て排除しています。また、証拠の数字は総て、この報告を否定している中国が発表したものです。中国政府の否定は全く辻褄が合わないのです。

―この事実を突き止めた時は、どんな気持ちでしたか?

マタス 背筋が凍る思いがしました。囚われて逃げ出すことができた法輪功の学習者にインタビューすると、収容中に定期的に血液、内臓検査を受けていたと異口同音に答えました。彼らにとって過酷な拷問に比べれば検査は苦ではなかったようです。この事実を知った時には、衝撃というよりも悲しい気持ちでした。ユダヤ人である私は、弁護士としてナチスホロコースト戦争犯罪人を追及する活動もやっていました。この体験から、人間の堕落には際限がないということを突きつけられました。本来人命を救うために開発された移植技術という最先端技術が、人命を奪うために使われてしまっています。中国が臓器移植を産業化して金儲けの道具に人命を簡単に奪ってしまう。移植手術を開発した人たちは、まさかこうしたことに使われるとは想像もしなかったでしょう。将来こうしたことに使われないよう歯止めをかけておくべきでした。

アインシュタインも自分の理論が大量殺戮兵器になるとは思わなかったでしょう。

マタス アインシュタインはまさか残虐な兵器に利用されるとは露とも思わなかったでしょう。アインシュタインは元々時計の技術士でした。自分が考えた理論が悪用されることが分かっていたら、時計の技術士のままだったでしょう。広島・長崎への原爆投下は確かにショッキングな出来事ですが、明らかに目に見える証拠があります。しかし、手術室という密室で行われる臓器移植は闇に包まれていて、中国政府は否定していますから、それを実証するのはかなり困難でした。人類はこれまで様々な悪行を重ねてきましたが、これほど邪悪な悪行はありません。中国の臓器移植はホロコーストよりも性質が悪い、人類史上最悪の虐殺だと思います。ホロコーストには、ユダヤ人への妬み、憎しみ、嫌悪などの人間的な感情がありました。しかし、中国の臓器移植は単に金儲けのために殺人が行われているのです。人間的な感情が全くない、国家的な犯罪なのです。

 

 

 

 

犠牲者は法輪功、新疆ウィグルなど無実の人々

 

―中国の臓器移植のやり方ですが、ドナーを脳死状態にするのですか?

マタス ドナーという言葉は正確ではありません。臓器提供を望んでいるわけでなく、強制的に抜取られているわけですから。臓器を取られる人たちは脳死状態にされるのではなく、麻酔をかけられ生きたまま手術されます。臓器を取られているのは無実の人々です。莫大な数の法輪功学習者や新疆ウィグルの独立運動家など政治犯がその犠牲になっています。

―国家による殺人ですね。こうした中国の暴虐に対して世界各国の反応は?

マタス この問題は、国連の人権・拷問に関する調査委員会で取り上げられました。また、いくつかの国々で動きがありました。米下院議会は「移植臓器販売の目的で宗教犯、政治犯を殺害することは、言語道断な行為であり、生命の基本的権利に対する耐え難い侵害である」として、「すべての良心の囚人(無実の人々)からの臓器狩りを即刻停止することを中華人民共和国政府と中国共産党に要求する」などの内容を含む六項目の決議案三四三号を採択しました。欧州議会も同様の決議案が通過しています。この他、イスラエル、スペイン、イタリア、台湾、ノルウェーでは、違法移植を禁止する法律が成立しています。

―これに対して中国の反応は?

マタス 残念ながら具体的な効果はまだあがっていません。二〇一五年に中国は「死刑囚の臓器使用を停止し、国民の自発的提供が唯一であり、臓器提供源は合法的」と発表しましたが、これは言葉遊びに過ぎません。今でも多くの「良心の囚人」たちが生きたまま臓器を収奪されています。二〇一六年の報告書には、中国が意図的に脳死させる機械の実案特許についても記載しています。実際にどれくらい使われているのかはまだ調査できていません。これは、生きたまま取り出した内臓が新鮮な方がいいことと、血液を固まらせない薬や麻酔などは内臓に蓄積されるので、これを使わないために開発されたようです。

習近平体制が強化されています。今後、習体制になって状況は変化していますか。

マタス 習体制が確立されて、一見法輪功にとって良い方向に向かっているとも映るかもしれません。しかし、中国政府の法輪功は邪教であるという方針は変わっていません。臓器移植件数は減るどころかむしろ増加傾向です。これは、中国の医療体制が臓器移植に依存しているからです。迫害を止めろと非難することは簡単なのですが、これを中国が変えることは現実的に難しい。臓器移植産業は中国の五カ年計画の大きな柱になっています。その一方で、法輪功側も二十年近く迫害を受けていますから、警戒心が非常に強くなって国外に逃れたり、隠れて修養している学習者が多くなって、法輪功の囚人の数が減っています。それにもかかわらず、件数が増えているということは、どこからか臓器を取ってきていることになります。

 それではどこから取ってきているのか。昨年から今年にかけて宗教政策が厳しくなって狙われているのが、イスラム教とキリスト教です。イスラム教については二千万人といわれている新疆ウィグル自治区で弾圧が激しくなっています。中国の民族浄化政策で、少数民族を殲滅させようとしています。もう一つの狙いは、その地下に眠る資源です。現在、ウィグル民族全体の血液検査が行われています。さらに現在、中国に一億二千万人いるといわれているキリスト教徒もそのターゲットになっています。

中国共産党が認めているキリスト教徒は三千万人ですが、地下教会といわれるクリスチャンが九千万人います。特に中国共産党を公然と批判している「全能神」という教派は邪教と指定され、片っ端から収容されています。

 

 

日本も加担している事実を知ってほしい

 

 

―このままでは中国を止めることはできませんね。

マタス その通りですが、少なくともお願いしたいのは、日本が中国のこの行為に加担しないことです。これは他の国にも言えることです。日本が加担しない方法は、まず中国の移植医に研修等で技術を教えないことです。また、日本政府のODAで一九八四年に中日友好医院が出来ていますから、それ以降も日本からの資金が新しい病院建設などに流れている可能性もあります。それは調査する価値があると思っています。日本から移植で中国に渡航することも加担していることになりますね。昨年、厚生労働省で移植手術を公的保険の給付対象にする方針が定まり、一千万円ほどになる可能性があるということです。私たちは厚生労働省に直接確認しましたが、残念ながら中国での臓器移植に関しては制限する動きがありません。是非、制限していただきたいと思います。

―また、日本から臓器移植に必要な器材や薬剤が入っているとも聞きます。

マタス 移植された臓器の拒絶反応を抑える薬の術後薬は日本で作られています。たとえ代金と引換であっても移殖手術に必要な器材や薬剤を中国に売らないことも臓器移植の歯止めになります。

―過激な表現になりますが、中国のこの「悪魔の所業」を止めるには、日本は何らかの法整備を急ぐ必要がありますね。

マタス 法整備は是非進めてもらいたいですが、同時に医療の倫理指針も向上させていただきたい。現在、全国の地方議員約六十名が賛同していただき、九つの地方議会で意見書が提出されています。非常に重要な動きです。日本ではSMGネットワーク(医療殺人を止めよ:Stop Medical Genocide)という団体が今年一月に発足し活発に活動しています。ほとんどの日本人がこの事実を知らないことに非常に強い危機感を持って、この事実を少しでも知ってもらおうと活動しています。この団体は、国会議員、地方議員、ジャーナリストらが結集して、非人道的な行為が強く懸念される中国の臓器移植に、日本が関わらないように問題を周知させ、国内の臓器移植環境と法整備を働きかけています。

―本来なら国会議員に働きかけるべきでは?尖閣諸島での中国によるたび重なる公海侵犯や中国海軍の膨張など仮想敵国である中国の悪行は国を挙げて阻止すべきだと思います。

マタス 国会が動くのは簡単ではないようですので、地方議員のネットワークを拡大し多くの国民の認識を高める運動が現実的です。もちろん最低限日本は中国に加担することを止めること、特に医療関係者には中国の医師との交流を断つなどプレッシャーをかけてもらいたい。日本は重要な役割を果せると思います。現在、ニューヨーク、ワシントン、オーストラリア、台湾そして日本で様々な組織が活動しています。欧州評議会で決議された条約には欧州以外の国も署名できますから、まず日本政府が署名するように国民的運動を展開すべきです。そうなると、他のアジア諸国も署名することになるでしょう。地方議員のネットワークの次は国会議員のネットワークを作り、議連に発展させて法整備を働きかけてもらいます。

―これまでの活動で中国からの妨害は?

マタス 何度か体験しました。オーストラリアのブリスデンでのイベントに招かれたのですが、開催前日に私を招聘した新聞社に弾丸が撃ち込まれました。中国領事館の圧力で、サンフランシスコ、オーストラリアなどイベントが直前キャンセルされることは数度あります。香港では中国政府の協力者から私のスピーチ中に大声で邪魔されたこともあります。フロリダ・ゴールドコーストのイベントでは、接続されたインターネット経由で「私はインターネットポリス。あなたは自分の生命を危険に曝しています。怖くはないですか」という脅迫を受けたこともあります。私は「法輪功学習者の虐殺から目を背ける前に、虐殺を阻止してください。私を威嚇しても仕方がありません」と答えました。

 

 

 

 

 

 

デービッド・マタス氏プロフィール

 

カナダのウィニペグを拠点とする国際的な人権擁護の弁護士、著者、調査者。

 

2008年マニトバ弁護士会 殊勲賞、2009年カナダ勲章、2009年カナダ弁護士会 市民・移民部門功労賞、2010年国際人権協会スイス部門人権賞、2016年ガンジー賞など、多くの賞や栄誉を授かる。

2006年、Bloody Harvest: Organ Harvesting of Falun Gong Practitioners in China(血まみれの臓器狩り:中国での法輪功修煉者からの臓器収奪)と題する報告書をデービット・キルガー氏と共著で発表。マタス氏もキルガー氏もこの問題に関する調査のため2010年ノーベル平和賞候補となる。2009年にはBloody Harvest-The Killing of Falun Gong for Their Organs (Seraphim Editions)として一冊の本にまとめる。(邦訳『中国臓器狩りアスペクト社)

2012年、State Organsを共編。(邦訳『国家による臓器狩り自由社

2016年、An Update to Bloody Harvest and The Slaughter(『血まみれの臓器狩り』『The Slaughter』最新報告書)をイーサン・ガットマン氏とキルガー氏の共著でEOP国際ネットワークのサイトより発表。同報告書は、メディア報告、公的なプロパガンダ、医療関係誌、病院のホームページ、アーカイブされた削除済みの大量のホームページなどからの情報を合わせ、中国における数百件の病院の移植手術の開発計画を綿密に精査している。

 

 

 

 

 

 

IR法成立に潜む危険 作家・精神科医(通谷メンタルクリニック院長)帚木蓬生氏

IR法が成立しました。この法律に潜む危険をインタビューしました。

 

 

そこが聞きたい!インタビュー

作家・精神科医(通谷メンタルクリニック院長)帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏

 

 

 

 

 

「日本人の百人に五人」。この数字は何の数字かお分かりだろうか。何と「ギャンブル依存症」患者の有病率なのだ。日本列島には五百三十六万人と、福岡県の人口を上回るギャンブル狂がいるー

 

 

 

二大症状は「借金」と「嘘」

 

 

精神科医としてギャンブル依存症に関する本を書かれていますが、ギャンブル依存症という精神の病気を初めて知りました。

帚木 ギャンブル依存症は、言い方は悪いかもしれませんが、正式には病的賭博と言われる立派な病気です。一九八〇年にアメリカの診断基準であるDSM精神障害分類判断基準)に入って、九二年にはWHOの国際疾病分類にも記載されました。アメリカでは三十年以上前に、イギリスではその以前から病気として認定されています。フロイトもこの病気に百年前に注目していました。

―日本にはどれくらいの潜在的な「患者」がいるのでしょうか。

帚木 ギャンブルをやめたいのにやめられない人を患者と定義するならば、五百三十六万人いますね。これは福岡県の人口五百五万人を超え、九州最大都市の福岡市の人口百四十六万人の実に三・八倍にも上ります。人口六百万人のノルウェー一国に迫ろうという数字です。有病率は男性が八・七%、女性が一・八%で平均四・八%です。あのギャンブル好きの韓国ですら〇・八%、アメリカは一・六%ですから断トツに高く、日本の異常な状態が分かると思います。

―パチンコ・スロットが元凶であると主張されています。私も三十年以上前の学生時代、パチンコにはまった時期がありましたが…

帚木 それまでのパチンコは時間消費型でした。それが変わったのが八〇年頃から普及した「フィーバー機」ですね。自動的に止まるドラムの絵柄が777になると大当たりする台が一気に広がりました。これはあまりにも射幸心を煽るということで規制が入りました。九〇年代に入ってプリペイドカードに対応したCR機は連チャンを警察庁に規制されていたのですが、普及しないために確率変動(確変)を許可して一気に広がりました。結果的にギャンブル性が高くなってしまいました。

―依存症の症状はどのようなものですか。

帚木 二大症状は借金と嘘です。ギャンブルに行く時間と軍資金、お金を作らないとといけませんから、嘘に嘘を重ねてしまう。借金については色んな患者さんを診てきましたが、平均の借金額は一千万円を超えています。最高は一億六千万円の患者もいました。患者のほとんどが借金で家族、親類、友人を巻き込んでしまっています。借金の尻拭いで家族まで巻き込まれるのは、これは日本独特の社会風土で、本人に立ち直ってほしいという思いが強いのでしょうね。本人が「もう二度と絶対、ギャンブルはしません」と誓約書を書いても、これが守れることは万に一つもありません。それだけこの病は深刻なのです。

また、九〇年くらいから借金し易くなったのも、依存症を増やした背景にあります。パチンコ店内にATMまで設置する銀行まで出てきましたからね。家族には残業だとか出張だとか上司から呼び出されたなどギャンブルに行くために嘘が次から次へと繰り出されます。お金についても、財布を無くした、送別会があったなど嘘を重ねていきます。こうして重篤な状態になっても本人はケロッとしていて、家族など周囲が大変な状態になっています。家族がうつ病になったり、不眠症狭心症パニック障害などになったケースが多いですね。

 開業して十年目になりますが、相談に来たのが、本人が五百二十四人、家族が百八十人で計七百人ですから、一年平均で七十、月平均で約六人になります。最近の傾向としては、患者が若年化しています。十年前の平均年齢が三十九歳くらいだったのが最近は二十代から三十代の前半が多くなりました。それは、早く気付くことが多くなったのではないかと思います。これは、依存症の認知が進んだからでしょうね。早めに病院に来ればそれだけ借金が抑えられ悲惨な事態にはなりませんから、いいことです。

 

 

「一生治らない」病

 

 

 

―これは脳に障害が発生するのですか。

帚木 長年の習慣によって脳が変化します。脳の生化学的研究によると、ドーパミンノルアドレナリンの量が増加し、セロトニン系の機能が低下していることが明らかになっています。脳の変化で「勝ち負けに鈍感になる」、例えば十万円すってもなんてことはないし、三万円勝っても感動しなくなります。つまり、人間の脳の仕組みからしても、誰でも陥る可能性がある病気なのです。だから、妻や親から必死に諭されても「本人の意思で止める」ことは不可能なんです。

―早期発見で早く治せば…

帚木 いや、この病気は完治しません。すべての依存症がそうですが、治ったと思っても、再び始めてしまえば元の木阿弥です。ギャンブル依存も、自然治癒しない進行性の病気なのです。ある人は一年半くらいパチンコから離れていましたが、「新台入れ替え」のチラシを見て腰が浮いたそうです。最近のパチンコ業界はDMを送ったりしますから、みな誘惑にさらされている。私たち医師にとっては、業界は治療の敵ですよ。実際、庶民の娯楽、ゲームといったレベルをはるかにこえたギャンブルになっていると思いますね。昔から、為政者は賭博を厳しく取り締まってきました。日本でも天平時代の双六禁断の法から明治政府の賭博犯処分規則などがあります。それだけ、賭博が社会の土台を腐らせてしまうものだと分かっていたのでしょう。アルコール依存症の患者の平均寿命は五十二歳ですが、ギャンブル依存症は健康を害することがないので、治療しないと借金を重ねて周囲を不幸のどん底に落としますから、より深刻です。

―治療法は?

帚木 GA(ギャンブラーズ・アノニマス)といって、アルコール依存症治療にならってつくられた自助グループにも参加してもらいます。アノニマスとは匿名の意味で、参加メンバーは全員依存症の人で本名を明かさずに参加できます。たまに私たち医療関係者も同席することがありますが、助言などはせずただ見守るだけです。最低週一回、できれば二回参加して、小グループで具体的なテーマに沿って自分の内面を語るのです。「家族に迷惑をかけたこと」とか「自分の意志が働かなかった時のこと」など、心の奥底を吐露していく。いわば、常に自分の病気に直面するわけです。GAの出発点にあるのは、「自分はギャンブルに対して無力である」ということ。

自分では止められない病気にかかっているのだという認識を根本に据えるのです。この場では、決して人を責めず、ただ各々が互いの体験を聞くだけですが、キレイごとではない、深い本音が出ます。それまで被告人のように吊るし上げられて説教される場ではないことが分かってくると、次第に胸襟を開いて自分のことを語ることができます。参加した人たちは、ここで思いやり、寛容、正直さ、謙虚さを学び直し、社会に復帰しています。しかし、行かなくなったらまた再発します。この病気は一生治らないからです。十年間止めていても、GAに行くのを止めたら再発します。麻薬患者と一緒です。このワクチン効果は一週間しかもちません。

 私のところに通い始めて十一年になる人がいますが、そういう人たちが自主的にGAを開設していて、現在、福岡県内に十六ヵ所あります。最近できたGAは苅田町ですが、それまでこの地域の患者は小倉に通っていましたから、近くにできると便利で確実に参加できます。現在、全国に百五十カ所ありますから、その十分の一が福岡県に集中していています。これは患者の努力ですね。GAがない県は岩手、岐阜、鳥取の三県になりました。また、数年前まではこの治療を医療行為として認めていない県もありましたが、今では全国で認められています。

―先生達精神科医が蒔いた種が芽を出してきたのですね。

帚木 中には、GAが多い所はギャンブルするところが多いと揶揄する他県の精神科医がいますが、とんでもありません。その地域の精神科医たちが依存症を見て見ぬ振りをしているだけの話です。

 

 

「ギャンブル王国」ニッポンーこのままでは滅亡する

 

 

 

 

―この病気を治す、根本療法はギャンブルをこの社会から無くすしかないですね。

帚木 そう思いますが、無くなりませんね。警察の天下りなどの利権ですから。

―勝つと、パチンコホールのカウンター景品をもらって、外にある景品買取所で現金に換えますが、これは厳密に言えばギャンブルとし言いようがありません。

帚木 パチンコ・スロット業界を取り締まっている法律は、風営法です。この法律では客に現金を提供すること、提供した景品を買い取ることを禁じていて、この二つのうちどちらかを行えば、ギャンブルになり違法行為になります。この法律を骨抜きにしているのが、景品買取所です。店が景品を出してそれを店外の買取所が換金して、景品は再び店に買い取られるのですから迂回しているだけです。それを、直接客から買い取るわけではないので違法ではないという、まさに詭弁がまかり通っているのが実情です。たちが悪いのは、あくまでも遊戯、ゲームですから、広告宣伝の規制がありませんから、どんどん広告やチラシを打つことができます。以前はマスコミは自主規制して、パチンコの広告は出していなかったのですが、長引く不況でマスコミがなし崩しにしてしまい、今やパチンコ業界に支えられている体たらくぶりです。日本の依存症患者が異常に多い元凶は、パチンコ業界です。耽溺しているギャンブルの八二%がパチンコ・スロットだけの耽溺者ですからね。競馬、競艇、麻雀など他のギャンブルは合わせて四%しかありませんから、パチンコ・スロットが絡む耽溺者の比率は九六%にもなります。女性、お年寄りの耽溺者にいたってはパチンコ・スロットは百%に近い。

―すでに「ギャンブル王国」になっている日本で、カジノ構想が持ち上がっています。

帚木 全く正気の沙汰とは思えませんね。世界の潮流は脱カジノです。本場・ラスベガスは今、脱カジノ都市を目指しています。自動車産業が斜陽化しカジノを誘致したアトランティックシティでは、貧困率、青少年の犯罪率などが高く、薬物依存者が増えるなど社会が廃れています。カジノを持ってきても活性化するどころか、衰退します。ただでさえパチンコでギャンブル依存症患者が異常に増えているのに、カジノを作ろうというのは、まさに火に油を注ぐようなものです。

―パチンコに規制をかけるのが、まず必要ですね。

帚木 規制するどころか、パチンコ店出店に反対すると、逆に「法律で守られている」と公安委員会から横槍が入るくらいです。

―確か、風営法で学校など教育施設に近いところでは出店できないなどの規制があったのでは?

帚木 自治体によっては条例によってまちまちです。厳しいところもありますがそれは稀で、ほとんどの自治体の規制は緩いですね。

―著書で「パチンコは日本を滅ぼす」と警告されています。

帚木 パチンコ業界はあちこちにお金をばら撒いていますから、反対する国会議員はあまりいませんね。パチンコ業界の売り上げはピークの三十兆円には及びませんが、今でも二十兆円産業です。これはトヨタの年商に匹敵する大きさです。

 

 

今や国民病―防ぐ手立ては?

 

 

 

 

―しかし、ギャンブル依存症の患者を生み出し、ギャンブルなのにギャンブルと認めさせず、非生産的なこの業界を産業と言えるでしょうか。

帚木 人々のポケットから金と時間を取り上げ、そして最後には家族の人生まで取り上げてしまいますからね。政府にギャンブルを一括して統治する機構がないことも問題です。つまり、競馬は農水、競輪は経済産業、競艇は国交とそれぞれ省益を手放しません。最近では教育を監督する文部科学省までスポーツくじを始めたでしょ。開いた口がふさがりません。こうした公営ギャンブルが始まったのは戦後で、復興の財源を確保するために始められたものなのですが、その目的から外れてしまって今では既得権益化してしまっています。公営ギャンブルは赤字なのにそれでも止められない。

 特にパチンコ・スロットはあくまでも娯楽として居座っています。娯楽なら娯楽らしくあるべきですが、ギャンブル性をどんどん高めていますから、罪深い。平日昼間のパチンコ店を覗いてみてください。駐車場は満杯で、多くの客が入り浸っています。こんな異常な光景を見られるのは、日本だけです。パチンコ店の店舗数一万二千軒で、これはコンビニ業界二位のローソンの店舗数を上回っています。全国至る所にパチンコ店があるのは、異常です。世界のギャンブル機の台数は七百二十万台で、日本のパチンコ・スロット機の台数は実に四百六十万台です。恐ろしい数字です。もちろん、他国にもギャンブルはありますし、社会問題になっていますが、日本の特異性は普通の人々が気軽にギャンブルをやる環境が出来上がり、それをさらに煽っているわけです。

―パチンコをやっている人は、娯楽感覚でやっているのではないと。

帚木 はまってしまっている人が圧倒的に多いでしょうね。つまり、依存症という病人からお金を吸い上げているのが、パチンコ業界なのです。こうしたギャンブル天国とも言える日本でギャンブルによる犯罪が水面下で増えています。アメリカの受刑者の四分の一がギャンブル絡みです。恐らく、日本の犯罪もギャンブルに起因するものがかなりあるのではないでしょうか。横領、窃盗、殺人…しかし、警察はそれらを「遊興費」の一言で済ませていますし、マスコミも突っ込みません。パチンコ・スロットで依存症に罹り、それが高じて賭け率が高いギャンブルに走り犯罪に手を染める。このままでは、日本という国が滅んでしまいます。

―政治でそれに歯止めをかけようという動きは?

帚木 ないですね。恐らく、かなりのお金が各方面にばら撒かれているのではないでしょうか。私のところにも業界から声を掛けられたことがありますよ。即座にお断りしましたが、うるさい私を懐柔しようとしたのでしょうね。中には、業界から助成金をもらって、依存症の電話相談をやっているところもあるようですが、電話で「止めたほうがいいですよ」と言って治るはずがありません。ちゃんと対策を講じています、という業界のアリバイ、おためごかしですよ。

―どう見ても、日本全体でこの問題に取り組むべきだと思うのですが…

帚木

 ギャンブルはあくまでも個人責任だと言いますが、アルコールもそうですが、国は何も規制していませんから、その責任はかなりあります。予防策をまったく講じず、逆に業界の宣伝を規制せず野放しにしているのは、国に責任がありますよ。

―政府が何も手を打たずに放置してきたために、国民病になってしまった感が強いですね。

帚木 確かに国民病と言える状態になってしまっています。それなのに、カジノを作ろうとしているのですから、狂気の沙汰です。業界は知らんぷり、監督官庁警察庁は見て見ぬふり、政府は一向に規制しようとしませんから、深刻です。予防しかないのが現実的でしょうね。「この病気になったら一生治りません。罹ったら治療しないと、家族、家庭を崩壊させ、友人を無くし、職もなくなり最後はホームレスになる可能性が十分にある」ことを広く認知させることしか、この国を滅亡から救う方法はないのかもしれません。

 

帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい)氏プロフィール

昭和22年、福岡県小郡市生まれ。小説家精神科医

東京大学文学部仏文科卒、九州大学医学部卒。ペンネームは、『源氏物語』五十四帖の巻名「帚木(ははきぎ)」と「蓬生よもぎう)」から。本名、森山 成彬(もりやま なりあきら)。東大卒業後TBSに勤務。2年後に退職し、九州大学医学部を経て精神科医に。その傍らで執筆活動に励む。1979年、『白い夏の墓標』で注目を集める。1992年、『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞受賞。八幡厚生病院診療部長を務める。2005年、福岡県中間市にて精神科心療内科を開業。開業医として活動しながら、執筆活動を続けている。医学に関わる作品が多く、また自身(精神科医)の立場から『やめられないーギャンブル地獄からの生還  』を上梓している

(フォーNET2015年5月号)

空気に支配された「長期政権止む無し」という閉塞状態を打破するには

自民党総裁選目前なので総裁選をどう見るかの一考察。

 

 

空気に支配された「長期政権止む無し」という閉塞状態を打破するには、

自民党総裁選で少しでも「石破票」を上積みするしかありません

 

太田誠一

 

 

 

岸田氏の大罪

 

 

 今月に行われる自民党総裁選挙。八月七日現在では、三期目を目指す安倍首相に対して、元幹事長の石破茂氏、総務相野田聖子氏が出馬を表明していますが、事実上安倍、石破の一騎打ちになるでしょう。しかも、すでに「安倍続投」の空気が漂っていますから、「消化試合」の様相を呈しています。かつて自民党総裁選は各派閥の領袖が政策論で火花を散らし、事実上の総理選出の場でもあり、白熱した選挙戦が繰り広げられていたものでした。そういう意味では、今回の総裁選の白けムードにはある種の危機感を覚えてしまいます。

 このムードを作ってしまった戦犯の一人は、早々と不出馬を表明した岸田文雄政調会長でしょう。通常国会が閉会して総裁選に向けてこれからという時に不出馬を表明した岸田氏は派閥の領袖としての責任を放棄したという他ありません。これは出馬の動きすら見せなかった他の派閥の領袖にも同じ事が言えますが、岸田氏の場合、今回は出ないという選択がなかった立場であり、負けたからどうということはなかったのですから、敵前逃亡と非難されても仕方がありません。しかも、不出馬を表明した後に、自分の派閥に対して、「安倍支持」を呼びかけるなど、その節操の無さには呆れてしまいました。そもそも岸田氏は、総裁選に出る気持ちが無いのなら、宏池会の会長を引き受けるべきではなかったのです。また、出ないのなら会長を辞し出る気のある後継にバトンを渡すべきです。

 今の段階の総裁選の状況は、自民党国会議員の七割が安倍支持という数字が出ています。前前回の総裁選で党員票を集め、党員票では首相を圧倒した石破氏でしたが、今回は党内がある種の「安倍再選」の空気に支配されていて、本来は「石破氏を支持している」層も自己保身で安倍支持に流れています。前前回は国会議員にはすでにそうした空気が漂っていましたが、今回は党員まで広がっています。しかし、この選択はあくまでも「消去法」「自己保身」によるものではありませんか。つまり、自民党議員の大多数が安倍政権の六年間を評価して支持しているわけではありません。確かに二期目の総裁選(無投票)で安倍首相が再選されたのは、一期目のアベノミクスや異次元の金融緩和、インフレターゲットなどの政策が一応順調に推移していると思われたからでしょう。

 二期目には、「モリカケ問題」などの不祥事や経済政策に陰りが見え始めたことに加え、安倍首相の態度物腰に嫌悪感を持ち始めている議員は多いはずです。決して安倍政権の二期目の評価しているわけではありません。

 

 

試される自民党

 

 

 このままの情勢では、安倍再選は間違いないでしょう。焦点は、石破氏に投票する議員がどれだけいるか、ということになります。安倍批判の意思表示をどれだけの議員ができるか。一部に政権を批判すれば「冷や飯」を食わされると自己保身に走っている議員や首相に逆らって「冷や飯」を示唆する首相側の派閥領袖がいると報道されていますが、全く以て低次元で情けない話ではありませんか。実際、安倍不支持で安倍政権の間に冷や飯を食わされたとして、それがそれぞれの議員の政治生命や議員活動にどれだけの影響があるというのでしょうか。

 実態は周囲の阿り、或いはレベルの低い恫喝による安倍一強という自民党、対して野党はきちんとした対案を出せずその上分裂状態に陥っている今の政治状況は、一種の閉塞状態だと言ってもいいでしょう。また、コアな自民党支持者の傾向は、今の党内の状況を良くないと思っていても、自分が支持する議員には、波風立てず大勢に順応して欲しいという矛盾した思いを持っているはずです。一方では、こういう時こそ闘うべきだと思っている支持者もいるはずですが、切り崩されている状態です。無党派も含めた自民党支持層には、反安倍のマグマはたぎっているかもしれません。

 そういう意味では、自民支持層と総裁選の実態にはねじれ現象が起きていると言えるかもしれません。それならば、自民党以外の保守政党の萌芽があるかと言えば、ありません。なぜなら、メディアの存在があるからなのです。安倍

政権もそうですが、政治がメディアに迎合しているのです。メディアを利用しようとしているから、メディアの目を気にするが余り、自らの政治活動を自縄自縛の状態に陥っています。本来、政治家は自身の政策、政治信条を内外に打ち出すという潔さが求められるはずです。ところが、今の政治は無難に過ごそうと、メディアに迎合しているのです。ところが政治がそれだけ恐れているメディア自身が「政治の現実」に迎合しようとしているのですから、政治、メディア双方が竦んでいるのが、実態です。

 

 

独裁に歯止めを

 

 

 

 よく「安倍首相に代わる人材がいない」という声が聞こえますが、これは全く根拠のないデマです。こうした声を流しているのは、安倍首相を徒に擁護しようという周辺なのです。これにメディアも加担しているのです。対抗する候補に対して「顔付きが悪い」など本来政治に全く関係ない、貶める報道や醸成する空気もそうした勢力の仕業でしょう。「安倍続投だろう、仕方がないからついていこう」という党内のこうした閉塞感を打破する方法は、一つしかありません。いかに石破票を増やすか、です。安倍周辺の心胆寒からしめるくらいの総裁選にすべきです。それが、この国の閉塞した政治状況を打破する無二の手段なのです。

 連続で2期6年までとなっている自民党総裁の任期が「3期9年」まで延長されました。今回安倍首相が再選されると、二〇二一年までが任期になります。この任期延長の幣害について、この稿でこう指摘しました。

 

「長期政権に立ち向かう党内の対立候補が出にくいということです。実に情けないことですが、現に「長いものには巻かれろ」「嵐が過ぎ去るまで」と異論はあっても無抵抗になってしまっている総裁候補者がいます。そうしたリーダー候補の後姿を見せられると、党内若手に人材が枯渇してしまう危険性があります。最大の幣害は、長期政権によって総理が「裸の王様」になることです。つまり、権力の長期化で周囲がゴマすり集団化してしまう恐れがあります。政策、政治信条に賛同するのではなく、首相の歓心を買いたいイエスマンが周囲に集まって、独裁的になってしまう恐れがあります。独裁者を目指すこと自体が悪いのではなく、それにブレーキをかける気概が誰にも無いことです。皆が権力者に群がってその結果、雪だるま式に独裁的になることが一番恐ろしいことなのです。何の定見も無く、意思も薄弱な政権が独裁的になることほど厄介なものはありません。任期延長の話が出ているのは、取り巻く議員たちのそうした権力への迎合姿勢の現われではありませんか。」

 

 今の総裁選の様相はまさに私が恐れていた状況になりつつあります。中身が空っぽの雪だるまが大きくなっています。だからこそ、今回の総裁選は、敗北する側が「意味のある敗北」を目指すべきで、現政権に圧力をかけ、独裁を阻むべきなのです。

 

フォーNET 2018年9月号